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梶翔の復帰戦となる、大晦日の総合格闘技大会の報道は、日に日に大きくなっていった。
テレビメディアで言えば、大会の詳細も含めて伝えるのは、梶の復帰第一報を知らせた『スポーツクラッシュ』を擁し、大会中継を担当する放送局だけだったが、同局の他のスポーツ番組でも特集が組まれた。また、梶は人気タレントでもあるので現役復帰というニュースは普段は格闘技の話題など放送しない各局ワイドショーでも大きく取り上げられていた。加えてスポーツ新聞は格闘技面と芸能面で情報を載せ、格闘技専門誌でも記事として取り上げられ始める。
その報道の中で、東京の外れに住む無名の少年は、一躍全国で知られる存在となった。
梶が「玄」と呼ぶ少年が、体重差二十キロもあるキックボクサーを一撃で仕留め、たとえ一歩であろうと『炎の男』を退かせた。人気タレント、いや、レスラー『梶翔』の秘蔵っ子の存在は、格闘ファンの耳目を惹いた。
しかし、最初のジムでの公開スパーリング以降、玄の周辺に特に変わった様子は生まれなかった。取材は全て黒崎の立ち会いの下で行われ、玄は連れ出された先で用意された相手と闘ってみせるだけ。未だインタビューすら受けたことはない。
その代わりなのかどうかは知らないが、これまで玄を鍛えてきたものたちのコメント映像が紹介されていた。後で聞いたら、梶サイドから提供されたものであったそれは、町の空手道場や学校の柔道部の師範のものだった。異なる二つの武道の指導者からのコメントであるにもかかわらず、どちらも玄への評価は共通していた。
「彼から一本取ることはできる。けれども、参ったを言うのは、こちらになる」
空手、柔道、そのルールに従った闘いをするのであれば、玄はさほど強くはない。しかし、一本で終わるものでなかったのなら話は違うと、どちらも同じことを答えた。
不思議なことに、それ以外に玄の実像に近づくような情報が表に出るようなことはなく、テレビでも週刊誌でも父、『千葉銀』の名前すら出てこなかった。
それは梶が何らかの思惑で策を弄したのだ。もちろんそれは玄にもわかっていたが、その工作自体があまり必要ではなかったかもしれない。
大晦日の大会出場者でいま一番大きな注目を集めているのは、梶でも日比野でも、ましてや玄でもなく、日下部雪だったからだ。
一連の報道で全国の人に顔を見せた雪は、見事に話題を浚った。もともと「モデルのような」「アイドル顔負け」などといった言葉では足りない別次元の、人間離れした美しさを持った彼女だったが、そこに「格闘の天才」の称号が加わった。
日下部雪は軽やかに、煌びやかに、大の男を一蹴した。その姿は日本中を魅了する。マスコミや世間の注目は彼女に集中した。おかげで玄は集中して鍛錬に励むことが出来た。
十一月上旬。平日の夕方に玄は家の地下のトレーニングルームで黒崎と向かい合う。今日の彼はスーツ姿ではなく、動きやすいシャツとスパッツの姿だ。サングラスも外されていて、優しげな垂れ目が現れている。
玄と彼との付き合いは長い。十年以上にもなる。玄が外で覚えてきた技術の反復練習に付き合い、彼自身もレスリングなどの寝技を熱心に教えてくれた。打撃ではノックアウトされることは少ないが、寝技で関節技や絞め技が極まればそこで終わってしまう。なにより勉強になったのは体格差だ。それを克服する特効薬はなくても、幾度も繰り返すことで、黒崎は玄を慣れさせた。
黒崎の指導は厳しかったが、一方で怪我をさせず、余計な疲れも残さないようにと気配りを怠らずにいてくれた。厳しさと優しさを常に持って玄に接してくれた。
「玄さん。勝ってくださいよ、そろそろ」
黒崎は軽い柔軟をしながらそう口にする。
彼は背が高く、全体的にしなやかな印象を持っていたが、体格はがっしりとしていて肩幅は広く、太ももは内側からパンパンに膨れていて大きな腹も割れている。玄も詳しくは知らないが、元は梶の下にいたレスラーであったという。リングに上がることをやめてからもメンテナンスを怠っていないその肉体は、並みの格闘家以上に造りあげられている。
玄はそんな彼と今から闘うのだった。
彼の構えはプロレスラーというよりもキックボクサー。
背筋を伸ばし、いつでも打撃を出せる形。それがしっくりきていた。仮想・を演じるために研究してくれたのだろう。
玄は頭の脇に両腕を添えて、身を低くしている。
脳震盪にだけ気をつけ、他の箇所は最初から捨てた亀のスタイル。
それでじりじりと間合いを詰めていく。
ある距離で黒崎がローキックを打ってきた。玄は左足に衝撃を感じる。筋肉がそれを分散しきれないため鈍い痛みと痺れが生まれた。
それでも前へ行く。まだ届かない。前へ、前へ、前へ行く。
黒崎のロー、ミドル、ロー。玄は受け続けながら足を進める。徐々に近づく。
ある程度距離が狭まるとパンチになる。
ストレートで距離を作ろうとする。容赦はない。鼻が潰れて血が出た。
ここに来たら玄の打撃も届く。力が入るちょうどいい距離。
玄はローキックを打つ。黒崎は足を上げてガードする。
何度も蹴る。蹴って、蹴って、蹴って、蹴りまくる。ボケっと突っ立っているわけではない。黒崎は逃げながら打撃をしてくるが、玄が深く踏み込みながら蹴るのだ。
そうしていたら距離がいつのまにか縮まっていた。
黒崎はフックを混ぜ始めた。それだけ近いということは玄の手も届く。
腹を殴った。顔を殴った。蹴りもやめない。すると、今度は黒崎の方から接近してきた。玄の首に手をかけ、顔面に膝を入れてくる。痛い、が、ここからだ。
玄はマットを蹴って黒崎にぴったりと密着した。
腰を掴み、打撃の威力を殺す。そこから動いた。
玄は黒崎を左右に振って、足を掛けて、押し倒そうとした。
黒崎は踏ん張る。玄が右に振れば左に足を出し、左に振れば右に足を出す。前に走ろうとすれば体重を掛けて押しつぶそうとしてくる。
引っこ抜いて投げようとすれば適度に力を抜く。
体重差のせいもあるが黒崎は巧みであった。肩に肘を打ち下ろしてくる。
玄も脇腹に打撃を当てるが効果はなかった。肩が痛み、腕が痺れるが諦めなかった。
素早く身を低くし、黒崎の左足を掴んだ。
「くっ」
黒崎の声。片足では立ち続けることはできない。人間はそういう風にできている。何度か揺さぶるとあっさり倒せたがここからが勝負。
玄は上になったまま膝の関節を極めようとしたが黒崎は力で抜け出し、逆に上に回ってくる。馬乗りになられる前に彼の胴体を玄が脚で抱え込む。
「やりますね。玄さん。しかし、ここからどうします」
黒崎は上から拳を振るってくる。玄はその拳を受ける。受けて、受けて、掴んだ。脚を振り上げ黒崎の肩と首とを抱え、締め上げようとする。柔道の三角絞めだ。しかし、黒崎は咄嗟にもう片方の手で玄の脚を押さえていた。極まっていない。
黒崎は玄が掴んでいた腕を一気に引きぬいた。玄の反応が遅れてしまった。ひと月の修行で早さを手に入れたはずなのに。
黒崎は胴体を引き起こし、玄の片足を抱え込む。そのまま態勢を変えて関節を極められた。
逃げられない。試合ならこれで決着だ。
「まだ終わりませんよ」
「わかってます」
関節を離され、再び闘いが始まった。
玄は黒崎にあらゆる関節を奪われた。手首、足首、肘、膝、肩、指。
首も絞められ、意識が落ちる寸前まで持っていかれた。激痛と恐怖を味わった。
玄はそれでも食い下がった。ギブアップをしない。いや、できなかった。
黒崎は言った。
「いつまでやりますか?」
「いつまでも、いつまでもやります」
この日、玄は勝てなかった。
◯
学校での昼休み。玄は坂田や田辺らとの食事を終えて一休み。雪は友達と食堂だ。
「ねえ、玄君や。日比野に、勝てるの?」
唐突な坂田の問いに玄は視線を宙に向かわせ、つぶやき始めた。
「相手の体重は八八キロ。身長は一八七センチだ。向こうのほうが高くて重い。打撃を受けたが速さも重さも今まで相手にしてきたのと段違い。しかもまだまだ本気じゃないだろう。そこを競ったら完敗。それに試合の経験は俺にはない。負ける要素が多いな」
不安要素の数をどこか得意気に玄は語った。
心配そうに田辺が玄を見つめてくる。
「私は今から心配になってきたよ。大丈夫?」
「大丈夫と聞かれてもなあ」
「ぶっちゃけ、だめだよね。なにか、せめて一つぐらいはいい材料はないの?」
「これがな、俺が銀の息子だってくらいなんだ。はっはっは」
腕を組み、妙に自慢げに玄は言ったが、なんの答えにもなっていなかった。
坂田と田辺が呆れながら返す。
「ゼロって言うんだよね。勝てないよね」
「いんや、勝てる」
言い切った玄。坂田は眉を八の字にした。田辺も瞬きを繰り返し、坂田とともに尋ねた。
――その心は?
「単純に、負けられないからだ」
さすがに二人は次の言葉が出てこなかった。玄は頭を掻いてから続けた。
「銀の息子っていう立場だからな。負けられない。負けられなかったら勝たないといけない。勝たないといけないのなら、勝つ。だから勝てる」
玄のそれは、理屈どころか屁理屈にもならない言葉だった。しかし、彼の異常さを長い年月見続けてきた坂田と田辺には重いものだった。坂田の首筋に鳥肌が立っている。田辺も瞳を潤ませている。
「玄、君って、昔からそうだよね。といっても中学からしか知らないけど」
「そうそう。無理な事にぶつかっても、逃げるなんて選択はしない。だから八十点なんだよね。玄ちゃんは」
「そう言われても、俺がお前たちにどう映ってるのかなんてわからないんだが」
「なんて言うのかな」
坂田が上手く言葉が出てこなかったようだが、田辺が言った。
「君は、超然としていて、周りに囚われていなかった。気にしていなかった。なんていったらいいのかな。こう、がーっと、前だけしか見てないんだよ」
「そんなのいっぱいいるだろ」
田辺は否定した。
「違うよ。視野が狭いって言うだけなら、たくさんいるんだけど、極端なんだよ。とんでもなく。人を好きになったりしても、とにかく、前だけ。鍛える。強くなる。それだけ。もうさあ、修行僧みたい。悟りを開こうと滝に打たれるお坊さん。それも、延々と。溺れかけて、死ぬまで。ずっとそんなんだろうね。よくさ、言うじゃない。未来には無限の可能性があるって。でも、君は違う。君は、一つしか可能性はないし、他に進むつもりも端からない。その道は、かなり危ういのに。一度躓いたら、多分、終わり」
「そうだなあ。本当に、玄は危ないよね。ハラハラする。君の場合は負けたら終わり。だから、逃げた方がいい。でも、君は、向かっていく。終わりだから、勝つって」
負けたらそこで終わり。だから勝つ。勝てる。
楽観的なのではない。覚悟が違うのだ。
「なんでそんな思考回路なんだ?」
坂田が尋ねると、玄は答えた。
「さあね。理由なんかあるんだろか。しゃあないよ。こんな性格に生まれてしまったんだから」
「もし、仮に、玄が千葉銀の息子じゃなかったらどうだった。普通だったと思う?」
「それはない」
――その心は?
また二人が同時に尋ねた。
「俺は、銀に憧れているから。息子だからじゃなく、その闘いに感動して、銀に成りたいって思ったから、こうなったんだ」
玄は目を瞑り、銀の姿を思い出そうとした。
鮮明な映像を脳裏に描く事ができる。それはビデオのものだった。
梶が山のように用意してくれていた。それを母と華とで何度も見ていた。
銀の闘い方は徹底していた。受けて、受けて、受けて、倒す。
不細工な闘いだが、それでも勝利した。
窮鼠猫を噛むなどというものではない。鼠が、猫を食い殺した。才無きものが才有るものを倒した。
アメリカでも日本でも、ずっと銀はそうしてきたのだろう。とにかく耐えて、追い詰められながらも、最後に立っているのは銀。彼の試合は全てそうだった。もうちょっと要領よくすれば、少しは人気もあっただろうに。まったく、頑固にも程がある。
あるとき、梶はこう言った。
『俺と銀は巌王に憧れ育ってきた。玄も俺たちのプロレスを見て育っているんだな』
「ああ……」
玄の脳裏に、大勢の人間がよぎった。
日本のレスラー、海外のレスラー。そしてファン。
銀はそのものたち、プロレスそのものなのだ。 銀を背負うということはそのものたちの想いも背負うことになるのだ。
「坂田、田辺。なあ、やっぱりあれだ。負けられない。銀の息子だもんな。憧れってのもあるけど、息子としても、負けられないんだ」
「……」
「どうした?」
反応を示さなかった二人に玄はもう一度声をかけた。
坂田が目を見つめながら尋ねた。
「時々それから逃げたいと思わないのかなって。息子であることが嫌になったりしないの?」
「ならんな。あのな、坂田。俺はな、銀が好きなんだ。好きだから、銀を背負うことも、気にならないんだ。むしろ嬉しいんだ」
好き。憧れ。ごく単純な感情。
ビデオだけでなく、玄は銀のプロレスを生で見たことがある。それはひどくおぼろげな記憶。場所はどこかよく覚えていない。観客はおらず、薄暗かったように思えた。
闘っている相手は大きな男。玄は、追い詰められていた。
何度も倒された。殴られ、殴られ、殴られ、倒れた。それでも何度も立ち上がった。
ぼろぼろになろうとも、闘う姿。それが、実に格好良かった。
「あれだな。惚れた弱み?」
ふざけた言い方をする玄に田辺は表情を崩して言った。
「まったく、なんだいそれは。実の父親に惚れるのはだめだよ。玄ちゃんを好きになる人がかわいそうだろ?」
「好きになる人ね。お前は俺の恋愛戦績を知ってて言っているのか?」
「三戦三敗。あれ、千葉銀の息子だから勝たなきゃいけないんじゃなかったのかい?」
ニヤニヤといやらしい笑みで田辺は玄に尋ねた。
「いじめるな。俺をいじめるな。ああもう、思い出させるな。よりにもよって『頑張りすぎてて気持ち悪い』なんて断られ方だぞ。しかも三人が三人ともだ。おか、おかしいだろ! ぜって、ぜってえおかしいって! なんか、なんか他になかったのかよ!」
「女を見る目がないんだよ。まったく、なんでそんな女なんか好きになるのかな。きっと応えてくれる人はいたはずだよ」
したり顔で田辺が言ったところで、坂田が吹き出した。玄はふて腐れてしまった。田辺はその反応をおかしそうに見つめている。
「まあまあ、それで、これからどうするの? 日比野に勝つためには、それだけじゃあダメでしょ?」
「わかってるよ。当面は黒崎さんを倒す。だけど、何故か倒せない。正直、あの人を倒せないと、どうにもならないんだけどなあ。もっと、もっといけるはずなんだけど、どうしてか、黒崎さんを倒せない」
「一歩ねえ。だったら、一日ぐらい、休んだら? 闇雲に鍛錬しているだけだと、どうにもならないだろうし」
田辺の助言を聞いて、玄もうーんと考える。どうせやるとしても、彼女の言うとおりやることといえば自主トレだけだ。
なにかヒントがいる。一日ぐらい、それを探した方がいいかもしれない。
学校が終わってから早めに食事をとって、ジャージ姿でランニングに出かけた。
ゆっくりと秋風を受けながら走っていく。頬が冷たくなる。一定のリズムの自分の足音を聞きながらぐるぐると黒崎の言葉を反芻する。
先日闘った時、彼はこう言った。
『やる気を見せてください』
玄は、十分やる気だった。本気だった。腕を取り、足を取り、関節を極めようとした。
それでもまだ足りない。心構え。どこが違うのか。
違うところなどあるのか。
坂道を下り、長い道路を走り、高校を行き過ぎ、山に入った。
どこにいくか決めていたわけではなかった。暗闇の中、足が向くままに走っていた。
無心のまま走り続けて、たどり着いたのは、あの小学校だった。雪と二度目の対戦をした翌日、黒崎に連れてこられた場所だった。
時計を見ると、すっかり遅くなってしまっている。街灯がないので辺りは真っ暗闇だったが、廃校でも電気は通っているようで非常灯が点いている。それでどうやってここまで来たのだろうかと、玄は自分でも不思議になった。
どうしようもない。どこか、明りの点いている民家で電話でも借りるしかない。けれどその前に、玄は誘われるようにその学校に入った。鍵がかかった校門を乗り越えて、体育館の前まで歩いて、戸に手を掛ける。そこに鍵は掛かっていなかった。
玄は中に入った。途端、感情が、得体の知れないものが、熱気となって玄を襲った。
首筋に汗を浮かばせて、窓からさす月明かりに照らされるあの日のままのリングを眺めている。すると、二つの影が現れた。
玄は目をこすり、もう一度、今度は注意深く観察した。
なにもない。誰もいない。
大きな影と小さな影が動いていたように思ったのだが、錯覚だったようだ。
もしくは、この前よりももっと昔に、ここでその闘いを見ていたのかもしれない。
そのまま帰ってもよかったのだが玄はそういう気にならず、リングに上がっていった。
梶の部下か誰かによって手入れがされているのだろう。よく見れば随分と年季の入ったもののようだが綺麗なものだ。
スプリングも効いている。
なぜこんなものがあるのか。
ロープが三本なためプロレス用のものであるとわかる。では、ここで誰かがプロレスをやったのか。やっているのか。
それともやる予定があるのか。
靴を脱ぎ、裸足になった。
玄はコーナーポストに背を預け、ひと呼吸してから中央に歩んだ。
身を低くし、両手を頭に添える。
亀。打撃を受けると覚悟した構え。
相手は、いないはずだった。
だが、いる。
玄の目には小柄な男が映っていた。さっきの影の、小柄なほうだ。
誰だこれは。見覚えがある。思い出そうとするがそんな余裕は持てない。
目の前の男は玄を殺す気だ。誰だかわからなくともそれだけはひしひしと伝わってきた。
闘わなければならない。でなければ殺される。
理由はわからなくても殺されるときは殺される。殺すときは殺す。
闘わなければ、この、見覚えのある男と。死んでる場合ではないのだ。
玄がソバットを放つ。男の胸に命中し、吹っ飛ばす。
ロープに振られた男は戻ってきて、ソバットを返してきた。
腕のガードごと後方に飛ばされたが、玄はロープの反動を利用して男に殴りかかった。
空手の突きも蹴りも繰り出した。
ところが、男は亀になってその攻撃に耐えていた。玄と同じ構えだ。ますます混乱する。
そうして玄が疲れたところを狙い、片腕を伸ばしてきた。
喉輪だった。がっちりと五本の指が喰い込んできた。
玄は呼吸が苦しくなった。痛みがあった。
相手は亡霊と呼んでも差し支えない。そんなことは関係なく、強い。
自分を捕らえているこの手を振りほどけない。そう長くは耐えられない。
玄は跳びあがり相手の腕に足を絡ませた。
しかし、そのときを狙っていたかのように、キャンバスにたたきつけられてしまった。
ダメージは大きい。玄は大きく咳き込み、逃げるように転がった。
起き上がったら、今度は蹴られた。玄はまた転んだ。鼻血を流していた。
負ける。その言葉が玄の脳裏を過ぎり、逃げればいいという考えが思いついた。こんなわけのわからない死に方をしてどうする。年末に大きな闘いが待っているのだ。
しかし、ロープ際まで玄は下がって、そこから彼は立ち上がって、前のめりになった。
リングから飛び降りて外へと逃げるべきだ。玄の、人としての本能がそう叫んでいたが、彼が積み重ねてきた「千葉玄」の部分が、気づかせてくれた。
死にたくはない。こんなので死にたくない。だが、銀に憧れる銀の息子として、千葉玄として、死んでも越えてはならない線がある。その線が、このリングのロープだ。
敗北。負ける。負けた。そんなことになっては、いけない。彼は「千葉銀」の後継者である「千葉玄」であるのだ。
死んでも負けない。死んでも、勝つ。
「ぅぅ、ぅううあああ!」
咆哮。拘っていたつまらないものを消し飛ばす咆哮を上げて、玄は走った。
変わらない。やることは変わらない。銀の子として、銀に憧れるものとして、銀に成ろうとするものとして、千葉玄というものとして、なにも変わっちゃあいない。
それの拳が的確に腹を打ってきた。ガツンときた。強い。日比野よりも強い。だからといって、なにも変わらない。足を踏み出し、距離を詰め、ぶん殴る。
「ふぅぅ! ふぅぅぁあああ! 痛い! 痛いなあ!」
烈しくせき込む。玄は口元を拭い、尻餅をついたままのそれにめがけてソバットを繰り出した。
「滅茶苦茶痛かったけども、俺は、俺は千葉玄! 負けない! 誰にも! 幽霊だろうがなんであろうが、負けない!」
わかっていたはずのことを叫ぶ。玄は、まだ覚悟が足りなかった。
死にかけた今、ようやく覚悟はできた。
起き上がった男は走ってくる。玄も走る。
この男は倒さなければ、勝たなければ、いけない!
「――ストップ」
瞬間、玄の視界が回った。天井を見つめ、背中をマットに強く打ちつけた。
何度も受けたのでこれがなんの技かは瞬時にわかった。
合気道である。
「玄。あんた、なにしとんのじゃい」
雪だった。ジャージを着込んでいた。
「おい。玄、玄」
名前を呼ばれながら、玄は平手打ちをもらった。そこでようやく正気に戻る。
「雪、男がいなかったか?」
「誰もおらんかったが、なにかと闘っておったの。なんじゃ今のは。華さんが妙に遅いから心配だって言っておったから探しに来たが、とんでもないのう。なんでここなんじゃ」
「わからない。ただ、俺も誘われるようにここに来て、何の気なしにリングに上がったら、あんなのがでてきた。なんなんだここは」
「こっちが聞きたい。あたしは黒崎さんに電話で心当たりを聞いてやってきたんじゃ。かなり急いでの。とりあえず鼻血を拭けい」
玄は袖で口元を拭った。出血はほんのわずかであった。黒崎にやられた傷が開いただけのようである。
「落ち着いたか?」
「落ち着いた。ありがとう」
「どういたしまして。とりあえず、ここを出るぞい。いつまでもおったらまたなーんか現れるかもしれんからのう」
雪に手を引かれ、おぼつかない足取りで玄は外へ出て行った。
秋の冷たい夜風が二人を包む。しんとした世界に響く虫の鳴き声。風の音。玄は深く空気を吸い込み吐き出した。体を冷ましていく。
校庭から星が輝く空を見上げ、玄の口が小さく開いた。
「闘っているとき、恐怖を感じた事ってあるか?」
「みょうちきりんな質問じゃの。闘っとるんじゃ。闘争ちゅうんは命を懸けたもんじゃろ。死ぬことも覚悟の上。つまり、必死。そんな心で恐怖なんて感じられるわけがないじゃろ」
「必死」
「お前も、あたしとやったときはそうじゃった。じゃけど、あたしは違った。必死じゃなかったんや。やられて当たり前じゃ」
玄は目を閉じて思い出す。
何度も投げられ、飛ばされ、その中で技を身に着けようとした。どれだけ痛めつけられたかわからない。
そうして約束の日。
あのとき、恐怖はなかった。勝てると確信していたわけじゃない。
闘いのあと、は結果をわかっていたと言った。
自分は違った。そんなことを考えてる余裕がなかった。
必死。必死さ。必死で勝つ。
死して、勝つ。
「ん、んん~!」
玄は大きく背伸びした。黒崎の言うやる気とは、多分これだ。
必死さなのだ。
「じゃあ、帰るか。ライト貸して」
「持っとらんがかえ。かまんわえ。あたしが使う。んじゃ、走るかの」
二人は走り出した。
家に帰ると、当然華にしこたま怒られた。




