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大晦日、夕方六時から大会は始まった。
出場選手は複数の大部屋に振り分けられ、そこを控え室としているのだが、玄だけは梶が用意させた個室にいた。畳部屋。梶が参戦する条件として提示したのだ。
随分頭を痛めただろうなと、スタッフに同情しながらじっくりと柔軟をして出番を待っていた。身体を冷やさないよう、ジャージを着ておくようにとに言われたが、腹の奥から熱が生まれ、じわじわと全身に広がっていくので、シャツと短パンだけの姿でも寒さは感じなかった。
備え付けのテレビモニターは、中継番組に合わせられ、試合の模様が映されている。
数か月前、梶が玄に構想を伝えた試合ルールには、出場予定の選手のほとんどが異を唱えた。慣れないルールで闘う必要性がない。ギャラが増えるわけじゃない。そのルールをかした闘いができるわけじゃない。テレビ局側としても、コマーシャルを挟みにくい。長丁場になり、疲労で試合に中だるみが生まれてしまえば、その途端に視聴者の興味が離れ、中継番組の視聴率が落ちるかも知れない。それだけは避けなければならなかった。
ルールに苦情を申し立てなかったのは、高木と日比野の二人のみだった。
結果、梶と玄の出場する二試合のみ特別ルールを採用し、それ以外は五分三ラウンド制、打撃組み技ありの、標準的な総合格闘技戦ルールで行われることになった。雪の試合もそちらのルールに組み込まれている。
第一試合はロシアのキックボクサーと日本の選手というカード。ミドル級の二人が壮絶な打撃戦を展開し、地道にローキックを繰り出していたキックボクサーが勝利した。脚が動かなくなった所にラッシュをきこみ、審判に止められた。
続く第二試合は日本人選手同士の対戦だった。修斗と総合格闘家。タックルを差し合い、寝技にて競い合う。どちらも技術は高く、関節の奪い合いは凄まじかった。最後は時間ぎりぎりで、もつれ合いから脚関節を極めた修斗の選手が勝利した。
すでに、二試合が終わっただけで一時間が経過していたが、プロの闘い、積み重ねられた技術と、絞りつくされる個人の執念に、時間を忘れて玄は見入っていた。
震える。玄は、震えて、たまらない。練習ではない。カメラの前でやったデモンストレーションじゃない。みな、線の上に立っている。
越えてはならない場所。そこで、闘っている。
怖いだろう。恐ろしいだろう。勝ちか負けか。百か零か。
金を稼ぐのなら他にも手段がある。なにもここまで苦しい思いをする必要もない。それに、やったからといってもが勝利できるわけじゃない。
それでもやるには、それぞれ、誰しもが、理由がある。
負けられない。勝たねばならない。ここまでやってきた理由がある。
その想いを、踏みつぶす。どちらかが、必ず。そういう、闘い。
「……」
玄は、決して揺らぎはしない。迷いはない。日比野の背景にもなにかあるだろう。勝ち続けてきたなにかが。しかし、玄も負けられない。
やる気は漲っている。
第三試合が始まる。それを見ていると、ノックもなしに控室の扉が開いた。
「――元気にしとるかのう。ぬふ、ぬふふふふふ」
雪だった。白い道着に黒い袴を着けている。合気道の姿だった。靴を脱いでとんとんと猫のような足取りで玄にすり寄ってきた。
「どうしたんだ? そろそろ花道裏に移動してなくていいのか? 次だろ」
彼女の試合は前半の山場である。梶が連れてきた人間がどれほどのものかを証明する役目があった。
「えいえい。それより一人でいても疼きが止まらんからの。相手してもらいたいんじゃ。いいじゃろ?」
初めて会った時のような眼光をしている。牙のように八重歯が覗いていて、放っておいたらなにするかわからなかった。
それに、玄としてもありがたいことなので、相手をすることにした。
「そんじゃ、ま、楽しい遊びをしようかの」
雪が持ちかけてきたのはなんでもないことだった。お互いに向かい合い、攻撃側が軽く平手打ちか殴りかかるかし、受ける方がそれをよけるか受け止める。それだけだ。
「よっ!」
まずは雪の攻撃。動いたと思ったら、玄は頬を叩かれていた。早くて速い。
今度は玄が力を抜いてジャブを打つ。雪は、上半身を揺らして避けた。
「見え見え。ぬふふ。のろいのう」
続けて玄が蹴りを放ったが、やはり避けられた。彼女と玄とでは、流れている時間が違うのではないかと錯覚してしまいそうだった。
「ぬふ。のう、玄よ。やっぱ才能はないのう。本当に、残念じゃがの」
笑っているが、見下してはいない。どういうわけか、むように玄を見ている。獣じみたものではない。人間のものだ。
「玄よお。お前はとんでもない。どこに、こんな、執念だけで才能を越えようとするやつがおる。強いことにれて、負けたくない。ただ『めない』だけで、どうしてここまで『強く』なれるがな」
「かっこいいだろ」
冗談めかして言うと、雪がハイキックをしてきた。反応はした、見えてもいたが、よけられなかった。しかし、彼女は玄の側頭部に脚が届く寸前で止めた。
「ぬふ、やっぱり才能はないのう。あたしがありすぎるんじゃが、ま、大丈夫じゃろう」
くるりとターンして、雪は扉へと歩いていった。靴を履いて、振り返る。
「んじゃあの、勝ってから再会じゃな」
雪は颯爽といなくなってしまった。多分、彼女は彼女なりのやり方で応援しに来てくれたのだろうと玄は思った。
らしくないことをするもんだが、少し、落ち着いた。
第三試合が終わり、テレビでは雪の対戦相手が紹介されていた。
広末進一。高知県出身・在住の高校三年生。ライトウェルター級のインターハイ覇者であり、今夏、年齢制限のない全日本アマチュアボクシング選手権大会にて、名だたる実力者を抑え優勝した、驚異の新星だ。次期オリンピックの最有力候補と期待を集めていた。しかし彼はそれを待つことなく、高校在学中の今、総合格闘技のリングを選んだ。どんな相手、例え総合であろうが打ち倒し、ボクシングの強さを証明したいということだった。
セコンドは二人。高校一年のころから世話になっている部活の顧問と、アマチュア世界チャンピオンも指導している特別コーチである。
彼のボクシングの才能はまぎれもなく超一流で、環境も恵まれている。総合のコーチが付いていないのは、ボクシングしか信じていないからだ。揺れていない。芯がある。
広末のインタビュー映像が流れる。彼は静かに受け答えていた。よく落ち着いている。どうやら女だからといって舐めてかかるつもりはないようだ。
続いて雪の紹介も始まる。華やかさが強調されたものだった。合気道の練習風景。東京にある総本山で収録された、演武や組み手で面白いように大人を転ばせていく姿が映る。汗を散らし、艶やかな髪を躍らせながら闘う姿はさながら舞いのよう。顔やうなじ、胸元を強調して撮影したようだが、セクシャルな要素は見えず、どこか神々しかった。加えて、いつだったかに見せられたワンピース姿で、インタビューにえ、グラビア撮影のポーズを取る。アイドル歌手のイメージビデオのような作りであった。
スタジオでは招かれたゲストが、紹介ビデオに大仰に驚いて見せる。これからやるのは男と女が闘う「男女マッチ」だ。絶対に越えられない性差というハンデキャップがある。勝てるわけがない。そう騒いでいる。これは、出場が決定してからずっとだった。
雪は勝てない。女は勝てない。馬鹿じゃないのか。いくら綺麗だからって調子に乗っているのか。女性ゲストがここで負けてもくじけないでほしいと言う。
雪の格闘技、合気道はボクサー相手に通用するのかと疑問を投げかけ、コマーシャル。
玄は携帯でネットの評判を見た。当然、雪が負けると予想しているものが多かった。勝つにしても、八百長だというものばかりだ。
くだらない。玄は、いや、玄だけでなく、彼女と闘ったものならわかっているだろう。雪という格闘家は、存在が違う。男女の枠から外れた場所にいるのだ。
◯
名前を呼ばれて、雪がホールに足を踏み入れたとき、空気が変わる。観客たちが、一斉に沈黙した。
音楽と光の演出のなか、白い道着と黒い袴の雪が静かに歩く。圧倒的な存在感。その美貌だけではない。彼女が纏う獣じみた雰囲気が、一気に会場を浸食していった。
一歩、二歩、三歩と歩いて行くと、徐々に声が戻ってくる。わあっと雪の美しさをたたえる声。裏を返せば、彼女が闘えるものなのかを疑うものだ。明らかな揶揄や、直接的な悪意を籠めたものさえある。しかし、どれもこれもが、力がなかった。
雪は闊歩する。優雅に、美しく、貫禄を持って。それは女王の風格だった。瑣末な罵声など、彼女の心には一切響かない。ただのそよ風にしか過ぎない。
傷一つない肌、細い体、オープンフィンガーグローブから伸びるたおやかな指、艶やかな長髪をなびかせる彼女を、格闘家の姿ではないと否定するものもいるだろう。しかし、違うのだ。そんな姿はいらない。筋肉も、傷もいらない。彼女は、完成された才能だ。そういう無粋なものはいらないのだ。
花道から雪がリング上に飛び上がる。すでに対戦相手は待ち構えていた。
相手の広末も雪と同様、プロの試合は初めてのはずであるが、落ち着いていた。インターハイや選手権での優勝経験があるだけに、こういう舞台にも馴れているのだろう。双眸は震えず、しっかりと雪を見据えてきている。
彼は完全なボクサースタイルである。シューズも履いている。それによって自動的に足技、蹴るといった行為は禁止されるにもかかわらず、それを選んだのは彼の覚悟の現れである。ボクサーとして、格闘家の道を進んでいくという。強い男である。
審判がルールの確認をする。危険部位、背中や後頭部への打撃や金的、噛み付き、頭突きを禁止した一般的なものだ。
凶器に当たるものがないかのチェックが済むと、二人は拳を合わせてからわずかに距離をとった。
そのとき、ゴングが鳴った。
「そんじゃ、軽めにいくかの」
雪はそう言って、ベタ足で広末に近づいた。その行動にどよめきが広がる。あまりに無防備だ。広末も戸惑ったようだが、すぐさまの左のジャブを打った。
ところが雪は止まらなかった。広末のパンチをかいくぐり歩いていく。
距離が狭まったので広末が脚を使い、素早く横手に回り込みながらジャブを打つ。それも雪は上半身をわずかに動かすだけで避けていく。
雪はそのままにじり寄り、広末をロープまで追い詰めた。そこで止まって手は出さず、目を見つめて微動だにしない。
静止状態から動いたのはまたも広末だった。身を低くし、素早く雪の懐に飛び込んでくる。シューズを履いているからできる巧みなフットワークで密着してからラッシュをかける。ジャブを連打し、フックにストレート、体を左右に揺らしてフェイントも仕掛けた。
そのすべてを、雪は踊るように避けた。彼の拳は髪にすら掠らない。それでも、体力の消耗を無視してラッシュを続ける。なかなかの執念であるが、それが、止まった。
雪のストレート。彼女の右の拳が吸い込まれるように広末の頬を打った。それが、彼の腕も脚も止めたのだ。
しんっと、会場が静まり返る。
観客もテレビの前の視聴者も理解が追いつかないだろう。彼らが目にしている圧倒的な才覚は、まさに、世界が違っていた。
「ダメージはそんななかったはずじゃがのう。どうした?」
雪は嘲笑を浮かべて、そう尋ねた。広末は間を置かずに動き出す。
キャンバスを蹴り、跳ぶように動き、あらゆる方向からジャブを打つ。それは素早く、常人ならば目で追うことのできない速さだ。広末はこれを武器にして勝利してきた。
しかし、雪は彼が今まで相手にしてきたどんなボクサーとも違う。雪は、早い。広末が拳を打ち出す瞬間に、もう避ける動作に入っている。彼は、心が読まれていると感じているかもしれない。
て、雪は避け続ける。人間の技ではない。
「くっ、ああっ!」
広末の声が漏れる。恐怖を垣間見るような目つきで、それでもなお諦めずに、広末は攻撃し続ける。しかし、またしても雪のカウンターがボディを打った。止まる。
「ぬふっ、ぬふふふふ。どうしたボクサーチャンプ。すっとろいのう」
雪の挑発に広末は攻撃で応える。しかし、今度は雪も積極的に攻撃を仕掛けた。
広末のラッシュに、雪は、合わせて拳を打つ。
カウンター。額に、こめかみに、鼻に、みぞおちに、ほんの十秒のうちに四発叩きこんだ。例え力が弱くても、急所に打たれれば効く。広末も退いてしまう。そこを、雪は広末の飛び込みに劣らぬ速度で接近し、ガードをくぐりぬけて頬を打ち抜いた。
脚が動かなかった。広末はロープの際で転げるように倒れてしまう。
ここで寝技に追い込めばあっさりと勝負は着くが、雪はそうせずに、広末の眼前に立ち、声を張り上げた。
「ワーン! ツー!」
なんとカウントを取り始めた。この試合ではテンカウントでノックダウンの判定にはならない。気絶するか、関節を極めるまで終わらない。だが、広末個人はどうだ。
彼はボクサーの現役アマチュアチャンプであり、そのボクサーとして勝利する。その決意と誇りが彼のスタイルではないのか。その彼が、ボクシングで負けてしまってもいいからと、立ち上がらず、体力回復を優先するのか。
するわけがない。広末はぶるぶると脚を震わせながらも起き上がった。
「いいのう。まだまだエイトカウント。いけるぞ。ぬふっ」
獣じみた笑顔をする。広末は、果敢に攻めていくが、届かない。
彼には才能がある。努力もしている。まぎれもなく天才の部類である。その彼を雪は、『ボクシング』のルールで蹂躙した。
「なんな、なんながな、お前は!」
土佐弁で広末が叫んでいた。雪は笑い、彼の困惑を踏みにじる。
「天才よ。ただの、ボクシングもなにもかもを越えたの」
広末がジャブを打つ。雪はそれを掴んだ。
観客のどよめきが館内を揺るがした。そこから雪は、手首を極めて、引き、脚を払う。広末は一回転してキャンバスに叩きつけられたが、すぐさま起き上がった。
ダメージはないだろうが、雪は教えてやった。自分がいかなるものか。やろうと思えば今のでギブアップを取れたのだと。自分は、強者なのだと。
傲慢にして不遜。途方もない強さ。しかしてその姿は、とてつもなく美しい。この会場の熱さえも彼女の前ではひれ伏しているのか、汗一つかいていない。
「……次元が違うってのは、このことかえ」
広末が嘆きながら接近する。ゆっくりと、胸や顔をガードせずに歩いてきた。まるで首を差しだす罪人のようである。雪は刈り取るように、顎を狙ってフックを打つ。
瞬間、広末が上半身を下げながらフックを打った。カウンターだ。わざと打たせて、合わせたのだ。
その拳は雪の顎を、掠めもしなかった。雪はそのフックを読んで、広末に密着した。
起こった出来事は理解できても、どうしてできたのか。見ている者の全てが自分の目を疑う一瞬の動きだった。雪はそこから怒涛のラッシュ。あらゆる急所を打ちまくる。
広末は二回目のダウンを喫し、今度は、立ち上がらなかった。三分。ボクシングの一ラウンドぴったりの時間だった。
雪は両腕を大きく天に伸ばし、勝ち名乗りを上げた。光に照らされるその姿は、さながら神話から出てきた女神のようであった。




