3
放課後、玄が帰り支度をしていると制服の袖を掴まれた。雪だ。玄の口がへの字にひん曲がる。
「何の用?」
「できたら玄君に、この辺りを案内してもらいたいなって思ったの」
玄の制服が引っ張られる。
これは脅し。いつでも投げ飛ばすという。
「友達は他にいるだろ」
事実、雪は休み時間に昼休み、女子と男子を問わずに一躍人気者になっていた。それはその美貌だけでなく雰囲気やしぐさ、ありとあらゆるものが同じ人間とは思えないほど優雅であるからだ。
その証拠に、このときも話しかけられた。
「そうそう! 雪ちゃん、遠くから来たんでしょ! おいしいケーキ出すとこに連れて行ってあげる!」
クラスの女子グループ、その代表が声をかけてくる。雪は神々しくもある微笑みを返す。
「ごめんなさい。私、ここへ来たばかりのころ、たまたま出会った玄君にお世話になったの。そのお礼をね、するって約束したから、また誘ってくれると嬉しいわ」
「――う、ううん! そんな、えと、じゃあ、また今度ね!」
会話をするだけで興奮しているようだ。その女子の頬は赤くほてってしまっている。
「ええ、約束」
雪は小指を差し出して指切り。すっと、自然な動作でその指を組み合わせる。それだけで、初恋をしたように顔を真っ赤に染め上げた。まるでリンゴのようである。背後の仲間は黄色い歓声を上げていた。
「二面性がすげえ……」
玄は素直に感心したが、背中がうすら寒くなった。
彼女はすべて自然で、優雅。髪の動きさえもだ。先日の獣性はおくびにも出さない。物語の中だけに住むお姫様みたいだった。
指切りが終わってから雪は玄に振り向き、にっこりと妖しく笑う。細かな差異であるが、さっきの女子に向けていたものとは本質的に違っていた。
「さあ、それじゃあいきましょう? わかっているでしょう?」
これが初めての出会いなら、浮かれていたんだろうなあと玄は思った。けど、その奥にあるものを彼は見ている。
「そうは言っても、俺は坂田と田辺に用事があるんだ」
やりとりを眺めているだけだった二人に突然話を振る。
「坂田、こいつの誕生日が近くてね。好きな本を買ってやるって約束したんだ」
玄のこれは方便だったが、坂田は意を読み取って話をあわせてくれた。
「そうそう。そうなんだよね。だからさ、悪いけど、また後日に――イダダダダダ」
突然苦しみ床にへたり込んだ坂田。玄の目に、坂田の腕を掴んでいる雪の手が見えた。関節を極めている。
「のう、そっちを後日にしてもらえんか。頼むわ」
ぎょろりと目つきが変わる。いや、表情は変わっていない。神々しい微笑みのまま。であるが、眼光が、玄が見たものが表に出てきている。
「す……すげえ、方言。はい、はい……わかった。後日、後日にする。後日にしますから、ちょ、マジ、あの、離して、離してください!」
坂田は簡単にギブアップをした。雪はあっさり手を放す。
玄が文句をつけた。
「へたれ」
「うっせ!」
坂田は極められていた手首を押さえて悶えている。よっぽど痛かったのだろう。
次に、雪はもう一人、傍観していた田辺に目をやる。
「あなたも彼と用事があるのかしら」
「私はない。痛いのは嫌だからね」
田辺もぶんぶんと手を振り否定。愛想笑いまで浮かべていた。
「なんて友達がいのないやつらなんだろう……」
玄は口元をひくつかせながらぼやいた。そんな彼のものとは打って変わって笑顔の晴れやかさが増した雪がにじり寄ってくる。
「そういうわけで、時間が空いたぞ。案内してもらおうかのう。ぬふ、ぬふふふふ」
「……わかったよ」
誰にも聞こえないように小声の雪に玄はしぶしぶ了解した。
もう彼には逃げるつもりはなかった。どうせまた明日には顔を合わせるのだ。それに逃げても追ってきそうである。ならば早いうちに済ませておいたほうが無難である。
玄は校舎を出て、用事を片付けるのにどの場所がよいか考え始めた。
校舎を囲んでいる住宅街には自転車屋、コンビニ、喫茶店も周りにあって、生徒はたびたび利用している。そんな人目があるところでは警察でも呼ばれるかもしれないのでいけない。田畑や彼が住んでいる丘も同じく不可能。ここから離れて線路に沿って西にいけば駅や大型商店、別の住宅街があり、適さない。となれば、学校の裏の山である。
玄はそこに雪を連れ出すことにした。坂田と田辺もついてこようとしたが、雪が止めさせた。
「この前、中途半端に邪魔されたからのう。割って入ってこようとするやつは極力近寄らせたくないんじゃ。どうしても来るんなら、気絶ぐらいはさせなあいかんなる」
坂田と田辺の二人はファイトとだけ言い残して帰った。玄も止めなかった。
朝のようにリュックを背負い、玄は雪を伴って校門を出て、ぐるりと塀を回って裏に出る。そうすると彼らの目の前には雄大な山が見えてくる。
校舎の裏に住宅はない。どこかの農家の田んぼがあるだけ。その田んぼの間を片側一車線の道路が通っていて、山に続いている。歩道なんてものはないので端を歩いていく。
少ししてから川沿いになり、急な坂道になる。突然高い木々に囲まれる。夕暮れが近いこともあってもう地面まで日光は届いていない。薄暗く、玄が住む丘や駅付近の商店街に比べて異様に寂しかった。
直に、車線がなくなる。道幅は狭まり、坂は急でなくなったが道は山肌に沿って曲がりくねる。田畑はあるが、人の手が入っていない休耕地が目立つ。古い民家もあるが、空き家らしくくたびれてしまったものが少なからずあった。
そのうちに、二人の歩む道から外れて坂が出てきた。それは農道、特定個人の田畑へ向かう道だ。がたがたで、まっとうに整備されていないはずだが、頻繁に車が通っているのかタイヤの跡があった。玄は、そのうちの一つに入っていった。
「こっち、もうそろそろ着く」
「長かったのう。んふ」
雪の声が若干高くなっている。わくわくしているようだ。
玄が坂を上っていると、背後から強烈な、突き刺すような視線を感じた。雪が立ち止まってじろじろと見つめてきている。
「なんだ。こんな狭いところでやるつもりなのか?」
「まさか」
雪は頭を振って否定した。髪が踊り、シャンプーの香りが玄に届く。
「単に、どうやってそこまで鍛えたんか気になっとるんじゃ」
「毎日のランニング、筋トレ、空手部や柔道部、レスリングへの出入りもして、練習をしているんだよ。入部もしてないのにな」
「ふむふむ。んふ、ぬふ、気になるのう。わくわくするのう」
涎が落ちたが、彼女はぬぐおうとしなかった。玄は歩きを再開させて、話を続けた。
「他にも小学校のときは商店街のテナントにある、道場のほうにいっていた。それだけじゃなく、知り合いの人にコーチしてもらっている。今でも」
「いつからやりゆうんじゃ」
「十年と少し」
ひぃっと息をむ音がした。玄は肩越しに振り返って雪を見る。彼女は神々しさとは正反対な、獣じみた獰猛さを持つ笑顔を浮かべていた。八重歯が覗いている。
「いい、いいのう。ぬふ、ぬふふふふ、あたしよりちょい遅いが、なかなかよ。ぬふふふふふふ、ぬふ」
「気持ち悪い笑い方だね、あんた」
呆れたように玄が言っても雪は隠そうともしない。眼球の輝きが一層強くなる。進みだしてから、また尋ねてくる。
「なんでじゃ? なんで、そこまで鍛えとるんじゃ?」
「それは、仕方ない。憧れているからな。銀に。だったら鍛える」
事も無げに彼は答えた。
ひゅうっと雪は息を吸ってから質問を続ける。
「昔、人気はあったらしいの。詳しくは知らんが」
ぞっとするほど冷たい声。玄は無言のまま、足を進める。
「ま、いい理由じゃとは思うが、しかし、なんで憧れる? ただのプロレスラーじゃろ?」
「男が憧れるって言ったら決まってる。銀はとてつもなく強いレスラーだったからだ」
若干、玄の顔つきがこわばっていた。
それから無言のまま、少しして、開けた場所に出た。段々畑の跡だが、いまはなにもない。作物の実る木々だけでなく、雑草も生えていない。休耕地であればここまでの道のりの途中にあったもののように荒れ放題となるはずだが、こげ茶色の地面と葉っぱだけだ。広さはちょっとした駐車場ほど。傾斜が急でないので意外に広い平地になっているが、ガードレールもなにもないので危険である。その反対側は石垣で、その上は別の畑がある。
二人は荷物を置いて中央で向かい合ったが、いざ闘うその前に雪がじいっと辺りを見回してから質問をしてきた。
「人気がなくてそこそこの広さ。障害物もない。闘うのにうってつけ。じゃけんど、こんなの不自然じゃろ。なんじゃい、ここ」
当然の問いだった。玄は気を抜かず、答える。
「校門で待ち構えてるやつもいたからな。そういうやつとどこでやるかと考えて、ここを用意してもらった。たまに知り合いに掃除してもらってるんだ」
「ほう。その知り合い、心当たりがあるぞい」
玄は眉を顰めた。
「もしかして、あのおっさんが関わってるのか」
「あのおっさんがどのおっさんか知らんが――」
ぶるると、雪は全身を震わせる。
「あたしの心当たりのおっさんを知りたかったら、勝て。勝ったら教えてあげる」
「おっさん限定なら、一人ぐらいなんだけどなあ。俺の心当たりは」
ぬふっと雪が笑う。懐からゴムを取り出して髪を縛った。先日と同様の姿。準備は整った。
「柔軟運動はしなくていいんか?」
「それを言うならそっちもだろ。靴も、俺はスニーカーだけど、あんたは革靴じゃないか」
「あたしはいい。天才じゃからな」
その表情には獣のような笑みが浮かぶ。獣、狂ったような、獣。人ではない。
「ぬふ、ぬふふ。ぞくぞく、ぞくぞくする。あんたとノーコンテストになったときから、体が疼いとった。闘いを欲していたんじゃ。だから、ついつい、やってしもうたりもした。あちらこちらにいるチンピラ、倒してもうた」
雪は自身を抱きしめた。震えている。
「たまらない。たまらないんじゃ。勝つってのはのう。この前までちっとも知らんかった。今じゃあちょっとした中毒。でも、物足りん。あんたに勝たんと、満足できんのじゃ」
「変態だな」
玄がつぶやいた。雪は笑みを崩さなかった。
「さあ。いくぞい」
一瞬だった。
雪はまばたきよりも速く玄の懐にもぐりこんできた。玄は投げを警戒して踏ん張り、後ろに体重をかけた。その瞬間、やわらかく押し倒された。いつの間にか、彼の身体が宙に浮いていた。
雪が灰色の空を背後に笑っている。
「けえ!」
先日のように踏みつけをする。玄は地面を蹴って横滑り、すんでのところでかわし、その足を掴もうとしたが、雪もすばやく離れた。
玄は起き上がって頭の土を払う。
「危ない危ない」
「地面がクッションになったんか。惜しいのう。やはし」
雪の前蹴りが玄の腹に入った。
「打撃も織り交ぜんとなあ」
玄はすぐに亀の構えに入る。そこに雪が打撃を与えていく。鞭を打つにも似た音が山に響き渡る。
拳を突き、足を振るって太い腕の皮膚を削ってくる。彼女の両脚は強かに腹も太ももを打ってくる。怒涛の攻め。玄は防ぐ、いや、受けるだけ。だが、圧しているのもまた玄。体重が変化したわけでもないのに打撃の質が変わるはずもない。衝撃は分厚い筋肉に吸収されている。
玄が進むと雪は退くしかない。効果的な手がないということだ。しかし、雪は一切動揺した様子を見せなかった。なにかあるのか。玄はそう怪しんだが、選択できるほど攻撃手段は豊富でない。
「いくぞ」
玄は腰を深く落とし、タックル。土の上でも滑るように雪に迫る。
今度は腕ではなく腰にしがみつこうとする。雪は颯爽と避けた。玄は足を止めず、追おうとした。だが、突然右の手首に痛みが生じる。
「――太い手。おじいちゃんとは全然違うのう」
背筋が凍る雪の声。手首に走る痛み。接近した一瞬で、掴まれ、極められた。
玄は恐怖よりも感心してしまう。
「ほんと、ばけも――」
雪に引っ張られる。手首の痛みが強すぎて身体に力が入らない。
「回れ!」
そして、投げられた。堪えることが出来ない。空を仰いで地面へ衝突する。
以前と同じ光景。雪は涎を滴らせている。玄の手首は極められたままだ。無事な左手で雪の足首を掴もうとしたが、読まれていた。すかさず掴まれ極められる。
「そんじゃあ、今回は多いぞ。じっくり、味わえ……」
雪は細い脚を振り上げる。革靴から土が落ちる。彼女の喉からは甲高い笛の音のようなものが響きだした。
「ひぃぃぃぃ――」
玄は、踏みつけられた。
三回どころではない。額に鼻に、ごんごんと踏みつけられる。鼻血が出て、土で汚れていった。
甲高い、歓喜の悲鳴を雪が響かせる。人ではなく、狂った獣の雄たけびだ。
一分以上、雪は踏みつけた。大した運動でなかったはずだが、紅潮し、うっすらと首筋に汗をかいている。痛めつけることに興奮したのだろう。
玄の手首は解放されるが、力無く、土に落ちる。雪は口元を袖で拭い、髪ゴムを取った。自由になった黒髪が妖艶に踊る。
「頑丈ではあったが、それだけじゃな。梶のおっさんもなんでこんなん紹介したんかのう」
とはいっても満足そうに背筋を伸ばして、歩きだす。足取りは軽い。可憐で、先ほどまでとは大違いであったが、すぐに止まって振り返る。
「頑丈なだけってのは……ん、はあ、ショックだけど、否定できそうにないなあ……」
玄は、まだ倒れていない。負けちゃいない。
鼻血を拭い、土を払い、ゆっくりと起き上がる。息は荒い。血も止まらない。でも、彼は、立っていた。立って、驚愕に目を見開いた雪に視線を向けていた。
「……そんじゃ、帰らないで、続きを……まだ、まだ、やれ……」
玄はそう言いながら、よろめいた。言葉も途切れ途切れ。
虫の息だというのは誰の目にも明らかだった。
雪はどこか熱っぽいため息をつく。
「はあっ……。頑丈なだけと言うたが、程があるんじゃがな。でも、やれるか? 倒れそうに見えるんじゃがのう」
「ふう……ふう……ふふ……」
雪の問いに、玄は笑った。笑って、雪を焚きつけた。
「……逃げるの?」
その一言で十分だった。雪の心から驚愕など瑣末なものは消えた。彼女は獣になり玄に迫った。
そして、玄のソバットが炸裂する。
風が唸った。筋肉の塊である玄の足から繰り出されたそれは、見かけの割りに速く、鋭く、雪の鼻っ柱をぶっ飛ばした。
「――――っ!」
背中から地面に倒れていった。
完全な不意打ちだった。虫の息の玄を前にしていたにしても、あまりに無用心だった。駆け出したそこを玄は蹴ったのだ。これ以上ないタイミング。
それでも、それでも彼女は寸前で身を反らしていた。人間離れした反射神経と読みである。だが、決してノーダメージではない。
「やって、やって……やってくれたのう! やってくれたのう!」
雪は鼻血を出し、倒れていながらも唸りを上げる。脳が揺れたか、歯を食いしばって立ち上がろうとするが、膝が震えていた。
玄の蹴り、威力を軽減できたのはほんのわずかだったのだ。学校で誰も彼をも惹きつけた美しい黒髪も汚れてしまっている。
玄は息も絶え絶えながらも、笑っている。
「……追い込まれて……大ピンチ。そこから、一撃で逆転……」
彼もまた、ソバットにかなりの力を使ったか地面に膝をついていた。
「まさに……プロレスだなあ……ハハ」
玄の言葉に雪の顔が歪む。地獄の悪鬼のようだ。ぎちぎちと歯が鳴っている。
「……逆転? 逆転? ぎゃあくてん? どこの、誰がじゃあ……!」
雪は、爪先を地面に固定して、手で地面を突いた。同時に背筋で体を釣り上げる。その勢いで、無理やり立った。
「……ぬふ、ぬふ、ぬふふふふ。どうよ! まだあたしは、闘え――」
ぺたんと、尻もちを着いた。雪の脚は震えたまま。
「くうう……!」
悔しそうに雪は唸り声をあげた。回復には時間がかかりそうであるが、それは玄もだ。ガンガンと頭痛がする。歩くことも、できそうにない。ソバットなんて激しい攻撃をしたせいだった。
(でも、なあ……いざってときは、これじゃないと……なあ、銀……)
目眩がした。チカチカと白い粒子が飛び回っている。
それでも、前に進もうとしたとき、彼は感じた。
ちりちりと背筋がざわめいた。圧迫感。息が詰まりそうなものを感じる。
重い。大きい。太い。ぐぐぐっと、その気配、存在感だけで潰されそうになる。
誰かがいる。山のような誰かがいる。雪の視線も玄の後ろに向けられている。
ぐうっと、圧迫が強くなる。首が重い。喉が詰まる。
耐え切れずに振り向くと、大きく広く、分厚く堅い手が迫ってきていた。それは玄の顔を覆い、そのまま彼を地面に押し倒した。
「横になっていろ。今日のところはこれでおしまいだ」
その野太い声には聞き覚えがあった。その男を玄はよく知っていた。
巨大な男。天高く大樹のような男。太陽のように快活に笑っている男。リーゼントがいやに似合う。目尻や口元に皺があるが、肌に張りがある。若さがある。真っ黒な背広に真っ赤なネクタイという派手な格好だ。こんな山の中で着用するもんじゃない。急いでやってきたのだろう。
「梶さん。なんで、ここに……」
彼は無言でくいっとこの段々畑の入り口に顔を向けた。玄も目で追うとそこには坂田と田辺がいた。二人寄り添って心配そうに目を向けてきている。
(あいつらが呼んだか……いや、訊きたい本当のところは違うんだけど……)
玄の心に梶という男は気づいていないようで、雪に視線を向けた。
「聞こえただろう。雪。もうおしまいだ。終了。引き分けだな」
ずん、ずんと歩む。地面にくっきりと足跡が残っていく。
後姿を玄は見るが、服に隠れたその体からは人間のエネルギーとでもいうのか、そういうものが目に見えてしまうほどハッキリと出ている。
梶は雪の目の前で腰を屈める。
「途中から見させてもらっていたぞ。驚いただろう。玄には」
「驚いた。確かに、驚いたがのう。でもなあ、梶さんや、まだあんたが出る幕じゃない。まだ、決着は、あたしは、まだ負けちゃあおらん!」
もう一度雪は起き上がろうとしたが、足がまともに動かないようだった。じたばたするだけ。梶が言う。
「ほれ見ろ。玄も似たようなもんだ。もうやめとけ。もっと、もっといいところを用意してやるから、やめとけ」
雪は無言で、梶の鼻を殴った。獣じみた笑顔で吐き捨てる。
「玄を教えてくれたことには感謝するがのう、あんたにゃ茶々を入れる権利はなかろう」
人差し指を突きつける。睨みを利かせて、雪は命令した。
「あんたがどんだけ偉大なプロレスラーだったかは知らんが、関係ない。帰れ、おっさん」
不遜。雪に怯えはなかった。梶のエネルギーに屈しない。
梶に怒りはない。くつくつと、心底おかしいというぐあいに笑っている。
「いや、若い。若いな。いいぞ。俺にそんな口をきくやつなんてもういないからな。言えるやつはいなくなってしまった。貴重だ。嬉しい。へーこら頭下げるだけだからな。対等であろうとするやつはいない。ただな、日下部雪よ」
梶は右手を開いて振りかぶる。雪が両手を顔の前に持ってくるが、梶には関係なかった。
ただ、振るう。なんの変哲もない平手打ち。雪は避けることも防ぐこともできず、もろに受けて、倒れて動かなくなってしまった。気絶したようだ。
梶は意識を飛ばした彼女を軽々と担ぎ上げ、玄に近寄ってくる。
「動けるか?」
見下ろしてくる。玄は震える手で鼻血をふき取って答える。
「もう少し、待ってください……まだ、回復してない……」
「動けないんだな。まあいい。動けるようになったらとりあえず医者に行って治療を受けるんだな」
「そうするつもりですが、梶さん、どうして、やってきたんですか?」
梶は雪を担いだまま玄を見下ろしてくる。なにもされていないが、玄の首筋が汗ばんだ。
「どうしてやってきたかってのは、坂田君に連絡受けたからだ。なんか怖いのと闘うことになった。危ないってな。彼のような素人でもわかるんだよなあ。雪の異常性は」
「違いますよ……」
玄はきんだ。喉に詰まってた鼻血を吐く。
「どうしてわざわざあなたがやってきたのかってこと……です。格好からして、急いできたんでしょう。黒崎さんに連絡もせず。はあ……あなたと雪はどういう関係、ですか」
「ふむ……まあ、細かい説明はまた今度な。今はこいつを送り届けてこなければならん。それじゃあな」
それだけ言って、梶は畑跡から出て農道を下っていった。
残された玄に坂田と田辺が走り寄ってきた。坂田が話しかけてくる。
「大丈夫? 意識はちゃんとしてる? これ何本に見える?」
彼は玄の目の前に指を立てる。一本だけと答えてやった。
「大丈夫なようね。中学からの付き合いだけど、本当に頑丈よね」
田辺がハンカチで玄の顔を拭いてくれる。鼻血に土にと汚いが、躊躇しなかった。
「それでも、立てられそうにない。ちょっと休む……」
体全体で呼吸し、玄は力を抜く。
「仕方ないだろうね。しばらく休んでたほうがいいんじゃないかな。どれ、膝を貸してあげよう。頭を上げて、玄ちゃん」
「いらん」
玄は田辺の誘いを断って、地面に倒れたまま深呼吸を繰り返す。若干、頭痛が治まってきたところで梶について尋ねた。
「しかし……坂田か田辺か、どっちか知らんけど、よく、連絡先を知ってたな」
「君がいつか無茶をする。止められないって時、連絡してって頼まれてたからね。あの、プロレスラー梶の連絡先。教えてもらったときは小躍りしたくなったよ」
坂田が嬉しげに懐から名刺ケースを取り出した。田辺も微笑を浮かべて手にしている。お宝を見せびらかす子供のようだった。
「ま、俺は銀の息子なんだけどな。名刺、いる?」
「僕らは君のサインをいつかもらうよ。家宝にさせてもらうから」
「そうね。ま、いつになるかはわからないけど」
玄はフンと鼻を鳴らした。血が飛び散った。
「本当に、いつ銀になれるんだろうな、俺は」