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ゆきむし

作者: 寺西清隆

   1 一本の電話


 監督の声を電話で聞いた。

「……今度、取材でさ、そっちに行くんだけど、ちょっと会わないか?」

 二十七年ぶりであった。監督は六十五、私は五十五になっていた。

 億劫ではあったが、断ることができず、会う日を決めた。

 田舎にいるのが何故監督に分かったのか。私は、あえて聞かなかった。

 約束の日、待ち合わせ場所のホテルに早く着いた私は、ロビーで監督を待つことにした。

 ソファーに深々と腰を埋めると、頭の片隅に、二十八歳の私がいた。


   2 遁走とんそう


 昭和六十一年十月──

 その当時の私なら、中央線から山手線に乗り換え、池袋駅で京浜東北線へと乗り継ぐのだが、その日は、中央線で東京駅まで行った。そして、ホームに降りても、すぐには電車に乗らず、国鉄の利用客に交じって、地下通路を何度もめぐった。

 蛍光灯の光が当たらない奥まった場所で、私は、合皮のビジネス鞄をそっと置いた。気に留める者は誰もいない。額から汗がしたたり落ちた。

 監督の家は、王子駅から歩いてすぐの所にあった。私は、畳の間で監督と正対した。木枠の窓から隣家の軒が間近に見えた。監督は、手持ち無沙汰であった。二人の間にあるはずのものがないからだ。

「原稿は、どした?」

「すいませんっ」

 監督は、座椅子の肘掛けにもたれ、私を見据えた。

「手ぶらでよく来れたな」

「か、鞄を……なくしました」

 声が震えた。

「駅のトイレに捨てたんじゃねぇだろうな」

「……」

 さすがに、そこまではできなかった。

「スポンサーに見せなくちゃいけねぇんだぞ」

 落とし前は、どうつけるつもりだ? 監督の目がそう言っている。

 私は、声をしぼり出した。

「もう一度、書かせてくださいっ」

 監督の口からは、叱咤激励の言葉も憤りの感情も発せられなかった。私が書くと言えば待つしか手がないのだ。表情は変わりなく、おだやかだった。


 『善玉コレステロールは健康に欠かせない大切な要素である』 それが、ビデオのテーマだ。大学の研究室に何度も足を運び、教授の話を聞いた。医学の本も読めるだけ読んだ。かといって、今更、四畳半の下宿にこもってみても、何かがでてくるというわけでもない。結果は知れていた。

〝わかりやすく、おもしろく、ためになればいいんだよ。簡単だろ?〟

 と、言われても……。それが書けないのだ。裏切りも一度までは許されるが、二度目はありえない。

 次の日の朝、下宿屋のおばさんが電話を取り次いでくれた。監督だった。

「どした?」

「……」

「なんだよ? ちっとも聞こえねぇぞ」

「……すいま……」

「じゃ、待ってっから」

 私は、うわの空で言葉を聞いた。


 中央線のホームに立つ私は、薄手のジャンパーに手を突っ込んだ。西荻窪の街が暮れ色に染まろうとしている。自販機の横に、泣きじゃくる幼い女の子がいた。母親が飲む缶ジースを欲しがっている。それでも、母親は無視して飲み続けた。

 下りの電車に乗れば、樹海に行ける。しかし、到着したのは上りの東京行きだった。写真でしか見たことのない白神山地が目に浮かんだ。家路を急ぐ老若男女が電車から吐き出された。皆が皆、幸せそうに見える。私は上野駅まで行き、長距離切符を買った。


 酔っ払いの異臭が鼻をついた。車両の外は深い闇だ。あぶらで髪がてかてかのくたびれた男が、ぶつぶつつぶやき、窓ガラスに額をすりつける。タイトスカートのOLがこっくりするたびに股を広げた。若いサラリーマンは、苦しげに床でもんどりを打った。そのうちに、乗客が、一人減り、二人減り、やがて、私ひとりが車内に取り残された。


 終着駅は、名もない駅だった。待合室の椅子が黒く光っていた。そこで朝を迎える気には到底なれなかった。


 駅の外に灯りはない。真っ暗な道が続いていた。嗅覚が鋭敏になった。夜風が、山野の匂いを運んでくる。顔に手を当てると、無精髭が伸びていた。


 周りの景色がやっと視認できるようになった頃、蛍光色を外に向かって放つ始発列車に乗った。 


 夜の秋田で、ひなびた旅館の敷居をまたいだ。玄関の姿見鏡に筆文字で『喜寿 玉江さんへ』とあった。突然の遅い客を、女将おかみは拒むこともなく、すんなりと宿泊させてくれた。白粉(おしろい)をぬった女将は、とても七十代には見えなかった。私は、物腰や微笑(ほほえみ)()きつけられた。

 旅館を立つ前、座卓の上にメモ書きを残した。

『ごはんに、お風呂に、おふとん。とても幸せになりました』

 面映ゆくはなかった。


 朝から夕方まで電車を乗り継ぎ、夜には、青函連絡船から黒い海を見ていた。波間に、昨日の私と今の私が交互に見えたり隠れたりした。明日の私はどこにもいない。不意に、海が牙をむき、私を呑み込もうとした。固く目を閉じた。


 函館港は、濃紺一色でぬりつぶされていた。

 がらんとした待合室で、膝を抱えた。どれくらいそうしていたのかわからない。窓ガラスが、朝の陽光を受けて輝いた。人影が、オレンジ色に染まる。掃除婦のおばさんだ。曲がった腰を拳でコンコン叩きながら床に散らかるゴミを集めてまわった。

「どっこら、よっこらしょっ」

 背中の荷物と大きなお尻をバランスよくベンチにのせたのは、でっぷりと肥えたおばさんだ。煙草に火をつけると、満足そうに煙りを吸いこんだ。

 ほどなくして、待合室の中は、連絡船を利用する種々雑多な人たちで混雑し始めた。


 函館は、ひっそりとしていた。

 私は、パチンコ屋の自動ドアをすり抜けた。最初のうちは、セブンの数字が三つ並び、玉を掻きだすのに忙しかったが、それも一時で、閉店を待たずして玉も金も消えた。

 外は、薄ら寒かった。

 なだらかな斜面に、造成中の団地があった。アームを畳む数台のユンボが闇に沈んでいる。その向こうに、百万ドルの夜景が見えた。ジャンパーのポケットをさぐると、手が、マッチ箱にふれた。青森のたばこ屋でもらったものだ。マッチの炎は、風で揺れ、すぐに消えた。


 道すがら、家主の許可を得ることなく、庭先の蛇口から飲み水を頂戴した。


 衝動に突き動かされた私は、海の見える小高い山で、小枝と落葉をかき集め、マッチで火を点けた。煙りが生きもののように立ちのぼった。

〝放火魔になりたいのか?〟

〝誰が?〟

〝おまえだ〟

〝馬鹿なこと言うなっ!〟 

 私は、立ちあがり、小便を搾り出そうとした。痛みが、腹部に走った。水に近いものが尻から噴き出し、遅れて、小便がほとばしり出た。


 真夜中の電話ボックスで体を丸めた。外は、霜で見えない。遠くで、エンジン音が聞こえ、次第に近づいてきた。ガラスが真っ赤に染まった。

 いきなり、ドアが開けられ、私は、警官二人の視線にさらされた。

「ちょっといいかな?」

 私は、硬直した。

「ここで何をしているの?」

「歩いてて……疲れて……それで……」

「身分が証明できるもの、何か持ってる?」

「……」

「免許証とか、保険証とか」

「……」

「何もしてないなら、問題ないよね?」

 私は、免許証を差し出した。

「どこから来たの?」

「東京です」

 二人の警官は口をつぐんだ。厄介なものを拾ってしまったと後悔したのかもしれない。

 私は、交番に連行された。ことさら気は滅入ったが、冷え切った体はあったまった。警官が、電話で家出人の照会をはじめた。その顔に、疲労の色がにじんだ。

 もう一人の警官が、お盆を持って現われた。その上には、丼と急須がのっている。警官は、鮭のほぐし身がのったほくほくのご飯にお茶をかけてくれた。私は、両手を合わせ、鮭茶漬けを掻き込んだ。警官が、私に訊いた。

「どうやって北海道に来たの?」

「……」

「飛行機?」

「……」

「それじゃあ、電車かな?」

「……」

「それとも車?」

「……」

「ずっとひとり? 誰かと一緒だったってことはない?」

「……思い出せないんです」

 ひどい嘘だ。二人の警官は顔を見合わせた。私は、丼と箸を置いた。

「無理して食わなくてもいいべさ」

 警官は、それきり、話すのをやめた。電話をしていた警官が、目配せをした。警官が言った。

「もういいよ」

 私は、深々と頭を下げた。警官たちは、寒空の下にひとり放り出すことに気がひけたのか、私をひきとめ、再び、パトカーに乗せた。

 パトカーは、赤色灯を点滅させながら疾走し、やがて、路肩に止まった。

 電話の警官が口を開いた。

「我々の管轄区域はここで終わりだ」

 パトカーから降りた私に、警官が、助手席の窓を開け、声をかけた。

「この道を行けば、札幌まで行けるよ。かなり遠いけど」


 死に場所を探している人間でも、他人の温もりにふれる機会があれば、状況は変わらないにしても、体内で何かが芽生え、生へと方向転換する瞬間が、きっとある。


 それから何日かして、札幌駅に辿り着いた。目的地でも終点でもなかったが、そこにいるだけで妙に安心感を覚えた。私は、人いきれに酔い、待合室でぐったりとした。そして、まぶたが落ちた。


 私が助監督だったときの話である。

 監督は、一日に二時間しか寝ない。監督と一日いるだけで、意識が朦朧となった。一週間もそれが続けば、起きているのか眠っているのかさえわからなくなる。

 録音スタジオは、正面のスクリーンが明るいだけで、他は薄暗い。音のミックス作業中にもかかわらず、私は、立ったまま、つい、うとうととしてしまった。

 監督が言った。

「おい、コーヒー」

 即座に、意識が冴えた。

「少々お待ちください」

 いかなる場合においても、監督は、絶対的存在だった。


「金を持ってねぇんだべ?」

 監督の声ではなかったが、私は、目を開けた。眉間にしわを寄せたスキンヘッドの男が隣りに座っていた。

「……」

「しけたツラしてんじゃねぇよ」

 スキンヘッドは、しわくちゃになった紙をひろげ、私の目の前でひらひらさせた。『仮釈放証明書』という印刷文字が見えた。

「俺だって金はねぇさ。したけど(だけど)、飯ぐらいなら何とかなるべ」

 白いものがチラチラと舞っていた。すれ違う誰もが、伏し目がちに道を譲った。

 スキンヘッドは、ためらうことなく、区役所に入り、窓口に向かった。手慣れたやりとりで受付係から用紙をもらうと、一枚を私にくれた。私は、言われるままに、嘘の住所と氏名と理由を記入机で書き込んだ。

 窓口には、かたくなに無表情を装う人たちがいた。

 その人たちは白だ。だとすれば、浮き草稼業の映画人は、灰色になる。では、仮出所したスキンヘッドはどうであろう。黒から白に向かっている灰色というべきか。

 ならば、私は何色か?

 職員が、事務的に言った。

「こちらでお貸しできるのはお一人様千円までです。そのお金で、行けるとこまで行っていただいて、足りない分は、行った先の役所か役場で申請をお願いいたします」

 嬉しいのも束の間だった。たちまち、罪の意識にさいなまれた。しかし、頼れる人は、スキンヘッドだけだ。もしかしたら、犯罪の片棒をかつがされるかもしれない。

 ラーメン屋の前で、スキンヘッドの足がとまった。赤い暖簾がはためいて、二人の頭を叩いた。店に入ると、豚骨の匂いが胃の粘膜をくすぐった。楕円の帽子をかぶった店主が無愛想に訊いてきた。

「みそでいいかい?」

 スキンヘッドが私を見た。

「それでお願いします」

 思わず言った。

 湯切りされた縮れ麺がスープに落とされ、ラーメン丼が鼻先に置かれた。私は、一気に麺をたいらげ、汁を吸った。

 スキンヘッドが爪楊枝をくわえて言った。

「なまらうまいべ?」

「はい」

 店主が、どや顔になった。

「おやじ、おあいそ」

 お釣りの五百円を受け取り、店を出た私は礼を言った。

「なんもなんも」

 と、スキンヘッドは、人ごみの中に消えた。肩から力が抜けた。

 ギターを弾く若者が、背中のバスドラムとハイハットシンバルを足で鳴らしながら、人垣の中で熱唱していた。何曲か唄うと、逆さにした帽子で投げ銭を集めた。私は、そそくさとその場を後にした。

 鋼鉄のシャッターがおりた札幌駅は、人間を近づけようとはしなかった。私は、しかたなく駅の周辺を歩きまわり、寒さをしのげる場所を物色した。

 地下街の地上出入口にはシャッターがなかった。薄暗い階段をおりると、ガラス扉があった。扉は、簡単に開いた。地上からおりてきた風が、板のようなものを倒した。奥で、黒い影が動いた。私は、声にならない声をあげ、目をこらした。痩せっぽちの男が、シャッターの前に座っている。

「寝るとこねぇなら、ここさ寝れ」

 誰かが、私を押しのけ、中に入った。痩せの仲間だ。丸々と太った体の上に福々しい顔がのっかっている。

 福顔は、敷きつめた段ボールの上に一升瓶と紙袋を置き、

「寒いべや」

 と、扉を閉め、段ボールを隙間に立てかけた。

「収穫はあったか?」

上物じょうものばっかだべ」

 福顔が、私に言った。

「いつまで立ってるつもりだ?」

 私は、靴を脱ぎ、正座をした。

「こんな酒は、めったに飲めねぇど」

 と、福顔が、欠けた茶碗を私に持たせ、一升瓶の中身を注いだ。

「ぐっといきな」

 私は、一口飲んで激しくむせた。

「素人には無理か」

 痩せの言い方にはトゲがある。

「食ってみれ」

 福顔が、コンビニ弁当の蓋を開けた。

 私は、鼻を近づけた。

「失礼だべよ」

 痩せが、食いたくなければ食うなという顔をした。でも、福顔は違った。

「あめて(腐って)ねぇべ。ポリバケツの中からもらってすぐだも」

 私は、鶏の唐揚げを恐る恐る口に運んだ。

「うまいべ?」

「は、はい」 

 痩せが、怪しい酒をぐぐっと飲んだ。それを機に、うたげがはじまった。痩せと福顔は、声を張りあげ、愚痴をぶちまけた。警官がよく来なかったものだと思う。酒を飲み尽くすと、二人は眠りについた。段ボールの上で寝るのも悪くはないなと、私は思った。

 シャッターが上がれば、多くの人々がここを通るだろう。

 そうならないうちに、三人は、段ボールを撤収し、駅の待合室に根をおろした。

「仕事はしないんですか?」

「その必要はなかんべ」

 痩せが、今さら何をという顔をした。福顔が、うんうんと頷き、言った。

「十分食っていけるべさ」

 痩せが、もったいつけて言った。

「行くとこねぇなら、仲間にいれてやってもいいんだぞ」

「ぼ、僕は……」

 ゴロゴロギュルギュルーッ。

 私は、腹を押さえながら、出口に向かった。後ろで、二人の声を聞いた。

「最悪だわ」

「んだ」

 トイレから戻ると、二人の姿はなかった。

 気がつけば、だしの香りに誘われ、立ち食いそば屋の前に立っていた。

 ググーッ。

 排泄をすませたばかりだというのに……腹の虫が鳴いた。おばさんが、眉をしかめて言った。

「何にしましょう?」

「……」

「食べる気あるのかい?」

 態度がぞんざいになった。

 私は、食い入るように品書きを見た。おばさんが呟いた。

「はんかくさいんでないかい(馬鹿じゃなかろうか)」

「天玉そばをお願いします」

「三百五十円」

 カウンターに置いた五百円玉を、おばさんが、すかさずすくい上げた。その瞬間、私は客になった。

 映画のワンシーンが頭に浮かんだ。

『そばは栄養があるのかな?』と、息子。

『ルチンが含まれてるから血圧にはいいんだよ』と、父親。

 洒落がきいていた。


 頭の先から足の先まで白一色できめた男が私の肩をポンと叩いた。年齢は随分上だ。通路をはさんで長椅子の端に、男は腰をおろし、煙草の箱を指で叩いた。

「一本どうだ?」

「……」

「ぜんこ(金)、ねぇんだべ?」

「……」

「別に、僕は……」

「めしは食ってるのか?」

「……」

「俺の言う通りにしてみれ。したら(そうしたら)、めしが食えるべ」

「そういうことはしません」

 私は決めつけた。

「法には一切ふれねぇ。世のため人のためになる仕事だべ。どうだ?」

「話だけなら……」

 私は、煙草を抜き取った。手配師は、私の煙草に火を点け

「ここで待ってれ」

 と、席を立ち、待合室を出た。


   3 『荒海土木』


 その頃、北風さんは札幌市のはずれにいた。

 新校舎の壁面を囲む足場が、碁盤の目のように見えた。そこを行き来する作業者たちは、蟻のようだった。

 単管で組まれた足場が、人の手によって解体されていく。その最上段にいるのが、北風さんだ。顔は浅黒く、頬と顎に無精髭がある。筋骨が隆々としていることは作業服の上からでもわかる。年齢は五十歳くらいか。派遣会社『荒海土木』の人夫だ。

 北風さんは、その手に、ガッチャを掴んでいた。二十数センチの先のとがった鉄の丸棒にラチェットが付いた道具だ。北風さんは、神楽のようにガッチャを操り、単管をつなぐクランプのネジをゆるめ、足場板をしばる番線の結びをほどいた。ばらされた単管と足場板は、上から下へと人の手を介して地上までおろされた。

 濃いサングラスをかけたずんぐりむっくりの男が、スルスルと単管をのぼっていく。『稲妻建設』の社長だ。首には、拡声器をぶらさげている。

 社長は、最上段までのぼりきったが、それではあきたらず、北風さんにズンズンと詰め寄った。

 二列に並べられた巾二十四センチ、長さ四メートルの足場板がはねた。北風さんのすぐ後ろは、地上から十メートル離れた何もない空間だ。

「あぶないっしょ」

 北風さんが前に出た。その拍子に、胸がどんと社長を突いた。社長は、何かを掴もうとしたが、手すりの単管は既にばらされていた。

「お、おめぇ、何考えてやがるっ!」

「それは、こっちのセリフですよ」

 社長は、額の皺をさらに深くし、声をからして言った。

「おめぇんとこの人夫にんぷが一人いなくなってんだよっ!」

「そったら(そんな)こたぁ……」

 北風さんのが悪くなった。

「よくあるってか」

 北風さんは、単管を伝って地上に降りた。迷わず、駐車場に向かったが、工事業者の車両が規則正しく並ぶだけで、人影はない。が、一台だけ、ドアが開いていた。『荒海土木』のワンボックスカーだ。地面のぬかるみには、蓋の開いたタッパーが幾つも転がっていた。おそらく、消えた中年男の仕業だ。人夫たちの弁当を抱えたまま、足を取られたらしい。

 北風さんは、コンビニの公衆電話から『荒海土木』の事務所に人夫が逃げたことを報告した。

「逃げられただとっ! 馬鹿このっ! だから、おまえはプータローって言われるんだっ!……」 

 吠えているのは、社長だ。

 北風さんは、受話器を耳から遠ざけ、コンビニに入ろうとする『荒海土木』の人夫たちに言った。

「高い弁当は選ぶんでねぇぞっ! おらが金を払うんだからなっ!」

「……おいっ、聞いてるのかっ!?…… 」

 社長の受話器を誰かが取り上げた。

「……北さん、帰りに駅に寄ってね。忘れないでよ」

 あねさんだ。切れ長で一重まぶたの目は、笑うと愛嬌があった。


 札幌駅の送迎用駐車場を、夕闇が呑み込んだ。ひしめきあう車は、白線の駐車枠をめぐって争奪戦を繰り広げた。手配師が片手を挙げた。男が近づいてきて、私を見た。人を食った目だ。

「このあんちゃが……」

 男は肩を落とした。

「会社から怒られるのは、おらなんだぞ」

「冗談がきついな」

 手配師が、私の肩に手をのせた。

「このお兄さんは大卒だべ」

 大卒という言葉を聞いて、この時ほど恥ずかしく思ったことはない。手配師が、私の背中を押した。男が言った。

「逃げるんでねぇど」

 私は、助手席に乗せられた。作業服の男たちは後ろで窮屈そうにしていた。車は、駅を離れ、国道にはいった。男が、話しかけてきた。

「おらの名前は、北風太郎。北を取ったら、プータローだ」

 おもしろくも何ともない。

「追われてるんじゃねぇべな?」

 言葉に詰まった。

「冗談だべ。その顔じゃあ、何もできねぇもな。今までやってた仕事は?」

「やめました」

「当分遊べねぇど。休みはねぇし、給料がもらえるのは、ずっと先だ。やめた方がいいんでねぇのか?」

「やります」

「だべ。オケラだもな」

 車は、小川に面した草原くさはらに進入した。ヘッドライトが消えると、辺りは闇になった。車内からこぼれた灯りが、杭に打ち付けられた板切れの『荒海土木駐車場』という文字をかろうじて照らした。

 だぶだぶな作業服を着た人夫が、

「おばんでした」

 と、頭を下げた。

「そったらことしてっから、タメは馬鹿にされるんだ」

 その声の主は、図体もでかかった。

「オオイッ」

 北風さんは大男をそう呼んだ。歳は三十歳ぐらい、私よりは上だ。

「何だよ?」

「タメじゃなくて、タメサンだ」

「知らねぇでや」

 猫たちが、どこからともなく集まってきた。タメサンが、弁当の残りを草の上に置いた。猫たちは我先に弁当を囲んだ。

 草原から、朽ちかけた数軒の平屋が見えた。人夫たちは、そのうちの一軒を目指した。

 木枠にスリガラスをめた玄関戸が、ガタピシと鳴った。上がり框の正面に畳の大広間、右手に、対面式の台所がある。モルタルの流し台は角が欠けていた。人夫たちは、肩や肘をぶつけながら、カレーを長机で食べた。北風さんが言った。

「ここは天国だべ?」

 私は、相槌を打つのも忘れ、カレーを掻きこんだ。賄い夫が、ガスコンロで煙草に火をつけ、一斗缶に腰をおろした。

「めしはなんぼでもあるから、遠慮するんでねぇ」

 私は、おかわりをした。

「よく食う奴だな」

「北さん、あんまり、ちょすでない(からかっちゃ駄目)。腹が減ってるんだも」

 賄い夫が、流し台の水で煙草を消した。人夫たちは早々に食事を終え、食堂から出て行った。

 木戸が半開きになっている台所の脇の小部屋で、誰かが私を呼んだ。世話役だった。ぽっちゃりとした頬に温厚さがにじみでていた。テーブルの上に紙と鉛筆を置き、住所と名前を書くようにと言った。

 私は、嘘の名前を書いた。『梨島郁太』。自殺をしても、日本国籍は消えないが、偽名を使えば、日本国籍は消えたも同然だ。

 北風さんが、茶々をいれた。

「とってつけたような名前だべ」

 その通りだから、しかたがない。

「穿鑿する気なんかねぇからよ。働けば給料をくれるし、税金も払ってくれる」

 北風さんが、嘘の名前と私の顔を見くらべた。

「ナシジマイクタ……ナシジ、マ、イク、タ……タマを抜いたら、ナシジイク……ナシ、ジ、イク。イクジナシ。ぴったりだべ」

 世話役が大様に言った。

「困ったことがあったら、いつでも言ってよ」

 帰り際、北風さんが、後片付けをする賄い夫に声をかけた。

「イシサン。ごちそうさま」

「どういたしまして」

 外に出るや、私は、我慢できず、北風さんに言った。

「先に行ってください」

「何でだべ?」

 暗くて顔は見えないが、声に、疑念があった。私は、なりふり構わずズボンをずり下げ、道端にしゃがんだ。

「野グソか」

 北風さんは、つまらなさそうに言った。

 宿舎の平屋は、中のつくりが食堂とはわずかに違う。上がり框のガラス障子を開けると大部屋だが、その左手に三つの小部屋がある。

 大部屋に足を踏み入れた途端、嫌な臭いがした。ビニール紐にかけられた生乾きの洗濯物。不完全燃焼を続ける石油ストーブ。煙草の煙りと酒と汗と垢にまみれた人夫たち。それらの臭気がまざりあい、よどんでいる。

 小型カセットプレーヤーをヘッドフォンで聞く青年が、ウイスキーのグラスをぎこちなく口に運んだ。オオイが、青年に言った。

「おい、ゲンキ。ニッタラニッタラしてっけど、そんなに楽しいのか?」

 本人は、ウーロン茶をがぶりと飲んだ。

「アウゥ……アウゥ……」

 言い返そうとしたが、言い返せない。ゲンキには、軽い言語障害がある。

 窓際に設置された洗濯機に初老の人夫が水を入れた。白髪の間から赤い頭皮が透けて見える。

「北さん。洗濯物はあるかい?」

「焼酎がほしいんだべ?」

 北風さんが、作業服を脱いで放った。

「ヤマサン。あとでまわしてやっからな」

「気は使わなくてもいいから」

「ぜんこ使えってか?」

 北風さんが、私の顔を見た。

「おい、イクジナシ。落ち着いてる場合じゃねぇど」

「……?」

 ゲンキが、頭をくねらせながら、足を引き摺り、私の前をいく。幼児のときに患った脳の病気が原因だ。

 別の平屋では、壊れた電気製品と家具が大部屋を占拠していた。その奥にある布団の山は、ひどくかび臭く、つかむと、ざらざらとした感触があった。

 ゲンキが、閉じられた一番奥の襖に向かって手を合わせた。

「タ、タァメサン、ネ、ネテェタラ、ゴゥメンナサイ」

 返事はなかった。

 物置と宿舎を何度か往復し、布団を運んだ。大部屋の入口横が私の寝場所になった。

 私が穿くジーパンの尻にうっすらとシミがついていた。

「わやだな……みったくない(みっともない)……そったらもの、ぱっぱと脱いじまえ」

 北風さんが、作業ズボンとパンツを投げてよこした。

「遠慮はいらねぇ。いなくなった奴らのだ」

「ありがとうございます」

 とは言ったものの、善意なのか悪意なのかはかりかねた。他人のパンツははきたくなかったが、贅沢を言える身分ではない。

「北さん、コーヒーを恵んでけれ」

 顎の尖った男は、壮年にもかかわらず、蚊の鳴くような声をしていた。

「なぁーんも、遠慮なんかしねぇでけれ」

 北風さんの声は、対照的だった。

 男は、1,5リットルのペットボトルを用意した。

「あー。搾りたての乳があったら、なまらうまいべな」

「ワタナベさんは、牧場をやってたんだべ?」

「そんだよ。ベコが沢山いてさ、おっきなタンクローリーが毎朝来てたんだも」

 ワタナベは、新聞紙で作ったジョウゴでコーヒーの粉をペットボトルに惜しげもなく入れた。

 それを見て、北風さんが、額の血管を浮かせた。

「おいっ、誰が、お茶代わりに持って行けって言った!?」

 ワタナベは、あたふたとし、コーヒーの粉をペットボトルから瓶に移そうとした。

「戻すんでね。しっけるべや」

 ワタナベは、ばつが悪そうに、ストーブの薬缶を掴もうとした。すると、どんぐり目玉の人夫が、目をいた。

「いっぱい水を入れてりゃ、いつまで待ったって、沸かさらない(沸かない)べさ」

「テルチャン、還暦になったんだろ? 興奮したら、体にさわるべ」

 北風さんが、私を見た。

「おいっ、イクジナシ。おらについて来い」


 スナック『未練』は宿舎からでも歩いて行けた。そこは、数人が座れるカウンターに、四人がけのボックスが一つという、こぢんまりとした店だった。

 ダウンライトの淡い光が、後ろ髪を束ねてあらわになったママのうなじを照らす。薄地のワンピースがよく似合っていた。決して美人とは言えないが、大人の甘い香りがした。アルバイトのホステスが、カウンター席のママと北風さんと私に水割りをつくってくれた。

「おんちゃん」

 ママは、北風さんをそう呼んだ。北海道では弟という意味だ。話し相手に兄弟がいて、その人が弟であるならば、他人であってもそういうふうに呼ぶ。

 ママが、小指を立てた。

「いい人ができたんでないかい?」

「なんも(ちっとも)だよ」

「あっちの方はどうなのさ?」

「……?」

 ママは、北風さんの膝に手を置いた。

「体に毒だべさ」

 北風さんは、喉を鳴らして、水割りを飲んだ。

「おんちゃんは、何が楽しくて生きてるのさ?」

「おいっ、イクジナシ」

 北風さんが、話の矛先を私に向けた。

「何のために生きてるんだっ?」

「映……」

 言いかけてやめた。もう終わったのだ。

「何もねぇのか?」

「……」

「それじゃあ、虫と変わらねぇべや」

「目指すものはあったんですが……」

「だったら、やればいいっしょ」

「それができるなら、ここにはいませんっ!」

 つい、声が大きくなった。

「人に奢ってもらって、口答えするんでねぇ」

「すいません。酔っぱらってしまいました」

「それじゃあ、かっぱらいだべよ」

「……」

「おら、嘘は言わねぇけど、冗談は言うど」


 布団にはいる頃には、すっかり夜は更けていた。すきま風が頭の先で舞った。

 朝の食堂には、別棟の人夫たちも殺到した。ザルに盛られた生タマゴがおかずだ。

 テルチャンが命令口調で私に言った。

「テコを取ってけれ」

「……?」

 ヤマサンが教えてくれた。

「箸のことさ」

 オオイの掴み損ねた汁椀が、テーブルの上でゴトゴトまわった。

「あー、まかすかと思ったべや」

 テルチャンが私に警告した。

「味噌ツユをまかすんでねぇど」

「?」

 ヤマサンが助け船をだしてくれた。

「こぼすなってことさ」

 昔、『ロッキー』の生タマゴのシーンを見て、閉口した。それぐらい生タマゴは苦手だ。そこで、私は、丼めしに味噌汁をかけた。テルチャンはそれを見逃さなかった。

「そったらことして、いいと思ってるのかっ?」

 ヤマサンが言葉を足してくれた。

「昔の土方はな、土砂が崩れるからって、それをやらなかったのさ。そうだよな? テルチャン」

「おらは知らねぇでや」

 ゲンキが、テーブルに丼を押さえ込み、頑張って箸を動かした。

「よくそんなに食えるな。どこに入るんだか」

 オオイの言葉は大人げなかった。ヤマサンが言った。

「めしは、体が食うんじゃなくて、仕事が食うんだ。オオイ以外はな」

「このがんべたかり(かさぶた野郎)がっ!」

 ノジがつぶやいた。

「ち、ち、ちかれるな」

 駐車場は、まだ、暗色あんしょくの中にある。エンジンをかけると、車が、黒煙を噴射した。ゲンキがやってきて、皆の弁当が入ったレジ袋を車に載せた。

 札幌の街が、うっすらと蜜柑色に染まっていく。車は、ビルの間を縫って進んだ。

「誰だっ? こったらところにっ!」

 北風さんが、力まかせにブレーキを踏んだ。空き缶が、ぐしゃっとつぶれた。私は、つんのめり、ダッシュボードで頭を打った。後ろも散々だった。

 北風さんが、ルームミラーで人夫たちを見て言った。

「そったら顔するんでない……あ、そうか。あったけぇものが飲みてぇんだべ? それならそうと言えばいいべや」

「北さん、ごち」

「オオイは給料もらってっから、自分で買えるべ」

「タメも金もってるぞ?」

「誰が呼び捨てにしろって言った? サンをつけねぇか、サンをっ! 次は降ろすからなっ!」

「じゃあ、ゲンキは?」

「おめぇのだけ買わねぇって言ってんだ!」

 通行人を見かけるたびに「いらっしゃい」と呼びかける男が、ほうきで砂ぼこりを巻き上げた。通行人は、迷惑そうに足をはやめる。

「挨拶をするなら、おはようでしょ」

 男は、きょとんとした。

「北さんの言う通りだぞ」

 と、オオイが、コンビニに入った。

 私は、レジカウンターに缶コーヒーを並べた。北風さんが、アルバイトの店員に言った。

「あのおやず(おやじ)は、何とかしねぇとまずいべ」

「?」

「いらっしゃいしか言えねぇんだも」

 アルバイト店員は、外を見て、ぷっと吹き出した。

「なした(どうした)?」

「あれでも、いや、あの人はこの店のオーナーなんです」

 百円玉はそれ以上でもそれ以下でもないが、缶コーヒーは、あったかかった。


 『稲妻建設』の事務所は、札幌市のほぼ中央にある。

 中に入ると、社長が、ハンドマイクでいきなり食ってかかった。眉毛が、吊り上がり、サングラスからのぞいた。

「毎日毎日ゴミばっかよこしやがって。おめぇんとこのおやじは何を考えてるんだっ!」

 社長が、ばんっと黒板を叩いた。『動』と『働』の下手くそな文字が並んでいる。

「おめぇらにゃあ、むずかしすぎてわからねぇべな」

 社長が、『動』の文字を拳で小突いた。

「おめぇらはこっちだ。たぁーだ、体を動かしてるだけ。動物と変わらねぇんだも。早く人間になって……」

 と、『働』の文字を拳で一突きした。

「こっちになってくれねば(なければ)困るんだわ」

『荒海土木』の人夫たちは、うなだれるしかない。

「うちは人間しかいらねぇんだっ! 何をぼさっとしてる? とっとと現場さ行かねぇかっ!」

 作業現場は、建設中の道路であった。ところが、車が到着して、これからという時に、雨が落ちてきた。オオイが、車から降り、空に向かって両手を突き上げた。

「降れっ、降れっ、もっと降れーっ!」

みんなは、その様子を見てあきれた。ヤマサンが私に訊いた。

「朝てっかり、婿泣かせ。この意味がわかるか?」

 そんな言葉は聞いたことがない。

「朝、晴れてたら、雨が降るかもしれないってことさ」

 はあ……と、生返事をした。

「したら(そうしたら)、家さ帰れるんだも、悪くねぇべや」

「テルチャンの言う通りだ」

 小雨が、しの突く雨に変わった。オオイは、民家の軒下に逃げ込んだ。

 現場事務所で仕事の中止を聞いた北風さんが、車を発進させた。バックミラーの中でオオイが小さくなっていく。

「オオイさんが……」

「文句があるなら、おめぇが運転しれ!」

「……」

「冗談だべ」

 北風さんがブレーキを踏んだ。タイヤが真砂まさにめり込んだ。車は、もとの場所にもどった。

「ボケッとしてねぇで、さっさと乗れっ!」

「ジャージャー降りだもな。どうもなんねぇ」

 オオイは、焦らず悠々と車に乗り、パチンコ屋で降りた。濡れた七分しちぶズボンは、まだ足にはりついていた。

「オオイっ」

「うるせーなぁ」

 オオイが、運転席に頭を突っ込んだ。

「みやげはいらねぇからよ」

 北風さんがアクセルを踏み込んだ。オオイの首があやうく飛ぶところだった。


   4 蓬髪ほうはつの男


 雨で、仕事は流れたが、昼の弁当はなくならなかった。

 世話役が宿舎に来て、

「北さん、頼むね」

 と、蓬髪の男を残していった。脂っ気のない髪と煤けた顔には、老いが感じられた。北風さんが、かまをかけた。

「あずましくないっしょ(落ち着かないでしょ)?」

 男は、うつろな視線を宙に泳がせた。

「蜘蛛の巣は、蜘蛛が入ったり出たり……。ここも、蜘蛛の巣と一緒だべ」

 ヒ、ヒック。

 男が、しゃっくりをした。

「飲んでるのか?」

「うんにゃ」

 男は、トレンチコートを脱ぎ捨てた。

 北風さんは、コップに焼酎を注いだ。

「飲むか?」

 男は、危なっかしい手つきでコップを掴み、一気に飲んで、ひと息つくと、そのまま横になり、鼾をかいた。

「あー、いたましい(もったいない)」

 北風さんは、焼酎のペットボトルを抱きしめた。

「おい、イクジナシ。そこのおやず(おやじ)をオオイの部屋に転がしとけ」

 私は、男をかかえて引きずり、どうにかこうにかオオイの布団に寝かせた。トレンチコートが、砂ぼこりをまき散らしながら、こっちまで飛んできた。

 『荒海土木』の事務所は、宿舎の裏手にある。そこから帰ったワタナベが、余程腹に据えかねたらしく、あねさんとのやりとりを皆にぶちまけた。

「おらは、コーヒーと砂糖をもらいに行っただけなのに、欲しい物が多すぎるんでないかい、って言われたさ。しかも、勘違いしてさ、欲しいのはお酒だったっけ、って言うから、おら、酒は飲めねぇ、って言ったっけ、そったらこと、どうだっていいっしょや、ってきれたんだわ。挙げ句に、給料日にガタガタ言うでないよ、って怒るんだよ」

 それでも、あねさんは、コーヒーと砂糖を渡してくれたそうだ。

 北風さんが、ワタナベに訊いた。

「今まで何を買ってもらった?」

「えーっと……作業服と、長靴と、ジャンパー、それに、下着と、セーターと、煙草……そんなもんだよ」

「先月は何日稼いだ?」

「半分ぐらいかな」

 ワタナベに同情する者は誰もいなかった。

「……おい、イクジナシ。悪いけど、イカを買ってきてくれねぇか。あとは、おめぇが欲しい物をな」

 北風さんの財布が飛んできた。

「スルメですか?」

「アッタリメェで万年、鶴は千年」

 潮の香りがする海岸べりの雑貨屋でスルメを買った。煙草も売っていたが、それは買えなかった。

 日が暮れかかった頃、蓬髪の男が布団から抜け出し、トレンチコートを着た。ストーブの上でスルメがはじけ、こうばしい匂いがした。北風さんの目が男をとらえる。

「おい、おやず。どこさ行く?」

「ちょっくら頭を冷やしてくるべ」

「溝にはまるんでねぇよ」

 男は、出ていったきり、戻ってこなかった。

 私は、布団をたたみかけて、目を疑った。びしょびしょなのだ。

 北風さんが言った。

「ストーブで乾かしゃ、わかりゃしねぇべよ」

 私は、ストーブの前で布団を広げた。アンモニアの臭いが鼻をつく。ノジが、口をとがらせた。

「ね、ね、寝小便か。ま、ま、まずいべ」

 ヤマサンが、寂しそうにつぶやいた。

「昔の稼ぎ人は、仁義をきったもんだけどな」


 オオイは、何でも人に言いたがるたちだ。

 その夜、街灯の下でタメサンが新聞を読んでいたらしい。ジャンパーを着ていたにしても寒かったことだろう。

「おばんでした(こんばんは)」

「やいやぁー、出たなぁもう。がっぱり(がっぽり)いただきよ……わかるか? これだからやめられねぇんだ……」

 タメサンに朝までその話をしても、徒労に終わるだけだ。

「……新聞が読みたいなら、家で読めばいいっしょ。そったらことしてっから、馬鹿にされるんだ」

 タメサンが、ぼそっと言った。

「電気代がもったいない」

 そのあとは聞かなくても知っていた。


 大部屋は、鼾の大合唱だった。忍び足は無用である。オオイは、小部屋の襖を閉めた。蛍光灯の明かりがれる。がさがさと包装紙の音がした。

「あー、負けた負けた」

 オオイが、何かを食い始めた。

「カァッタ、ンダベ」

 キヨシだ。声を殺してオオイが言った。

「くっちゃべって(しゃべって)ねぇで、はやく寝ねぇか」

 二人より先に、私の方が眠りに落ちた。


 明くる朝は、てっかりと晴れた。出向いた先の団地の一角は、あまりにも狭すぎた。重機が持ち込めない現場では、人力だけが頼りだ。

 北風さんが声を張りあげた。

「おいっ、イクジナシ。鶴と亀とたこを猫に乗せて持ってこいっ!」

 当惑した。

「考えてる暇はねぇど。さっさと行かねぇか、このっ!」

 猛然と駆けだした。


 助監督をやっていた時、罵声を浴びる度に、手足が痺れ、頭が真っ白になった。できることといえば、走ることだけ。ただし、真っ直ぐに走れない。大きく蛇行してしまう。それを見た監督が、かに走りと命名した。


 ブルーシートをがすと、見たこともない道具が次々にでてきた。何が何だか見当すらつかない。

 傍の公園に、小さな池があった。その中に亀がいる。焼き物ではあるが……。これだ、とひらめいた。そのあと続けて、頭のはげた老人と、たこ八郞のそっくりさんを見つけた。

 現場の采配をしている北風さんが奇異なものでも見るように私たちを見た。

 置物の亀。これは、一目瞭然だろう。私は、次に、老人のハゲ頭の上に両手をかざした。

「鶴です」

 たこ八郞のそっくりさんが、奇声を発した。

「たっこでーっす」

 北風さんが、後ずさった。

「馬鹿たれっ!」

 そっくりさんと老人が背筋をピンと伸ばした。

「どこにも猫がいないんですっ」

「そったらこと、どうだっていいべや」

「どうも申し訳ありませんでしたっ」

 頭を私が下げ終わらぬうちに、二人はいなくなった。

「あっ、そうか。……結婚式の披露宴で出るもの、何かわかりますか?」

 北風さんが首をかしげた。

「つるつるかめかめ。そーめんですねっ」

「馬鹿野郎っ! 大喜利やってるんじゃねぇんだっ」

 先山さきやまのヤマサンが、ツルハシを振りおろし、穴を掘り進む。ツルハシは、略してツルだ。穴の深さは人の腰ぐらい、巾は人が動けるぐらいの大きさである。

 すぐ後ろで、タメサンとワタナベが、穴のふちに剣先スコップを突き刺し、均一に形を整えた。剣先スコップがカメと呼ばれるのは、鉄の部分が亀の甲羅に似ているからだろう。

 さらに後方では、ゲンキが、穴に入れられた砕石を角スコップでならし、オオイが、ホッピングを頑健にしたようなランマという機械でそれを叩いて締めた。

 そして、その上に、設備業者が水道管を並べ、つなぎ合わせていく。

 それに真砂まさをかぶせるのが、私の仕事だ。真砂を運ぶのにはネコがいる。ネコとは一輪車のことである。

 殿しんがりを務めるのは、テルチャンだ。短く切った丸太に持ち手の棒を二本打ち付けたタコという道具で真砂を突く姿がさまになっていた。

 空になった私のネコに、タメサンが土を投げ入れた。テルチャンも、手がすき、穴掘りに加わった。

 ヤマサンが、私に訊いた。

「段取り八分って知ってるか?」

「?」

 テルチャンが言った。

「仕事がうまくいくも、いかねぇも段取り次第だぁ」

 ワタナベが、しゃがみ込んだ。作業服は汚れていない。

 オオイが、ランマのエンジンを切った。

「まだ休憩じゃねぇど」

「……」

「俺が言うことが分からねぇのか?」

「言われねくても分かってるべや」

 ワタナベは、ふてくされたように、穴からはい上がった。オオイが、ガンを飛ばした。

「トイレだべ」

 と、ワタナベは、民家の陰に消えた。

「あのおやじときたらどうもならんさ。むったりくる(むっとする)わ」

 と、オオイが大あくびをした。

「目糞が鼻糞を笑ってるぞ」

 と、テルチャンが、鼻で笑った。

 北風さんが怒鳴った。

「おい、イクジナシっ。体が動いてねぇど!」


 日が暮れて、現場事務所に行くと、『稲妻建設』の社長が北風さんを待ちかまえていた。

「おめぇらが仕事をしねぇから、元請けがうるせぇんだわ。仕事は順調に進んでるかって。おかげで、うちの電話は朝から晩まで鳴りっぱなしよ」

 『荒海土木』は『稲妻建設』の下請けだが、『稲妻建設』もどこかの会社の下請けだ。

 社長が、北風さんの顔を睨みつけた。

「何だ、そのつらは? 言い訳もできねぇくせに」

「……」

 猫を噛めない窮鼠。

「もっとビシビシやって、早いとこ終わらせろってよ」

「おいっ、イクジナシっ。おめぇがぼけっとしてるからだっ」

 責任の一端は私にもある。

「下請けは、『荒海』だけじゃねぇんだぞ」

 私は、九名の名前を日報に記入し、社長の認め印をもらった。

「明日も同じ数だ。クズはいらねぇど」

 と、帰り際に言われた。

 人夫たちのもとに戻って、北風さんが低い声で言った。

「おめぇらといたら、むごいめにあうべや」

 期せずして、白く淡い塊が近づいてきて、すっぽりと九人を包み込んだ。それは、綿毛を持った微細な虫たちの集団だった。

「ゆきむしか」

 テルチャンの声は、しゃがれていた。ヤマサンが、しみじみと言った。

「雪の季節がやってきたな」

 北風さんが、ぺっ、ぺっと唾を吐き捨てた。口の中に雪虫が入ったらしい。

「ふわふわしてて、なんだか頼りねぇ」

 オオイが、口を滑らせた。

「プータローと一緒だな」

「誰が、プータローだって?」

「俺は、らね」

「パチンコ、勝ったんだって?」

 オオイが、ゲンキを問い詰める。

「しゃべったのか?」

「アウゥ、アウゥ……」

 障害が、ゲンキの言葉を奪う。

「煮て食っちまうぞ!」

 ヤマサンが、オオイに言った。

「うまいものを食うときは、一人がいいよな?」

 オオイが、青っぱなを飛ばした。北風さんは懸命に身をよじったが、青っぱなは長靴に命中した。

「気をつけねぇか、このっ!」

 車のヘッドライトが、道路にあふれている。信号待ちの車に、コンビニの店長が、声をかけた。

「おばんでした」

 運転席の北風さんが怒鳴った。

「箒なんか持ってねぇで、店長なら店長らしくすべぇ(しろ)よ」


   5 エビス


 〝これからは忙しくなるべさ〟

 あねさんの言葉通り、『荒海土木』に浮浪者がまた一人やってくる。

 札幌駅の構内では、でっぷりとふとった老人が、目を閉じ、手配師の足元であぐらをかいていた。その体が、床に向かって傾いていく。北風さんと私が、あっ、と思った瞬間、老人は、ふっと体勢を立て直した。

「おい、とうさん」

 手配師が、ぴしゃぴしゃと老人の頬を叩いた。

「……」

 老人の名は、エビスといった。


 宿舎に戻ると、ノジが、布団からでて、羊羹を取り出した。

「く、食うか?」

「どもども(どうもありがとうございます)」

 エビスは、むしゃむしゃと羊羹を食べた。北風さんが、焼酎を注ぎ、大声で言った。

「いけるんだべ?」

「どもども」

 エビスは、いとおしむように焼酎をなめた。北風さんが声を張りあげた。

「おらは、のんべえが大っ嫌いだっ!」

 エビスが、あわててコップを置いた。

「したども、なーんも遠慮なんかしねぇでけれ」

 エビスが面食らっている。

「さーて、寝せるか」

「……?」

 北風さんが、空のペットボトルを転がした。

「焼酎の瓶を寝せるってことよ」

「コノヤローッ! ふざけやがって」

 その声には誰もが驚かされた。エビスである。焼酎に蜘蛛が浮かんでいた。蜘蛛は、無駄な抵抗と知ってか知らずか、足をばたつかせている。

「おらの酒だっ!」

 エビスは、むくんだ指で蜘蛛を取り、分厚い唇でちゅーっと吸った。それで気がすんだのか、蜘蛛を投げ捨てると、口の中で焼酎をころがした。

 イヤホンでラジオを聞きながら、ノジがつぶやいた。

「ち、ちかれるな」

「おい、行くべ」

 私は、洗面器を渡された。中には、入浴券とタオルが入っている。

「おい、イクジナシ。そこら辺に耳かきねぇか?」

 私は、マッチ棒を渡した。

「そったらもの……耳に火がついたらどうするっ?」

「……」

 銭湯は、閑散としていた。湯船には、一足先に来たワタナベしかいない。北風さんと私も湯に身を沈めた。ワタナベが、メッキのはがれた湯の蛇口をひねった。

「ああ、牧場の方がなんぼかいいべや。今の仕事はおらにはむいてねぇ」

「愚痴は言うもんでねぇ」

「牧場を経営してたんだも。ほんとだよ」

「昔の話をするんでねぇ」

 ワタナベが私の方を向いた。

「おにいさんは、なして、こったら仕事をしてるのさ?」

「……」

「内地から逃げてきたんだべ?」

 声が、浴場で反響した。

「あねさんが言ってたぞ。指名手配のポスターに似た顔があったってな」

 冗談とも本気ともとれる。

「ふぅー、あったけぇ。おらと一緒にこいば、牧場ならなんぼでも紹介するよ」

「おめぇの世話なんかなんねぇ」

 北風さんが、立ちあがった。まるでで蛸だ。ワタナベが、素知らぬ顔で訊いた。

「熱すぎたべか?」

「長風呂してたら、男のダシが抜けちまうでや」

 北風さんは、湯船をまたぎ、洗い場に出た。私も、風呂から上がった。


 すっきりとした私は、丸めた布団に背中を預け、くつろいだ。

 オオイが、小便のシミに気づいたようだ。

「……これは俺が買った布団なんだぞっ!……くっせー……誰がやった? ただじゃおかねぇからな」

 キヨシは、笑いをこらえ、ウイスキーをちびりとやった。

 北風さんが、万年床の上で、がなった。

「オオイッ、コーラ。オイッ、コォーラッ」

「うるせぇもんだな」

 オオイが、缶コーラを持って、北風さんの小部屋に行った。

「自分で寝小便して、人のせいにするなんてとんでもねぇ」

「なしてそれを?」

らね」

 北風さんは、口の開いた缶コーラを見て、鼻の穴を人差指で押さえた。

「フンッて、やってねぇべな」

「まだ口もつけてねぇべや」

 北風さんが、コーラで焼酎を割った。

「なんぼいるんだ?」

「くっだらねぇ」

 と、オオイは、自分の部屋に戻った。

「おい、イクジナシ」

「何でしょう?」

 北風さんが、インスタントコーヒーのき瓶をタオルで拭いている。

「ちゃんと洗ったべか?」

「はあ?」

あかが落ちてないっしょ」

 北風さんが、空き瓶に何かを詰めた。……味噌だ。そこに、皮をむいたニンニクを何個も押し込んだ。そして、数種類の調味料をふりかけ、箸でかきまぜた。

 隣りの宿舎から、男が訪ねてきた。ササキである。一見、非力そうに見えるが、仕事では、一切、弱音を吐いたことがない。

「ちょっといいか?」 

 ササキが、小部屋の襖を閉めた。しかし、北風さんの声はおろか、ササキの控えめな声までが大部屋に届いた。

「北さん、いい話があるんだ」

「あいやーっ!……外でかませば(まぜれば)よかったか……ちょこっと(少し)辛味が足りねぇか……」

「いい働き場所があるんだよ。北さんもここやめてさ、一緒に行くべし(行こうよ)」

 大部屋で聞き耳を立てているのは私しかいない。

「おらはやめねぇ」

「……そこに、北さんのあんちゃんがいるかもしれねぇんだ」

「そんなわけねぇ」

 やや、間があった。

「元気でな」

 ササキが腰を上げた。北風さんは、箸を舐め、納得がいかない顔をした。

「いい仕事がねぇなあ」

 オオイが、スポーツ新聞をくしゃくしゃに丸めた。北風さんが、小部屋から出てきて、言った。

「カップラーメンねぇべか?」

 右の小部屋から、カップラーメンが飛んできた。エビスの前に北風さんがそれを置いた。

「どもども」

「数が足りねぇど」

 オオイが、また一個、投げた。

「けちけちするんでねぇ」

 カップラーメンが、レジ袋ごと、飛んできた。

 北風さんが、さらっと言った。

「休んでるのに、悪かったな。もう邪魔しねぇからよ」

 カップラーメンが皆の胃袋を満たしてくれたのは、言うまでもない。


 降りしきるみぞれが、人夫たちのカッパを濡らした。

 地中に叩き込まれた何本もの巨大な杭が、頭をのぞかせている。そのまわりに砕石を敷くのが、人夫たちの仕事であった。

 ヤマサンが、呟いた。

あめゆきか」

 オオイが、叫んだ。

「もっと降らねぇかっ、このっ!」

 北風さんは、不機嫌な顔をした。

「だはんこく(駄々をこねる)でねぇ。なんぼ降ったって、今日は帰れねぇぞ」

 一輪車を押すヤマサンが、私に話しかけてきた。

「……僕の知ってる人に芸事げいごとをしてる人がいてね、芸事は三味線シャミなんだけどさ、弟子入りをして師匠の所へ通ってたんだけど、草履をそろえたりだとか、雑巾がけをしたりだとかの繰り返しなんだ。ところがさ、稽古をつけてくれることが一回だけあってね、なんでもいいからシャミを弾いてみろって。後にも先にも稽古はそれ一回ぽっきり。だから、見て聞いて習うしかなかったんだ……」

 エビスが運ぼうとする砕石の量は明らかに少なかったが、エビスには、垂れさがる腹の脂肪と同じように重荷だった。現に、朝から一度もネコを押していない。私は、空のネコをその場に置き、エビスのネコを押そうとした。すると、砕石の山の上から、北風さんの胴間声が落ちてきた。

「何してる?」

「見ての通りです」

「何様のつもりだ」

「お年寄りには、きびしいと思います」

「ぜんこをもらってる奴が、偉そうに言うんでねぇ」

「……」

 北風さんが、飛び跳ねるようにして砕石の山から下りてきた。

「とうさんっ!」

 北風さんの声を一言一句聞き漏らすまいと、エビスが耳に手をあてた。

「一日中、ネコを見てたって、仕事をしちゃあくれねぇぞ」

 エビスは、覚悟を決め、ネコの柄をにぎるが、ネコは一向に言うことをきかない。

 後日、そこに、生コンが打たれ、マンションの基礎となった。


 ヤマサンは本と酒が好きだ。今夜も、文庫本を読みながら焼酎のグラスを口に運んでいる。北風さんが、エビスに詰め寄った。頭上で、洗濯紐にかけられたパンツがゆれた。

「とうさんっ、今までどこさたんだっ?」

「娘んとこさ居た」

 北風さんとエビスの声は、大部屋に筒抜けだ。 

「そこさ居るのが辛くなったんだべ?」

 エビスが、こっくりと頷いた。

「他に行ける所は?」

「ねぇ」

「娘や婿が何を言おうと、辛抱しなくちゃ駄目だ」

「んだ」

「こったら仕事は無理だべ」

「んだ」

「風邪をひいたってことにして、明日は休め」

 エビスが、申し訳なさそうに頭を下げた。

 大部屋の隅で、ワタナベが、不敵な笑いを浮かべた。

「とうさん、めしだけは食えるようにしてやっからな」

「どもども」

 エビスは、大部屋に戻り、布団の上に座った。


   6 ヒカル


 世話役の声が玄関から聞こえた。

「北さん、頼むね」

 上りかまちの前に取り残された華奢な少年を、北風さんが小部屋に迎え入れた。

「気いつけれよ(気をつけろよ)」

 洗濯紐のパンツが少年の頭に触れた。

「それ、洗ってねぇど」

 と、北風さんが畳を叩いた。少年は、そこに正座をした。

「いくつだ?」

「二十歳」

 どう見ても、そうは見えない。

「本当はいくつだ?」

「……」

 隙のない眼光が、目鼻立ちの整った少年の顔を台無しにしている。

「名前は?」

「……」

「下だけでも教えろ」

「……ヒカル」

「親はいるのか?」

 ヒカルが、小さく頷いた。

「どこさ居る?」

「……」

「親は知ってるのか?」

 ヒカルは、唇を固くむすんだ。

「答えなくてもいいべや。警察じゃねぇんだも。したけど、おらの言うことがきけねぇなら、いつだって叩き出すからな」

 ヒカルが、真顔になった。

「今、言っとくぞ。給料をもらったら、家さ帰れ」

「?」

「どんなに不幸な奴でも、人生の半分は幸せになれるっしょ」

「?」

「寝てるときには夢が見れるんだも」


 オオイが、振動ローラーを往復させ、歩道の砕石を締め固めた。振動ローラーは、グランド整備に使う人力のローラーにエンジンをつけたようなものを想像するとよい。

 その作業が終わると、ダンプが、振動ローラーと入れ代わり、歩道の何箇所かにアスファルト合材をおろした。

 合材の黒い山から、白いガスがあがった。『荒海土木』の人夫たちは、角スコップよりひとまわり大きなダイカクで、山を削り、合材をまき散らした。

 熱い合材が、長靴の底を溶かす。乳酸が腕を麻痺させる。額からしたたり落ちる汗が、合材の上ではじけた。

 丸い柄の先に細長い板がついたレーキという道具を体の前に立て、作業の様子を北風さんが見守る。北風さんは、まかれた合材をレーキで寄せたり、突っぱねたりして、雨水が流れるようになだらかな勾配を作らなければならない。

 そして、再びオオイの出番だ。振動ローラーで反復を繰り返し、合材を踏み固めていく。その前後で、アスファルトにゲンキが水をかける。水はたちまち蒸気に変わり、ゆらゆらと歩道をった。

「ボケッとしてねぇで、早く仕事をしろっ!」

 『稲妻建設』の社長が、ハンドマイクで声を荒げた。オオイが、振動ローラーを止めた。

「何だとぅ?」

「よそ見するんでねぇ」

 北風さんは気が気ではない。

「北さんは、きもやけねぇ(腹がたたない)のか?」

「馬鹿を相手にしたって、しょうがねぇべや」

「俺が バツーッと言ってやるっ!」

 言うがはやいか、オオイは、社長を目がけて突進した。

 ヤマサンが、私に言った。

「夏の餅だな」

「?」

がわがもたないだろ」

 覆いかぶさるようにして、オオイが、社長を見ている。

「俺に言ってるとは思わねぇけどよ、少しはものの言い方ってもんがあるんじゃねぇか」

 ハンドマイクで社長が応戦した。

「おらの前に立つんでねぇ。目障りだ。よく覚えとけ。おめぇらは一山でなんぼだ。おい、でくの坊、おめぇは明日から来なくていい」

 オオイは、形勢が逆転したとみるや、攻撃の対象を変えた。

「うちには、何回言ったってわからねぇ奴ばっかでよ、あん(ああ)でもない、こん(こう)でもないって、ごもくそ(ぶつぶつ)言いやがって。いつも俺は言ってるんですよ。いいかげんにしろって」

 北風さんが喚いた。

「いいかげんにしろっ! いつまで油うってるつもりだっ?」

 渡りに船だ。

「うちのがうるせぇから、もう行くわ」

 夕方になっても、もやもやが晴れなかったオオイは、パチンコ屋の前で会社の車から降りた。


 蛍光灯の光をうけて、水の入ったコップがキラキラと輝いている。その中に入れ歯がある。

「とうさん、晩飯だぞ」

 北風さんが、おにぎりとおかずをエビスの枕元に置いた。エビスが起き上がり、すぼんだ口でもごもご言った。

「……」

「何だって?」

 エビスが、入れ歯を口に入れ、苦悶の表情を浮かべた。

「なした?」

 エビスは、入れ歯を口から出し、入れなおすと、ひと息つき、コップの水を飲んだ。

「ごっつぉーになるべ」

 エビスが、おにぎりを頬張ろうとした。

 そのとき、ガラス障子が乱暴に開けられた。

 『荒海土木』の社長である。パンチパーマと濃い眉毛がひときわ好戦的に見えた。

 社長は、凄い剣幕で、

「慈善事業やれって誰が言った? 何考えてやがるっ?」

 と、テレビを台から蹴り落とした。

 北風さんの目に緊張の色が浮かんだ。

「こっちが大目にみてりゃ、調子こきやがって。何人逃がせば気がすむんだ、えっ!? 知らねぇとでも思ってるのか?」

「……」

「んっ、わかってるのか? どうなんだっ!?」

「……」

 社長が、北風さんの胸倉をつかんだ。

「俺ば(を)なめんなよ」

 社長の平手が、北風さんの頬を容赦なくはじいた。

「とうさんは、年が年ですから……」

「喧嘩を売ってるのか?」

 北風さんが、両手を畳に突き、

「どうもすいませんでした」

 と、頭を下げた。

「……俺の立場もわかってくれよ」

「これからは気をつけます」

 社長は、エビスを顎で指し、

「明日は泊めるんじゃねぇぞ」

 と、玄関の引き戸を開けたままで出ていった。

 そのタイミングをはかっていたかのように、宿舎に戻ってきたワタナベが、玄関の戸を閉めた。そのとき、ワタナベが、チラッと薄笑いを浮かべた。愉快な気持ちをひた隠しにしているのだ。ワタナベは、落ちたテレビを台の上にのせ、ぼそっとつぶやいた。

「テレビの音が、おっきすぎるか」

 北風さんが、ワタナベに向かって景気よく言った。

「おっきかったら、二つに割ればいいっしょ」

 社長にチクッたのは、ワタナベに違いない。

「とうさん、すまねぇ」

 北風さんが、エビスに金を握らせた。

「どもども」

「娘のとこさ行って、頭をさげるんだぞ」

 皆が眠りについた頃、宿舎に帰ってきたオオイが、襖を閉めて布団にもぐり込むのを音で聞いた。

「……アパートにはもう別の奴が住んでるべなあ……借金取りはもうあきらめたべかなあ」

 パチンコでやられたようだ。

 現住所もなく、定職もなく、戻る場所もない。この部屋の住人たちは、ゆきむしだ。

 監督や、両親、下宿のおばさんは、今どうしているだろう。


 次の朝、現場に行く途中、北風さんは、コンビニの前で車を止め、エビスに声をかけた。

「おらが言った通りにするんだぞ」

「……」

「うまくやれよ」

「……」

 車から降りたエビスは、悄然とした足取りで店の中に消えた。北風さんは、すぐに車を出さなかった。

「イクジナシ。ちょっと見て来い」

「まだ、買い物が終わってないんじゃないですか」

「いいから見て来い」

 陳列棚の陰で、エビスが、コンビニの店員に何かを問い詰められている。私は、陳列棚の向こうにまわった。店員が、エビスの財布から一万円札を抜き取るのを目撃した。ほぼ同時に、後方から飛んできたいかつい手が、店員の腕をとらえ、ひねりあげた。私の前に躍り出た北風さんが、鬼のような形相で、すごんだ。

「この金は何だべか?」

「このじじいが万引きをしたのさ。鞄の中を見ればわかるべ」

 店員の言葉に嘘はなかった。

「こったら高い弁当がどこにある?」

 北風さんは、一万円札を店員から取り返し、エビスの財布に戻した。

「なんぼだ?」

 店員は、おびえた目で北風さんを見た。

「おらが払うって言ってるんだ」


 それから、数日が過ぎた。

 朝の出がけに、テルチャンが目くじらを立てた。

「畳の上で靴をはくんでねぇ」

 ヒカルは、小鼻をふくらませ、新品の長靴を畳に叩きつけた。

 ヤマサンが、誰に言うともなく言った。

「畳の上に二度と上がれなくなるってことさ。つまり、帰って来れなくなるかもしれないってこと。テルチャン、そうだよな?」

「おらは、知らねぇでや」


 ユンボが、アームを折り曲げ、ヒューム管を埋めるための穴を掘っていた。遠からず、ヒューム管は延々と繋がり、下水道となるはずだ。

 掘削してできる土の壁には、崩落の危険が常にひそむ。それを防ぐのが土留めだ。

 『荒海土木』の人夫たちは、土留めの作業にとりかかった。

 地上にいる北風さんとヤマサンとワタナベと私は、土留め板を真っ直ぐ立て、掘削された穴の壁に当てがった。穴の深さは、三メートルぐらいである。穴の底にいるタメサンとテルチャンとノジは、壁を覆う土留め板を垂木タルキで繋ぎ、互いに向きあう土留め板と土留め板との間にバタカクと称する角材を渡し、くさびで固定した。手を抜けば、土砂が崩れ、体がつぶされる。

 ヒカルが、角材と楔をネコに満載し、運んできた。

あんちゃも駅で拾われたんだべ」

 『稲妻建設』の社長が、大人げない言葉を投げた。ヒカルは、自棄やけになり、ネコをひっくり返した。舗装の上で角材が跳ねた。

「兄ちゃも、きかねぇ(気の強い)野郎だな」

 と、ユンボの横で采配をするオオイが、やってられないなという顔をした。

 社長が、ヒカルに訊いた。

「年は?」

「おらは四十六だべ」

 と、北風さんが、ヒカルの後ろから横槍を入れた。

「二十歳」

 と、ヒカルが言った。

「そうは見えねぇ」

「本人が言うんだから間違いねぇべや」

 社長の顔色があおくなった。

「腹のあんばいがいくねぇでや」

 社長は、腹を押さえ、虚ろな目を宙に泳がせた。


 昼休憩が終わり、再び、工事が始まった。

 穴に向かって、ゲンキがやって来る。土留め板をかかえたその格好は、ヤジロベエさながらだ。ゲンキの右肩が、がくっと落ちた。大きくふれた土留め板の角が社長の尻にあたった。

「いてぇべやっ! くそガキがっ! ぶん殴ってやるっ!」

 社長が、拳を振りかざした。土留め板が、キヨシの手を離れ、舗装の上ではねた。ゲンキは、しゃがみこみ、手で頭を隠そうとした。ところが、手が思うように動かない。

「アウゥ……アウゥ……」

 間に割って入った北風さんが、ドスのきいた声で言った。

「おらを殴ってけれ。遠慮はいらねぇべ」

 オオイが、ユンボのエンジン音に負けじと、言った。

「プータローは短気たんぱらだもなあ」

 テルチャンが、まぶたをさらに開いて言った。

「きもやけて(腹が立って)きたでや」

「俺だってそうだよ」

 社長は、

「おめぇらみてぇな住所不定に、好き勝手はさせねぇからな」

 と、威勢よく言い放ったが、その後は、急に顔をしかめ、よちよち歩きで簡易トイレへと向かった。

 北風さんは、この機を逃すまいと、手を大きく振りまわし、頭や尻を大げさに叩いた。そのサインに気づいたオペレーターは、ユンボを旋回させ、下向きにしたバケットの先で、ヒューム管の端をじわじわと押した。もう一方の端側には、簡易トイレが設置してある。北風さんが、絶妙のタイミングで、ヒューム管の端と簡易トイレの間に土留め板をかました。アームの伸びに呼応して、簡易トイレの底が少しずつ地面から離れていく。

 簡易トイレの中から、声がもれた。

「おいっ、おおい、、おいぃー……」

「もうちょい、もうちょい」

 北風さんが、手のひらを微動させた。

 社長が叫び続けている。しかし、何を言っているのかわからない。

 簡易トイレは、造作なく倒れた。

 北風さんが、腕を指さし、OKマークを指で作った。

 オペレーターの相好が崩れた。

 北風さんが、声を張りあげた。

「オオイッ! 何してるっ? 早く助けねぇか、このっ!」

「誰をっ?」

「そったらこともわからねぇのかっ!」

 ヤマサンが言った。

「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」

「馬はトイレですね」

 私の言葉に、ヤマサンが頷いた。

 オオイが、及び腰で、簡易トイレのドアを開けた。

「こりゃあ、どもこも(どうもこうも)なんねぇべや」

 オオイが鼻をつまんだ。

滅茶苦茶わやだな」


   7 背広の男


 日々の疲労をたくわえた人夫たちの夜の楽しみは、ストーブを囲むことぐらいしかない。

「北さん、頼むね」

 世話役が、背広を着た会社員風の男を連れてきた。定年には、だいぶ間がありそうだ。

「まかせてけれ」

「困ったことがあれば、北さんに相談してよ」

 その言葉と、背広の男を玄関に残し、世話役は、そそくさと帰って行った。

「オオイッ、オオイッ」

「うるせぇもんだな、まったく」

 オオイは、北風さんの小部屋をのぞいた。

「きったねぇパンツ。何とかなんねぇのか」

「ちょっこし(ちょっと)出かけてくるからよ、面倒を見てやってけれ」

 オオイが、背広の男に向かって、小馬鹿にしたような言い方をした。

「仕事はできるんだろうな?」

「……」

 背広の男は、だんまりだ。

「オオイッ、頼んだぞ」

「今日は大当たりの日だべ。俺に奢ってくれたって、罰当たらねぇんじゃねぇか」

 オオイの手を北風さんが叩いた。

いてっ」

「おめぇは、いつも罰当たりだ」


 その夜は、生憎あいにくのお茶っぴきで、『未練』のママは、最初から最後まで北風さんにつきっきりでお酒の相手をした。そのせいで、私も、北風さんに肩を貸すはめになった。

「後はお願いね」

 アルバイトのホステスは、ママに愛想笑いを返すしかない。

「何さ、醜女みったくなしが」

 私には、ホステスの呟きが聞こえた。

 『未練』の外は、肌寒かった。

「たまにしか来ねぇんだから、送ってくれなくてもいいべよ」

 北風さんの呂律ろれつがおかしい。

 ママが、しなをつくって言った。

「たまにはいいでしょ」

 北風さんが股間に目をやった。私は、少し嫉妬心をおぼえた。

『荒海土木』の駐車場には、人の気配がなかった。ママは、車のドアを開け、北風さんを後部座席に押し込もうとした。そのとき、タメサンが、暗黒の中から忽然と現われた。

 北風さんが、怒ったように言った

「仕事に行くには早すぎるべや」

「誰かが物置さいるんだも」

「いるわけねぇべや」

「ここで寝るからいいんだ」

 と、タメサンは、車の中に入った。

 それでは、ママの気がおさまらない。

「行って確かめるべさ」

 三人が、物置代わりの宿舎まで行くと、微かに灯りがもれていた。

「……タメサンがいねぇんだから、誰もいねぇべよ」

 その声で、もれていた灯りが消えた。

 北風さんが、パンパンとかしわ手を打った。

「タメサン、ちょっこま(ちょっとの間)貸してけれ」

 ママが、靴を脱ぎ捨て、北風さんの唇に吸いついた。二人は、がらくたの山に体をぶつけながら、もつれあった。ママが、目を吊り上げて言った。

「いつまでそこにいるつもり? はんかくさいんでないかい(馬鹿じゃないの)」

 私は、二人に背を向け、外に出た。気持ちが清々とした。

「きゃーっ」

 悲鳴が闇を裂いた。

 私は、宿舎に飛び込んだ。タメサンの部屋に、二つの光る目があった。私は、蛍光灯をつけた。呆然とたたずむヒカルが三人の目にさらされた。片方の手に懐中電灯、もう片方の手に剥き出しの一物いちもつがある。畳に転がるティッシュペーパーの箱がもの悲しかった。

「あたし帰るっ!」

 ママは、興ざめの態で、宿舎を後にした。

「ああ、おっかねぇ」

 北風さんは、その場にくずおれた。


「だめだぁ、ためだぁー」

 オオイは、小部屋に入るや、布団をひっぺがえした。

「寝てる場合じゃねぇべや。早く起きねぇか、このっ!」

「腹が痛くて……」

 背広の男は、再び、布団をかぶった。

「やる気あるのか?」

「……」

「どうもなんねぇ」

 北風さんが、はしゃぎながら大部屋に出て来て、一万円札をペロッと舐めた。

「金持ちは困るべ」

 と、一万円札をペタッと額に貼りつけ、

「いいとこ、はとこ、いいとこ、はとこ」

 と、上がり框の横にある便所に入った。ところが、

「あっ、いけね」

 と、ズボンを上げ上げ、木戸を開けたまま、便所から出てきた。大部屋に、糞尿の臭いがたちこめた。

「あーっ、もれるもれる」

 見てる方がやりきれない。

「懐中電灯はどこだ?」

 ヒカルが、懐中電灯を差し出した。北風さんは、くんくんと懐中電灯をぐと、ヒカルにそれを突き返した。

「白子の臭いがするべ」

 気まずそうに、ヒカルがうつむいた。

「あんちゃが照らしてけれ」

「?」

 便所に連れて行かれたヒカルは、言われる通りに、ぽっとんトイレの穴を懐中電灯で照らした。

 役目をもらったのは、ヒカルだけではなかった。

 私は、宿舎の外で見つけた棒を汲み取り口に突っ込んだ。便所の窓から、北風さんの声が聞こえた。

「かましてけれ(掻き回してくれ)」

 私は、ゆっくりと肥壺こえつぼの中を棒で掻き回した。ヤマサンは、私がすることをそばでじっと見ていた。

「やらされてると思ったら、何だっておもしろくないよな」

「……」

「何をやったって、プラスにならないことはない。僕は、いつもそう思ってる。だから、やっていけるのさ」

 オオイが、でれでれとやって来た。

「あー、くっせぇなあ。手を抜くんじゃねぇど」

 私は、即座に反応した。

「だったら、おまえがしろよっ!」

らん」

 と、どこかへ行った。

 北風さんがヒカルに言うのが聞こえた。

「糞、小便は自分のだから、ちっとも臭くねぇべ」

 ヒカルの返答はなかった。

 一万円札が見つかったようだ。タメサンが、たも網を持って中に入った。便所の中でタメサンの声がした。

「それじゃあ駄目だ」

 北風さんが、便器の穴からたも網を入れようとしたらしい。

「これでよし」

 タメサンの声だ。

「ゴム手袋をはけ(つけれ)ばいいべや」

「誰の糞だろうと、おらの腹の中にあるのと一緒だべ」

 しばらくして、タメサンが、汚れた便器を素手で持ち、外に出てきた。おそらく後で洗うのだろう。


 仕事に行く途中で、北風さんが、コンビニに寄った。支払いには、例の一万円札が使われた。店長は、一万円札をいぶかしげに見つめ、鼻を近づけた。

「水の中さ落としたんだも」

 店長は、その理由に納得のいかない顔をした。

「お釣り」

「はっ、はいっ」

 一万円札は、レジの中におさまった。


 日中は、おだやかだった。それでも、体を動かせば、下着が汗で濡れた。

 法面のりめんという人工的な斜面は、人間だけではつくれない。ユンボの力を借りることで実現が可能となる。

 ところが、山肌は粘土であった。おまけに、連日の雨で粘着力が増している。粘土を削ろうとすれば、法面バケットの底に粘土がねばりつき、それを擦りつけようとすれば、斜面がでこぼこになる。

 そこで、人夫たちが呼ばれた。

 粘土は手強い。一歩踏み出すと、長靴が埋まる。もう一歩踏み出すには、片方の足で踏ん張り、もう片方の足を引き抜かなければならない。バランスを崩して倒れるようなことでもあれば、全身が粘土の餌食となる。

 オオイが、腹立たしげに言った。

「ふっつく(くっつく)でねぇ」

 剣先スコップを思い切り上から振り下ろし、地上間際で止めても、粘土は剥がれ落ちてくれない。斜面にこすりつけようとしても、なかなか離れない。

「ねっぱる(ねばりつく)べや」

 オオイが音をあげた。北風さんが、からかった。

「なんぼ土ば、ちょーしたって(いじったって)、おっきくなんねぇぞ」

「俺のカモ(チンコ)も、なんぼちょーしたって、でかくなんねぇべや」

「もともとちゃっこい(小さい)からな」

「や、や、やらしい」

 と、ノジが、顔を赤らめた。

 スコップの扱いが下手な私に、北風さんが言った。

「余計なことはしねぇでけれ」

「法面のこの辺がちょっと高いかと思って」

「一寸二寸は土方の華よ」

 意外な答えだった。

「は、はあ」

 釘を一本打っただけの短い棒をヤマサンが私に見せた。

「馬鹿棒です」

 つい、答えを先に言ってしまった。

 粘土の斜面には、二本の垂木たるきに胴ぶちという板材を渡したせいぜい両手を軽く広げたくらいの鳥居のようなものが、等間隔で並んでいた。そして、すべての胴ぶちの上端うわばを繋ぐように、一本の糸が張られていた。

 ヤマサンが、鳥居のようなものを見て言った。

「あれが何かわかるか?」

丁張ちょうはりです」

 人夫たちは、馬鹿棒を縦に持ち、その釘を糸に当て、棒の下と地面との間に隙間があるかないかで、仕上げの高さが正しいかどうかを確認する。

「昔はね、それを、トンボって言ったんだ……」

 ヤマサンが、少年のような目をして遠くを見た。


 今、ヤマサンの前には、昔見た北海道の大地が広がっているのだ。

 距離を置き、地面に立てられた木の棒が、一直線に重なり合って見える。棒の上部に結ばれたちり紙のこよりが、風で小さく揺れた。それは、トンボのようだった。

 若かりし頃のヤマサンが、大地の上にしゃがんだ。手前の棒にも、次の棒にも、こよりが結んである。が、三本目の棒には、こよりがない。こちらを向いた相方がその後ろでしゃがんでいる。ヤマサンは、一本目と二本目との、こよりの結び目が一致するように、目線を合わせた。そうして、もっと上、もっと下と、親指の向きを変え、合図を送った。相方は、棒に沿って、こよりを上げたり下げたりして、その高さを決めた。


「……そうやって、相方に、こよりを結んでもらったもんさ」

 私は、ヤマサンにいてみた。

「ここに来る前は、どんな仕事をされてたんですか?」

「ホワイトカラーってやつを、やってたのさ。某建設会社でな。現場からの叩き上げさ」

 私には色がない。

 ノジが、口をとがらせて言った。

「オ、オ、オオイ。よ、よ、呼んでるぞ」

「?」

「き、き、北さんが、ば、ば、馬鹿来いとよ」

「俺ば、ちょーす(からかう)気か?」

 ノジが、むきになって言った。

「か、か、勝手にしろ」

 オオイは、スコップを投げ捨て、北風さんの所に行った。

「馬鹿って誰のことだ?」

「一箇所にかたまってねぇで、こっちさ来ねぇか、このっ!」

「俺は馬鹿じゃねぇぞ」

「でかい図体ずうたいして、こまけぇこと言うんでねぇ」


 その夜の人夫たちは、棒で巣をつつかれた蜂のようであった。オオイにいたっては、騒ぎ加減が尋常ではなかった。

「煙草が、ぎられた(盗まれた)でやっ! あの糞野郎っ! パチンコで取るのに……苦労したんだぞっ!」

 宿舎のそこら中に、人夫たちの私物がぶちまけられている。

「アウゥ……アウゥ……」

 ゲンキが、しきりに、ヘッドホンをつける仕草をした。カセットプレーヤーが見当たらないらしい。

 北風さんが、勢いよく万年床をはね上げた。貯金通帳と印鑑は無事であった。

「なくなってるよ」

 と、ヤマサンが、洗濯紐を指さした。

「嘘だべよ。パンツは、洗ってねかったんだぞ」

 ヤマサンが、失笑した。

「やったね、やられたね」

「僕の方は、鞄に……煙草に……」

 ヤマサンが、財布を見つけた。

「とられたのは、中身だけか」

「二週間したら、給料日だべ」

「気が遠くなるな」

 ワタナベが、コーヒーの瓶を見つけ、抱きかかえた。

 テルチャンの目が、一段とあぶらぎった。

「今日吸うのが、ねくなったべや!」

「ラ、ラ、ラジオが……ち、ち、ちかれるな」

 奥の小部屋で、オオイがぼやいた。

小銭だらせんまでもっていきやがって……風呂にも行けねぇじゃねぇか……」

 そこで、大あくびをした。

「しっかし、眠くねぇしな……あの野郎、ぶっ殺してやる!」

矢鱈やたらに人を疑うもんでね。疑われたもんの身にもなってみろ」

 北風さんの財布が大部屋に飛んできた。

「おい、ガクソツ。ぼけっとしてねぇで、煙草を買ってきてけれ」

 仕事を休んだ背広の男が疑われたのは言うまでもない。


   8 給料日


 石狩湾を臨む埋立地には、敷設ふせつが完了したばかりの大型水路が横たわっていた。

 十一月下旬の海風が頬を叩く。

 人夫たちは、水路の底におろされ、コンクリートの側壁に穴を穿うがつよう現場監督から指示を受けた。ただし、貫通させる必要はないという。

 しかし、それでは、塩ビ管を差し込んでも、側壁の向こうにたまる雨水は抜けない。あきらかに、見た目をごまかす八百長工事だ。とはいえ、人夫は、言われた通りに動くしかない。

 ジャックハンマーはドリルの化け物だ。オオイとテルチャンをもってしても、側壁に刃先を突き刺すのは容易ではなかった。

 四苦八苦の末、もうもうと粉塵ふんじんが舞った。

「あーっ、今日は給料日だっ! こん畜生っ!……」

 ジャックハンマーの音がオオイの声をかき消した。

 二人は、小さな穴を幾つも開け、痺れた手を休めた。

 私は、エアーピック(ハツリ機)の刃先をそこに押し当てた。コンクリートが、砕けて弾け飛び、鉄筋が顔を出した。ヤマサンが、サンダーでそれを切断した。

 ヒカルとゲンキは、セメントと砂に水をくわえ、モルタルをねっている。塩ビ管を壁に入れるとき、管のまわりを補修するためのものだ。

 北風さんが、釣り竿とたも網をかついで、水路の上にあらわれた。私は、疑問をぶつけてみた。

「壁の向こうまで穴が貫通しなかったら、水抜きの意味がないじゃないですか?」

「そったらことはどうだっていいべや。仕事は建前が大事だも。本音をこいてたら、仕事になんねぇど」

 ヤマサンが、解説した。

「我々は、つべこべ言わず、言われる通りにやってりゃいいのさ」

「あとで、コマイの刺身を食わせてやっからな」

 北風さんの姿が視界から消えた。それでも、声は聞こえた。

「これだから、三日やったら、やめられねぇんだ」

 しかし、海から戻ってきた北風さんは、自慢も言い訳もせず、坊主頭を撫でてばかりいた。


 食堂を占める人夫たちの人いきれが、一日の終わりを教えてくれた。世話役が人夫の名前を呼んだ。それを皮切りに、儀式が始まった。上座ででんと構える社長が、人夫たち一人一人に給料袋を手渡し、ねぎらいの言葉をかけた。

「ワタナベさん」

「ご苦労さん」

「ありがとうございます」

 ワタナベは、両手で給料袋を受け取ると、後ろにさがった。

「タメサン」

「おっか(おふくろ)には仕送りしといたからよ」

「どうもでした」

「ヤマサン」

「今月はあんまりねぇけど、次は、まるまるあるからな」

「わかってます」

「ノジ」

「家には、送っといたど」

「あ、あ、ありがとうございました」

「ゲンキ」

「それ以外は貯金しといたぞ」

「アウゥ、リィ、ガァ、トォウ」

 人夫たちの中から、素っ頓狂な声があがった。

「ゼンコが……ゼンコが入ってねぇべや」

 ワタナベだ。

 間髪を容れず、社長が吠えた。

「ろくに働きもしねぇで、欲しい物を好きなだけもらってりゃ、金なんかあるわけねぇだろっ! 目障りだっ! 消えろっ!」

 世話役が、顔をひきつらせながらも、冷静をよそおった。

「北さん」

 社長は、平然と続けた。

「いつもきつくあたってすまねぇな。許してくれよ」

「悪いのは私ですから」

「オオイ」

「頼りにしてるぞ」

「俺のことはなんも心配しなくていいべ」


 肉汁と野菜の水分がホットプレートの上でぱちぱちとはじけた。甘い匂いが、宿舎の空気を変えた。

 菜箸さいばしを持つ北風さんは、味付けに余念がない。

「食ってけれ。遠慮するんでねぇぞ。おらのおごりだも」

 ところが、ワタナベは、その輪に加わろうとせず、片隅で、ロダンの『考える人』になっていた。

 北風さんが、いつもの調子でワタナベに言った。

「ひとりで腕相撲をやってるのか? 腕相撲じゃ腹はふとらねぇど」

「……」

 とりつく島もない。

 今度は、ヤマサンをかまった。

「おらが電話してやろうか?」

「気持ちだけはもらっとく」

「ゼンコはいらねぇのか?」

 ヤマサンが、笑みを浮かべた。

 ワタナベが、険しい顔で、身のまわりの物をゴミ袋に詰め始めた。

「ゴミは、明日の朝でいいべや」

「もう、こったらとこさ居たくねっ!」

 北風さんは、ワタナベの袖を引っぱって小部屋に入り、襖を閉めた。それでも、二人の声は筒抜けだ。

「なんぼいるんだ?」

「……?」

「一枚か?」

「……?」

「二枚か?」

「……?」

「三枚か? 四枚か? はっきりしねぇか、このっ!」

 話は五千円でまとまった。

「返してもらおうなんて、これっぽっちも思ってねぇからよ」

「ありがとうございます」

 襖が開いた。ワタナベが、神妙な顔で出てきた。

「おい、イクジナシ」

 私は、男と女の仲をとりもってくれないかと北風さんから頼まれた。男の方はヤマサンで、『荒海土木』に来るまで愛人と付き合っていたらしい。ヤマサンのことだ、北風さんのお節介なんか辞退するだろうと、私は、たかをくくった。

 ところが、その話を聞いたヤマサンは、

「それじゃあ、甘えさせてもらおうか」

 と、あっさり承諾しょうだくした。

 闇に浮かぶ電話ボックスの中で、私は、ヤマサンと顔をつきあわせた。ヤマサンがダイヤルを回すと、すぐに電話がつながった。受話器を持たされた私は偽名を名のった。

「あんた、かけるとこ間違ってるよ」

 女の声は、かすれていた。

「僕は……ヤマサンの……」

 ヤマサンが、唇の動きで、おとうちゃんという言葉を私に伝えた。

「……僕は……ただ、おとうちゃんの気持ちを……」

「そこにいるのかい?」

「……」

「おとうちゃんとかわって」

「……」

「あたしが欲しいくせに、奥さんとは別れない……来たいときに来て、泊まりたいだけ泊まって、帰りたくなったら帰る。何を考えてるんだか? ちっともわからないべさ」

 受話器の裏側で聞いていたヤマサンが、肩を落とした。

「何か言いたければ、言ってみな……」

 哀願も説得も役にたちそうにない。

「もう切るよ」

 通話が途絶えた。私も、受話器を置いた。

 宿舎に戻ると、顔がほてった。

 襖の向こうから、北風さんの声が聞こえた。

「この一万円はやるんじゃねぇぞ。必ず返してけれ」

「うん」

 ヒカルの声だ。

「悪いことは言わねぇ。家さけぇれ」

「……」

「死ぬ者、貧乏って言葉、知ってるか?」

「貧乏人は病院に行けないから、早く死ぬんだよ」

「そうかもな」

 大部屋で、ヤマサンが、誰に言うでもなく、呟いた。

「人間、生きてりゃ、いいこともある」

「おらにまかせろ。何の心配すんぱいもいらねぇ。おいっ、イクジナシ」

 またしても、私が呼ばれた。ヒカルの親に電話をしてくれればそれでいいからと、北風さんが相談をもちかけてきた。当人のヒカルがいやがっているというのに……。それでも、ヒカルがかたくなにこばみ続けるのがしゃくで依頼を引き受けた。

 電話ボックスの中にヒカルを押し込み、私は、受話器を取った。

「……もしもし、お宅の息子さんと同じ会社で働いている梨島と申しますが……」

 父親がわめいた。

「どこのどなたかわかりませんけど、何の魂胆があって電話されてるんでしょうか?」

 私は、大義名分を失った。

「ヒカルはね、弟夫婦が蒸発してから、今の今まで私らが辛苦して面倒見てきたんです。それなのに……ぐれて人様に迷惑をかけてばかり……こっちの気持ちも知らないで……私らが、肩身の狭い思いをどれだけしてきたか……あなた、わかりますか?」

「ヒカルさんは……」

 と、少しでも援護しようとしたが。

「ヒカルは人間の屑だっ! 生みの親と同じ、ろくでもねぇ血が流れてるんだ。チンピラになろうと、ヤクザになろうと、好きにすりゃいいんだっ!」

 電話が、一方的に切られた。ヒカルが、他人事のように言った。

「したから、言ったっしょ」


 給料日から、数日が過ぎた。

 長さ数メートルの丸太を何本も地面に立て、横にした丸太を地面と平行に重ね合わせ、八番線という太い鉄線でくくりつける。その作業が何度も繰り返され、昼までに、町工場の外壁は丸太足場でほぼ覆われた。

 私は、丸太の上に立ち、縦方向の丸太を握りしめた。少し向こうには北風さんがいる。

 地上のオオイが、丸太を立てた。北風さんが、その先端を掴み、もう一方の端を私の方にまわした。思いっきり手を伸ばしたが、手が届かない。北風さんがバランスを崩した。

「馬鹿野郎っ! 何やってるっ? おらば殺す気かっ!」

「僕は死にたくないですっ!」

「おめぇじゃねぇ。死にそうなのは、こっちだっ! おらが死んだら、みんなが悲しむべや」

 私は、やっとのことで、丸太の端をとらえ、縦方向の丸太に重ねた。

 オオイが愚痴を言った。

「俺は我慢してるけど、腰が痛くて痛くて。休みまで我慢できねぇべや」

「あと一週間とちょっとだべ」

「あっと、いっしゅーかん、あっと、いっしゅーかん」

 北風さんは、重ねた丸太に八番線を巻きつけ、小さな輪をつくった。その輪に、シノと呼ばれる先のとがった丸棒を突き刺し、何度もねじり、締めつけた。目にも留まらぬほどである。

「もったらもったらするんでねぇ」

 私は、まだ、番線を巻いてすらいない。

「おいっ」

「すいませんっ」

「イクジナシっ」

「何ですか?」

「おらは、プータローだっ」


   9 なっちゃん


 休日の朝は、寒かった。

 国鉄の小さな駅舎が、雪をかぶっていた。国民的俳優が、妻子と離別する夫の役を演じた所でもある。北風さんとイシサンとオオイ、それに、ヒカルと私の五人は、この駅で電車に乗った。無一文の私が一緒に出かけられるのは、北風さんが一万円を前借りしてくれたおかげだ。

 札幌駅の改札口を抜けると、北風さんが、遠ざかるヒカルに声をかけた。

「休みは今日だけだぞ」

 私の前を行く三人は、楽しそうでもなく、辛そうでもなく、暇そうでもない。街をしばらく浮遊し、パチンコ屋へと吸いこまれた。

 開店して間もないというのに、店内は、活況を呈していた。

 北風さんが打ち始めた途端、大当たりのランプが点滅した。隣りで打つイシサンと私は、羨望の眼差しで北風さんの台を見た。店内放送の軍艦マーチが途切れ、店員のだみ声がそれに取って代わった。

「ありがとうございますありがとうございます。フィーバーフィーバー。ラッキーナンバーセブンの数字が三つそろって、めでたくフィーバーとあいなりました。出玉無制限の当店で、お客様の御納得ゆくまで、お時間の許す限り、ジャンジャンバリバリお出しくださいませ」

 銀色の玉がガラスを弾きながら入賞口に殺到した。下の皿にあふれた玉をせっせと北風さんが大箱に掻き込んだ。足元には、見る見る大箱の山ができた。

 オオイが、三人の後ろにあらわれた。

「絶好調でしょ」

「休みっくらい、顔を見せねぇでけれ。おらのツキが落ちるべや」

「くっだらねぇ」

 オオイは、台の向こう側にそそくさと消えた。

 イシサンが、私に話しかけてきた。

「家さ帰らねぇのかい?」

「はい」

 ゆきむしには、帰る場所がない。

「おらの場合は、帰れねぇんじゃなくて、帰らねぇんだ」

 私には、つよがりに聞こえた。


 話は、一年前にさかのぼる。

 イシサンは、同期退職の仲間から、久しぶりにソフトボールをしようと誘われ、でかけようとしたが、運動靴が見つからず、開けたこともない下駄箱を開けてみた。そこには、見たこともない紙箱がぎっしりと詰めこまれていた。すべてが、パンドラの箱だった。中身は、一般人の手には届かない高級な婦人靴である。

 イシサンは、二階に駆け上がった。この時初めて、寝室の洋服ダンスを開けた。高価な婦人服が並んでいた。その下に、貯金通帳があった。イシサンは、さらに愕然とした。

 振り返ると、入口で、妻がこちらを凝視していた。

「おらの退職金は、人に言えない苦労をいっぱいして、やっとのことでもらったもんなんだぞ」

「なにはんかくさいこと(何を馬鹿みたいなこと)言ってるの」

 その一言で、絆が崩壊した。

「おらの退職金はどうしたのさ?」

 イシサンは、あわてず騒がず、妻の言葉を待った。

「……パートに行って、晩ご飯の支度をして、お風呂を沸かして、洗濯をして、子供の世話をして……毎日毎日……なのに、優しい言葉は一度もかけてもらえなかった……私の気持ちなんか、いつも、おかまいなし……」

「それじゃあ、答えになっていない」

「ああっ、結婚なんかしなきゃよかった。ああっ、死んでしまいたいっ!」

「おまえが何を言いたいのか、よくわからない」

「あなたは、いつも、理解しようとしない……そうよ。退職金は一円も残さなかったわ……もう、別れましょ」


「……したけど、おらは、離婚届にハンコをついてねぇ」

 イシサンは、未練をひきずっている。

 パチンコにあきた北風さんが、パチンコ屋とは目と鼻の先にある場外馬券場に私を連れて行った。

 馬券の売場がある階では、テレビのモニターに男たちが釘付けだ。私も、馬券を買い、その群れにくわわった。自分が買った枠の馬が先頭にたったときには、さすがに気持ちを抑えられなくなった。窓口のおばさんが、私の馬券を数十万円に換金してくれた。

 客がまばらになったテレビの前で、北風さんが、競馬新聞と睨めっこをしていた。

「いい珍棒カモだな」

 私は、うっかり、股間に目をやった。

「カモはカモでも、ネギしょってる鴨のことだべ」

 私は、北風さんの手に、一万円札を数枚にぎらせようとした。

「えっ、何をける(くれる)って?」

「今のレースでとりましたので」

 北風さんが、ジャンパーとズボンのポケットを叩きながら言った。

「ぜんこがあまってるなら、ここと、ここと、ここさ入れてけれ」

「……」

「おらは、博打ばくち大嫌だいっきれぇなんだ。したから、博打で人が儲けたぜんこなんか欲しくもねぇべや」

「……」

「冗談だべ……おらが負けたと思ってるのか?」

 勝っているようには見えなかったが、お金は引っ込めるしかない。

「おらにちょっこし(しばらく)つきあってけれ」


 歓楽街は黄昏たそがれていた。

 客引きが、男を誘う。ネオンが、心をかきみだす。

「ここにすべぇ」

 私に同意を求めることもなく、北風さんは、テナントビルの地下へと階段をおりていく。自動扉の向こうは、ソープランドだった。

 受付嬢は、あか抜けた女性だ。

「ご指名はありますか?」

「おらは保護者だべ」

 北風さんには、いつも混乱させられる。

「お客様以外は困ります」

 支配人らしき男がにらみをきかせた。

「おらは帰るからな。やることやって帰るんだぞ」

 北風さんが、私の背中をポンと押した。

 案内された個室には、大きめの浴槽と洗い場、そして、二人の大人がどうにか横になれるぐらいの粗末なベッドがあった。暖房がきき過ぎのような気がした。

「わたしの名前は、なっちゃん。よろしくね」

 ソープ嬢の目尻に、小じわができた。

 こういう場面にでくわすと、つい緊張してしまう。

「僕は、会社で、イクジナシと呼ばれてます」

 なっちゃんが、クスッと笑った。えくぼが、かわいかった。

「ソープは初めて?」

「……」

「心配しなくてもいいわよ。でも、服は自分で脱いでね」

 私は、ジャンパーを着たまま簡易ベッドに座った。バスローブのなっちゃんも困り顔で一息ついた。意外と小柄だった。

私は、冷蔵庫を開け、飲めもしないのに、缶ビールのプルタブを引いた。

「煙草もどうぞ」

 煙草をくわえると、なっちゃんが、火を点けてくれた。

「奥さんは?」

「いません」

「……たまってるんでしょ?」

「……」

「わたしが、おばちゃんだから? 嫌ならチェンジしたっていいのよ」

「……」

「お金がもったいないわ」

 なっちゃんは、無言の私に、ほとほと手を焼いた。煙草を何本か重ねるうち、時間切れになった。

 受付の前で、私は、男に行く手をふさがれた。その男の目が助けを求めている。支配人が、慇懃いんぎんな物腰で近寄ってきて、男に言った。

「お客様、大変お手数ではございますが、お店の裏までご足労をお願いいたします。さ、どうぞこちらへ……」

 男が、私の手をつかんだ。手のひらが、べっとりと汗ばんでいた。

「助けてくださいっ! 一万円貸してくださいっ! お願いですっ!」

下手したてにでてりゃいい気になりやがって! 来いっ!」

 支配人が、店の奥に男を連れて行こうとした。私は、気がいて、一万円札をもみくちゃにした。それでも、なんとか、間に合った。男は、涙目で、お金は必ずお返ししますと何度も頭を下げたが、お金は返してもらわなくても結構です、と、私は店をあとにした。

 地上にでると、ネオンがきらめいていた。


 帰り道、駐車場により、ワンボックスカーの凍結した窓ガラスを叩いてみた。案の定、中には、タメサンがいた。

「よかったら、食べてください」

 タメサンが、寿司折りに目をくれた。

「いらねぇべや」

「そんなこと言わないでくだい」

「だって、おらは食べねぇんだも」

「猫にあげればいいじゃないですか」

「どうもどうも」

 車内のぬくもりが、すっかり外に逃げてしまった。私は、わびながらドアを閉めた。

 宿舎の人夫たちは皆、起きていた。休日のたかぶった気持ちが、尾を引いているようだ。北風さんが、すけべそうな目を私に向けた。

「イクジナシさんのお帰りだべ」

「遅くなりました」

 私は、全員に寿司を配った。

「足りねぇど」

「ヒカルの分もありますから」

 しかし、ヒカルの姿は、大部屋にも小部屋にもなかった。私は、何もなければいいが、と思った。

「そうじゃねくて、おめぇがもらった恩は、そんなもんじゃ返せねぇって言ったんだ」

 私は、返答に困った。

「ゴチッ」

「悪いな」

「ほーっ、たいした(とても)立派なもんだべ」

「アウゥ……リィガウゥ……トォウ」

「ご、ご、ご馳走になるべ」


 翌日の朝は、雪だった。雪の中に、スパイクタイヤが沈んだ。

 宿舎の人夫たちみんなが、タイヤ交換に取りかかった。

 オオイだけが、一人監督を決め込んでいる。

「あー、しっどく(ひどく)しばれるべ。寒くて寒くて。やってられねぇべや」

「静かにしねぇか、このっ!」

 北風さんが、オオイを目がけてノーマルタイヤを転がした。タイヤから逃れようとしたオオイは、雪に足をとられ、雪まみれになった。

「あー、しゃっけぇ(冷たい)」

 ノーマルタイヤは、キンキンに冷えていた。私も、それを転がし、北風さんの横に並んだ。

「たまってたんだべ?」

「そんなことはありません」

「じゃあ、なんで、すっきりした顔してるんだべ?」

 私は、話題を変えた。

「ヒカルは、どこへ行ったんですかね?」

「口ばっかで、体が動いてねぇど」

 北風さんが、駆け足になった。私は、負けじと追った。


 浄水場の建設現場は、街はずれの山の中にあった。

 屋根と外壁は、あらかたできていたが、屋内の工事はまだこれからで、一階の床は捨てコンしか打ってなく、壁ができる場所にだけ、鉄筋が高く伸びている。

 ヤマサンとゲンキは、一階から三階までが筒抜けになった部分にいる。

 ガスバーナーの火口ヒグチにヤマサンが点火した。その火口を、床にはった厚氷に向けると、厚氷は、溶けて水になった。その水を、ゲンキがスポンジで吸い取り、バケツの上でしぼった。

 ヤマサンが中腰で鉄筋の下をかいくぐれば、ゲンキもかいくぐる。そのヘルメットが、ボコボコと鳴った。

 二階の床と同じ高さの足場で、『稲妻建設』の社長が、ハンドマイクを一階の二人に向けた。

「もっと、めしを食ったような仕事をしろっ!」

 社長の後ろには、コンパネでできた壁用の型枠がある。

 オオイは、さらに上の足場から、型枠の天端てんばにあがり、蛇腹のパイプに結ばれたロープの端を握りしめた。蛇腹のパイプには、鉄管が何本も接続され、ポンプ車まで繋がっている。

 オオイが、蛇腹の先を型枠の中に向けた。どうどうと音を立て、生コンが噴き出した。オオイが、ロープで蛇腹をあやつり、万遍なく生コンを流し込む。テルチャンとタメサンと私は、ロープを引っぱり、足場の上で鉄管を移動させた。

 型枠の天端には、もうひとりいる。投入された生コンに棒状のバイブレーターを突っ込んでは引き抜く北風さんだ。手を抜けば、コンクリートの中に気泡が残り、バイブレーターをかけ過ぎると、生コンの底に砕石が沈む。加減がむずかしかった。

 目を下に向けると、足場板と型枠との間から社長のヘルメットが見える。

「オオイッ! あれを見れっ!」

 オオイが、言葉に気をとられ、あちこち、よそ見をした。すかさず、北風さんが、蛇腹に蹴りをいれた。蛇腹は、型枠からはずれ、のたうちまわった。蛇腹が吐き出す生コンの勢いは止まらない。流れ落ちる生コンが、足場の下の社長を直撃した。

「何やってるっ!?」

 北風さんが、型枠の上に蛇腹を引き上げた。

「俺は何もしてねぇ。プータローがやったんだべ」

「誰がプータローだって?」


 その日の夜、私は、札幌の街にでかけた。

 閉店前の電気屋でワープロを買い求めた。張り紙に書かれた宣伝文句にたがわず、安価ではあったが、画面の文字列は横書きで数行しかなかった。


 ワープロが出始めた頃、それを使ってシナリオを執筆する監督を見て、将来、私もそうなりたいと憧れた。その当時のワープロは、モニターとキーボードが机と一体化したようなものだった。今では想像すらできない。


 私のワープロは、ちゃちかった。

 時間を見はからい、ソープランドがあるビルの階段をおりた。

 なっちゃんが、両手を床について頭を下げた。私は、バスローブを脱がないで、とお願いした。なっちゃんは、私の顔をじっと見て、セカンドバッグから意外な物を取り出した。目薬……?

「目が真っ赤よ」

 私は、目をこすろうとした。

「駄目よ」

 私は、目薬を右目にさした。そして、左目にもさそうとした。しかし、手こずった。なっちゃんが、言ってくれた。

「わたしが、いれてあげる」


 分娩のとき、カンシが、左の目玉に突き刺さり、私は、左目の視力を失った。とはいえ、九死に一生を得たのだから、人一倍幸運な男だと信じて生きてきた。でも、そうではないと気づかされた。生まれたときから運がなかったのだから、もっと慎重に生きるべきだったと。


「何を考えてるの?」

「……」

「わたしみたいなおばさんじゃなくて、若いもいたでしょ」

「ここに来たのは、なっちゃんがいるからです」

「ここに来ただけなら、お金はもらえない」

「お金は払います」

 なっちゃんが、煙草に火をつけてくれた。

「結婚はしてるの?」

「とんでもないです」

 なっちゃんが、小さく笑った。二重の目尻に小じわができた。

「彼女はいるの?」

「女性とつきあったことは一度もありません」

「ふーん、そうなんだ」

 所詮、他人事である。

「お仕事は、何やってるの?」

「デメントリです」

 ちょっと、ひねくれてみた。なっちゃんには、むずかしいはずだ。

「タコって言ったら、わかりますか?」

 なっちゃんが、首を横にふった。

人夫にんぷなら、どうです?」

「男なのに、妊婦?」

「土方だったら、わかるんじゃないですか?」

「……」

「道路でスコップやツルハシを使って仕事をしてる、ほら、絶対、見たことありますよ」

 私は、むきになっていた。

「立派なお仕事。道路がなかったら、車は走れないんだもん」

「わかってもらえました?」

「わたしが経験したお仕事は、ソープ嬢と看護婦だけ」

「看護婦?」

「……看護婦もソープ嬢も、似てるような気がする……」

 なっちゃんの視線が私から離れ、しばらくして、戻ってきた。

「さあ、やるわよ。今日は逃がさない」

 なっちゃんが、私の服をむしりにかかった。

「僕は、ビールが飲みたくて、ここに来たんです」

「嘘をつくなら、もっともらしい嘘にして」


 活動屋カットウヤとして見限られた私は、監督から、いわくつきのスナックでマスターをするように言われ、『ふくろう』のマスターにおさまった。同時に、その店が売れれば、その時点で活動屋に復帰させてやるという約束も得た。スナックのオーナーは、監督である。

 お茶っぴきの日。やっとあらわれた常連さんに、

「一本、ご馳走になってもいい?」

 私は、御無心をした。

 氷を入れたアイスペールに、四角いボトルのウイスキーを丸ごと移し、ひと息に飲んだ。その前にレタスをかじっていたが、からきし酒が飲めない私には、一切、効果がなかった。

 朝、目覚めると、便器の水たまりが目の前にあった。血で赤く染まっていた。共同トイレから大あわてで店に戻ったが、常連さんの姿はなかった。


 その夜、またしても、私は、『未練』のママと、へべれけの北風さんを運んだ。骨が折れた。

 駐車場の雪に三人の足が埋まった。ママが、フロントガラスの雪を払うと、毛布にくるまるタメサンが見えた。

「あたしたちも寝なくちゃ」

 ママが、北風さんに抱きついた。そのはずみで、ふたりは、雪の上にころがった。

「ママっ」

 北風さんの虚ろな目が、助けを求めた。

「ここじゃあ寒いべさ」

 ママが、北風さんを抱き起こそうとしたが、思うようにならない。私は、見ていてあほらしくなった。

「あんたも手伝いなさいよ」

 雪にまみれた北風さんを二人でかつぎあげ、物置まで行った。そこで私は退散した。

「キャーッ!」

 ママの金切り声が聞こえた。

いてぇべよ」

 北風さんの声ではなかった。

 私は、物置にとって返し、大部屋の蛍光灯をつけた。小部屋では、ママが、タメサンの布団の上で身震いしている。その下から、ササキの顔があらわれた。

「もう、いやっ!」

 ママが、がらくたを散らしながら、帰っていった。北風さんは、ぺたんとその場に座りこんだ。ササキが、むくっと起きあがり、言った。

「そこさ行ってみたら、めしはうめぇし、仕事は楽だし、いかった(よかった)んだよ。だども(だけど)、ぜんこをくれねぇのさ。おら、困ってすまって(しまって)……。北さんから社長に頼んでもらえねぇかな。ササキをもう一度雇ってやってけれって」

 北風さんが、目を開けようと頑張っている。その下で、白目が見え隠れした。

「そこでさ、おもしろい話を仕入れたんだよ。誰かさんが必ず喜ぶ話をさ」

「誰が?」

「北さんに決まってるべや」

「……」

「おらがそこさ行くまで、北さんのあんちゃんがそこさたんだとよ」

 北風さんの目が、かっ、と開いた。

「冗談だべ」

 北風さんが、鼾をかき始めた。


 それから、十日が過ぎた。

 しんしんと、雪がふっていた。雪が、物音や人声を呑みこんでいく。自然と、人夫たちは寡黙になった。

 半分に折った細くて短い針金の束を、結束線ケッソクセンという。角棒がパイプの中でぐるぐる回る、掌サイズの道具。それが、ハッカーだ。角棒の尖端せんたんかぎになっている。

 『荒海土木』の面々は、細長い穴の中に中腰で入り、鉄筋に巻きつけた結束線をハッカーできつく締め、ビルの柱と柱をつなぐ地中梁ちちゅうばりの骨を組み上げていく。

「しばれるな」

 ヤマサンが、軍手の手をこすりあわせた。

「やってられねぇな」

 ササキが、耳をおさえた。

「あーっ、手がしゃっけぇ(冷てぇ)。ああ、この野郎っ!」

 オオイが、あたりかまわず動きまわった。

「俺ばなめてんのかっ!」

 オオイが動けなくなった。七分ズボンに鉄筋が突き刺さったのだ。

「ち、ち、ちかれるな」

「アァ……ウゥ……アァ……」

 型枠をつくっていた北風さんがいなくなったと思ったら、広口の瓶を持って戻ってきた。

「雪がふると、あったけぇな」

 と、小さなかけらを口に放りこみ、

「結構いけるべ」

 と、一人で納得した。ニンニクの味噌漬けだ。

「遠慮しねくてもいいんだぞ」

 真っ先に、オオイが指を突っ込んだ。

「あれこれつつくんでねぇ。どれ食ったってうまいべや。それに、あったまるべ」

 テルチャンが目をパチパチした。雪が目に入ったらしい。

「この雪は春までとけねぇんだべな」

みったくない顔して、そったらことがよく言えるな」

 北風さんが、テルチャンの鼻先に瓶をもっていった。けれども、テルチャンは、そっぽをむいた。

「何してるっ? 休憩してる暇はねぇど」

 『稲妻建設』の社長だ。北風さんと私以外は、持ち場へと散った。

「社長ともあろう人が、こんな日に外に出るなんてもってのほかです。事務所でのんびりしててください」

「下請けがおめぇらじゃ、のんびりできるわけねぇべや」

「一服するぐらい大目にみてくださいよ」

 社長のヘルメットに積もった雪が、ずるっと落ちた。

「息がくせぇど」

 社長は、不機嫌そうに現場を離れた。


「イクジナシ。一五いちご、一本」

 馬券のこと?……まさか。

「何してる? 役に立たねぇべな」

 北風さんは、私からノコギリを奪い、一,五メートルの長さで桟木さんぎを切った。

「おいっ、イクジナシ。ノコギリは、引くときに力を入れて、押すときに抜くんだ。やってみれ」

 私がやると、コンパネにつけられた墨の線からノコギリの刃が大きくそれ、蛇行した。

「何やってんだっ!」

 余計な力がはいった。コンパネに刃がひっかかる。もう少しで刃を折るところだった。


 昼食の時間になり、休憩室に入ることが許された。

 体内で血管がひろがり、手足がじんじんとした。軍手からしたたる水が、ストーブの上ではじけた。

「夏のあっつい日に、しょっぱい塩鮭あきあじをめしにのっけてよ、しゃっけぇ水をぶっかけたら、なまらうまいべな」

 と、北風さんが私の方を見た。

「イクジナシ。鉄管ビール」

「何のことですか?」

 ヤマサンが小声で教えてくれた。

「水のことだよ」

 私は、水の入ったペットボトルを北風さんに渡した。それは、お茶代わりにと、イシサンがもたせてくれたものだった。北風さんは、喉を鳴らして水を飲み、ばった(ノックアウト)だべ、と畳の上に仰向けになった。

 

 夕暮れの暗さと雪の白さが、せめぎあっていた。

 道路脇で立ち小便を終えた北風さんが、ぶるっと震えた。

「運転してみっか?」

 何を思ったか、北風さんが私にそう言った。

「いいですよ」

 私もうかつだった。ハンドルをにぎるのは、教習所以来だ。

 路面は、固い雪でおおわれ、路肩には、雪がよせられている。

 私は、アクセルを踏んだ。車が尻をふる。それでも、さらに踏み込んだ。

「アクセルっ! アクセルをゆるめれっ!」

 ブレーキを踏んだ。車が斜行する。

「ありえねぇっ!」

 ハンドルをきった。

「駄目だっ!」

 車が横を向く。それでも、車は止まらない。

「おらを見るんでねぇっ!」

 車がスピンする。車は、路肩の雪に突っ込んだ。車内に、怒号と悲鳴がとびかった。

 テルチャンがあんぐりと口をあけた。

「何だってはぁー」

 北風さんが、険しい顔で言った。

「免許証を見せてけれ」

 私は、無免許だと嘘をついた。

「馬鹿、このっ!」


 私は、車にはねられたことがある。

 店先の公衆電話で監督と打ち合わせをしているときだった。

 車道は凍結していた。スリップした乗用車が数メートル私をはじきとばした。事故を目撃した不動産屋の社長によれば、私は、そのあと何事もなかったように公衆電話まで歩いていき、受話器を置くと倒れたそうだ。

 監督は、明日もよろしくお願いしますという私の声と、受話器を置く音を聞いた。

「おいっ、どうしたっ? 何があった?」

 監督の声は、記憶にはない。

 次の日には、頭に包帯を巻いた私が撮影現場にいた。


 ふたりの夜は、なっちゃんの身の上話から始まった。

「……おかあさんは、わたしを産んですぐに死んでしまったの」

「なっちゃんは、おかあさんの生まれ変わりなんですね」

「……わたしは……わたしはね……おかあさんとは逆……」

「……?」

「……看護婦をしてたとき、赤ちゃんができちゃって……彼にうちあけたの。……そしたら……堕ろせって。その一言で終わり。妻と別れて一緒になるって言ってたのに。……結婚できなくても産むつもりだった。……なのに、彼は、堕ろせとしか言わなかった。何度も何度も。……その言葉が呪いのように聞こえたわ。あんな奴の子を産んじゃいけない。生まれた赤ちゃんが不幸になる。そう思うようになった。生まれてくる赤ちゃんはなにも悪くないのにね。……あのとき、気が狂っちゃえばよかったんだわ……」

 なっちゃんの目から涙がこぼれた。

「……わたしには、夢がある……こんなことを言う資格はないわね」

「どんな夢ですか?」

「誰もいないところで、ひとりっきりで自給自足の生活をしたいの」

 突飛な話ではあったが、理解はできた。

 なっちゃんが、置き時計を見た。私は、すかさず言った。

「延長でお願いします」

「他人みたいな言葉遣いは、もうやめて」

「……?」

 なっちゃんが、私の肩に頭をもたせかけてきた。


 ビルにはさまれた暗い路地に、雪が落ちてきた。

 私は、今か今かと待ちきれない。遠くで、なっちゃんの影がほのめいた。私は、歩いていく。なっちゃんが、むかってくる。ほどなくして、ふたりはひとつになり、また歩きだした。

 建設現場の前で、なっちゃんの足が止まった。

 なっちゃんが、その向かい側にあるマンションを指さした。明るい窓が一つだけある。

「あれが、わたしの部屋よ」

「出かける前に電気をつけておくの。そしたら、帰ったときに、誰もいなくても寂しくないでしょ」

 私は、二度、軽くうなずいた。

「あの部屋にはね、口では言えない、いろんな気持ちがつまってるの。……入ったときは、何もなかったのにね。……寄っていく?」

「今日はやめとく」

 興味はあったが、警戒心もあった。


 ふたりは、街まで戻り、喫茶店にはいった。なっちゃんと一緒にいられるなら、私はどこでもよかった。店内は、深夜にもかかわらず、賑わっていた。とはいっても、客のお目当ては、コーヒーではなく、テーブルゲームをかくみのにした賭博であった。スロットルの7が縦でも横でも斜めでも、三つそろえば、それ相応の賞金が百円玉で出てくるのだ。もちろん、違法である。

 なっちゃんと私は、7がそろうたびに、歓喜の声をあげたが、ゲーム機に呑みこまれる百円玉のほうがはるかに多かった。私は、両替をしては、賭博機に夢中で金をつぎ込んだ。

 だしぬけに、情けない声が、なっちゃんの口からもれた。

「なんだか悲しくなっちゃう。お金はもっと大切にしなくちゃ」

 私は、知らず知らず、なっちゃんの心を傷つけていた。

「あなたを見てたら、つらくなっちゃう」

「もうやめようか?」

「わたしが決めることじゃないわ」

 未明の街は、人も車もまばらだった。私は、タクシーを止めた。

「仕事は休まないでね」

「わかってる」

 なっちゃんは、車が見えなくなるまで手をふってくれた。


 タクシーから降りると、積もったばかりの雪がほの白く見えた。スノーダンプ……一輪車の荷台にコの字の鉄パイプをつけたようなもの……で、タメサンが路肩に雪をよせていた。

「おばんでした」

「まだ寝ないんですか?」

「雪が、がっぱり(いっぱい)積もってっから」

 タメサンなら、北海道中の雪だってけるかもしれない。

 大部屋の灯りは消えていた。流し台の水が、ちょろちょろと音をたてた。着の身着のままで布団にもぐり込んだが、なかなか寝つけなかった。


 その日は、朝早くから、北風さんがストーブに火をつけた。

「今日は、ガリッとまかなって(服を着て)いったほうがいいぞ。もっこもっこによ」

 人夫たちは、あたりまえのように、股引ももひきをはき、長袖の下着をきて、キルティングのツナギに体を通し、その上に、セーターと作業服を重ね、最後にジャンパーを身につけた。

 オオイが、バシャバシャと水道の水を顔にかけた。それが、テルチャンのかんにさわった。

「やめれっ! おめぇが、丁寧まてに洗えば、雪がふるっ!」


 雪かきの疲れからか、タメサンは、後部座席でずっと熟睡していた。


 現場は、吹雪だった。

 頬かぶりをした人夫たちの顔が赤色に染まる。

 水流をき止め、川半分の底と岸にブロックが敷設されていた。

 ユンボが、コンクリートブロックを吊り下げ、川底にしかれた鉄板の上を行き来する。

 そのブロックにこびりついた氷と雪を剣先スコップで削り落とすのが、ノジの仕事だ。

 川岸をおおうブルーシートの上には、どっかりと雪がのっている。ヤマサンをはじめとする、オオイ、タメサン、テルチャン、ササキ、ゲンキの六名は、大角スコップでその雪をかき、シートをめくらなければならない。

「ああ、ゆるぐね(つらい)」

 オオイが、スコップを杖代わりにして、ひと息ついた。

 北風さんと私は、川岸の斜面に掘られた穴にはいり、手棒溶接で側溝の骨組みをつくっていた。

「はっちゃきこいて(一生懸命に頑張って)やってっけど、免許はもってるのか?」

「はい」

 私は、手持ち面を顔からはずした。

「見せてけれ」

「なくしました」

 溶接の免許は、昔、アルバイト先でとらせてもらった。

「嘘じゃねぇべな」

「本当です」

「おらは、この道二十五年だ。イクジナシには絶対負けねぇからな」

 北風さんが、熔融ようゆう箇所から目を切って、私を睨んだ。その途端、ホルダーではさんだ溶接棒が鉄筋に付着した。北風さんが、釣り人になった。

「何か釣れねぇべかとおもったっけ(思ったら)、おっきいのがかかったど」

 北風さんは、負けん気が強く、意地っ張りだ。

 すぐに、バチバチと、鉄の焼ける音がし、火花が飛んできた。青い光に目がくらんだ。炭火がいこるような甘い匂いが穴の中にたちこめた。私も、負けじと溶接棒をいた。

 川底に、轟音が反響した。ダンプが、ユンボに激突したのだ。ブロックを吊るすワイヤーがバケットからはずれ、ブロックは、ノジの体をはじき飛ばして、ずしっと川底にめり込んだ。

 『荒海土木』の人夫たちと『稲妻建設』の社員たちが、ノジのまわりを取り囲んだ。北風さんと私も駆けつけた。

「大丈夫か?」

 北風さんの声が、凍てつく空気をふるわせた。

「い、い、痛くて……た、た、立てねぇべ」

「じっとしてれ」

 オオイが、コンパネの型枠を担いできた。北風さんのかけ声で、その上にノジがのせられた。それを、『荒海土木』の人夫たちが、いち、にの、さんで持ちあげた。

 北風さんが、気合いをいれた。

「ばびっとしれっ! しっかり持たねぇか、このっ!」

 階段はこおっていた。ゲンキは、階段の下で、階段をのぼる皆を見ていた。オオイが足を滑らせた。その図体が型枠から離れ、階段を転がり落ちる。ゲンキは、身をよじり、かろうじて難を逃れた。

「あーっ、足がいてぇーっ」

「そったら足、もいでしまえっ!」

 北風さんの口の悪さは、なおりそうもない。

「人の足だと思ってよぉ……」

 オオイのぼやきが、はっきりと聞こえた。


 ノジは、救急車で病院に搬送され、レントゲン検査の結果、腸骨の亀裂骨折であることがわかった。手術の必要はないが、特殊な器具で腰を吊って、数週間、寝たままの姿勢でいなければならない。

 ノジの入院手続きは、『稲妻建設』の社長が一つ残らずやってくれた。

 北風さんは、一旦、人夫たちを宿舎に連れて帰り、入院に必要な物をそろえると、再び、私と病院にむかった。

 病室は、相部屋だった。ベッドの上には、寝巻きを着せられたノジがいた。点滴のしずくが間欠的に落ち、ノジの血液に浸透する。

 隣りの患者は、頸骨けいこつを骨折し、寝返りも打てないという。それでも、恨み言を言わず、生きている。胸が締めつけられた。

 私は、床頭台しょうとうだいの上にテレビを置いて、ベッドの下の収納ケースに着替えを入れた。

「テレビは、姐さんから言われて持ってきました」

「き、き、気がきくもなあ」

「おらの見舞いだ」

 と、北風さんが、ジュースと菓子を枕元に置いた。

「め、め、迷惑かけるな」

「何も心配しなくていいからな。治療代も、入院費も、給料も、ぜんぶ労災からでるべ」

「ば、ば、罰があたるな」

「看護婦のおねぇちゃんに何かしたべか?」

「?」

「できるわけねぇべな」

 ノジが、照れ笑いをした。


 ワープロを購入した私は、歩いていける距離にある『東京屋』にも通うようになった。古民家の名残が随所に見られる喫茶店だ。

 私は、そこでコーヒーを飲みながら、ワープロのキーを叩いた。

  

   10 失恋


 私は、パチンコ屋になっちゃんを置き去りにしてしまった。

 すぐに戻るつもりで行った場外馬券場で時間を忘れ、競馬にうつつをぬかしていたのだ。

「どこに行ってたの?」

 私は、ポケットから、ハズレ馬券をひっぱりだした。   

「ふざけてるの?」

 手のひらの力が脱け、馬券が、するりと落ちた。

 なっちゃんが、銀色の玉を残し、私の前から消えた。

 気がつくと、人をかきわけながら歩道を走っていた。なっちゃんの背中だ。私は、まわりこんで、なっちゃんの行く手をふさいだ。ふたりが人々の流れをとどこおらせている。

「なっちゃん……」

「せっかくの日曜日が台無しよっ! もういやっ!」

 前歯が一本なくなっている歯と歯のすき間から、私の息が、すーっともれた。

「三十八のおばさんを、なっちゃん、なっちゃんて、気安く呼ばないで」

「なっちゃん……」

 こんなときに、……鼻水が……。

「二十八にもなって、何よっ?! ああ、むしゃくしゃする。わたしはもう若くないし、自分のことで精一杯。もう終わりにしましょ」

 なっちゃんが、私の脇をすりぬけた。

「なして、こったら男と……」

 捨て台詞ぜりふは、北海道弁だった。


 その夜、大部屋のみんなに飲み物を買って帰ったが、北風さんだけが一人、不満げだった。

 テレビが、天気予報をやっていた。夜半から明日の朝にかけて大荒れの天気になるという。

「雪がふる確率は七十パーセントだと。しょうがあんめぇ(しょうがねぇ)。五パーセントで勘弁してやるか」

 北風さんが、缶ビールのプルトップを鳴らした。

「イクジナシ。明日はあったけぇぞ」

 私は言うまでもなく、北風さん以外は皆、下を向いた。

「どうした? みんな、元気ねぇど」


 突風が、宿舎の壁に穴を開けた。暴風雪が、寝入ったばかりの人夫たちを襲う。さすがの人夫たちも、これには参った。

 布団を体に巻きつけた北風さんが、大部屋に出てきた。

「これぐれぇのことで騒ぐんでねぇ。うるさくて寝られ……」

 飛びまわる新聞紙が、北風さんの口をふさいだ。


 横殴りの雪と戦いながら、オオイとヤマサンが、二台の脚立に渡した足場板の上にあがり、ブルーシートを壁に押しつけ、一本の板を当てた。ヤマサンが、釘をくわえ、オオイに訊いた。

「そっちが低いんでないかい?」

「そっちが高いんだべさ」

「僕には低く見えるけどな」

「どうだっていいべや」

「ニンベンって言葉を知ってるか?」

 オオイの歯がガチガチと音を立てた。

「右と左の高さが違うってことさ」

「くっだらねぇ」

 オオイが唇をふるわせた。強風が、シートをまくり上げた。シートは、二人の体にまとわりつき、二人がもがいてももがいても、離れようとはしない。

 北風さんと私も壁の穴をシートで覆っていた。

「ヒ、ヒ、ヒーックション」

 クシャミの主は北風さんだ。

「この物語はヒクションであります」

「……」

「冗談だべ」


 朝になっても、吹雪はおさまらなかった。

 屋上駐車場で白い影となった人夫たちは、足を滑らせ、転倒を繰り返しながら、ひたすらスノーダンプを押した。

 オオイが、弱音を吐いた。

「こったらとこさ居たら、殺されるでやっ! 北さんっ、帰るべし(帰ろう)」

「そっかそっか。よかったよかった。とろとろやってっと、風邪ひくど」

 私は、北風さんを追い抜いた。

「どうみたって、おらの方が早いーっ!」

 北風さんが私を抜き返した。それを、私が差した。すると、北風さんがまくった。そんな二人をタメサンが抜きさった。

 ち、ち、ちかれるな……。

 ノジがいれば、そう言ったにちがいない。

 その日の夕方、病院で、あねさんにでくわした。

「北さん、今日は寒かったっしょ」

「ええ、まあ。……あねさんは、これからですか?」

「ちょうど帰るとこだべさ。ノジが退屈してると思って、いろいろ持ってきてやったのさ」

 相変わらず、ノジの腰は器具で吊られていた。ベッドの下にはシビンがある。

「これは、目の毒だべ」

 北風さんが、床頭台の引き出しに煙草をしまった。

「ど、ど、どうもどうも」

「ノジ。元気でな」

「?」

「おらは、もう来ねぇ」

「?」

 私は、嫌な予感がした。

「冗談だべ」

「ち、ち、ちかれるな」

 

 夕食をすませ、『東京屋』にでかけようとした私は、ワープロがないことに気がついた。盗人ぬすびとが、ワープロをどこかへ持ち去ったのだ。そのことをヤマサンに伝えると、今頃は、質屋の棚に並んでいるんじゃないか、と、ヤマサンが平然と言った。


 建設中のビルの横に設置されたクレーンが、大量の建築ブロックをモッコで吊り上げようとしていた。

 五階の仮設搬入口で、インカムを頭につけた合図者が、地上のクレーンに指示を送った。モッコは、ゆっくりと上昇し、合図者の目の高さまで達した。

「右せんかーいっ……はいっ、ストップ!」

 と、合図者が拳をにぎった。

 その肩越しに、マンションの窓が見えた。それは、しくも、なっちゃんの部屋の窓だった。

オヤ、スラーっ」

 クレーンの長い腕が徐々に倒れた。合図者が、親指を拳から下に突きだし、小さく振った。

「ちょいスラーっ……はいっ、ストップ!」

 合図者が、拳をにぎった。

、スラーっ」

 合図者が、手のひらを下に向け、ゆったりと上下に動かした。ワイヤーが下に伸び、モッコが降りてくる。

「はいっ、ストップ!」

 搬入口の足場に、モッコが着床した。合図者が、クレーンのフックからモッコをはずすと、クレーンの腕は、仮設搬入口から離れていった。

 俄然、人夫たちの仕事は忙しくなる。

 北風さんが、ローラーコンベアで建築ブロックを二枚ずつ次々に流した。後続の人夫たちは、コンベアとコンベアとの間に立ち、それを中継し、終点のササキまで送った。ブロックが削れ、かどが欠けた。ゲンキが、竹ぼうきで欠片かけらを集める。粉塵がもうもうと舞った。

 昼食時間になっても、オオイとタメサンは、開いたモッコの上に板パレットをのせ、ブロックを積んでいた。

「やいやー、悪いな」

 私の手の中にある缶コーヒーを、オオイが、目ざとく見つけた。

 ジングルベルのメロディがどこからともなく聞こえてきた。

「クリスマスイブだっていうのによ……寒くて寒くて、どもこも(どうもこうも)ならんっ」

「きりっと冷えなきゃ、クリスマスじゃねぇっしょ」

 と、あとからおりてきた北風さんが、車へと向かった。

 私は、クレーンの操縦席に缶コーヒーを置いた。

「よかったら……」

 オペレーターの顔に驚きの色が浮かんだ。

「この前はっ、どうもありがとうございましたっ!」

 と、オペレーターはポケットから札入れを取り出した。

「お金は差し上げると言ったはずです。その代わりに、といってはなんですが、頼みをきいてもらえませんか?」

「おう。何でも言ってけれ」

 威勢のいい返事が返ってきた。


 その日の仕事が終わってから、北風さんに無理を言って、デパートに寄ってもらった。

 店内は、クリスマス一色だった。作業服を着て長靴をはいているのは、私がひとりだ。階段を駆けのぼり、婦人服売り場にたどりついた。私は、最初に目にとまった黒いフェルトのつば広帽子を買うことに決めた。


 まだ、宵の口である。北風さんからホットプレートを借りて、デパ地下で買った肉と野菜を焼いた。

「明日の最高気温は一度で、最低はマイナス五度だってよ。そったらこと言われたら、二十度を飲むしかねぇべな」

 と、北風さんが、焼酎を喉に流し込んだ。

 肉の焼ける匂いが程よくなり、これから皆が箸をのばそうというとき、オオイが戻ってきた。

「悪いなあ。俺のために焼いてくれてるんだべ」

 テルチャンがつばを飛ばしながら言った。

「くちばしの長い野郎だな」

「はあっ?」

 ヤマサンが、んで含めるように言った。

「呼んでもないに、ご馳走があるときだけ来る奴のことさ」

 オオイが、素知らぬ顔で言った。

「とんでもねぇ奴だな」

 世話役が連れて来た白髪頭の男が、宿舎の敷居をまたいだ。名前はサトウ。のっけから、口だけは達者だった。

「……俺がいた牧場に、スズキっていう奴がいたんだわ。最初にきたときは、パンパンのゴミ袋を抱えてよ、旦那と奥さんの前で、死ぬ気で働きますって、しおらしく頭を下げたのにさ……」

 パンパンのゴミ袋……。

 人夫たちは皆、顔を見合わせた。


 水道橋の喫茶店で、監督が、大学を卒業したばかりの私に会ってくれた。

 〝弟子にしてください〟

 〝死ぬ気でやります〟

 〝お願いします〟

 私は、テーブルにひれ伏した。

 監督が一喝した。

「死ぬ気でやると言って、死んだ奴はいないっ!」

 監督が声を低くした。

「悪いことは言わないから、田舎にかえれ」


「……スズキが言うにはさ、札幌の飯場にいたんじゃ金がもらえない、だから、逃げてきたんだって……」

 そいつは、ワタナベだ。スズキも偽名だったに違いない。


 牧場を営む夫妻は、スズキの真剣さに心を打たれ、すんなりとスズキを雇い入れた。ところが、数日後には、夫妻の貴金属を盗んで姿を消した。通報を受けた警察は、牧場に最も近い駅で、電車に乗ろうとしたスズキを確保した。

 そのあおりを受けて、サトウは、夫妻から白い目で見られるようになり、日に日に居辛くなっていった。〝札幌に行けば、職には、ありつける〟 

 サトウは、スズキから聞いた言葉を信じることにした。


 北風さんが、充分な肉と野菜をまのあたりにして不服そうに言った。

「おい、イクジナシ。足りねぇど」

「……」

 私は、北風さんの嫌味よりも、焼き肉が好きなゲンキが小部屋にこもって、大部屋に出てこないことの方が気になった。


 次の日も、同じ現場だった。

「きゅーりょーびー、きゅーりょーびー」

 大きく西に傾いた太陽が、一人ではしゃぐオオイを紅く染めた。

「お願いします」

 私は、鉄でできたゴミ箱の枠を乗り越え、その中にはいった。クレーンのオペレーターがワイヤーを巻き上げ、地上から一メートルの高さにそれを吊り上げた。

 警備員が、現場の前の道路に、通行止めの看板とA型バリケードを立てた。

 クレーンは、現場から移動し、マンションの正面で停止した。

 鉄の足が、クレーンの四隅から伸びた。警備員が、機敏な動きで舗装に四枚の鉄板を敷く。クレーンは、四本の足で四枚の鉄板を踏みしめた。

 警備員の横には、いつの間にか、北風さんがいた。

 私を乗せたゴミ箱は、マンションの五階の高さまで到達した。

「ストップッ!」

 私は、インカムで合図を送った。

 なっちゃんが、バルコニーに現われた。困惑している。私は、時を逃さず、円筒形の箱を投げた。それは、バルコニーの手摺を越え、床に落ちた。

 男が、部屋から出てきた。間違いなくヒモだ。やつは、なっちゃんの背後に立った。年齢は私と同じぐらいだ。奴は箱を拾い、私を見て笑った。そして、ふたを引っ剥がし、黒いつば広帽子を放り投げた。黒い帽子が、ひらひらと落ちていく。

 奴は、なっちゃんの髪を掴んで部屋の中に消えた。テラス窓の向こうでカーテンが揺れた。

 ゴミ箱は、静かに下降し、接地した。私は、転がり落ちるようにして外に出た。

「おらにまかせてけれ」

 北風さんは、帽子を拾うや、マンションの階段を疾駆し、五階の一室のドアノブを引いた。ドアが空を切った。迷わず突入した。もちろん、私も。奴は、こちらを見たが、一向に気にする様子はない。

「俺が嫌いか?」

「……」

 なっちゃんの目が赤くなっている。

 奴の腕がしなり、その平手がなっちゃんの頬を打った。なっちゃんが床に倒れた。

「逃げようなんて思うなよ」

「……」

「俺から逃げられると思ってるのか?」

 なっちゃんが首をふった。

 奴は、力ずくで、なっちゃんを立たせ、拳骨で殴った。なっちゃんが転倒した。そのとき、頭を打つ鈍い音がした。

「おいっ! こらーっ! ふざけるなっ!」

 私の声は、うわずっていた。体が言うことをきかない。

 奴が、居丈高にものを言った。

「ナツミはな、俺が、札幌駅で拾ってやったのさ。そんとき、こいつはよ、スッカラカンでさ、妊娠までしてたんだぜ。俺が気をきかして、ソープに紹介してやったよ。ナマでできるのは貴重だからな。これでわかったろ。俺が命の恩人だってことが」

「子供は?」

 私の声は、かすれていた。

「堕ろしたに決まってるだろ」

「……」

「おまえのことは知ってるぞ。ナツミが、デメントリを知ってるかって俺に訊くから、日雇い労働者のことだって教えてやったよ。俺が、デメントリが来たのかって訊いたら、頭を縦にふりやがった。日雇いのくせによく来れたもんだなって言ってやったさ。だって、プータローとかわんねぇんだもんな」

 北風さんが、黒い帽子を床の上にそっと置いた。

「おらがプータローなら、おめぇはダニだ。そんなに、人を殴りてぇなら、おらを殴ってけれ」

「おっさん、わかってんのか? 自分で何言ってっか」

「わからねぇ」

「おい、いかれてんじゃねぇぞっ!」

「おらは大丈夫だいじょんぶだ」

「ふざけんなっ!」

 奴の鉄拳が、何発も北風さんの顔をとらえた。北風さんのまぶたれ、鼻から血が流れた。

「女、子供に暴力をふる奴はクズだべ」

 北風さんは、立っているのがやっとだった。にもかかわらず、ただならぬ気配を漂わせていた。ほっておいたら、完膚無きまで奴を叩きのめすだろう。

 なっちゃんが、北風さんの前に立ちはだかった。

「もう帰って」

 なっちゃんの顔が、私に向けられた。

「どうせ、ヒモになりたかっただけっしょ! とっとと帰ってけれ!」

 私の目から、涙がこぼれ落ちた。

「イクジナシは、そったら男でねぇ」

 北風さんが、顎をしゃくり、入口を指した。

「帰るべ」


   11 別れ


 食堂から宿舎に向かう人夫たちは、ふところがあったかく、足取りも軽かった。ただ、北風さんの無惨な顔には、皆が違和感をおぼえた。

 給料日ともなると、湿った煎餅布団にころがっていても、いつもと気分が違った。人夫たちは、高揚感にひたり、思い思いにくつろいだ。

 それでも、例外はある。その機会を狙って、豹変した男がいた。サトウだ。矢庭に、ゲンキにおどりかかるや、拳固をくらわせた。

「ウゥ、ウゥ、ウゥ……」

 畳の上に倒れたゲンキが、サトウを睨みつけた。

「その目は何だっ? それが親に対する態度かっ?」

 サトウが、ゲンキを足で踏みつけ、揺さぶった。大部屋の人夫たちは固唾を飲んだ。

「恩をあだで返しやがって。もう逃がさねぇど。通帳と印鑑と保険証を、こっちさ、よこせ」

「チョキィンハ、ボクゥノ、モォノ。ジブゥンデ、ハァタライタ」

「親に逆らえると思ってるのかっ?」

 ゲンキが腹巻きの中から引っぱりだした通帳と印鑑と保険証を、帰ってきた北風さんが奪い取った。

「何しやがるっ?」

「おめぇこそ何してるっ?」

「俺は、こいつの父親おどだ」

「おらだって、保護者だべ」

「この野郎っ!」

「ちょっと待ってれ」

 北風さんが小部屋に引っ込んだ。大部屋は、水を打ったようにしんとなった。北風さんが中で何をしているかは誰にもわからない。しばらくして姿を見せた北風さんは、

「大事にしろよ」

 と、ゲンキに、奪った三点を返した。

「おい、イクジナシ。タラとレバーはやめとけよ。体によくねぇもな」

「?」

「待たせたな」

 北風さんは、有無を言わせずサトウに肩を組ませ、そのまま、夜のとばりに消えた。

 私は、寝ないで待っていたが、北風さんもサトウも帰ってこなかった。

「『未練』で飲んでるのさ」

 ヤマサンのその言葉を聞いて、私は、服を着替えた。

 『未練』のママは、素っ気なく言った。

「おんちゃんは帰ってこないよ……」

 ママが、話を続けた。


 両親から繰り返し何度も虐待を受けた北風さん兄弟は、幼くして、児童養護施設にひきとられ、そこで暮らすことになった。それでも、兄は、高校を卒業し、就職を決め、施設を出て独立した。ところが、それ以後、兄からの連絡が途切れがちになり、ついに、途絶えてしまった。その上、両親が死んだ。残されたわずかな遺産は、葬式代とゴミの処分費で消えた。

 兄の消息は、車の修理工場を辞めたまでしかわかっていない。


 ママが、言った。

「……あんちゃんの居場所がわかったんでないかい」

 店を出るとき、ママと客の声が聞こえた。

「今のは誰だべか?」

「イクジナシさ」


 北風さんは、誰にも別れを告げることなく、宿舎からいなくなった。行き先を知る者は誰もいない。でも、これだけは言える。

 困った人を見かけたら、ほっておかないだろうと。


 雪は、朝になっても、やまなかった。

 現場までの送迎は、『荒海土木』の社長がやってくれた。

 その日の夕方、私は、事務所に行った。社長は、忘年会の準備で留守だった。

「どうもお世話になりました」

 あねさんが、言った。

「これから忘年会なのに……飲んでいけばいいっしょ。したら、社長にも会えるべさ」

「今夜、札幌を離れます」

「……さびしくなるべさ……」

 その言葉が心にしみた。


 人生は自分のためにある。自由気ままに生きれば……悔いのない生き方なら……それでいいじゃないかと思っていた。でも、それは勘違いだった。

 困っている人が身近にいたら、その人を助けてこそ、それが人生で、そこに喜びを感じてこそ、それが人生だと、北風さんから教わった。それは、簡単そうで、とても、むずかしい。


 札幌の繁華街で、路上ミュージシャンに再び出会った。歌が終わると、逆さの帽子が観客の手から手へとまわった。私も、ささやかではあるが、投げ銭を入れた。

 福顔と痩せの二人が、飲み屋の裏で、空き瓶に残った酒を物色していた。福顔が、いち早く私の姿に気づいた。

「いつか来ると思ってたよ」

「半端な考えならやめとけ」

 痩せの言葉にはとげがある。

「仲間になるか?」

 福顔は、親しみをこめて言ってくれたが、私は辞退し、カップ酒と煙草で二ヶ月前のお礼をした。

 札幌駅で、尻を床に据えたエビスを見かけた。

 私は、売店で買った新聞に目を通した。北風さんとサトウの間で何かあったのではないか、という心配は杞憂に終わった。

 私は、肩に軽い衝撃を感じた。

「気をつけれっ、このっ!」

 サングラスをかけた華奢きゃしゃな男が、顎を突き上げ、いきがった。

「俺を誰だと思ってる?」

 その声には聞き覚えがあった。私は、男のサングラスをはぎとった。……ヒカルである。

「どこに行くつもりだ?」

「墓場か、地獄か、そんなとこだべ」

「たいがいにしろっ!」

 私は、サングラスを踏みつぶした。

「……」

「……冗談だよ」

 と、私は、夜行列車にヒカルを押し込んだ。

 私は、ボックス席の窓から外を見て目を疑った。ホームを歩く女の後ろ姿が、なっちゃんに似ているのだ。

 ホームのベルが鳴った。

 車窓をかすめる綿雪が、真横に流れはじめた。


   12 再会


 ホテルのロビーで、私は、直立不動の姿勢をとった。監督の精悍な顔つきは、二十五年と六カ月前と変わらない。

 ゆきむしが舞った。まさかとは思ったが、目をこらすと、それは、ダウンジャケットの羽毛だった。

 お互いに、髪が白くなっていた。

 監督は、何も言わず、にやりとした。

 ……原稿用紙は白紙だったんだろ……

 私は、頭をさげるしかなかった。

                                          〈完〉 

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