1-7.勉強
「来たら良いものを上げるわよ」
突然の誘いに戸惑っていた僕に、その女性は言った。美人でグラマーな女性にそう言われて付いて行かない男がいるだろうか。いや、いない。
女性の誘いは怪しかった。だから断る選択肢もあったのだが、あの寒さを思い出した僕は断ることができなかった。寒さで起きてしまうほどの気候。あのまま野宿し続けていたら死んでしまいそうな気がしたのだ。だからついて行くのは仕方がない。決して、下心があっただけで付いて行ったわけではない。
彼女に案内された家は、野宿した場所から遠くはなかった。歩いて五分のところに三階建ての建物があり、彼女はそこに入って行った。集合住宅と言われる建物で、同じ建物内に見ず知らずの人達が住める場所のようだ。アパートととも呼ばれている。
アパートに入ってすぐの場所に広間があり、いくつかのテーブルと椅子が設置されている。その広間の奥に階段があって、彼女と一緒に上って行った。
三階まで上がると、一番手前の部屋のドアを彼女が開ける。
「さぁ、どうぞ」
彼女の後に続いて部屋に入る。台所と風呂とトイレが備え付けられていて、部屋自体はそれなりに広い。五人ほど寝ても余裕がありそうな部屋だ。
しかし壁際にある本棚が、部屋に圧迫感を与えていた。その本棚は彼女の身長よりも頭二つ分ほど高く、横幅は部屋の隅まで続いている。しかも隙間が無いほどの本が詰め込まれているため、より存在感を放っており、部屋を狭く感じさせている。
僕は本棚の大きさと本の量に圧倒され、つい目を奪われてしまった。
「本が気になるの?」
「え、あ、はい……すごく沢山あるから驚いちゃって……本、好きなんですか?」
「えぇ、好きよ。それに仕事に必要なことなの。勉強するために、ね」
「勉強」と聞いて、目の前の本棚が非現実的なものに思えてきた。
勉強という言葉は、僕には縁の無かった言葉だ。四六時中働かされ続け、それが終わったら食事や寝ることしかしていないかった。だから今までは勉強する機会はもちろん、自主的に勉強する暇も無かった。すぐに自分の身に付かないものよりも、今の自分の身体を大切にすることを優先していたからだ。
そんな僕の心境を覚ったのか、彼女は僕に優しく諭す。
「勉強は大事よ。夢を叶えるためにはもちろんだけど、生きるためにも必要なことなのよ」
「そうなんですか?」
「えぇ、本当よ。けど、勘違いしないでね。勉強の方法は本を読むことだけじゃないわ。むしろ普段の生活の中で勉強をすることの方が多いの。例えば―――」
そう言って彼女は僕を手招きする。怪訝に思ったが彼女の話の続きが気になって、僕は素直に近づく。
しかし彼女の近くに着くと、急に右腕を掴まれた。不測の事態に動揺した僕は何もできず、強い力でベッドに引き倒された。
「男の子の引き倒し方は、本ではなく見て覚えたわ」
一瞬の内に、彼女は僕の身体の上に乗っていた。突然のことに何も抵抗が出来なかったが、今の状態が非常にまずいことに気づくと必死に身体を動かして起き上がろうとした。
仰向けに倒された僕は体を捻ったり、腕に力を入れたりして彼女をどかそうとする。しかし僕の両手首は彼女に掴まれていて碌に動けない。体は彼女の足が腰に絡みついてがっちりと固定しているためビクともしない。
全く抵抗できない状況だ。深刻さが増して額に汗が滲み出る。
「なんで、こんなことをっ……」
「あら、分かんないかしら?」
唇を舌で舐める彼女は、顔を徐々に近づかせて来た。
近づくにつれて、彼女の顔が鮮明に見える。整った眉に緩やかに垂れた眼。瞳は磨きたての鉱石のように綺麗な黒色だ。艶やかな唇と目元のホクロが妖艶さを演出していた。
改めて見ると、彼女は見惚れそうな綺麗な顔をしていた。僕が居た村には決していないタイプの女性で、居たら誰しもが目を奪われていただろう。マイルスに来て間もないが、これほどの美女は彼女のほかに居なかった。
とはいっても、こんな状態で迫られるのは嫌だった。何もできない状態で相手の思うままにされる。これじゃあ村に居たときと同じだ。
屈辱感が胸に溢れ、後悔が募る。迂闊な選択をした自分を恨んでいると、彼女の顔が間近にあった。僕は覚悟を決めて目を瞑る。目を閉じていても鼻先に彼女の顔がある事が分かった。
しかし目を閉じて以降、彼女の顔は近づくことはなかった。十秒待っても動く気配が無く、不思議に思って目を開ける。
彼女の顔には、悪戯っ子の様な笑みが浮かんでいた。
「ただの気まぐれ、よ」
「……へ?」
彼女の言葉に呆けていると、彼女は僕の上から退いてベッドから離れる。部屋にあった押し入れを開けると、中には衣装棚と数枚の布団が置いてあった。彼女は布団一式と毛布を二枚取り出すとベッドの脇に置いた。
「これを使っていいわよ。あとこの毛布はあげるわ。私はもう使わないから、有効に使ってあげて」
急な展開に驚いた僕だが、彼女にからかわれていたことに気付くと顔が熱くなった。
「見知らぬ人からタダで受け取るなんて……できません」
恥ずかしくなって、彼女の申し出を断った。
からかわれた挙句に情けを掛けられるのは惨めすぎる。僕のなけなしのプライドがそう言わせた。
「私の名前はララック・ルルト、さっきの商店の店員よ。はい、これで見知らぬ人ではなくなったわ」
「そんな屁理屈では納得できません」
「納得できなくてもいいのよ。利用できるものは利用しなさい。それが冒険者の第一歩よ」
ララックさんの言葉に、ぐっと息を詰まらせた。僕は今日冒険者になったばかりだ。だというのにララックさんはそれを知っている。当てずっぽうか?
動揺する僕に対し、ララックさんはくすりと笑っていた。
「商人は情報が命なのよ。これくらい知っているわ」
何でも見通している。ララックさんの目がそう言っているようで、気に喰わなかった。
少しばかり、反撃したいという想いが芽生えていた。
「……そんなに情報集めが好きなのなら、僕の事を知っているんじゃないですか? 今日来たばかりで、お金も碌に無い貧乏人ってことを」
ララックさんが僕の反応を見てからかったように、同じことをやり返そうと思った。自分から情報を出して、そのときのララックさんの反応を見て探ろうと試みる。そのためなら少々自分を卑下してもかまわなかった。
しかし、じっとララックさんの表情を見ていても変化はない。この程度は想定内ってことなのか。表情を変えさせようとして言葉を続ける。
「そんな人間に親切にするなんて、暇なんですね。慈善家にでもなったらどうですか?」
精一杯の挑発が通じたのか、ララックさんは表情を変える。ただ予想していたのとは違い、彼女は優しそうに微笑んでいる。まるで幼い子供に教え諭すように。
「私は冒険者に助けられたから、ね。困っている冒険者がいたら助けようと決めてたの。だから野宿していた貴方を見つけても、ここに招くことに抵抗は無かったわ。からかったのは貴方がかわいかったからなの。ごめんね」
彼女の謝罪を聞いて、僕は何も言えなくなる。こうも素直に謝られると反抗する気も起きなくなる。黙って聞きいれるしかなかった。
するとララックさんは「さぁ、早く寝ましょう」と言って薄着になる。疲れていたのか、そのまま着替えずにベッドに入た。
僕は借りた布団を床に敷いて、布団の中に入り込む。さっきの路上に比べれば、天国と地獄ぐらいの差があった。
幸福感に身を包まれていると、ララックさんの視線を感じて彼女の方を見た。予想通り、彼女は僕の方を見ていた。
「その歳で単身でマイルスに来るなんて、色々と事情があるとは思うけど悲観することは無いわ」
さっきと同じ、優しい笑顔を向けていた。
「貴方には色んな選択肢があるのだから」
その言葉の意味を理解したのは、少し後の事だった。