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日曜日の昼。私服姿の坂田と田辺の二人が玄の家の地下にやってきていた。中学のころから親しくしていた二人なので家に招いたことはたびたびあったが、このトレーニングルームまで見せたのは初めてだった。
「でかい家とは思ってたけど……こんなところあったんだ。田辺、知ってた?」
「知らなかったけど、ありそうだなあとは思ってた。だって上にはダンベルのひとつもなかったからね」
もの珍しそうに見回している坂田と田辺。特にリングを見つめていた。間近でこういうものを見る機会はないから仕方ないだろう。ふと、坂田が玄に振り返って尋ねてきた。
「日下部はどうしたの?」
「梶さんところで取材を受けてる。合気道のこととかの話をするとか。あと、人気が出てるんで写真も撮ってるんだと」
「やっぱすごい人気なんだ。田辺、女としてどう思う? この人気」
リングのロープに触ったまま田辺は答える。
「どうも思わない。だって、女としても憧れるもん。敗北感以前の問題」
「うちの女子もそんなんだよな。で、坂田、お前中学は野球部だったよな」
玄は、彼に転がっていた金属バットを渡した。
「そうだよ。ピッチャーがフォアボールしか投げないノーコンばかりだったからやめたけど。で? なぜにこんなものを渡すの?」
「それで俺をぶっ叩け」
坂田の額に汗が垂れた。田辺も振り向き、固まっている。
「正気?」
「なんなら突いてもかまわない」
「問題が違うよ。そうじゃなく、どうしてそんなことをする必要があるの」
坂田の戸惑いを無視し、玄は服を脱いでスパッツだけの格好になった。
大きい体だ。胸は発達した筋肉で前にせり出している。そのぶん腹が異常に細く見えるが、うっすらと乗った脂肪の下は内臓と骨を守る筋肉が集合している。
玄は坂田に背を見せた。首が、なかった。筋肉で隠れてしまっていた。
「いつ見ても、感動すらしそうになる身体だ。どうして、どう思って、ここまでやったのかってだけで、凄い。胸が高鳴りそう」
田辺はリングから離れて近くから玄の肉体を凝視する。どうもと玄は彼女に返し、坂田に言った。
「俺はよけるなんて器用なことはできない。日比野の打撃をこれ以上はないってぐらいに喰らう。だからな、受けておきたいんだ」
「打撃に慣れておきたい。そういうことなの?」
「そういうこと」
幼いころからやってきた。黒崎に殴られ、蹴られ、受けてきた。だからこそ多くの敵に打ち勝ってきたのだ。彼に比べたらほとんどの相手が小さく見える。
「スマートに、避けて、的確な打撃を与えて勝つなんてことは不可能だ。才能がない。喰らいながら、ぼろぼろになりながらやるしかない。さあ、やってくれ」
「坂田がいなかったら私がやってたんだろうね。おお、こわ」
田辺は壁際に下がっていった。
恨めしげに坂田は彼女を睨み、ため息をついて、素振りの要領で玄の背中に当てた。
「弱い。もっと強くやれ」
「……僕の気持ちも考えて」
「すまんな」
もう一度、今度は先より強かった。玄の背中が赤くなった。
「いいぞ。どんとこい」
「あとでなんか奢ってもらうからね」
坂田は背中だけでなく、足にも胸にも腹にもやった。打たれたところは赤くなる。
一時間もすれば肌色をしている箇所は見当たらなくなっていた。
「見てるだけで気分が悪くなる……」
田辺の顔色も青くなっていた。打ちつけていた坂田も疲労の色が浮かんでいる。
だというのに、玄の顔に苦痛は浮かんでいなかった。
「ま、まだやるの?」
「そうだな。少し休んでてくれ。柔軟をする」
それから玄はみっちり一時間ほど柔軟に費やした。
「次は、腕立てをするから俺の上にのってくれ。二人とも」
「……もうどこまでも付き合う」
「私もかあ……」
二人は抵抗しなかった。ちなみに坂田の体重は六〇キロ。線は細くとも筋肉は人並みについているので見た目よりは体重がある。田辺は軽いが、合わせれば百キロを越える。
それなのに、玄は二人を乗せたまま指立て伏せをした。
最初は五本の指で体を支えていたが徐々に数を減らし、最後には親指一本になった。
回数が五十を越えたころには汗が滴り落ちていた。結局、百までやった。
そのあとも腹筋、背筋、スクワットも坂田を背負って続けてやっていった。
「器具があるんだから使ったらいいじゃないの」
田辺が言ったが。玄は首を横に振った。
「あれは、もの言わんからな。それに、やばくなったらどければいいって思ってしまう。相手が人なら見栄を張って、そんなこといえなくなってしまう」
「僕はもうやめたいよ」
げんなりした坂田だった。慣れていないからか、まるで彼の方がトレーニングしていたかのように疲れている。汗もかいている。
「そう言うな。あとはサンドバッグを押さえてもらうだけ。それで準備運動が終わるんだ。そうしたら、今度こそ黒崎さんを倒す。それからは飯でも食べてけ」
「じゃあ家に連絡しておく」
「私もそうしよ。おいしいからね、華さんの御飯」
二人が連絡するのを見ながら玄は汗を拭き、オープンフィンガーグローブを嵌めた。
空中でぶんぶんと拳を振るう。とんとんとステップを踏む。
「ブーツはないんだ」
電話を終えた坂田が尋ねてくる。
「ルールでな。許されてるのはこういう格好だ。よし、やるぞ」
坂田はサンドバッグの後ろに回った。足を開き、やや前傾姿勢になる。
蹴りが飛ぶ。坂田はその衝撃に苦悶の表情を浮かべた。
「……くう。効くよ。玄のは」
「まだ大して強くもない」
玄は繰り返した。
蹴りだけでなく、もちろん殴りもした。サンドバッグを人体に見立て、急所を狙い、頭部、みぞおち、脇腹へと的確に打撃を打ち込んだ。
ひたすら、ただひたすら、繰り返した。
汗が搾り出され、足下で水溜まりになったころに、地下に新たな人物がやってきた。
「――ぬふっ」
わざとだろう。背筋がぞっとするような笑い声を出している。玄が入口を振り向くと、ノースリーブの花柄のワンピースを着た雪がいた。獣じみた笑顔を浮かべている。
「あら、かわいい格好。そんな服も持ってたんだ」
田辺が興味深げに雪の服装を見つめた。
「ぬふふ。今日の取材で写真を撮られたんじゃよ。これでな。で、衣装をもらった。綺麗じゃろ」
「綺麗だけど、寒くない?」
「寒かった。えらく寒かった。もう十一月も中旬やのにこれはきついわ」
ぶるぶる震えて両肩をさすっている。雪はそんな仕草も絵になる。
玄は酷使した二の腕をもみほぐしながら彼女に話しかけた。
「黒崎さんは?」
「来るぞ。あたしは走ってきただけよ」
そう言ってすぐだ。ジャージ姿の黒崎がテレビ局のスタッフを率いて降りてきた。カメラがあり、玄に向けられている。
「どうもどうも。玄さん。準備はできているようですね」
「……はい」
玄は小さく頷いた。顔が自然と引きしまっていた。
「それじゃあこっちの準備運動が終わったらやりましょう。今回、玄さんが勝って、長年の師を越えた日。そういう演出ってことですから。ですよね?」
黒崎はスタッフに確認した。玄は小さく笑う。負ける前提で話しているが、まったく手を緩めるつもりはないだろうとわかっているのだ。
そんなことをされては困るのだが。玄も。
黒崎はしっかりと柔軟をする。軽くジャンプもし、体を温めていく。
「黒崎さん。今日は勝たせてもらいますから」
「そうしてください。あなたは、強いんですから」
リングの上で黒崎と向かい合う。玄はまっすぐ黒崎を見つめている。
それに何かを感じ取った黒崎は、嬉しそうに笑った。
「玄さん。やる気になりましたね。立派です。さあ、私を圧倒してください」
「……はい。いいですか。必死に、いきます」
「来てください。今日が卒業です」
卒業。その言葉で、玄の脳裏に黒崎と過ごした日々が走馬灯のように駆け巡った。
走った。鍛えた。殴られた。体が赤くなった。子供の身ながら血の小便が出た。
技を教えられた。打撃。関節。締め技。
黒崎という男は、玄がその技を己の血肉にするのに根気よく付き合ってくれた。
自身の仕事の多忙さなど微塵も感じさせず、熱心だった。兄のような男であった。
そいつを、今日、越える。
熱いものが盛り上がってくる。
「黒崎さん、いきます」
玄は身を低くし、構えた。亀の構え。
玄にはこれしかない。こうするしかないのだ。防御の技術を覚えたところで手が追いつかない。フェイントに何度も引っかかる。
だから、捨てた。痛みに耐える方法を選んだ。その選択はよかった。あらゆる技を喰らいながらも前に出てしがみつき、喰らいつき、離さず、倒す。執念を絞り出す闘い方。痛みは来るとわかれば耐えられる。己の間合いまで我慢をすればいいだけなのだ。
歩き出した。じりじりと間合いを狭めていき、止まった。
ギリギリ、足を目いっぱいに伸ばしたら当たるというところ。リーチを把握していなければわからない、微妙な距離。
威力のある打撃には適切な間合いが必要。届くだけでは半減どころではないのだ。
玄はそこに踏みとどまり、首を前に出し、誘った。一撃で意識を刈り取れるぞと。
黒崎は舌なめずりをした。
だん、と、玄が大きく足を出すこともあった。黒崎はその都度、身体を震わせていた。
もはや、これまでの二人の闘いとは大きくかけ離れていた。
玄の心には遠慮があった。親しくしていた、尊敬すら抱く相手に対して、理性ではどうにもならない手加減があった。今はない。あの体育館での闘いで、自己を再確認した。
負けられない。負けたくない。死んでも負けたくない。
俺は――勝ちたい。千葉玄として、死んでも勝つ。誰が相手であろうと。
玄がさらに身を低くさせた。いまから、出るぞ。
口に出さなくとも姿勢でハッキリと言っていた。
黒崎もそれを見てわずかに身を低くする。
玄の体勢からタックルだと判断したのだ。それを堪え、上から押しつぶそうというのだ。
彼の考えは、当たっていた。玄は馬鹿正直に走った。だが、だからこそよかった。
黒崎も、まさかなんのフェイントもなしに来るとは思いもしなかった。そのため僅かに動きが遅れた。蹴りはすれども間合いが縮まりすぎていた。玄は黒崎の太ももを捉えた。
そのままロープに逃がさず押し倒す。
マウント、今回はひっくり返されずに玄が上になる。黒崎の太い脚に胴体を抱え込まれるが、構わず拳を振り下ろす。
容赦しない。これはもう、生死を越えた殴り合い、殺し合いだ。
殺す。殺される。それでいい。
殺されて、殺す。それでいい。
必死。
必ず殺すと書いて必死。
必ず殺されると書いて必死。
己を殺し、敵を殺す。故に必死。
何度も殴っていると、黒崎の鼻から血が出た。なおも顎を、コメカミを打ち、ダメージを蓄積させていく。だが、黒崎もされるがままではなかった。彼は以前に玄がやったように、打ちつけてくる拳を掴んだのだ。
このまま三角絞めに移行するつもりだ。玄は瞬時に察知。力で敵わないのだから、それをやられたら振りほどくことが出来ない。
集中する。集中して、玄は黒崎が脚を上げる瞬間に合わせた。
タイミングを合わせるには早さが必要だった。それはある。もはや反射といってもいいぐらいに素早く、黒崎が脚をほどいたところに合わせた。
玄は全身のばねを使って黒崎の巨体を振り上げ、投げた。一瞬だけであれば可能だった。
リングを滑る黒崎に即座にタックルする。間を置かない連続の行動に肺の空気が空っぽになって喉が焼けつきそうだったが、止まらない。
ここで、仕留める。
玄は黒崎の左腕を抱え込んだ。愛する女にするように熱烈に、離さず、引き寄せ、右脚を彼の胴体にかけた。
逃さない。左脚を首にかける。両脚で黒崎を固定し、思い切り腕を引っ張る。
体重の乗せ方、足の使い方、教えられたとおりに動いていた。
玄は、黒崎を乗り越え、十字固めを極めた。
黒崎の肘は曲がってはいけない方向に力を加えられた。
折れる。激痛。
「あああああああ!」
痛みによる叫び。黒崎はリングを二回、強く叩いた。
ギブアップ。玄の勝利だった。
◯
黒崎は局のスタッフたちの撤収を見届けてから、スーツに着替えて千葉家を離れ、あの廃校にやってきていた。リングのある体育館に入る。
玄は変化していた。僅かだが決定的ななにか。それはおそらく、いま黒崎が見ているものが原因だった。彼の視線の先、リングの上には影がある。それは黒崎の網膜にこびりついた記憶だ。小さい影と大きな影との闘い。黒崎はそれを見て梶の夢に付き合うことにしたのだ。
「本当に、本当に強くなりましたねえ。銀さん、もうすぐですよ」
黒崎に敗北感はない。満たされた気分だった。
目を閉じると流れていく。玄を鍛えた日々。小さく、弱かったのに、徐々に、徐々に、一歩ずつ、将棋の歩のように進んでいった。技術は拙く、力もずば抜けて強いわけでもない。一つ、執念。執念だけで、才能の壁をぶち破ろうとしている。
楽しい日々だった。これからは、コーチとは違う形で支えていく。それを考えると寂しくもあった。極められた左腕をさする。靭帯は伸びきっておらず、骨にも異常はなかった。
「銀さん。あなたとは一度会っただけでしたが、玄さんは私の弟です。自慢の、弟です」
そう言って黒崎は深々と礼をして、体育館を出た。
玄は闘いが終わったあと、ぐったりとリングの外で横になり、華が用意したタオルケットを被ってじっと目を閉じて眠っていた。彼のそばには坂田と田辺、雪と華の四人がいる。
長い時間、誰も口を開くことなく静かな呼吸だけが地下に満ちていたが、その沈黙に耐えかねたのか坂田が雪に尋ねた。
「だいぶ疲れてるよね。実質動いたのは五分くらいだったのに。どうして?」
雪が答えた。
「あんな闘いをしたんじゃ、こんなんになるのも無理ないの」
「そう? 玄君、これまでも喧嘩ならそれこそ星の数ほどしてきちゅうに、初めてやよ」
華が首をかしげる。雪は満面の笑みを浮かべながら言う。
「単純な運動量の問題やないんじゃ。腹の中身を全部燃やし尽くしよった。熱い、こっちの肉が疼く、いい闘いじゃったのう。大晦日が待ち遠しいわい」
「私は、あまりこういうことをやってほしゅうないがやけどねえ」
華は小さな手で、玄の額をなでながらつぶやいた。こそばゆいのか玄のまぶたがわずかに動いた。
「可愛いのうって、顔をしとるぞ。華さん」
雪にそう言われた華は、顔をほころばせていた。
「そうなん?」
「そうじゃよ。坂田と田辺はどう思った?」
急に話を振られ、坂田は目をしばたかせる。
「どうって、まあ、可愛く笑ってましたね」
「うん。私も同意するね。ほんと、かわいらしかった。そういえば、私と坂田は知らないから聞くけど、お二人はどういう関係なの?」
田辺にそう尋ねられ、華は困ったような、それでいて嬉しそうに笑った。
「そうやね。私と玄君は、まったくの赤の他人なの。それでも、今になるとこの子にとって、私や梶さん、黒崎さんが家族なんよ。詳しく、知りたい?」
三人は頷いた。華は玄の額をなでた。
「この子のお父様、千葉銀さんがこの家を建てたゆうんは知っちゅうろ。アメリカと梶さんとこで稼いで貯めたお金で建てたがよ。玄君が生まれてすぐのころやよ。でも、数年で病気になって、十三年前に亡くなってもうた。それから玄君とお母様、二人だけの生活になってもうたがやけど、それから四年後、玄君が学校に通うようになると、お母様はこの広い家で一人残されるからって家政婦を雇ったんよ。それが私」
そこまで言って、華は深呼吸した。
「すいません。お水、もらえますか」
「どうぞ」
坂田がペットボトルのスポーツ飲料を渡した。華はそれを小さな口で飲んだ。
「私ね、高知の方の出身ながよ。高校卒業して、こっちの短大で保育士の資格を取ってから働きよったがやけど、不器用やってねえ。よく怒られよった。それでも一生懸命に働きよったがやけど、数年で廃園になってもうたん。それから、実家に帰るって選択もあったがやけどね、あれよ、親に養ってもらうのが恥ずかしかったがよ。子供やったんね。最初は別の保育園で働こうと思っちょったがやけど、募集がなくて、家政婦斡旋所に登録したの。もうなりふりかまってられんかった。意地やよ。意地」
「……意外と考えなしじゃったんやの」
雪の言葉に華は苦笑いを浮かべた。
「で、まあ、ここにやってきたがやけど、さっきも言うたけんど、そんころの私はそりゃあもう不器用やった。へまをすごくして、お皿も何枚も割ったがよ。でもねえ、お母様は笑って許してくれたの。あとから聞いたんやけど、斡旋所に注文したんよ。なんでもそつなくこなす器用な子だと、自分のすることがなくなるからって。やから、私みたいなんを選んでくれたの」
「あのちょっと聞いてもいいですか?」
坂田が華の話を遮った。
「なんですか?」
「華さんは元々保母さんだったんですよね。それで、千葉銀が亡くなってから四年後、つまり九年前に家政婦としてここにやってきた。計算すると、華さんの歳が、その、えらいことになるんですが」
坂田の質問に、華は目をぱちくりとさせて答えた。
「あら、えらいことになりませんよ。私、これでも三一です」
坂田は言葉を発しなかった。代わりに目を丸くして驚いている。
田辺も華の全身を上から下まで穴が開くほど見つめた。信じられないといった顔をしている。
「童顔じゃな」
雪があっさりそう言うと、華は眉間に皺を寄せた。
「わかっちゅうよ。お母様も、最初は私をどこの中学生だって思っちょったから。実質そのころからちっとも成長しちゃあせんし、ちょっとしたコンプレックスやよ。でも、これのおかげで玄君とは仲良うなれたんよ。運動の方面は黒崎さんやったけど、勉強は見てやれた。ああ、でも、『華ちゃんはどこの学校に通ってるの?』と聞かれたときはとっても傷つきましたけどね」
華はそっと手を伸ばし、玄の頬を摘んだ。とても怒っているような表情ではなかった。慈愛があふれていた。
「でも、それも三年前に終わっちゃったんですよね。お母様までもが癌にかかって、この世を去ってしまったんです」
「それから、よく続けられましたね。玄のお母さんがいなくなっても面倒を見るって、世間体とかあるじゃないですか。なんか、不安にならなかったんですか?」
坂田の問い。華は微笑を浮かべたまま否定した。
「そういうのは特になかったね。世間体言うても、それまで六年間一緒にいましたから近所さんとは仲良くさせてもらいゆう。それに、玄君を、放っておけんかった。お父さんも、お母さんもおらんなったがで。黒崎さんらあだってずっとおれるわけやない。それに、愛情もある。玄君には、健やかに育ってもらいたかった。私の実家は、いい顔をせんかったけどね。それから今まで、ほぼ三年間、なんとか平和に暮らしています」
華が玄の頬に手を添える。そうすると、玄の顔はたちまちほころんだ。体温を感じ、安心しているのかもしれない。赤子のようだった。
田辺が呟いた。
「玄はいいお姉さんを持ってるね。私もほしかった」
「そうじゃな。こいつはまったく、愛されとるのう」
ぬふ、と、雪は笑った。
それを見て、華も照れくさそうに笑った。指先を玄の額に持っていき、優しくなでた。
「雪ちゃん。さっき、私が玄君を愛しちゅうて言うたけど、なんでやと思う?」
「なんでって、さあ。あたしにゃわからんよ」
「すっごく普通のことやよ。玄君はね、お父様のことしかないの。子供のころから一直線に千葉銀を越える道を走りゆうの。他の道には一切興味がない。不器用やよね。柔道、空手、どれでもそこそこいけるのに。お母様はそこが心配やった。いつか、大怪我をするんじゃないんかって」
華が少し、目を潤ませていた。雪が言う。
「もしかしたら、今度の試合が、そうかもしれんの。大怪我どころやなく、玄は何もかもを失うかもしれん。言うてしまえば、死」
その言葉を聴き、坂田が言った。
「玄は、そういうことを覚悟してるよ。とっくに。この前、勝たないといけないから勝つ。なんてことを言ってたんだ」
華は目じりを服の袖で拭き、小さくほほえんだ。
「そうやよね。玄君は、自分が自分であることに存在を懸けちゅうがよ。だからね、私は玄君を愛している。不器用で、懸命で、がむしゃらで、ひたむき。魅力がある人はそういう人なんよ。たぶん」
聞いていた三人は顔を紅潮させ、少し、笑った。




