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成金  作者: 三三珂
獣の運命
10/17

2

 詳しくは後日改めてと告げ、梶と黒崎は千葉家を出たが、二人はその足で都心まで出て角田ジムへ向かった。そこは老舗のキックボクシングジムだが、早くから総合格闘技にも取り組み、多くの選手をリングに送り出している。

 夜だったため人気はなかったが、決して狭くない練習場には異様な熱気が籠っていた。

 四本の白いロープが張られたリングを始め、数々の年季の入ったトレーニング用の器具から醸し出される空気がそう感じさせていた。

 血と汗と、多くの人間の執念が空間を変化させている。

 この日もまた一人の男がこのジムに己の一部を捨てていた。

 禿頭の男だ。彼は黙々と、汗を流しながらスパッツだけの姿で、拳立てをしていた。

 頭頂にわずかに残った髪は白い。よって老齢であるはずだが、その肉体はとてもそうとは思わせないほど鍛え上げられていた。

 上半身は見事な逆三角形になっており、太い腕の先は堅さと丸みを併せ持っていた。長い修練を想像させる。

「高木ー。そんぐらいにしとけえ」

 梶が声を掛けると彼は立ち上がり、手元においてあったタオルで汗を拭った。そして丸く大きな目で、場違いにもスーツ姿の客人二人を見た。

 彼は高木拳。

 信正流という空手の流派の師範代である。長らく格闘家として一線を退いていたが、昨年、総合格闘家として復帰を果たし、公式試合で大相撲の元横綱、明星という選手と引き分けに持ち込んだ。

「……例の話か?」

「そうだ。電話じゃなんだからな、直接来てやったんだ。結果は上々。大晦日の試合に出るぞ。ちょいと揉めたけどな」

「わかった」

 拳は小さく言った。どこか不服な様子である。

「なんだ。残念そうじゃないか。盛り上がるぞ」

「だろうな。しかし、高校生だぞ。身体に技術に精神面と、不安がある。未熟なんじゃないかってな。有望かもしれないが、潰れるかもしれない。もう少し、待ってからじゃダメだったのか。代わりに、そこの黒崎をお前の秘蔵っ子として出してもよかったろうに」

「ご冗談を」

 黒崎は丁寧に断った。

「私には闘う意思がありません。それに、心配はご無用です。玄さんは肉体も技術もありませんが魂を父より受け継いでいますから」

「……あの男の魂か。それは、うらやましいな」

 高木の目はどこか遠くを探るようだった。まばたきをして梶に視線を戻す。

「まあ、とにかくもう決めたっていうんなら、局の人間やプロモーターへの連絡は梶、お前がやってくれ。メインはお前だし、玄とかいう子を出すとゴリ押ししたのもお前だ。ただ当日、そいつらも観客もがっかりすることになるだろうが」

「ほう……どうしてだ?」

 梶の笑みが柔らかなものから獣のそれにした。

「お前たちがあっさり負けるからだよ。結局、プロレスは弱いって思い知らされるだけだ」

「だったら今からやるか。そうするか」

 梶が睨んでいたが、高木は涼しい顔をしている。

 梶はネクタイを取ると、高木もタオルを投げ捨てた。

「知っているだろうが、いまの俺は空手家ではなく総合格闘家だ。打撃だけだと思っていたら、もらうぞ。一本」

「足か腕か、どっちにしてもやめたほうがいい。代わりに首をもらうぞ。今度は勝てる」

 篭っていた熱気が瞬時に凍りついた。

 冷たい殺気が二人の間で混ざり合い、空間が緊張する。いまにも爆発してしまいそうだ。

「お二人ともやめてください。こんな好カード、ギャラリーが私一人だなんて寂しいじゃないですか」

 黒崎が割って入り、体を張って止めた。声が乾ききっていて顔には汗が浮かんでいた。

 梶と高木はくつくつと笑った。

「わかっている。俺だってこんなところでやりあいたくなんかねえよ。そうだろ。高木」

「そうだな。俺も、お前とやるのならリングでと決めている。大晦日、待っているぞ。ああ、そうだ。忘れるところだった。玄君の映像をほしいんだと。相手選手が」

 高木がいるこのジムには玄と闘う選手も所属している。

「研究したいんだとさ。情報面で不利すぎるだろ。そっちは対策ができて、こっちができないなんてのは。したところで意味があるのかって闘い方をするがな」

「どうせコーチが言ってるんだろ。ただなあ、理屈はわかるが、やらん」

「はあ? 俺はどうでもいいが、土壇場でキャンセルされても知らんぞ。そしたらデビューも何もかもおじゃんだ」

 高木の指摘に梶はにやりと得意げに笑う。

「安心しろ。ビデオどころか、生で見せてやる」


  ◯


 梶の現役復帰宣言は、その翌日から大きな反響を呼んだ。

 とはいえ彼はもう五十路。プロレスファンも復帰を喜ぶものと、闘えるわけがないという否定的なもの。その二つに分かれていた。

 そもそもプロレスは格闘技やスポーツとしてではなく、エンターテイメントの範疇で受け止められている。熱狂的なファンの中には試合はすべて真剣だと言うものもいるが、大半は、選手を本当に強いとは思っていない。団体によっては台本が存在することを明らかにしているところもある。台本と違うことをされて怪我をしたと裁判を起こしたレスラーさえいる。また、引退選手や団体の内紛で弾き出されたレスラーが、手っ取り早い小銭稼ぎに暴露として本やメディアで団体や工業の仕組み、台本の存在を告発することもある。その真偽はたいてい精査されることなく藪の中に消える。それもまた、真剣勝負がまったく否定されるわけではないにも拘わらず、世間が持つプロレスのイメージに「インチキ」や「八百長」といった胡散臭さが付き纏う由縁だった。

 その上、これまでプロレスラーが総合格闘技へ参戦したことは何度もあるが、目立った結果を残したものは少ないのだ。今回の梶の参戦発言も、総合格闘技ファンの中には口汚く「八百長をするつもりだ」などと言うものも少なからずいた。


「そんなの気にするおっさんじゃないけどね」

 とは、評判を知ったときの玄の感想だった。

 梶との話し合いから数日経った。十月半ば、彼は雪とそろって、夕方から黒崎の車に同乗していた。行先は都内とだけ教えられた。黒崎によると、お披露目会だという。

 後部座席から外の景色を見やりながら、小声でぼやいた。

「ここまで嫌な予感というか、面倒なことを感じるのは他にないだろうな」

「そうかの。あたしゃ、わくわくしとるんじゃがな」

 雪は玄の隣りでぬふふと笑っている。初めて出会った時と同じジャージ姿だ。玄も同じ服装。動きやすい格好を指定されていた。

「こないだはどたばたしていたからか、忘れられていたからのう。あたしの出番はなしかと不安で不安でたまらんかったわぁ……ぬふふ」

 貧乏ゆすりをする。玄がいくら注意しても止まらなかった。

 出発から数時間後、日はとっぷりと暮れてしまい、まだ秋だというのに、冷え込みが厳しく、びゅうびゅうと強い風が吹き抜けていた。玄たちが連れてこられた『角田ジム』の看板を掲げたビルの一階、フロアをぶち抜いて作られたトレーニング場には煌々とした明かりが点いており、皮を打つ音が建物の外まで響いていた。黒崎が扉を開けると、厳しい寒さを押し戻すように熱気があふれ出してきた。

 一歩踏み入れて、玄が見たものは自分たちの同類だった。多くの練習生や、トレーナーがいて、器具を使い、互いの身体を使い、熱心に汗を絞りだして鍛えていた。彼らの目指すものは闘い、傷つき、それでも倒れずに手にする勝利である。

 感慨深くなり、そして、ひときわ強い視線に貫かれた。

 玄は誰かの気配をその肌で捉えた。

「おっ、ようやく来たか」

 壁際に立っていたシャツにスパッツを履いた大男がそう言って三人によってきた。梶である。彼の後ろには格闘家でないものたちが複数いる。一様にカジュアルな服装、メモを取るものにカメラを提げているもの、テレビカメラを構えているものもいる。新聞やテレビの取材スタッフだろうか。

 そしてもう一人、梶にも劣らぬ存在感を持つ男が練習生の合間からゆっくりと歩んできた。高木拳だ。彼は、じっと玄を見つめる。

「初めまして千葉玄。私は高木拳という。君の話は梶からよく聞いている。こうして見てみると、確かに、父親からいいものをもらったようだな。それで、こっちは……」

 高木は雪に視線を寄せた。

「雪です。初めまして」

「ああ、初めまして。君の噂も聞いている。強いんだとな」

 いつの間にか、周囲の練習生が動きを止めて、五人に注目していた。リングの上でスパーリングをしていた者たちもだ。しかし、先ほど感じた気配は変わらず存在している。

 なにかを感じるか。そう尋ねようと玄がちらりと横を見ると、雪の唇がひくひくと動いている。凶悪な、醜悪な、獣の笑みを押さえ込んでいるのだ。獲物の多さに胸踊り、いまにも暴れだしたい気分なのだろう。玄はやや心配になり、彼女のジャージの袖を掴む。

「……大丈夫、大丈夫じゃ」

 どこがだと、玄は言いたかった。すでに口調が猫かぶりのときのものではなくなっている。気配について訊ける状況じゃなかった。

 梶はこの雪の変異に気付いているのかいないのか、楽しげな笑みを浮かべている。玄は用件を尋ねた。

「結局、なにをするのかを聞いてないんですが、どうしたらいいんです?」

「細かいことは気にしなくていい。お前たちはデモンストレーション、闘ってくれたらいい。そうさな。初めは、雪からな」

「――ぬふっ」

 梶と視線を合わせ、雪が獣のように笑う。カメラも彼女に寄ってくる。玄は黒崎を見た。

「説明をします。今度の大会、目玉は三つ。あなたと、社長と、彼女です」

 聞かされていなかったが、予想はできていた。玄にも雪にも驚きはない。

 雪はジャージの上下をその場で脱ぎ捨て、黒いスパッツと白いシャツの姿になった。梶のにいるテレビスタッフのリーダーらしき人が指示をして、カメラが寄ってくる。

 生きていることが場違いなほどに美しい。梶がその身から溢れるエネルギーで強い存在感を示すなら、彼女のそれは美しさ。ただそれだけで、その場全ての意識を向けさせた。

「ぬふっ。なかなかいい気分じゃの」

 雪がその視線に臆すことはない。それを跳ね返す激しい輝きを放っている。

「これがほんの少し前まで色褪せてた時期があるって言って誰が信じるだろう」

「さあ。もはや陰りは微塵もありませんね。恐ろしい少女です」

 玄と黒崎の前で雪はぐーっと背筋を伸ばす。ゴムで髪を一括りにする。

 梶が雪のそばでリングを指差す。そこには一人の男だけが残っている。

「雪、あれが相手だ。できるな?」

「問題点がどこにあるんじゃろうなあ」

 雪は優美にリングに歩いていき、跳んだ。ロープを跨いだりくぐったりしない。

 その跳躍力にもだが、平然と雪が男との闘いに臨もうとしていることに練習生もマスコミも戸惑っているようだ。

「梶さん、梶さん」

「ん? どうした。玄」

「雪の相手は何の選手ですか?」

 雪の前にいるのは金髪を短めに刈り込んだ若い男。高校生のような子どもではない。

「キックボクシングのプロだよ。軽いクラスだが、ランクは上位だ」

「あの人に勝てば、雪はキックボクシングの上位に躍り出ることになりますね」

 そうだなと梶は言って、雪のもとへ向かっていく。高木からグローブとマウスピース、ヘッドガードを渡されて、装着させた。グローブは雪の技をかせるように手の甲側のみを保護し、指が露出するオープンフィンガー型である。

 プロテクターを着けたのは初めてのはずだが、数回頭を振り、軽くパンチの素振りをする。それだけで準備は整ったとばかりに、雪はコーナーから離れた。

 相手も同じように装着する。審判には高木が入った。玄が雪から目を離さずに開始を待っていると、黒崎が話しかけてきた。

「対戦相手の彼は試合経験も豊富です。しかし、雪さんの前では無意味でしょう。彼女の才能で昇華された技術は、並より上程度では、足元にも届きません」

「始め!」

 高木が叫ぶ。ゴングも電光のスポーツタイマーもなかった。

 そんなもの、必要なかったのだ。

 雪は背筋をピンと伸ばして、綺麗に歩く。無防備に。構えもなく。

 相手は駆けて、右のローキックを打ってきた。その直後、崩れ落ちる。

 今度のどよめきはそれまでよりも大きかった。雪は単に、初めて玄と会った時のように高く跳びあがって脳天を蹴り抜いたのだ。

 風のような一撃、一瞬の出来事だった。雪は髪を躍らせて笑っている。背筋が寒くなる。

「つまらんのう」

 よく響く声。わざわざ挑発めいた言葉を発して、敵意を向けさせた。気持ち良さそうに頬が紅潮していた。

 あまりに一瞬で勝負がついたので取材陣が戸惑っていた。テレビスタッフからも放送に尺が足りないと要望が出たので、雪は、追加で闘うことになった。

「せめて一人ぐらい、一分はもたせてほしいもんよ」

 その舐め切った態度に、怒気を震わせて三名が名乗り出た。

 一人目は総合の練習生。体は出来上がっていたがその体格も意味はない。雪は簡単に押し倒し、関節を極める。二人目はキックの練習生だったが繰り出されるローキックを払いのけて転倒させ、絞め落とす。三人目はまたもやキックのプロだったが、雪は彼のジャブを掴んでその腕を脇に抱え込み、肘関節を極めた。どれも十秒とかからず、最後にはジムが静まり返っていた。

「以上でかまわんかの? んんっ、綺麗に撮れました?」

 雪は息を乱さずリングの上でカメラに微笑みかけた。梶がひゅーっと口笛を吹いた。

「上出来上出来! だろ? それとももっといるか?」

「いや、かまいませんよ。すごいな。女、美少女、すごい女だよこれ」

 テレビスタッフはみな興奮した様子だった。他のスタッフも目を輝かせている。練習生や負けた選手の目には嫉妬や羨望、憎悪はない。こういうのを畏怖というのだ。

 雪は装備を外すとリングを出る。玄に歩み寄ってきて、手を上げ、ハイタッチを交わす。

「まあまあ、そこそこおもろかったの。玄、次は、あんた」

「はいはい。じゃあ、頑張りますか」

「負けたら承知せんぞお」

 ぬふっと笑う声を聞いて苦笑する。玄もジャージを脱いで黒崎に渡してリングに向かう。背は低く雪のような華麗さはないが、のっしのっしと山が動いているようだった。

 ロープをくぐり、梶にガードを装備させてもらう。間近で見る彼の顔は頬が緩み切っていた。

「玄、わかってるな?」

「わかってないから口で言ってくださいよ」

「こりゃ失礼。一撃だ」

 玄は表情を動かさず、拳を固めた。梶に背を向ける。

 リングには相手も上がってきた。髪の長い大柄な男だった。

「見覚えがあるだろ? 玄よ。木下君だ」

 背後で梶はその名を呼んだ。その男は大きな歩みで玄の前にやってきた。身長は一八〇はあるのか、玄の頭が彼の胸にまでしか届いていなかった。

 木下はむすっとした顔で玄を見下ろし、口を開いた。

「久しぶりだな。千葉」

「……」

 玄は首筋を押さえたまま、黙っている。

「数年前に、まだ中学生だったお前に、大学のフルコンタクト部でぼこぼこにされた。覚えているか?」

「忘れた」

 ズバッと切り捨てた。玄はまっすぐ見上げているが、双眸にはなにも感情は映っていない。木下は歯ぎしりをしている。

「ふん。だろうな。だけど、今回ばかりは本気だ。テレビがあるが、やらせはないぞ」

「テレビがなくても負けた人が何を言ってるんだか」

「くそ! 舐めやがって!」

 憤慨して戻っていく。玄は背筋を伸ばし、肩を回し、軽くストレッチをする。

「お前はギリ七〇キロ。木下は、九二キロ。二二キロの差。この差は、とんでもないぞ」

 梶が言う。これはハンデなんてものじゃない。重さが違えば攻撃力も防御力も段違い。 ちなみに一般的な総合格闘技の階級に準ずれば、玄がライト級。木下はライトヘビー級。二人の間にはウェルターとミドルがある。こんなもの、結果はわかりきっている。

 普通なら、あくまで普通ならば。玄は重く、力のある言葉でつぶやいた。

「銀を馬鹿にする奴は、泣いて謝らせる」

 玄は落ち着きを持っており、ぐっと身を低くした、両腕を頭に添えた亀の構え。

 高木が始めと叫んだ。

 二人は中央に進む。まずは、木下の左ジャブ。牽制のようなものだが、それを玄は顔面で受けた。続いてミドルキック。これもまた受けて、玄はロープ際まで後退させられた。

 体重に差があればこうなる。単純に考えても、筋肉の量がそれだけ違っているということなのだ。打撃のパワーも、受けのパワーも、体重だけで恐ろしく変わる。

 されど、と、玄は思っている。

 それがどうした。そんなもので、目の前の男の罵倒が許されるわけがないのだ、と。

「昔と変わらんな、お前は。このどんガメ」

 玄は、木下の言葉を意に介さずに一歩前へ進み、止まり、そして――駆けた。

 フェイントだった。虚を突き、足を取りにいく動きだった。ところが、木下はそれを読んでいた。

「やっぱ変わらんな!」

 玄は覚えていなかった。昔、木下と闘った時も、同じ戦法だったのを。そのときは足を取り、倒してから馬乗りになって殴りつけたのだ。

 タイミングよく、木下の太い、重い蹴りが玄を直撃した。避ける事は不可能だった。

 だが、威力は激減していた。玄は早かった。早く、一歩ではなく半歩、深く踏み込んでいた。玄にとってベスト、木下にとって中途半端な打点。

 玄の動きは止まらなかった。木下の蹴りを受けたまま、前に、前に、距離を詰めて、無防備な木下の顔面を殴りぬいたのだった。

 体重が二二キロも軽いものの打撃だったが、顎へ狙いすまされたものだった。

 木下は膝から崩れ落ち、リングに突っ伏していた。

「木下……その下の名前はやっぱり思い出せないな」

 玄はそう言ってから、梶がいるコーナーへと戻る。雪のときと同様に、あまりにあっけなく終わった試合。歓声はなく、動揺だけが広がった。

 ガードを外してもらいながら梶に尋ねる。

「もしかして、あいつがここにいることも知ってましたか」

「おう」

 梶は肯定した。木下との因縁は事前に知っていたのだ。玄はため息をついたが、怒ってはいなかった。それよりも気になることがあったので、ジム内の一点に視線を向けた。

 木下が出てきたとき、そうかと思ったが違っていた。彼ではない。まったく別種の鍛えられた美しい鋼。強く惹きつけられてしまいそうな気配。入ってきたときから感じていた。

 玄は息を呑む。筋肉が緊張していくのがわかった。梶を見上げて言った。

「さっきからやたらと熱烈な視線を受けてます。その人に見せるためだったんでしょう」

「気付いたか。元から会わせるつもりだ。そいつが、玄、お前の対戦相手になる」

 笑みが消えた。真剣な、試合をしていたころの闘志が溢れて、玄を圧迫する。それに反応したか、誰かの気配も強くなる。

 それは燃えるような熱の塊だった。肌がちりちりと炙られているようだ。

「とりあえず、降りろ。そこで紹介してやる」

 梶が強張った顔でロープを広げる。そこを玄がくぐり、リングから降りていった。すると、目の前にいた。黄色いシャツと藍色のスパッツの男。

 カメラが左手にいて、その男と玄の対峙する様を収めている。彼の名は知っている。今、最も波に乗っている無敗の最強。

 知っている。彼を。それだけでなく、尊敬もしている。彼は銀と対極の位置にいながら、同時に、銀とそっくりの闘い方をする男だからだ。

 鋼のような肉体をした男。身長こそ木下と同じくらいだが、スリムな印象を与える。しかし、内部からあふれ出るエネルギーは、格が違う。

 短い黒髪に、鋭い切れ長の瞳。浅黒い肌に、無精ひげが生えている。

「日比野炎。あなたが、俺の対戦相手か」

 キャッチコピーは炎の男である。玄はしっくりくるなと思った。

「……」

 ぼそぼそと彼がなにかを言った。内容は聞き取れなかったが、玄は素早く反応した。

 無音で振るわれたローキック。目にも止まらぬ速度だったが、しっかりと受けた。脚を外側にやや開き、膝を上げ、脛で受ける。

「いって、がっ!」

 玄は、確かに受けた。ガードした。ローキックを。ところが、脇腹に激痛が生まれ、内臓が揺らされた。

 謎の攻撃、なんてもんじゃない。日比野はキックボクサー。総合格闘技の大会に、キックボクサーとして参戦し、勝ち続けている男。

 彼は単純に、ローキックを放った脚で、もう一撃、今度はミドルキックを打った。ただそれだけのことを、威力を落とさず超高速で、鋭くやってのけた。

 さしもの玄もぐらりと揺れる。が、倒れず、踏ん張った。痛みを堪えて顔色を変えず、見上げて言った。

「大したことないですね。日比野さん」

 間はない。日比野は即座にミドルキックを打ってきた。玄は受ける。拳を固める。そしてもう一撃、同じところにミドルキック、だったが、威力は落ちていた。玄が落とした。

 受けたのではなく、攻撃して。腹の真ん中をぶん殴ったのだ。

 片足で立っていた日比野は上体が揺れて、打点がずれた。それでも、かなり痛かったが、来るとわかっていたので先ほどよりもダメージはない。

 日比野が少し下がったところで睨みあう。玄もまだ動ける。続けることはできるが、背後で大きく手が打ち鳴らされた。

「顔合わせはこれで十分だ! オッケイ! それ以上は、本番だ!」

 太い、よく通る声で緊張が切られた。梶は玄の肩を引き、高木が日比野の前に出る。

「いいぞ。最高だったぞ。玄よ」

 肩を掴んだまま梶は話しかけてくる。悪徳だ。この笑いは、玄はなにかに引っかかった。

「玄よ、構図が出来た。天才に挑むガキ。というな。それも、ほんのかにとはいえ、日比野炎を下がらせた驚異のガキ。いやはや、これだけで十分すぎる。よくやった」

 ぐしゃぐしゃ玄の頭を撫でながら梶は厭らしく笑った。

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