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十一月が過ぎ、十二月も下旬に入った。玄と雪は日々、闘いに向けて動いていた。週に一回は必ずテレビに映っていた。そのなかで彼らは様々な相手とスパーリングを行った。
プロ・アマを問わず、角田ジムに在籍するキックボクサーや総合格闘技の選手だ。全員生半可ではない強さであったが、二人は勝利し続けた。
十六歳という年齢を考慮しなくてもそれ凄まじかった。梶のゴリ押しで玄がメインイベントとなったことに対しての反発はあったが、その相手が日比野炎であることが、それを押し込めた。加えて雪の参戦、梶の復帰と目玉が目白押しなのでチケットは例年以上の早さで完売となった。
玄に集まる注目は、好意的なものばかりではない。
玄は、やらせ。インチキ。でないと勝てるわけがない。
「気にすることはない。これでいい。そういう連中が金になるんだからな」
梶が言う。批難するやつらは玄の無様な敗北を期待して会場に来る。チャンネルを合わせる。スポンサーは宣伝できて大喜び。だから、試合に集中しろ。
十二月二十四日。クリスマス・イブ。平日だったので授業があった。
夕方。裏手にそびえる山が日を隠してしまい、早々に辺りは薄暗くなっている。なのに玄と雪、坂田と田辺の四人は帰宅せずにグラウンドで野球をしていた。
ピッチャーは坂田。彼が突然言い出したことである。キャッチャーは雪が務めて、玄がバッターボックスに立っていた。軟球で、一打席勝負。
一球目。かなり低いコース。玄は空振りした。
二球目。今度は内角高め。打ちにくいコースに来た。これも玄は空振りする。
「結構コントロールいいな」
玄が感心すると、球を受け取った坂田は気味に笑った。
「中学一年、夏のころはとんでもなくへたくそだった」
「……ん? なんか前に聞いたのと、なんか、あれ?」
玄は首をかしげる。以前、坂田から聞いた内容と違うような気がした。
「嘘は言っていない。へたくそなピッチャーってのは、俺の事。風邪や怪我で交代のピッチャーがいなくなって、いきなり俺が投げることになった。中一のころは周りより体格よかったからね。で、案の定暴投する。大量失点でコールド負け」
手先で球を回転させながら、坂田は語った。遠目からだったが、震えているようだった。
「ゲロゲロって感じ。吐きそうだった。実際吐いた。あの日のことは今でも夢に見る。無理、無理だった。無理だったから野球を辞めた。けどねえ、未練があった。だから君を見ていた。才能ないのに、強くなろうとして、実際に強くなる君が。かっこよかったよ。で、君は、これからさらにかっこよくなる」
「ほめてくれるのはありがたいけど、そんなにかっこいい?」
玄は頭をなでる。先日、華に散髪してもらったので坊主に近くなっている。
坂田はぽんぽんと地面に投げて、跳ね返ってきた球をキャッチする。
「かっこいいよ。あまりにかっこよすぎて、俺もかっこよくならないといけないって危機感を煽られた。百点、八十点は無理でも、六十点ぐらいには、ならないとね」
玄は坂田から視線を外し、少し離れたところで缶コーヒーを飲んでいる田辺を見つめる。目が合うと、彼女は小さく笑った。
「んじゃ、ラスト一球、いくぞ!」
内角低め。速い。玄は集中し、よく目を凝らしてバットを振るった。
今度は捉えた。真芯より手元にあたったが、バットを振り抜いて、打球は坂田を越えていった。
「センター前ヒットってところじゃの。ナイスバッティングじゃ」
雪がキャッチャーミットを外し、パチパチ拍手する。坂田は球を追って走っている。その後ろ姿を見ながら、玄は田辺を手招きした。
「なにかしら?」
田辺はどこか楽しげな様子だった。玄はにを寄せて、尋ねた。
「なに言ったんだ? 坂田に。なーんか、変な様子だ」
「特になにも。単に、玄君は前へ進んでる。お前はどうなんだってね。て、こんなこと言わなくても、結局やろうとしてただろうけどね。私も、坂田も、君に憧れてるから」
「もてもてじゃの。玄よ」
からかうように、雪は悪戯小僧みたいな笑みを向けてくる。球を拾った坂田が戻ってくる。その後、ボールとバット、グローブを玄と坂田、二人で片付けていく。そのさなか、坂田はふと、あることを頼んできた。
「玄君。一つ、お願い。いい?」
「別にいいけど、なんだ?」
坂田は楽しげに、言った。
「勝ってくれよ。そしたら、僕もなんとかね、動き出すことができるから。君の頑張りは、僕に勇気をくれる。そしたら、頑張れて、僕は、君の友達のままでいられる」
坂田は閊えがとれたようだ。晴れ晴れとした顔をして、言った。
「玄、勝ってよ」
四人はその後、玄の家へそろって向かった。クリスマスらしいこともしようということでちょっと豪勢な食事をすることになっていた。
ちょうど家に帰り着いたころから、ちらほらと空から雪も降ってきたので、庭に面した大窓のそばに玄はテーブルを置いた。そこに雪が所狭しと華の料理を並べていくと、あっという間にテーブルは埋め尽くされた。なかなかに豪勢な食事会だ。
エプロン姿で、腕まくりの華が言った。
「腕を振るうたき、じゃんじゃん食うてよね。勝利の前祝も兼ねてるんやし」
「……奮発したなあ、華さん」
玄の言葉通りだった。
出された料理はローストチキンやハンバーグ、パスタもあれば鮨に刺身の盛り合わせ、餃子や炒飯、フカヒレスープまである。
「和洋中折衷ですね」
「まあ、クリスマスと言ってもどこの家庭もこんなもんじゃないかな」
坂田と田辺が感想をく。
「出前もしたき、高くついたけんど今日ぐらいはええやろ。ケーキもあるきね」
「食いきれるんじゃろか」
「残ったら明日にでも食えばいい。それよりグラスを持って。いくぞ」
玄がみんなを促した。
メリークリスマス!
五人が一緒に祝い、ソーダが入ったグラスの縁を当てた。
「こういう場合、シャンパンなんだけどな」
玄の言葉に華が怒った。
「いかん。梶さんがお酒は力を奪ってしまうって言いよったき。あの人も、三か月断酒しゆらしいで」
「そもそもあたしらは未成年じゃからのう。それじゃ早速、いただきます……うまー!」
「うるさいよ」
玄はそう言ったが顔には笑みが生まれていた。実際、華の料理は旨い。
「女としての敗北感を感じるよね。坂田、食べ過ぎ」
田辺が笑い、その横で坂田が黙々と食べている。
華は嬉しそうに満面の笑みを浮かべ料理をいそいそと小皿に移していく。
母がいなくなってから三年、この家に玄は華と二人きりだった。寂しい、というものはなかったが、静かな生活になっていた。
そこに雪がやってきた。彼女はこの家に吹き込んできた新しい風であった。
ただ肉体を鍛え、梶にけしかけられた金目当ての男たちを倒し、ゆるやかに年齢を重ねるだけだった玄に目的を与えた。
彼女がいなければ一週間後の試合もなく、まだ静かに鍛錬だけを繰り返していただろう。それが、変わった。闘い、勝利し、本当の意味で銀を背負う。
生まれ変わったようなものだ。生活は変わらないが、張りが生まれた。
自分の努力が一つのことに集約されていくのがどれだけ楽しく、嬉しいことかを玄は初めて知った。感謝をしてもしきれないほどだった。
そして坂田と田辺は友人でいてくれた。率直に言って、玄は二人以外に友達がいない。
愛想も悪く、頻繁に暴力を起こす。特に父を侮辱した相手には必要以上に痛めつけて怪我までさせてしまったこともあるのだ。なにより、自分には人間味がないと玄は思っていた。なにからなにまで、徹頭徹尾懸命にやりすぎている。娯楽もほとんどしない。日々の鍛錬も休んだ事はない。遊びに誘われても断り、ひたすら鍛え続けた。
異常。一般的な人間からはかけ離れたところにいる。なのに、坂田と田辺は友人でいてくれた。
そして華は、赤の他人でなんの義理も義務もない間柄であった。
それなのに、三年前から保護者となってくれた。それまで家政婦として六年間働いてくれていたが、それだけである。彼女はたまたま仕事として千葉家にいただけなのだ。それが、保護者になる。責任が違う。玄だけでなく彼女自身の人生にだって影響があるのだ。
三年前、彼女が実家の家族と電話で話しているのを聞いたことがある。男性に怒鳴られていた。恐らく父親だ。華は謝りながらも、頑として帰らずここに残ると言い続けた。
彼女はいつもこの家にいた。着飾って友人と遊ぶなんてことはなかった。ずっと、玄は華を縛り続けていた。もしそのことを謝ったとしても彼女は、おかしなことを言うと心から不思議な顔をするのだろう。
「玄君どうしたの?」
華に声をかけられた。玄があまり飯を食っていないから心配させてしまったようだ。
「なんでもないよ。雪、坂田、田辺、食べてるか」
「おお。当たり前じゃ。こんなうまいもん食わずにおられるか」
「僕も楽しんでるよ。どうせ家にいたら彼女でも作れって言われるのがオチだから、そんなこと気にせずにいられるのは気楽だよ」
「彼女は作らないのかい?」
坂田に田辺が意地の悪い質問をした。
「いじめないで。玄、何とか言って」
「彼女は作らないのか」
「楽しいか! いじめ楽しいか!」
「ぬはははは」
雪は楽しげに笑った。
「米粒飛ばしながら笑ってんじゃないよ。有名人なんだからスタイルぐらい気にしなよ」
「問題はないのう。運動量は半端ないからの」
雪は自分の手で胸とくびれをなぞっていき、美しいスタイルを強調する。
「まあまあ、それよりもじゃ、そろそろ渡さんのか?」
「ん、そうだな。華さん」
玄が呼ぶと、にこにこと四人を眺めていた華がぴっと背筋を伸ばした。
「なに? 変なものでも入ってた?」
「違います。こういうのは照れくさいんだけど、ちょっと待っててくださいね」
玄は席を外し、二階の自室に上がった。
すぐに戻ってきたが手には一つの袋を持っていた。
「梶さんに聞いたら、ファイトマネーを前借りできたから。その金で買った。華さん。メリークリスマス」
「ええ……ちょっと、えええ……?」
玄は袋の中から赤いリボンの掛かった小さな、黒い箱を取り出し、渡した。
華は思わず受け取ったものの、困ったようにその手の中のものと玄を交互に見つめていた。助けを求めるように雪に視線を向けるが、彼女はニヤニヤと笑っているだけだった。他の二人も同様である。
「あの、開けてもらいたいんですけど」
玄がそう言うと、華は震える手つきで封の役割をしていたリボンを解き、ふたを外して中のものを手に取った。
白い、蝶をかたどった髪留めが入っていた。
「雪に相談して、似合うかなあって思って買ったんですけど、どうでしょうか。気に入らなかったりしますか?」
「……そんな、そんなこと、ない。こんな、こんな」
華の声が小さくなり、途切れた。
ひっくひっくと嗚咽をもらし、目からは一筋、涙が流れていた。
「すごく、すごく嬉しいです。一生、大事にします。ありがとう、ありがとうございます……」
「いえいえ。日ごろお世話になっていますから」
華は玄の声を聞きながらぼろぼろと涙をこぼしていた。
「ええもんやのう」
二人の様子を眺めていた雪がぽつりとつぶやいた。
「一応、雪にも用意してあるんだけど」
「――びっくりじゃ」
玄は袋の中からもう一つ同じ箱を出して、渡した。雪は微笑を浮かべ、細工を扱うように慎重にリボンを外し、ふたを取った。
中身は、こちらも白い髪留めだった。シンプルなくちばし型。雪は、はあっと、感心しながらそれを手に取った。
「なかなか気が利くのう。ありがたく受け取っておくわ。でも困った。なあ華さん」
「あ、はい。なんでしょうか」
華は涙をいた。
「いや、なんのお返しも用意しとらんのよ。華さんはなんかあるんか?」
「それが、これはちょっと予想外やって、なんにも……」
「やっぱか。よし、ほんじゃあ、手っ取り早いもんにするかの。玄、こっち向けい」
呼ばれて、玄は雪に向き合った。その瞬間、ふっと雪の唇が玄のそれと重なった。
「ぬふっ」
「んな、」
「なにしゆがあ!」
華の怒声が響いた。玄はそれすらも耳に入らないほどおどおどしている。
坂田は小さな拍手をして田辺を見つめていた。彼女は小さく笑っているだけだった。
「なにって、キスじゃ。顔は好みやないが、こんぐらいはしてやれるぐらいは好きじゃからの。ありがたく思うんじゃな。おとんとおかん以外では初めてのものぞ」
「そそ、そ、それってファーストキスやないの。ええ、ええ……?」
「おもろいぐらいにうろたえとるの。二人とも」
雪が指摘したとおり、玄と華の二人はどちらも心ここにあらずといった具合だった。
玄はさっきから一言も意味ある言葉を発していない。華は、真っ赤になって玄の唇に視線を注いでいる。
「まあ、深く考えんでええわい。単なる手っ取り早いお返しじゃからの。で、華さんはどうするんじゃ?」
「わあ、わ、私、私はその、ええっと……じゃあ玄君、こ、これが私の精一杯……」
華は顔を真っ赤にし、小さな手で玄の頭をなでた。
雪が大笑いした。
「なんか、華さんは本当に三一かどうか疑わしくなるぐらいかわいいのう。で、玄は、初心にもほどがある。これはこれでかわいいの」
雪は玄を見やった。彼は酒を飲んでもいないのに全身を真っ赤にしていた。
九時も半ば過ぎると坂田と田辺は千葉家を出た。送って行こうかと玄は言ったが、二人は遠慮した。ゆっくりとくつろいでいろとのことだった。
片付けも終えて風呂にも入って、玄と雪が居間でのんびりと柔軟運動しながらテレビを見ていると、梶が出てきた。
「この人出てくるとまたいらんことやらかすんだろうなあと思う」
さて、今回はなんだろうと玄は見ていた。
番組内容は、大晦日まであと一週間とあって試合の宣伝がメインであったが、企画としては当日の試合のことではなく、プロレスの歴史にスポットが当てられている。クリスマスらしくない話題である。
プロレスにはスターがいた。最初のスターは、日本のプロレスを作ったと言っても過言ではない厳王という男だ。終戦から少し経った、テレビが一般に普及し始めた時代に現れた。卑怯極まりない手段を使う外人レスラーに正々堂々と立ち向かい、怒りの空手チョップでなぎ倒す。その姿に敗戦のショックがまだ残っていた国民は沸きあがっていた。
当時の映像を梶は紹介し、いかに強かったか、凄かったかを往年のファンであるゲストと力説していた。だが、その厳王は暴漢に腹部を刺されるという事件で急死する。七〇年代初頭だった。
その後、プロレスの人気は急速に落ちていく。厳王は絶対的スターでありすぎた。そのため、彼以外のレスラーはファンにとって、全員が厳王の引き立て役でしかない。そんなレスラーたちに憧れを持つものはいなかった。プロレス人気の復活は約十年後、梶の登場を待たなければならなかった。梶は驚異的な腕力で多くのレスラーを振りまわした。その長身もあって巨人サイクロプスなどと呼ばれたりもした。
彼はすぐさまスターになった。力任せな、豪快な闘い方もあったが、笑い顔が子どものようで、人好きのするものだったからだ。
プロレス以外の試合も流れた。それは異種格闘技戦だった。前代未聞の出来事として世界中継もされた映像だ。梶だけでなく、小柄のレスラーもそこにいた。それは、銀だった。
千葉銀がそこに映っていた。玄は目を大きく見開き、画面に釘付けになった。銀は、玄の父は、黒人ボクサーと烈しい殴り合いを繰り広げていた。徐々に、徐々に押していっている。玄はいつのまにか拳を強く握り締め、首に汗を浮かべていた。
しかし、映像は一瞬で終わる。
「このころは楽しかった! さっきも出たように異種格闘技戦もありましたからね! 梶さん以外にも活躍する選手もいて、本当にプロレスの最盛期でしたよ!」
複数のゲストが興奮した口調で語っていた。梶はそんなこともありましたねと呟く。
だが、九十年代半ば、梶は引退した。プロレスラーとして活躍した期間は他のレスラーたちよりもはるかに短かった。梶と同時期のレスラーの中には未だに第一線で活躍しているものもいるというのに。
「なんで引退しちゃったんですか?」
ゲストと番組司会者が質問するが、梶は笑顔のまま、言えないとだけ答えた。
その後、総合格闘技の話題になった。
梶の引退後、クロスするように注目が集まった。初めは有力選手のほとんどが外国人で、日本勢の戦績はたるものであった。それでも空手家など日本人にも馴染みのある競技の選手もいたので受け入れられていた。しかし、日本で人気を根付かせるには日本人が強くなければならない。絶対的スターの不在はプロレスの凋落を思い起こさせた。そこに日比野が現れた。
ここで映像が流れる。日比野のデビュー戦だ。彼は、ローキックとハイキックの連続りで、瞬く間に対戦相手を仕留めた。このとき高校生。鮮烈だった。
それから日比野は常にスターだった。負けなかった。勝ち続けた。
スタジオにカメラが戻り、ゲストの一人がおそるおそる梶に切り出した。
「見ただけでわかりますね。日比野炎、彼は、他の選手たちを頭一つ、越えています。この選手に、十六歳の少年をぶつけるというのは、やはり無謀だと思うんですが」
それはゲスト当人だけでなく、プロレスファンや格闘技ファンのすべてが聞いておかなければならないことだった。
梶はきっぱりと答えた。
「あの子は強い。技術や力やそんなもんじゃなく、根っこが違う。俺の尊敬する最強を受け継いだ子だ。日比野炎と闘っても、負けない。断言できる」
梶の言葉には芯がある。最強を受け継いだ。その言葉に、ゲストたちが驚き、感嘆して、その最強はやっぱり梶さん自身ですかと尋ねた。
梶は笑って否定して、語らなかった。まだまだ秘密ですと、最後まで口にしなかった。
最後に、司会者が玄は梶にとってなんなのかを尋ねた。
梶はつけて答えた。
「あの子はプロレスの、俺たちの夢」




