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成金  作者: 三三珂
炎と金
16/17

1

 梶と高木、二人の熱闘の余韻が残る中、会場の明かりがすべて落とされた。リングにスポットライトが当たる。そこに、数分前に闘いを終えたばかりで、息も整わぬままの梶がいた。ざわめきが起こるが、梶が手に持つマイクでしゃべり始めると、一斉に沈黙する。

「俺には竹馬の友がいた。名前は千葉銀」

 静かな暗闇に、梶の声が響き渡っている。

「俺と銀は厳王のプロレスを見て、憧れて、スターになろうと誓った。あの男みたいになろうと。だが、銀は十歳で親の工場が潰れて、親類を頼って両親と共にアメリカへと渡った。別れ際、俺は日本でプロレスラーになる。銀はアメリカでプロレスラーになる。そして、いつかタッグを組もうと約束した」

 呼吸をする。静かな、荒れ狂う嵐の直前のような空気だ。

「銀は強すぎた。アメリカのリングで、日本人が強さでのし上がることができるような時代じゃなかった」

 デビューはしたものの、日本以上にショウとしての要素が強いアメリカン・プロレスで、強さだけを求め、負けることのできない日本人の銀は、厄介者でしかなかった。団体にとってだけでなく、観客からも、つまらない試合をするレスラーと烙印を押され、あちこちの団体から解雇され続けた。馬鹿みたいに意地を張り続けていたのだ。

「だから、俺は社長となってから銀を呼んだ。活躍できる場所を提供した。あとは知っての通り。銀はまじく強かった。あらゆるレスラーも、ボクサーも、空手家も、柔道家も、も寄せ付けず、最強であり続けた」

 梶は誇張していた。銀は異種格闘技戦でようやく脚光を浴びたのだ。それまでもプロレスの試合はしていたが、まったく目立たなかった。地味な闘いしかできず、泥臭い勝利しかできない彼に人気はついてこなかったのだ。

 ただ、銀を語っている梶は少年のようにはにかんだ笑みを浮かべていた。それは、何のしがらみにも囚われず、純粋に勝負をする、強さを競う。がむしゃらに約束を守り続けていた銀に対して、なにかを思っているのかもしれない。

「銀が闘った相手の一人は『悪魔を地獄に追い返したとき、死神の鎌が首にかかっていた。俺が立っていたのも地獄だった』という言葉を残した」

 それは有名な言葉だ。プロレスファンであれば一度は聞いた覚えがある。

「銀は閃光だった。無敵。無敗。勝って、勝って、勝って、そして、いなくなった」

 天を仰ぐ。すうっと息を吸った。

 数秒、間を置いてから語りを再開する。

「輝きは一瞬であったが、あいつは伝説になった」

 重い声で梶は響き渡らせた。

「生涯現役、生涯無敗」

 ぶるぶるとマイクを持つ手が震えていた。

「あの日、銀は死んだ! しかし! 伝説は死んでいない! 伝説は続いていく! たった一人の、あいつの息子がそれを続ける」

 静けさが満たしていた会場にどよめきが生まれる。それは小さかったが、徐々に、徐々に、大きくなっていく。

 千葉銀に息子がいる。それを何故、いま、ここで言う。

 千葉銀。閃光の、伝説の、無敗のレスラー。その息子。それは誰だ、誰だ、誰だ。

 わかっているはずだ。観客も実況も解説も、千葉銀を語っていたゲストも、テレビの向こう側にいる人間も、気づいたはずだ。

 梶は花道に体を向ける。そこには巨大モニターがあり、映像が流れた。

 ボクシングヘビー級チャンピオン。打ち倒す銀。

 柔道オリンピック無差別級金メダリスト。打ち倒す銀。

 空手世界選手権の優勝者。打ち倒す銀。

 そして、銀に被さるようにしての姿が映った。

「伝説は続く! 出てこい! 千葉――玄!」


 玄の目の前、花道に光が当てられた。太陽が昇ったかのようだった。

「行きましょう」

 背後の黒崎に促された。

 玄は足を進める。父である銀と同じ赤いショートタイツをいていた。

 梶の演説で興奮した観客が声援を送ってくる。銀の入場テーマも流れ、復活を演出する。

 会場には熱気が籠もっていた。無数の人間の激情が満ち満ちていた。

 初めて味わうそれを、玄は心地よく感じた。

 動揺はなく、玄は肉体と心の奥にあるなにかに熱を感じた。

 リングに上がる。梶がロープを広げて、玄の通り道を作っていた。そこをくぐると、すれ違い際に梶が言った。

「勝てよ」

 玄は頷くだけだった。

 向かいの方角の花道にもライトが当たり、選手の名前が呼ばれた。

 千葉玄が伝説の後継者ならば、こっちは現代の伝説。天才、炎の男、日比野炎。

 ホールに姿を現すと、玄へ送られたものを遥かに上回る歓声が出迎えた。

 観客たちは例外なく、彼の名を呼んだ。会場の空気は完全に傾いていた。

 三年前、一七歳で総合格闘技にデビュー。初戦の相手をハイキックで秒殺した。

 その後、二二歳以下と、限定された大会のほとんどに顔を出し、勝利を収めていった。

 いまだ負けなし。無敗。天才と呼ばれている。

 なんとも、なんともうってつけの相手である。相手は最強、銀と同じく最強。

 だったら、玄は勝つ。どんな相手でも勝たねばならないが、最強と名が付けられたものには絶対に勝たねばならない。最強は、銀を受け継ぐ自分だけである。

 負けられない。

 リングに上がり、玄と対峙した日比野炎はかっこいい男だった。

 そして、なによりもその体が、美しかった。一言で言えば研ぎ澄まされた日本刀である。

 初めて顔を合わせたあの日から、さらに脂肪を削ぎ落として磨き上げた肉体は、頑強さと鋭さとしなやかさを兼ね備えていた。

 足、腕、胴体、全体が隆起をしているが、なだらかなラインを描いている。

 リングの中央でルールの確認をしてからコーナーに戻る。

 振り返り、改めて日比野を玄は見た。

 彼は構えていた。両手を顎の前に置いた、ボクサーの構え。

 黒崎が玄の背中に声をかけてきた。

「いまさらアドバイスできるようなことは何もありません。全力でぶつかってください」

 玄は日比野を見据えたまま、答えた。

「言われなくても。それしかありませんから」

 玄は亀になった。そのとき、会場の小さな範囲でどよめきが起こった。同じだからだ。玄と、銀の構えが。

 ゴングが鳴った。

 玄は中央ににじり寄っていく。

 身長はほぼ二〇センチ日比野が高い。体重も日比野のほうが二〇キロ重い。技量と経験では圧倒的に劣っている。

 不安要素の多さ。だが、だからこそ、いい。勝てば、銀に成れるのだ。

 玄は日比野のリーチに入った。

 日比野は強い。だからこそ、倒すのだ。弱いものを倒して銀に成れるか。

 玄がもう一歩踏み込み、同時に、日比野の足が動いた。

 ローキック。

「ちゃ」

 日比野の蹴りが外れた。玄は跳んでいた。

 身体をひねり、遠心力と体重を乗せた銀の得意技であったソバット。

 それで日比野をコーナーまで蹴り飛ばした。

 観客が沸いた。

 角田ジムやテレビカメラの前で見せたのは頑強さだった。同じことをしても意味がない。だからこのような奇襲にでた。びっくりさせる効果しかなかったのだが。

 日比野は鼻血を出していたが、至って元気であった。瞬時に片足ながら後ろに体重を傾け威力を殺したのだろう。立ち上がる動作から、ダメージは見て取れなかった。

 彼は、無表情と言う表情を浮かべていた。それは炎。ただ暴れるだけではなく、対象を飲み込むに調整された静かなものをとさせた。

 日比野がひゅっと息を吐き、玄へと走ってきた。

 本番はここから。

 玄が亀になる。そこに猛攻が降り注いだ。苛烈、猛烈で、激烈で、熱烈な凄まじい攻撃だった。

 炎。

 パンチが。キックが。ニーが。エルボーが。打撃の全てが千葉玄という存在を焼き尽くさんばかりに迫ってきていた。

 化け物め。玄は心の中で呟いた。

 一撃一撃が鋭く速く重い。筋肉が衝撃を吸収しきれない。

 太ももが痺れてくる。腹が、腕が、脛が、守っている頭以外が殺されていく。

 これまで闘ってきたものたちの誰よりも強い。

 梶が用意した元プロボクサーや力士のレベルではない。

 体重は軽いのに。黒崎よりも軽いのに。

「下がるな玄!」

 梶の声がする。

 玄は気付いていなかったが、すでに背中にはロープがあった。越えてはならない線。

 日比野の攻めは激しさを増していく。休まない。止まらない。玄が炭になり、灰になるまで止みそうにない。

 これが日比野炎。

 これが総合で天才と呼ばれる男。

 これが格闘技のスター。

 これが総合を背負ってきた無敗の男。

 なんとも、すごい男だ。

 玄の顔には笑みが生まれた。

 だからこそ、いい。

 だからこそ、玄は銀を背負うことができるのだ。

 日比野炎はこれまで血反吐を吐く鍛錬をしてきたのだろう。

 華々しくデビューして、勝って、光の道を走ってきた。

 どれだけ辛いものだったことだろう。どれだけの重圧がかぶさってきたのだろう。

 それでも勝ってきた。どんな障害にもめげずに勝ってきた。

 それなのに、玄のようなぽっと出の新人に、親の七光りがあるガキんちょに負けるわけにはいかないだろう。

 みぞおちに日比野のストレートが打ち込まれる。

 倒れない。玄は、倒れない。奥歯を噛み締めて堪えていた。

 俺も同じだ。そう、玄は思った。

 玄は銀を背負うことだけを目標にして、その道だけを走ってきた。負けてしまえば伝説が崩れる。そうなると玄が玄でなくなる。

 肝臓にフックが入った。まだ倒れない。

 それだけじゃない。

 梶、黒崎、雪、華、トレーニングに付き合ってくれたものたち、過去のプロレスラーたち、玄は銀だけでなく彼らも背負っている。そして、母も。

 負けられないのだ。彼もまた。

 玄は、前傾になった。退かない。

 玄は、足の指を曲げた。キャンバスを掴んだ。

 いくぞ。

 玄は、炎の中に飛び込んだ。

 腹を胸を焼かれながら前に出た。前に出て、日比野の鼻っ柱を殴った。

 それでも倒れない。日比野は倒れない。

 玄はそんなもの承知の上だった。

 攻撃を止めない。今度はみぞおちに入れる。

 それでも日比野は倒れず、ミドルキックで反撃してきた。

 玄も倒れない。

 どちらも倒れない。

 炎に焼かれるか、炎を喰らうか。そんな、闘い。

 一つ殴れば、五つは殴られる。

 一つ蹴れば、五つは蹴られる。

 それでいい。それでいいのだ。

 これが従来のルールであれば、判定で確実に玄は負けている。それほど、圧倒的に劣勢だった。

しかし、今回は違う。闘うことができなくなるまで試合は続く。

 実に単純明快。要は最後まで立っていればいい。

 玄が殴る。殴られる。そして、倒れない。

 いくら喰らおうと、覚悟をしておけば耐えられる。

 玄はそういう体を作ってきた。

 いくら殺されても生きる。才能がなくても闘う方法。銀と同じく『執念』だけの強さだ。

「んがあああああ!」

 奇声を発した日比野に玄の首が掴まれる。そのまま押し下げられ、顔に膝をもらった。

 沈む。玄はその感覚に出会った。

 だが、跳ね除ける。足を大きく広げて持ちこたえる。

 しかし、首は上がらない。もう一度膝が迫ってきている。

 そのときにしたのは、考えての行動ではなかった。

 玄は自分から頭を下げた。タイミングと打点がずれた。

 玄の顔は日比野の太ももに当たった。ダメージはゼロではないが激減していた。

 同時に、好機でもある。密着しているのだ。玄は日比野の腰を捕まえた。

 技も何もない。そのまま持ち上げ、ぶん投げた。

 プロレスに投げ技は多くあるが、一度で決まることは皆無。

 レスラーのタフネスさもその要因だが、一番はリングにある。プロレスのリングは威力を減らすために弾力が強いのだ。

 ここは違う。プロレスではない。

 動きやすくするため弾力はほとんどない。そこに背中から打ち付けられてしまえばたまったものではない。

 普通であれば悶絶、動けなくなる。呼吸ができなくなる。

 それでも日比野は立ったが、足が震えていた。玄は走った。この機を逃すまいと。

 日比野は動かない。距離が詰まる。

 日比野はまだ動かない。玄が拳を構えた。

 日比野はガードも上げない。玄の右フックが顔に入った。

 見事な一撃である。甘美な興奮と感触を玄は味わい、同時に、戦慄する恐怖を感じた。敗北の背中を見た。

 文句のつけようもない、いい拳が入った。

 それがいけなかった。玄は直感で悟った。ここから、避けられない一撃がくると。

 玄はこれまで亀になっていた。筋肉と腕という甲羅で決定的な一撃から身を守ってきた。

 しかし、全力の攻撃をすることで甲羅から頭を出してしまった。

 玄の守りを外すために身を挺した、恐ろしい罠だったのだ。

 日比野の速く、しなやかな、鋭いハイキックが玄の頭部を襲った。

 必殺のカウンター。

 死して、勝つ。それを体現していたのだった。

 玄の意識は今度こそ、暗闇に沈んでいった。


 終わった。早いものだった。

 ゆっくりと地面に折りたたまれるように倒れていく玄を見て、誰しもが思った。

 審判も実況も解説も観客たちも、蹴った日比野自身もそう思っていた。

 例外は、四人。

 リングサイドにいた梶と黒崎。

 観客の一人である森野華。

 控え室のモニターで試合を見ていた雪。

 彼ら、彼女らは同じ事を思った。

『まだ、終わらない』

 それは当たっていた。

 意識がない玄は、それでもなお、手を突いて倒れることを拒んだ。


 玄は銀の試合をビデオで何度も見た。殴られ、蹴られ、絞められても負けなかった。すさまじい男であった。闘いに生きる。その姿に玄は感動したが、憧れではなかった。

 玄は梶にねだり、試合のビデオを何本も譲ってもらった。そこでも闘っていた。どれだけ傷を負って血まみれになろうとも、負けなかった。勝っていた。

 ある日のこと。玄は夢を見た。銀の闘いだった。それも死闘だった。片腕が折れていた。蹴りだけで闘っていた。時間がつともう片方の腕も折れてしまった。それでも敗北はしていなかった。

 殴られたら倒れる。そしたら起きる。

 殴られる。倒れる。起きる。

 殴られる。倒れる。起きる。

 殴られる。倒れる。起きる。

 それが延々と続いている。

 もうやめろ。もうやめてくれ。誰かが叫んでいた。

 銀はそんな声など聞こえないかのように、何度も立った。

 馬鹿だった。倒れたままでいればそれ以上傷つかない。そんなのわかりきっているのに、何度も起き上がる。

 無意味だ。無意味だが、玄はかっこいいと思った。

 玄は自分の涙で目を覚ました。

 その日がきっかけだった。

 感動は憧れになり、玄は自身を鍛えるようになった。梶から黒崎を紹介され、コーチになってもらった。

 そして、ある現象が起こり始める。

 時々、銀が見えるのだ。それは黒崎や誰かといるときではない。朝や夜、一人で鍛えているとふっと視界の隅に彼が現れる。そのときこう言うのだ。

『負けるなよ』

 玄はいつも、こう答えた。


「大丈夫、勝つ」

 玄の目の前に日比野がいた。

 震えながら立ち上がり、殴った。二発も殴った。

 力のないものだったが、日比野も正気に戻り、強いローキックを玄に入れた。

 玄は膝を着く。足にも力が入っていない。そこに日比野が顔面目掛けて膝蹴りを放った。

 人を殺してしまいそうなほどの威力を有している。受けても倒れてしまう。倒れたらマウントポジションを取られて滅多打ちになる。

 身体が命じた。前へ、いけ。

 玄がほとんど倒れこむようにして日比野に抱きついた。

 膝蹴りが腹に入る。骨が痛んだ。意識は残っている。ならば、問題はなかった。

 日比野はしがみついている玄に肘を打ち下ろした。膝も入れた。

 玄は離れない。時を待ち、足の回復を待っている。

 そんな彼の姿は神にすがっている罪人のようだった。

 野次が飛ぶ。

「離れろ! 立て! 立って闘え!」

「親父を見習え! 銀の息子が負けるのか!」

 耳に聞こえてきた言葉を、玄は鼻で笑った。

 負けるつもりなどない。負けないためにやっているのだ。勝つために、不細工に闘い、執念でこじ開ける。なにがなんでも、死んでも勝つために。

 日比野が振りほどこうと動き回る。玄は腕のロックが外れてしまい、膝をついた。すぐさま立ち上がるが、そこを狙うように拳が地をってきた。

 アッパー。

 顎の下に両手を差し込んだが、衝撃は脳天を貫いた。

「あ」

 玄の目に火花が散った。視界に黒い線が何重にも現れて、消えた。

 それでも、まだ。まだ。まだ、倒れない。

 心の執念、意思があっても、体に伝わらない。足が痺れて踏ん張れずにとんとんと後ろに下がっていき、ロープを背負ってしまった。

 日比野も追っていた。玄の腹に渾身のボディアッパーが入った。

 筋肉。骨。胃。全てが痺れた。玄は悶絶した。

 ゲロだけではなく、血も水も、胃そのものをも吐き出したい欲望に駆られた。

 それを耐えた。楽ではなく、苦の道を選んだ。

 歯を食いしばり、倒れぬようロープに寄りかかった。日比野が猛攻を再開させた。疲れを知らぬのか、打つ速度は若干上がっていた。

 玄の意識は残っていたが、ただそれだけ。徐々に体が落ちていた。

 なおも、彼は思っている。負けたくない。負けられない。まだ、まだ、まだ、

 日比野の背後に、玄は多くの人を見た。

 梶がいた。苦虫を噛んだような顔だった。

 黒崎がいた。玄を、日比野を睨んでいる。

 さらにその背後、リングサイドの招待席には、蝶の髪留めをつけ赤い派手な着物を着た華がいた。涙を堪えて、じっと闘いを見つめていた。

 坂田と田辺の二人もいた。クリスマスの日、二人からプレゼントをもらった。この日本武道館の氏神である築土神社のお守り、必勝祈願の勝守だった。

 花道を走って、ジャージに着替えた雪が走ってきた。リングサイドに取り付いて声高に叫んでいる。

「――ね!」

 よく玄には聴こえなかった。

「――死ね! 生きるな! 死んで勝て!」

『そうだな』

 玄は声を聞いた。

 それは、目の前にいる男、日比野ではない。

 銀がそこにいた。

「おお」

 日比野と玄の間に彼は立っている。現役時代と同じ赤いショートタイツを穿いていた。

 広く、たくましい背中であった。

 かつて銀がどのような相手と闘ってきたかを思い出す。

 二〇〇キロはありそうな巨漢。手足の長いムエタイの選手。中にはヘビー級のプロボクサーがいた。

「よくも、まあ。あんたはすごいよ」

 玄は笑った。銀の背中を見る。大きい。

 大怪我を負うこともあったろう。気を失うこともあったろう。死にかけたこともあったろう。

 それでも勝ってきた。

 負けなかった。負けたのは、あの体育館で、あの大きな男と闘ったときだけだ。

 記憶が蘇る。おぼろげだった記憶が鮮明になる。

 玄が見た銀のプロレス。梶と銀の、一度だけのプロレス。

 あの体育館で二人が闘っていたのを、玄は見ていたのだ。

「すごいよ。本当に、すごい」

「こんな状況にもあったんだろう」

「それでも勝ったんだ」

「なあ、俺も、勝ちたいんだ」

「負けたくないんだ」

「方法はわかっているんだ」

「死ぬ」

「でも、勇気が足りない」

「なあ。なあ。なあ」

「力を貸してくれ」

「親父」

 銀の背中が近づいてきた。

「お」

 玄に重なり始めた。

 銀の背中が玄に見えなくなった。

「笑ったか。いま」

 二人が一人になった。


 お。

 おお。

 おおお。

『いくぞ。玄』

 そんな声が聞こえた。

 いくか。銀。


 雪は見ていた。攻撃を受け続け、腰が沈んでいくだけだった玄が、しっかりとリングのキャンバスを踏みしめるのを。


 梶は見ていた。その男が息子と同調するのを。

「来たぞ。黒崎」

「来ましたね。社長。リビングデッド。生ける屍が」


 観客は若い格闘技ファンばかりではなかった。

 梶が復帰するとなれば、いてもたってもいられない。往年のプロレスファンはこぞってこの武道館に来ていた。

 そして、銀の息子を知って、彼の闘いを観ている。彼らは銀も知っている。銀の活躍も知っている。あの言葉も知っている。

 銀がどういうものだったかを表すあの言葉を。


 日比野は銀を知っている。

 付き合いのある高木から聞いている。

 ビデオを借りて何度も見た。

 すさまじい闘いだった。

 恐ろしい男だった。

 その強さに、たくましさに、尊敬を抱いた。

 あの言葉も教えてもらった。


 銀は、受けて、受けて、受けて、倒す。

 いくら攻撃を受けようとも、負けず、倒れず、勝利する。

 日比野。梶。黒崎。雪。観客。放送を見ている視聴者。

 次の瞬間、万を超える人間が同じ言葉を導いた。


『悪魔を地獄に追い返したとき、死神の鎌が首にかかっていた。俺が立っていたのもまた地獄だった』


 玄が動いた。

 キャンバスを蹴って前に出た。

 そのとき、死神の鎌が日比野の首にかかった。

 玄の手が、五本の指が日比野を捕らえていた。

 ――喉輪。

 ソバットと並ぶ、銀の得意技だった。

 押されに押されたとき、敵の攻撃の間隙をすり抜け、矢のように突き刺さるのだ。

 玄の指が日比野の首に食い込む。猟犬の牙が食い込んでいるかのようだった。

 日比野は口から泡を吹いたが、終わらない。飛び上がり、玄の腕に足を巻きつけた。日比野の体重を片手で支えることはできない。重力に従って落ちてしまう。それは、玄が学校の亡霊にしたことと同じだった。

 玄は、逆らうことなく逆に日比野をキャンバスにきつけた。

 どんと、大きな音がして、日比野の身体が跳ねた。

 喉輪から開放され、なんとか立ち上がるも足元が覚束ない。二度の投げでふらついている。

 それでも日比野は前へ出てくる。

 玄は拳を受ける。蹴りも受ける。

 受けて、受けて、受け切って、

 反撃。

 玄は正拳を打った。

 フェイントももない正拳中段突き。日比野のみぞおちに突き刺さり、後退させる。

 玄は前に出る。日比野が止まり、前に出る。そこに、玄の前蹴りが胸に突き刺さった。

 日比野が後退。玄が前に出て、ソバット。本日二度目、胸に命中し、ひっくり返す。それでも日比野はすぐに起き上がった。

「――化け物め」

 玄はそのとき彼の声を耳にした。熱さがある声だった。

「あんたもな」

 玄は足を肩幅に開き、力を抜いた。自然体になった。

 日比野が跳んだ。渾身の力をこめた左ストレート。

 玄は避けなかった。その拳を顔で受けることを覚悟した。

 必死であった。

 自身が死に、相手を殺す。

 死して、勝つ。

 玄は拳を受け、同時に引き寄せた。

 自身の勢いに玄の力が加わって日比野のバランスが崩れる。そこを足で引っ掛けた。

 柔道に近い技だったが、一連の動きが刹那に行われた。早かった。

 何度も玄自身が喰らった技。

 雪から、誠から玄へと繋がってきた技。

 綺麗なものではなかった。不細工な投げだった。

 日比野は宙を舞い、頭からキャンバスに衝突した。その状態で、日比野の左肘を玄は極めていた。

 日比野は身動きが取れず、タオルが投げ入れられた。

 ゴングが鳴る。

 一〇分四三秒。玄の勝利であった。

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