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玄が日下部雪と名乗る、超絶な美人だが奇天烈な謎の女と闘って約一週間後。九月初日。八月末に夏休みが終わって登校再開となり、数日が経過していた。
早朝、教科書の詰まったリュックを背負ったカッターシャツの玄は軽く走っていく。季節の変わり目が近付いているからか、風が強くなっていた。街路樹がざわめいている。
坂を下って国道沿いの歩道を進む。数人のクラスメイトがぼんやりと眠たげな顔で突っ立っているバス停を挨拶を交わしながら通り過ぎる。
自転車に追い抜かれたり、歩いているものを追い抜いたりしながら街並みを眺めていく。まだ丘を下りきっていないので一望できる。
この街、馬場市はかろうじて東京であるが奥多摩と呼ばれる山間部に位置し、埼玉や山梨との県境にほど近いかなり田舎の印象の濃い町だ。玄の視線の先には緑生い茂る山々、そのふもとに玄の通う高校のある住宅街。そこまでの道の左右には田んぼが広がっていて、傍を広い川が流れている。
その道路を横切るように電車の線路がある。開かずの踏切というわけではないのであまり急がなくてもかまわない。あくびまじりに走っていくと、彼の傍で自転車が止まった。
緑色のママチャリ。乗っているのは線が細く、中性的な顔の男だった。背は玄より高い。
「おはようさん。玄君よ。今日も走ってるね」
「おお、おはようさん。坂田」
中学のころから付き合いのある友人。クラスも一緒である。体格に差がある二人が並んでいると同年齢だと見抜くのは難しいものであった。
「なあなあ、覚えてる? 今日のこと」
適度にブレーキをかけて、坂田は玄と同じ速度を保っていた。
「なにかあったか? テストか? まだ先だったろ?」
思い当たるものがなかった玄がそう答えると坂田はやれやれとぼやき、れた顔をする。
「君がそういうタイプだって知ってるけど、もうちょい先生の言うことも覚えておきなよ」
「だってうぜえもん」
まったく悪びれることなく、うんざりした様子でため息をつく。坂田も目を伏せて、自転車のハンドルにぐったりともたれかかった。
「そりゃあさ、そうなんだけどね。うるさいし。でもさ、結構みんなも驚いていたのに」
「なんだよ。テスト以外になにがあったんだよ」
「転校生だよ。転校生。今日からって話だったじゃん。初日に言ってたろ」
玄は夏休み明けの初日を思い出した。確かに、教師がそんなことを言っていた。
いやな予感が鎌首をもたげる。走る速度を緩めて顎を掻く。
「まさかなあ……」
「どったの?」
「いや、な、俺ねえ、最近また喧嘩売られたのよ。それが同い年だって言うから……」
「君が闘った相手を覚えてるなんて珍しい。どういう相手だったの」
「それは、まあ、勝てなかったし。引き分けっつかノーコンテストだったし」
玄は足元の石を蹴っ飛ばす。がりがりと坊主頭を引っ掻いた。坂田は目を大きく開き、興味深そうに覗きこんでくる。
玄は語りにくそうに顔を顰めた。
「ま、どんなのかは、田辺とも話すわ」
「あいあい。しっかし、女だったよ。転校生って。喧嘩相手じゃあないと思うけど」
玄は首筋に寒気が走った。ますます可能性が高まった。
玄の通う力道高校は今年で創立三十年。八十年代初頭に新たに設立された学校だ。グラウンドは広く縦に四〇〇、横に二〇〇の長方形。五階建ての校舎のセメントは最近くすみが目立つようになっていた。
玄と坂田の教室は四階の角だ。九月に入っても暑さが引かず、中はむわっとした熱が充満している。それでも近々行われるテストへの対策や、今日の転校生への話題で盛り上がり、騒々しかった。
「これまた、とんでもない女がいたもんだねえ」
襲いかかってきた女、雪について坂田の感想がそれだった。
ペタンとマグネット将棋の駒を進める。玄も返す。これは二人の趣味。教室の廊下側、最後尾の坂田の席に将棋盤を置いて、その前の席に座る玄が身体を後ろに向けて、向かい合っている。負けているのは玄。彼は歩兵を進ませることばかり。
幼い見かけによらない坂田の攻め将棋に連敗記録更新中。であるが、玄は彼との将棋は楽しかった。
「この、小ずるいぞ。歩には歩で勝負しろよ。卑怯だぞ」
「ルール守ってるのに卑怯って言わないでよ。はい、王手飛車取り」
「なんの、と金、成り。おら、こっちも王手だ」
「……」
坂田は無言で玄の王を取った。玄は将棋盤に突っ伏した。
「……いつものことだけどね。たまには逃げなよ。負けずに勝とうとしなよ。今回はそこそこいいところまできたけど。いや、本当になんでこの戦法でこっちの陣地に食い込んでこれるかな」
「アホになるほどやったからなあ。継続は力なり」
玄は顔を上げてしみじみと語った。坂田は呆れながらも、玄の将棋を馬鹿にはしない。おもしろいと言って、進歩を見ようとする。だから彼との将棋は楽しい。
ホームルームも近いのでマグネット将棋を片付けていると、観戦していたクラスメイトの一人が声をかけてきた。
「玄ちゃんも上手くなったけど、んぐ、んん、坂田もそんなに上手じゃないからね」
その人物は坂田の隣りの席でおにぎりを食べている女子だった。名前を田辺という。玄や坂田と同じ中学出身だった。
「それにしても雪だっけ? んぐ、とんでもないね。そこらのバカになら、ともかく、んぐ、八十点の玄ちゃんに挑戦するなんて、ね」
ぱくぱくとおにぎり二つ目に取りかかる。よく食べているが太っておらず、シャープな顔立ちの美形である。髪は肩より上で刈り揃えていた。茶色に脱色していて、何度か教師に咎められているが天然だと言い張っている。
彼女は帰宅部だがマラソンのサークルに所属しているとのことで、肌は褐色に焼けていて引き締まった身体つき。すらりとした手足が健康的な魅力を表していた。
将棋盤と駒を片付けた坂田が田辺に尋ねた
「玄が八十点だったら僕は何点?」
「……四十点」
田辺は口元についた米粒を食べてから答えた。何の点数なのかは一切明かされていないため、酷評ではあったが坂田は別段落ち込んだ様子もなく話を続けた。
「ありゃまあ。悲しい。それで、その女だけど、玄ってうちの柔道部の誰より強いじゃない。その玄をぽんぽん投げ飛ばすなんて、考えられない」
「その点については同意。しかも、女だったってんだから腕力なんてほとんどなかったんでしょ? 天才なの?」
二人の問いに、玄は顎を掻きながら頭を捻った。
「さあなあ。天才かどうかはわからないが、あれが柔道じゃなかったってのは確実だ。別物だったよ。あ、俺にもお茶ちょうだい」
田辺はロッカーに置いてある紙コップを三つとって、持参してきた魔法瓶から緑茶を注いだ。
彼女は毎朝早く、親が目覚めぬうちにジョギングをしてそのまま学校にやってきている。食事はおにぎりとつけものだ。食後には緑茶を飲んで一息ついていた。紙コップを坂田が用意してからは全員分淹れてくれるようになった。
玄は湯気の立つ茶を啜る。坂田も茶を飲んでほっと一息ついてから尋ねた。
「で、件の女は去り際に、また今度みたいなことを言ったんだよね」
「そうだ。んで、えと、今日転校生が来るんだよな」
イエスと、坂田が意味もなく英語で肯定した。
田辺が玄の隣りの席を指す。
「昨日、席を用意されたのよね。玄ちゃんが運んできたけど」
玄も隣にある机を見た。教師に頼まれて空き教室から持ってきたのだった。椅子の形が若干違っている。
元々玄の隣りの席は田辺だったが、一番後ろがいいというので彼女が下がったのだ。
田辺が続ける。
「もしかしたらだけど、その転校生が日下部雪だったりして……」
「そんなばかな」
玄は切り捨てた。田辺も本気ではなかったのだろう。くすくす笑っている。
「だよねー。ちょっとそれはできすぎだよねー。ラブコメじゃあるまいしね」
「そうだな。あれと、恋愛コメディは難しいではなくて、できっこないな」
玄の頬が引き攣っていた。先日の姿を思い出してみたが、いくら綺麗でも涎をじゅるじゅる垂らす女は勘弁してもらいたかった。
でもさあと、坂田が空になった紙コップを揺らしながら言う。
「また会おうなんて言ったんだったら、その転校生が本命でしょ。タイミング的に考えて。ほかになにがあるっていうの」
玄は眉間にぐうっと皺を寄せて考える。
「……そうだな。引っ越しとか」
「おんなじじゃん」
坂田の指摘に玄はむくれ、田辺は笑った。それから三人は他のクラスメイトたちのように笑いあった。そうして数分後、若い男性教師がやってくる。このクラスの担任だ。
「暑い! 暑すぎる! それでもだらけすぎだぞお前ら!」
熱意溢れる合田という教師だった。声がでかい。
「相変わらずうざいね。顔も性格もいい人だけど、それが駄目かな。減点五点」
田辺がうんざりした様子で切り捨てる。
「ちなみに総合点では?」
坂田の問いに、素早く彼女は答えた。
「六十五点」
「僕より高いのか」
がっくりと坂田は肩を落とした。これには少々ショックだったようである。
「いいか! 今日は前もって言っていたとおり! 転校生がやってくる!」
田辺が手を挙げる
「どうした田辺!」
「合田せんせー、美人ですかー」
「美人だ! とんでもない美人だ!」
男の拍手と歓声が沸いた。女もざわめいている。
玄は田辺に注意する。
「お前ね、プレッシャーを与えるなよ。いま扉の向こうでスタンバイしているんだから」
「まあまあ」
「先生びっくりした! 人間かってくらいに綺麗だぞ! それでは、入ってきてくれ!」
教師の無駄に暑苦しい言葉のあと、静かに扉が開いた。そして音もなく、黒い鞄を手にした一人の女が入ってきた。
腰まである黒髪。白無垢のような肌。整った顔立ち。スレンダーなスタイル。
玄を除いたクラス全員があまりの美しさに感嘆のため息をこぼしていた。まるで奇跡のような美しさ。美術品などと違って動く、生きている美。とてつもない。
玄は口を閉ざし、身をのけぞらせて天井を眺めた。そっくりさんであってくれと願った。獣じみちゃあいないから違ってくれと。
「よおし、自己紹介だ!」
「はい。猪木村から転校してきました。日下部雪です」
彼女は丁寧に言葉をつむいだ。
「みなさん、えー、よく勝手がわからないので、よろしくお願いします」
にこりと微笑んで頭を下げる。拍手喝采。あまりの美貌に男女の区別なく喜び、羨望の眼差しを送ってしまっていた。若干、三名を除いて。
坂田と田辺、二人の視線はまるで空から降臨してきたかのような美人ではなく、その目の前でがっくりと肩を落として俯いてしまっている玄に向けられていた。
「日下部君! あそこにごっついガタイの男がいるだろう。千葉玄っていうやつだ。あそこの隣に座ってくれ!」
「わかりました」
雪は、すらりと伸びた足で悠々と歩き、玄の隣に座った。
「よろしくね。玄君」
「よろしく……」
玄は力なく返事をした。雪の瞳は透明な色をしている。やはり、先日襲ってきたものと同一人物。猛々しい獣のような眼光が映り込んでいた。
獰猛。ほかの何も知らずに羨んでいるクラスメイトとは違って、玄にはしかとそのにじみ出る狂気を感じ取れてしまっていた。