プロローグ
快晴な空の下、一隻の船が航海していた。波は穏やかで荒れる様子もなく、風は船を後押しするように吹いている。王都マイルス行きの航海は順調だった。
乗客は景色を見ようと甲板に出ている。乗客の中には元気な子供もいる。船員達は子供達がはしゃいで落ちてしまわないか、注意深く見守っていた。
様子を見ていた一人の船員の視界に、気になるものがあった。二十代半ばの若い船員は甲板をぐるっと回って乗客を監視していたが、突如方向を変えて歩き出す。その先には身体を丸めて座っている黒色の髪をした少年がいた。
「ねぇ君、大丈夫かい?」
船員は少年に声を掛ける。その声に反応して、俯いていた少年はゆっくりと顔を上げた。
その顔を見て、船員は若干気圧されてしまった。
船員はまだ船に乗り始めて日は浅いが、それなりの数の乗客を見てきた。目の前にいる少年と同じくらいの年齢の子もだ。
差異はあるものの、彼らの瞳には輝きがあった。船に乗って興奮する者、景色を見て感動する者、初めての都会に心弾ませる者、皆楽しそうに船に乗っている時間を楽しんでいた。
しかし目の前にいる少年の瞳には、全く輝きが見られなかった。目から光が全く感じられず、瞳が闇のように黒い。顔色も青白く、虚ろな表情。まるでこれから死地に向かう兵士のような顔だった。さらに丸まって座っているせいで、元々小さい身体の少年がより一層小さく見えた。
「……何でしょうか?」
か細い声で少年は答える。穏やかな波音でもかき消されそうな声量だ。
「いや、ね……なんか気分が悪そうに見えたから心配で声を掛けたんだよ。船酔いかな?」
むしろ船酔いのせいで、今のような絶望に満ちた表情になっているのだと願った。吐きそうになっている人でも、ここまで酷い顔にはならないが……。
少年は首をゆっくりと横に振った。
「いえ、大丈夫です。初めてだったんで心配しましたけど、あまり船も揺れないので平気です」
「そ、そうなんだ……」
いつもなら船酔いした人の対応をしなくて済むので喜ばしいことなのだが、この少年に限っては肯定してほしかった。
少年が放つ負のオーラに、船員はこれ以上声を掛けることを躊躇った。ここにいたらこのオーラに負けて、船員の気が滅入ってしまうことも考えられる。ただの一人の船員が抱え込むには、重すぎる案件だ。
しかし、そのまま退きたくもなかった。
船員には少年と同じくらいの弟がいる。生意気でやんちゃだが可愛らしい弟だ。その弟と近い歳の少年が、この世の終わりを目にした顔をしているのを見て、放っておきたくなかった。まったく似てはいないが、弟とダブって見えたのかもしれない。
「なんか辛いことでもあったのかい?」
船員は少年の横に腰を下ろして、明らかに地雷を抱えている彼の話を聞くことにした。彼が抱える不安を少しでも晒け出せば、気が晴れるだろうと思ったからだ。
少年は「ははっ」と少しだけ笑った。
「物好きですね。僕の話を聞こうなんて」
「そうかもね。けど君みたいな子を放っておけなくてね。話せば楽になるかもよ」
「……良い人ですね」
少年は口を閉じてしまった。もしかしたら言い辛いことだったのかもしれない。不用意に親切な言葉を掛けたのは軽率だった。
別の話題を出して喋りやすい空気にしようと思い、昔自分がドジをした話をしようとした。
「辛いことは、昔からずっと続いています」
その前に、少年の方が先に話し始めた。船員は開きかけた口をすぐに閉じる。
「親が死んでから、ずっと奴隷の様に働いていました。いや、奴隷そのものですね」
静かにゆっくりと少年は語り続ける。最初より若干声が大きくなっていた。
「叔父の家に預けられたのですが、そこで僕は家族ではなく奴隷のような扱いをされました。毎日休むことなく働かされ、義理の兄からも暴力を受けていました。ご飯も少なく、義兄に横取りされることもありました。村で盗みがあれば、真っ先に僕が疑われました。
そんな日々が十年ほど続いて、つい先日、家を追い出されました。不作だから食い扶持を減らすためにという名目で、数少ない私物を売られ、僅かな生活費と旅費を無理矢理渡されて、家から叩き出されました。都会なら仕事があるんじゃないかってね。……のたれ死んでこいって言ってるようなもんですよ」
少年は語り終え、深いため息を吐いた。その息にはどす黒い感情が詰まっているように思えた。
少年の過去に、船員は同情せざるを得なかった。船員が同じ立場でも、同じような心境になってしまうだろう。
だが、彼にはこのまま後ろ向きな考えでいて欲しくはない。だから船員は、第三者であるからこそ言える言葉を少年に掛けた。
「良かったじゃないか。そんなクソ共と離れられることができて」
少年はゆっくりと船員の方に向く。その瞳は先ほどとは違い、睨みつけるほどの力があった。
「無責任な言葉ですね。僕の気持ちは分からないから、そんなことが言えるんだ」
「俺が君の立場ならそう思うだろうから。俺の家は裕福とは言えないけど家族で仲良く暮らしてきたから、義理の家族とはいえ、親や兄弟からそんな扱いを受けてきたなんて言われても、ちょっと現実味が湧かないんだよ。けどそんな辛い日々を送ってきたのなら、その家族から解放された今はむしろ天国と言っても良いんじゃない?」
思うところがあるのだろうか、少年は黙って話を聞き続ける。
「これからは他人に生かされる人生ではなく、自分の力で生きなくちゃならないんだから。不安もあるだろうけど、自分次第で人生を変えられるんだから、それを楽しんだ方が良いと思うんだ。君はまだまだ若いんだから、十分に人生を変えられるチャンスがあるんだ」
船員は前向きな言葉をかけることで、少しでも少年を前向きな気持ちにさせようと試みた。マイルスには人生を変えるチャンスがいくらでもある。まだ若いうちにそのチャンスをものにして、少しでも明るい表情になってほしかった。
「……それもそうですね」
少年は見上げて空を見た。つられて船員も顔を上げる。相変わらず、雲一つない晴天だった。
「こんな良い天気な日には、後ろ向きな考えではなく、前向きな思考の方が似合いますよね」
少年は「ちょっと頑張ってみます」とさっきよりも明るい顔で言った。その顔を見て、船員は胸をなで下ろした。
「そうそう。落ち込むのはまだ早い。バリバリ働いて金を稼いで、上手いもんでも食って、娼館で遊んでくれば嫌な事なんて忘れられるさ」
「……娼館って何ですか?」
「女の子とエロいことをする場所だよ」
「……そんな場所があるんですね」
「興味ある?」
「無いですよ!」
顔を赤くして大声で否定する様は、どうみても年頃の少年のものである。弟と似た反応だ。表情もさっきまでの暗さは嘘のように無くなっていた。
「けど、働く場所が無いんですよね……。都会の事なんてまるで知らないし、ツテもないからどうすれば良いのか分かんなくて……不安で……」
しかし少年の顔に再び影が差す。
今までの辛い過去は気の持ちようで何とかなるが、どんだけ思考が前向きでも今後の生活問題はすぐにやってくる。これは少年に限った話ではなく、都会に出稼ぎに行こうとする者達に等しく与えられる試練だ。
だが、船員はそれを解決するための手段を知っていた。いや、それはマイルスに住む人間ならば誰でも知っていることだ。
「ならば、ギルドに頼るのが一番だ」
「ギルド?」
やはり知らなかったらしい。教えても減るものでもないので、船員は一から教えることにした。
「この船が向かっている場所は王都マイルスだ。マイルスには色んな仕事があるが、余所から来た者はギルドから仕事を貰うのが一番安全で手っ取り早い。
ギルドが無かった頃は各々で仕事先を探していたんだが、雇う側は余所から来た身元不明な奴を雇いたがらないし、雇われる側も店の情報を持っていないから二の足を踏む奴が多かったんだ。前者は変な奴を雇ったら店に損害が出るし、後者は変な店だと割に合わない過酷な労働を強いられることがあるからな。
だがそれを解決したのがギルドだ。ギルドは仕事と人を結びつける仲介業で、店や人から依頼された仕事に対して適した人材を送り込むことを目的に建てられた。ギルドは依頼内容を精査して労働者に細かい情報を与えるから、労働者が安心して依頼を受けることができるし、情報を集める手間を省ける。依頼者側にしても、依頼を出せば期間内に労働者を集められることができるし、もし変な奴が来て損害を与えられたら損害分をギルドに対して請求できる権利がある。
これにより、依頼者は適した人材を得ることができ、労働者もギルドが保障した仕事を得られることができる、両者が得する仕組みになったというわけだ」
「それだと、ギルドはどうやってお金を稼いでいるんですか?」
「あぁ、それは仲介料というものを取っていて、そこから利益を得ているらしい。具体的な数字は分からないけど」
「ふむふむ」と頷きながら、少年は熱心に話を聞いていた。こんなに熱心に聞いてくれるなら話し甲斐がある。それにさっきの暗い表情よりも、興味津々に話を聞こうとする今の顔の方がよっぽど良い。
船員は気を良くして話を続けた。
「で、そのギルドなんだけど、マイルスには四つのギルドがある。商人ギルド、職人ギルド、傭兵ギルド、冒険者ギルドだ。それぞれで利用者や依頼内容も異なっている。
商人ギルドは、商売に関する依頼が多い。作った商品を代わりに売ってきてくれとか、希少な鉱石を買い取ってくれとか。商店の求人情報もあったりするよ。接客が得意な人募集とか、力仕事に自信のある方歓迎とかね。まぁ、ほとんどの求人が経験者を募集しているというのが厄介だけどね。あとギルドに商品を買い取って貰うこともできるから、商人が一番安定して稼げるかもしれないね。
次に傭兵ギルド。これは要人や施設を守護する際に依頼が出される。盗賊やモンスターの襲撃があるから命の保障はできないけど、何事も無く終わることもあるから、それなりの腕を持っていれば安定した収入を得ることができる。素人でも人数合わせの依頼が出されることがあるから、そこに応募すれば稼げることができる。
そして職人ギルド。これは鍛冶屋や料理関係の仕事が多いかな。鍛冶職人や料理人に対して、特殊な食材を使った料理を作ってくれとか、自分に合った装備一式を作ってくれる鍛冶職人を探していますとか、店では受けられない特殊なサービスを受けたいときに依頼を出すことが多いかな。求人情報もあるけど、ほぼ全部が経験者を募集している。
最後に冒険者ギルド。ここは何でも屋なイメージが強いね。ある薬草を集めて来てくれとか、隣町に届け物をしてほしいとか、ダンジョンに入るときの護衛をしてほしいとか、困ったモンスターがいるから討伐してくれとか、色々だね。依頼が無くてもモンスターを狩って、そのモンスターをギルドに買い取って貰って稼ぐことも出来る。一番稼ぎやすい仕事だけど、一番危険な仕事でもある。モンスターは何をしてくるかわからないし、ダンジョンに潜ったら何が起こるか分からないからね。
とりあえず、ギルドの説明はこのくらいで十分かな」
我ながら上手く説明できたことに満足したが、少年はぽかんとした表情で船員を見ていた。感心するか感謝の言葉が出るのかと予想していたのだが、どちらの反応も見せないので船員は戸惑った。
「えっと、分からないことでもあった?」
「あ、いえ、そうじゃなくてですね。そんなに詳しく教えてくれることに驚いちゃって……」
少年は立ち上がり、船員に向かって頭を下げた。
「色々と教えてくれてありがとうございます。僕、頑張ってみます」
綺麗なお辞儀だった。少年の顔もまだ若干不安げな表情も残っているが、前に向かおうと決意した意思が見て取れた。
そういえば少年は、ずっと奴隷の様に働かされていたと言っていた。おそらくずっと不当な扱いを受けていたから、今回の様に親切にされることも無かったのだろう。普通なら性格が捻くれたり、疑心暗鬼な性格になっても可笑しくは無い。だというのに少年は、船員の言葉を素直に受け止めて礼を言った。
「別にマイルスに住んでる人間なら誰でも知っていることだよ。それより、ほら見ろ」
船員は船の進行方向を指差した。さっきまでは見えなかった王都マイルスの港が見えてきた。
「あれが俺の生まれ故郷のマイルスだ。ようこそ、マイルスへ」
船員は右手を少年に向かって差し出すと、少年も右手を出して握ってきた。
「俺の名前はシードっていうんだ。歓迎するよ。君の名前は?」
船員の自己紹介を聞いて、少年も同じように名乗る。
「ヴィック・ライザーです。シードさん、あなたに会えて良かったです」
ヴィックは今日初めて笑顔を見せた。
やはり、子供には笑顔が似合う。