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八月下旬の早朝、ようやく日が昇った時刻。そんな灰色からカラーに変化した世界。長い樹木が造るまばらな影の上を一人の若い男が走っていた。夏だからか、黒のタンクトップと短パンしか身につけていない。
街を一望できる丘への上り坂。清掃されたばかりなのかゴミも葉っぱもない赤銅色と灰色のチェックのようなアスファルト。そこをたんたんといく彼。髪は坊主に近いほど短く、顔はお世辞にも美形とはいえなかった。目は小さく、鼻はつぶれ、唇は厚い。そんなふうにパーツは綺麗ではない。だが、全体を見れば悪い印象を与えるようなものではなかった。
身長は十代後半男子の平均ほどであるが、初見では大男という印象を持つかもしれない。
それほどに、太い。
脂肪ではなく筋肉で太い。
よほど鍛えたのであろう。首から肩へのラインは筋張っていてまるで山のようだった。
腕も全体が太く、肉厚な掌は丸々と大きかった。短パンから覗く足も丸太のような太ももに、なだらかなカーブを作るふくらはぎ。そして縛られたかのように細い足首で、大地をる力を効率よく伝える理想型である。よほど走りこんでいないとこのようにはならない。
十分ほど経過し、坂道を走りきると男は一軒の家についた。二階建ての西洋建築。さして新しいものではないが、赤色の屋根や陶磁器のように真っ白な壁にはくすみ一つなかった。窓にも汚れ一つついていない。丁寧な掃除がされていることがよくわかる。
塀はあるが、低いので彼の背でも庭が窺える。一片八メートルほどの正方形。ボクシングやプロレスのリングよりやや広いが、そこには木も花も芝もない。肌色の乾いた土しかない。『千葉』と表札が掛けられた黒い鉄の門を抜けようとした彼は、不意に後ろから声が掛けられた。
「やはしお前さんで正解だったようやの。千葉玄ってのは」
どこの方言なのか。そう疑問に思いながら振り返ると、男の背後に、黒いジャージを着込んだ長身の女が立っていた。
美しい女だ。顔立ちは整っており、白無垢のような肌と夜のような黒の長髪が好対照。彼女はじっくりと値踏みするかのように、長いまつげに縁取られた妖しく潤んだ瞳で男を見つめてきている。
「確かに、俺が千葉玄だけど、あんたはなんですかい?」
「あたしは日下部。日下部雪じゃ」
女――雪は懐からゴムを取りだして髪を縛り、一括りにした。
「途中からあんたを追っかけさせてもらっとった。どれぐらい走るか興味があったからの。結構体力あるもんじゃい。ダッシュ、ジョギングを十回ぐらいセットでやって呼吸を乱さずおしまいにランニング。ふ、ぬふ、ぬふふ」
雪は奇怪な笑い方をして、震えだす。ぺたり、と、白い手を頬に押しつけ、撫でる。
男――玄は眉を顰めた。不気味さを感じ取った。
「そういうあんたも、結構鍛えてそう。なんとなく、雰囲気がある」
「まあのう。あんた、なかなか鍛えてるようやが、あたしだって生まれてからずっと、果てがないって錯覚するほど鍛えてきたんじゃい」
「それで、そんな人が何の用なんですか」
玄が尋ねたら雪はにい、と笑った。相貌を歪ませ、いまにも飛び掛りそうなその表情は、獲物を前にした猛獣を髣髴とさせた。
「その前にな、一つ、質問じゃ。身長と体重は?」
「一六九センチに、七五キロ 。で、本題は?」
「あんたを倒しに来た」
「そうか」
玄の表情に変化はない。感情が揺らいでいない。
「あれまあ、驚かんのか」
雪は意外そうに玄を見てくる。
「似たようなことが何度もあった。俺をプロレスラー千葉銀の息子だと知って金をせびる。それと闘いたいってやつ。どっかで変な噂でも流れたのか、今までに十人以上やってきた。年を聞いて帰るやつもいたがね」
「そういや十六なんやったの。安心せえ。あたしも十六じゃ。それで、帰らなかったやつとは、どうしたん」
「闘った」
「はあ……」
雪の頬が赤く染まった。絶頂に至ったかのように恍惚となって身悶えている。
地面に滴り落ちている涎も気に留めなかった。
「ぬふ、ぬふふふう。たあ、たあ、た、たたった――」
雪はごくりとつばを飲んだ。
「たまらんのう! たまらんわあ! そうでなくては話にならん!」
「まるで狂犬病にでもかかったようだな」
玄の身体は震えていた。恐怖、ではないが、その正体はわからない。
「あたしのことはどうでもいい。やるのか。やらんのか。どっちじゃ!」
「どうせ断っても意味はなさそう。庭でやりま――」
言い切る前に雪は駆け出していた。
深く、頬を引き攣らせんほどに笑い、唾液を垂らす八重歯を牙のように覗かせ、玄の顔面めがけて拳を打ち出した。
そのまま勢いを殺しきれずに玄の背後へ走り去り、笑みを浮かべたまま振り返る。
異常だという言葉が生ぬるいほどに、異常な女。奇怪な女。涎がぽたりぽたりと彼女の足元に落ちている。
殴られたダメージはない。玄は不意打ちに怒りもせず、構える。
拳を固めた両腕を頭に添えて、やや屈む。脳だけを守る構え。胸も腹も、金的も守っていない。回避ではなく防御でもなく、耐える構え。
亀の構え、玄はこれをそう呼んでいる。
「――いいのう。ぬふっ」
雪はずずっと涎を吸い込み、口元を拭った。そして、跳ぶ。
すさまじい跳躍力だった。彼女だけ重力の支配が無くなったかのよう。腰が玄の頭を越えている。そこから、脳天を狙った右のローキック。
玄は左腕で防ぐ。と、瞬時に反対側からも蹴りが飛んでくる。それも防ぐ。さらにみぞおちへ再び右の蹴り。これは、防がない。受ける。
着地した雪は震えて笑う。異常で奇怪なだけでなく、類稀な身体能力を持っていた。
「なかなかじゃ。なかなかじゃぞ玄よう!」
続けて彼女は鼻っ柱に拳を入れる。これも玄は防がず静かに受ける。
「あんたもなかなか。こんな容赦のない、変なのは初めてだ」
玄は流れ出た鼻血をふいた。
雪は笑う。
口が耳まで裂けそうなほどの笑顔で、
「きいいいいえええええ!」
雄たけびを上げた。
蹴りを放つ。玄の胸、腹、腕、足にきんでいく。
瞬く間に彼の皮膚は赤くなるが、顔は涼しいままだった。
玄の、雪より遥かに太い筋肉がダメージをすべて吸収してしまっているのだ。ただの連打で倒されはしない。彼女はやり方が間違っているのだ。
数十秒も経過すると、雨のように間断なかった攻撃のペースが落ちてくる。これまでに玄がしてきた経験となんら変わりなかった。
亀になると相手は攻撃。それも連打をしてくる。
それこそが狙い。しだいに疲れて手が止まる。そこを掴んでしまえば終わりである。
機を見計らい、玄はすべるように近づき雪の腕を掴んだ。このまま彼が全力で彼女を引き寄せ、その体を持ち上げたらあとは叩きつけるだけだった。
これまでは。
「阿呆が!」
雪が叫ぶと、玄は半回転した。地面に背中から叩きつけられる。
そして彼の目には一瞬だけ美しく笑う雪が映って、
ごん。ごん。ごん。
踏みつけられた。三度、玄の後頭部と地面が衝突した。全体重を乗せてしまえば体重の軽い者でも相当な威力になる。常人ならばこれで気絶している。ところが、玄はよっこらせと言いながら立ちあがった。
「すごいな。どうやって俺を投げたんだ」
口から血を吐き捨てて玄が尋ねると、雪は初めて笑顔以外の表情を見せた。
困惑。眉間に皺を寄せ、こめかみに浮かぶ血管をひくひくさせている。
玄は再度尋ねた。
「教えてくれないか」
「いやじゃぼけ」
雪は再び蹴りを繰り出した。額に胸に、鋭い蹴りを打ってくる。
それでも玄はなんでもないかのように前に出て、雪の腕を掴んだ。
瞬間、投げられる。今度は顔面から地面に衝突した。だが、起き上がる。ぶっと鼻血を吹き出して、また、向かい合った。
雪の表情には困惑が浮かんでいた。
「玄。あんた、なんなんじゃ。なんなんじゃ一体!」
今度は雪に腕を掴まれ、投げられた。蹴りではなくこちらが本職なのだろう。
玄は雪に何度も投げられた。もう彼の方からはほとんど触れることもできず、やられる一方だったが、怯えているのは雪だった。
「もう呼吸が荒い。足も震えとるやろが。効いているはずじゃ。それもかなり。なのに、あんたはどうして立つんじゃ。バケモンかや」
呼吸が荒いのは彼女もだった。笑顔はとうに消えて、震えてガチガチ歯を鳴らす。対して、玄はゆっくりと呼吸を整えながらまっすぐ彼女を見つめている。
「人間だよ。人間。でも、負けちゃあいけない人間。だから立ってるの。千葉銀の息子だ。仕方な――」
「けいやああ!」
言葉が終わらぬうちに雪は仕掛けてきた。玄の頭を掴みながら足を掛け、再び後頭部を地面に叩きつける。それだけでは終わらず踏みつけようと足を上げる。
「さすがに勘弁」
その足を玄が掴んだ。
「く、こんの! 離さんかあ!」
「倒れているやつは投げられないか。ほら」
あっさり拘束していた足を解放し、玄は立ち上がった。
雪は距離をとった。そのまま双方動かず、膠着を迎えた瞬間、
「なにしゆうがあ!」
二人以外の声がした。家の玄関に割烹着を着た小柄な女性が立っていた。小さく可愛らしい顔立ち。血色のいいピンク色の頬を膨らませている。明るい茶髪は頭の後ろで団子にまとめられている。
目を丸くして雪が叫んだ。
「一人暮らしじゃなかったんかえ!」
「ああ、あの人、俺の保護者。怒ると怖いんだ」
雪は舌打ちをして走った。玄は亀の構えであったが、彼女は彼に向かってこなかった。
「警察呼ばれたらかなわん。近いうちに会う。そのときまで待っとるんじゃぞ!」
そう言って飛ぶように走り、すぐに姿は見えなくなった。
玄はふうとため息をついて座り込んだが、休むにはまだ早かった。すぐに、先ほどの女性が駆けつけてきて、耳を引っ張られ立たされる。
「なにしよったがよ玄君!」
「怒鳴らないでくださいよ、華さん。頭痛いんです」
見上げて怒ってくる彼女に玄はそう訴えたが効果はなかった。
「喧嘩せんかったらそんなことにならんかった! 何度言えばわかるんよ! 馬鹿かえ! 阿呆かえ! 謝りんしゃい!」
怒声は朝の街によく響いた。小さくても迫力は十分。玄もたじたじだった。
「す、すいませんでした」
「もっと真摯に!」
「申し訳ありませんでした」
頭も下げたが、それでも許されなかった。
華と呼ばれた彼女は玄の耳を引っ張って家の中に連れ込んだ。
花も絵もなにも置かれていない、殺風景な玄関を抜け、短い廊下を渡ったら大型のカウンターキッチンが備えられている広いリビングダイニングに出た。
そこを横切り、突き当たりの階段を降りていく。
地下室は、一般家庭には似つかわしくないトレーニングルームだった。一階のリビングよりやや広い程度のそこは天井が少々低く、床には緑のゴムマットが敷かれて、様々な機器が置かれてある。
ダンベル、バーベルだけでなく、大型の機械もある。壁は檜張り。四方のうち、一面だけがシャドーができるように鏡張り。奥にはリングまである。
華は隅に置かれてあった救急箱から包帯と薬を取り出し、玄を座らせ治療を始めた。
そうしながらも、華の怒りは収まっていなかった。
丸い、澄んだ目で玄を睨んでいる。
「帰ってこんから心配したら玄関先でなにしゆがよ。喧嘩は駄目ってあれほど言うたのに。そもそも、どうして売られるといつも買うがあ。今日なんか女の子やよ。女の子。仮に、向こうさんの顔に傷でも残したらどうするんよ。嫁にもらわないかんなるがで」
「それは、はい。すいませんでした。でも、正当防衛というか」
「関係ないわえ」
玄の抗弁は切って捨てられた。ついつい肩を竦めてしまう。
「向こうがなにをやってこようと我慢をすればいいだけ」
「また無茶な」
「無茶やない。無理でもない。ともかく、女の子に怪我をさせたらいかん。そんなことしようもんなら、亡くなった銀さんと奥様に詫びなきゃあいけなくなるんよ」
ついに華は涙を流し始めたので、玄は土下座をして謝った。
「本当に、もうしないん?」
玄は、泣き止む気配のない華に汗をかきながら答えた。
「……その、やはり確約はできません。黙ってやられるわけにはいきませんので」
華はハンカチで目元を拭った。
「わかっとるよ。理由は明白。銀さんも罪なお方やもん」
「否定はできませんね」
パンと、華は手を叩く。
「はい。この話はもうおしまい。上にいこ。ごはん、作っちゅうから」
手を引かれ、玄は階段を上った。