Ⅰ章~レイオスの暗殺者~
人は世界と寄り添って生きている。
誰にでも叶えたい想いがあって、守りたい人がいて、夢に見る願いだってある。
それは確かに自分の中に存在しているけれど、途中で分からなくなったり、見失ったり。気がつけば自分を守ることに精一杯で。
そんな自分が辛くて、苦しくて、意図せず不意に誰かを傷つけてしまうこともある。心が締め付けられるような現実や自分を、きっとみんなどこかで嫌いながら生きている。
でもそれは悲しいことや辛いことを乗り越えていく力にだってなるんだ。
理想に足掻いて。失敗を繰り返して。迷って挫けそうになっても。そうやって生きてきたことが道しるべになる。差し伸べられた手を握り返す勇気になる。
だから私は差し伸べたい。 その手の暖かさを知っているから。
必ず届けるんだ。
――キミは一人じゃないって。
「テッサー、いつまでもそうしてると置いていくわよー?」
「サクラはフランソワの名物なんだから、あとでいくらでも見れるぞー」
桃色の花びらが舞う風に乗って響く私の大切な人達の声。
街道沿いに三本並び立つ、美しい花弁に彩られた木々達に見惚れていたらしい。
「うんっ、いま行くー!」
でも私が立ち止まったのは、木々に咲く花が綺麗だったからだけじゃ、きっとない。
今見ていたサクラもこれから見るサクラも、同じものは一つだってないんだと思う。
最後に一度だけ三本のサクラに振り返る。まだ少し冷たい季節風に吹かれて、別れを惜しむように木々が柔らかくざわめいた。
「行ってきます! また来るからねっ!」
故郷を旅立って二度目の春。キミはどうしてるかな。少しだけ……ほんの少しだけ、そんなことを考えていた。
◆
眼下に広がる山麓がほのかに色づき始めている。頬を撫でていく風に秋の香りがちょっぴり混じってて、ここから見る景色はいつも素敵だけれどこの時期は特に好きだ。
考えもしなかった出会いとか、知り得もしなかった世界がこれから開けていくんじゃないかって、過ぎていく季節に想いを馳せられるから。
「…………サ。……ッサ。テッサったらっ!」
「ん? ああ、ごめんマリー。えっと、なんだっけ?」
振り返るとマリーが眉を吊り上げて立っていた。
「なんだっけ? じゃないわよもう。はぁ……またぼうっとしてたの?」
「あはは、ごめんね」
悟ったようにため息をつくマリーは私の幼馴染であり、同じトリウィウムに通う同級生でもある。
肩口で切りそろえた髪に澄んだ緑色の瞳が映えている。見た目通りのさっぱりした性格もあってクラスでも人気者のマリーは、いつもみんなに元気をくれる存在だ。
「本当に聞いてなかったのね……。今日は午後1限だけだからクルトンに髪留め見に行こうって言ってたじゃない」
「そうだっけ?」
「そうだっけって……信っじられない、いい加減怒るわよ」
「あはは……ごめんなさい」
マリーは普段優しい分、怒らせると怖い人の典型なのだ。
「でも今日は難しいかも。エルに仕事頼まれてて。師匠の用事もあるし」
「エル姉の? そういえば姉様今日も来ていないものね……そっか、しょうがないわね。分かった、今回は貸しだからね」
「本当ごめんね。いつか埋め合わせするから」
「期待しないで待っとく。それと、忙しいのは分かってるけど無理し過ぎないでよ。術士っていっても限度ってもんがあるでしょ?」
マリーは優しい。いつも断りっぱなしなのにこうして必ず誘ってくれるし、みんなで遊んだ話をしてくれる。 だから私は全然寂しくない。みんなのために頑張ろうって思うし、こうして笑っていられる。
「うんっ。ありがとう、マリー」
「べ、別にあんたが倒れたところで街のみんなが代わりになるだけだし。何かあってあんたの家に行くのも大変なんだから、少しは自重することも覚えなさいってだけの話よっ」
「ふふ。覚えとくね」
「な、なによその顔はっ、わたしの都合だって言ってるでしょ。あんたはあんたのやるべきことすればいいのよっ。そ、それよかエル姉ね、やっぱり引きずってでも連れて来ないとあの人は来ないんだわっ」
自分がしっかりしなければと意気込むマリーの話を聞きながら教室を見回す。
昼休みのこの時間は本を読んだり、友達とはしゃいだり、机に突っ伏して寝ていたり。みんな思い思いに過ごしている。みんな楽しそう(寝てる人は幸せそう)で私もこの空間を共有していることを嬉しく思う。
「おーしっ、みんな席につけー」
気合が入っているのかいないのかよく分からない声を上げながら始業のベルに合わせて師匠、いや先生が戸を開けた。散っていたみんなが席についたのを確認すると満足そうに眼鏡を指で上げた。
「それじゃまずレイオスの地理と歴史についてだが――」
山間に点在する小さな集落が集まってできたレイオス領は、ロンドベル教主国教皇ディー・アーベントムが治めるロンドベル領に属する小都市。
人口およそ五百人をまとめるレイオス領主は十年前に先代が亡くなってから空位になっている。それを受けてロンドベル領政府九卿の一人としてレイオス領に着任したのが、壇上に立つジルフード・クライ・シュテルス。通称師匠だ。
九卿なんて聞かされるといかにもって感じだけれど、街のみんなと接する師匠は大らかで、決して怒らず、いつもにこにこ笑いながら相談事や頼まれ事を解決していく。
そんな親しみやすい性格から色んな愛称で呼ばれていて、当人も「友人が街を訪ねても俺の名だとわかることはないだろう」と嘆くほど。
レイオス領を一望できる山の上に佇むトリウィウムも、その師匠が発案したものだ。どうしてわざわざこんな山奥に建てたのか。通う皆が思わず愚痴りたくなる木造の校舎は、街のみんなで建てた自慢の宝物だ。
◇
「レイオス領の成り立ちと周辺の地理における問題点について――テッサ、答えてみろ」
授業も半ばが過ぎ、ロンドベル領の地図を板書し終えた師匠が振り向きながら指名した。
「はい。他の小都市に比べて集落が分散し、実質的な形態が町村の集合組織であるため、国境地域としての機能を果たしにくいことです」
席を立ち、手短に答えて座りなおす。質問のほとんどは要点の復習で皆反射的に答えられるようなものばかりだ。
「そうだな。みんなも知っていると思うが、南のテナン自治区との交易は、レイオスの北にあるクルトンが取り仕切っている。流通の起点はどうしても人が集まりやすい都市に定めておく必要があるからだ。じゃあ次、レイオスの有益な点について――マリー」
「はいっ」
マリーは詰まることなくすらすらと答えていく。
有益な点、かぁ。もちろん学術的な正解というのはあるんだろうけれど。私はやっぱり、豊かな心を持った人達がたくさん住んでることじゃないかなと思う。
今日は来ていないけどエルにマリー、それに師匠だってきっとそう思ってる。だからみんな胸を張ってこの街が好きって言えるんだよ。
◇
『今日からエル姉は禁止。あんたとは対等の立場でいたい。それがあたしの望みであり願い』
「あっはははっ。『豊かな心』か、それはまた面白い考え方したわねー」
晴天に囲まれた昼下がり。エルの透明な笑い声が農場に響き渡った。
トリウィウムでも年長のエルは誰よりも毅然と理路整然に物事に対応する。だけど二人きりの時はこうして無邪気に笑顔見せてくれる。――嬉しいことではあるんだけど、
「もうっ、そんなに笑わなくても……」
気恥ずかしさに拗ねながら、肩に担いでいた乾燥した牧草の束を導力車の荷台に乗せる。
綺麗に日に焼けた顔から白い歯を零して陽気に笑うエルは、小さい頃から町の仕事ほとんど全てに従事し、誰よりも多くの汗を流している。
「あぁ、ごめんごめん。でも『豊かな心』って、ぷっ、あははは」
「だからもういいってばっ。どうせ私が勝手に思ってただけですっ」
最後の干草の束をひったくるように受け取って荒っぽく積み上げる。
「もういいよ、エルなんて知らないんだから……」
まだ師匠の用事も残ってるし、さっさと済ませて帰ろう。
笑い止まないエルを放って、反対側へ回り込んで窓越しにキーが入っていることを確認する。運転席の横にある蓋付きの導力口に魔力を流し込むと、派手な震動音を発して車体に刻まれた幾何学式の術式が起動した。
「はいおしまいっと。――明日は来れるんでしょう? マリー達も会いたがってたよ?」
大型で旧式のエンジンを使った導力車のため駆動音が非常にうるさい。声を張りながらエルのいるほうを見る。
「流石ねー。天気が崩れるから今日中に終わらせろってじっさま達がうるさくってさ、ホント助かったよ」
起動した導力車はまともな会話も難しくなるほどうるさい。
「えーなにー!? 何か言ったー?」
「流石は心豊かな術士様だって言ったんだよー」
「むっ。ふーんだっ、豊かじゃないエルよりはいいよ!」
ルネル鉱石と呼ばれる人工石に蓄えた魔力を動力にする導力車は、魔力を操れる術士にしか起動させることができない。
起動さえすれば石の魔力が尽きるまで誰にでも動かせるようになるため、術士が多いロンドベルは世界で最も導力機の普及が進んでいる国と言われている。
しかし、機構を起動できる術士が二人しかいないレイオスにあるのは目の前の導力車くらいだ。
エルが導力車に乗り込んだのを見て、後ろ向きにその場を離れる。
「何かあったらいつでも言いなー! 無理すんじゃないよー!?」
運転席から身を乗り出したエルは、やっぱり眩しいくらいの笑顔だった。
導力車がゴトゴトと音を立てながら動きだしたのを見届けて歩き出す。
「さてっ、もういっちょ頑張りますかっ」
エルを見ている自然と力が湧いてくる。気を引き締めて本日最後の仕事へ向かうのだった。
◇
生粋の貴族の血筋であるランバート家は、レイオス領の盟主であるリオス家の右腕として代々仕えてきた。内紛でリオス家の血筋が途絶えた後も、レイオス領の筆頭貴族だったランバート家当主が領主代理として統治を行っていた。
しかし十年の歳月が流れ、政治的没落の一途を辿るレイオス領から人心は離れていき、今やレイオスに留まる貴族はカイル・ランバート唯一人となっていた。
「すみませんっ、遅くなりましたっ」
「よぉ、テッサちゃん。相変わらず元気がいいね。そんなに会いたかったのかな?」
家の一室に入るなり聞き飽きた軽口が飛んできた。まぁ家といってもここはレイオス領の執政所でもあるため、領主であるこの人がいるのも当たり前といえば当たり前なのだけれど……この人だけは例外だと思う。
「領主様、そういう冗談は止めてください。それに私は師匠に呼ばれただけです」
自分で言うのも気がひける話だけど、レイオスの町だけでなくレイオス領全部含めても、おそらく一番大きいであろう屋敷が私の家だった。
調度品の置かれていない質素な執務室。
肩まで届く長い小金色の髪の青年が、対に置かれた長ソファーでくつろいでいる――いや、だらけている。精悍な顔立ちをしてはいるが、ゆったりとした白い絹服姿で過ごす様は、貴族の当主というイメージからはほど遠い。
「俺は領主じゃないよ。それになにも『俺に会いたかったのかな?』と聞いたわけじゃない。今のはテッサちゃんの勇み足だよ。テッサちゃんのお目当てはほら、そこにいるだろう?」
慣れた問答だった。彼は押せば退き、退けば押すという見た目からは想像できない(できなくもないが)言葉巧みな所がある。
「その辺にしておけよカイル。テッサ、呼びつけてすまなかった」
領主様――カイルがくつろぐソファーの、更に奥にある執務机から立ち上がった師匠が、縁の無い眼鏡を指で上げながら場を制した。
「いえ」
適当に掛けるように促され、向かい合わせになったソファーの反対側へ座る。執務机に寄りかかる師匠をカイルと私が挟んで真ん中に見る形だ。
改めてこの二人は対象的だと思う。 短く整えられた髪と同じ銀色のローブを羽織った常に格式を重んじる師匠と、ラフでしきたりに緩いカイル。
ローブの下、肩から先の袖を無くした特注の法衣から覗く師匠の腕は、重ねた鍛錬により筋肉で盛り上がっていて岩のように硬く、見るからに体に厚みがある。
己を鍛えるといったことから無縁のカイルは、背が高いこともあって線が細いというわけじゃないけれど、すらっとした出で立ちはどこか頼りない。
術士でありながら術に頼ることを最善としない師匠と、術の才を持たないと自負しながら、導力機による国造りを理想と話すカイル。
「テッサ? 聞いているか?」
師匠の声にはっとして顔を上げる。考えながらぼうっとしていたらしい。
「すみません。えと、何のお話でしたでしょうか?」
低頭してから話を聞きなおす。
「はっはー。お疲れのようだね。無理もないことだ。なんならまた明日でもいいんだけど――」
「そうもいかないだろう。テッサすまないな、大丈夫か?」
「大丈夫です、すみませんでした。すると領主様のご用件ですか?」
「賢いねテッサちゃんは。そう、これは俺の用件。そんなものに意味はないんだけど、形式としては政になるのかな」
仮とはいえ長年同じ屋根の下に住み続けてきたカイルは、今も昔も接し方を変えない。もう17になるというのに『ちゃん』付けで呼ばれるのもその一つだった。
「意味はありますよ。領主じゃないですか。それと、子供扱いは止めて下さい」
普段カイルは自分の家であるはずのこの屋敷にほとんど近寄らない。
なにをしているかと思えば、川辺で釣りをしていたり、道脇の原っぱで寝ていたり、何するわけでもなく町を散歩していたり。行動だけみればただのぐうたらだ。ううん、間違いなくぐうたらだ。
そんなカイルがここでこうして大人しくしていて、師匠がトリウィウムを早く閉めて、トリウィウムに来れないほど忙しいエル達の手伝いよりも優先されることなんて……およそとんでもない大事しか思いつかない。
「だから領主じゃないって。まぁいいさ、テッサちゃんが誰のお嫁さんにふさわしいかはまた今度議論することにしよう」
「そんな話してません。大事な話じゃないんですか?」
「大事な話だよ、どちらもね」
いつになったら真面目な話に切り替わるのか。気を揉むのはいつものことだ。
そしてそれが唐突に訪れるのもまた、いつものことだった。
「あまり時間がないから単刀直入に話すけど…………昨日クルトンでさるご要人が殺された」
「え……」
急に姿勢を正したカイルから放たれたのは、日常からかけ離れた不穏な言葉。
顔が強張っていくのが自分でも分かった。
「殺さ……ッ!? それって」
「慰みにもならないかもしれないけど、テッサちゃんは顔も見たことない人さ。要人っていうのは政治的な力を持っていたという意味でね。説明は要らないと思うけど、クルトンはこの辺りの大地主みたいな都市だよね。自分で言うことじゃないんだけど、俺がこうして自由に生きてこれたのはそのご要人の影響力のおかげなんだよね。そしてたぶん、殺された理由も俺にある。つまりだ」
「殺害の目的が私達にも関係のあること、ですか?」
「やっぱり聡明だよ、テッサちゃんは。少し過ぎるくらいだ」
言って一呼吸置いたカイルは、黙って目を閉じていた師匠を見た。
「問題ない。屋敷に気配はないからな」
「あ……」
師匠はずっとその殺人犯の気配を探っていたんだ。そんなことを気づけないなんて……。
「気にしなくていいよ。むしろ本題はこれからさ。殺害されたご要人、まぁ仮にAとしよう。Aは術者としても達者な名士でね。殺害したのは暗殺ギルドになるんだろうけど、生憎まだ依頼主もしぼり込めていない。そんなわけで、だ――あくまで可能性の話として」
「……?」
天井を見上げてから念を押してくるカイルは、初めて見るというくらい真剣な顔をしていた。
「そいつらは俺に近しい術士を狙っている可能性がある。能力の高い術士はギルドにとっても、依頼主にしても厄介な存在だろう。大なり小なり、Aの周囲でそういった動きがあったのは事実だしね」
カイルの顔を見てなんとなくそういう話なんじゃないかって予想はしていたけれど、実際言われると背筋が寒くなる。 怖い……のだろうか? 自分でもよく分からない。解れて絡まった糸が解けないようなもやもやが胸の奥で広がっていく。
「クルトンに居る知り合い達は皆自分を警戒しているだろうからね。狙い所を考えたら直接俺を殺りにくるか、政府お墨付きのクライスか――」
――恐い。だけどそれだけじゃない、私は、
「……大丈夫ですよ。むしろ私達だからこそ対処できることもあるでしょうし」
そうだ。――なんでもないよ、これくらい。
「それに関しては俺も同意見だ」
師匠が眼鏡を上げながら付け加えた。
「狙いが術士と決まったわけじゃないが、レイオス領に関係した何かであることは間違いない。それに、そもそもこれは本来俺達が負うべき責任だ。だからそれを承知で敢えて言う」
眼鏡の奥に光る師匠の眼は本気だった。一人の術士として私に対している。
「テッサ、逃げろとは言わない。お前でなければ守れないものもあるはずだ。だから守れ。自分と、自分自身の大切なものを」
私はマリーやエル、トリウィウムや町のみんなを守りたい。大切な人達が幸せにずっと笑っていられるように。そのためだったらなんでもない、なんでもないことだよ。
「はい!」
返事を返した時には自然と立ち上がっていた。
「……あ~ぁ、良い返事だね」
カイルはめんどくさそうにだらっと体をソファーに預ける。
「まったく、クライスなんかの弟子にしたのは間違いだったよ。ただ、ジル先生はこう見えて一番テッサちゃんのことを心配しているんだぜ? 君は無茶はしちゃいけない。今日の話を要約すれば、この一点に尽きる。さっきクライスも言ったがこれは俺達の責任だ。俺としちゃ逃げるつもりもないし、世話になった友人を弔わないほど育ちは良くない。いいかい?」
思わず鳥肌がたった。 友達を亡くした哀しい殺気が、カイルの瞳に宿っていた。首筋に匕首を突きつけられたような、冷たい殺気が刺さるように伝わってくる。
いつもみたいに緊張感なんて欠片もないような体勢で、ソファーに寝っ転がっているだけというのに、今のカイルはひどく――怖かった。
◇
翌日は酷い大雨になった。
滝のように降り注ぐ雨で霞むほど視界が悪く、トリウィウムは早くから休校が決まっていた。
「これで全員か」
出席予定だった生徒への連絡を終えた師匠は「ふぅ」と一息つくと受話器を静かに置いた。
導力式じゃない旧型の通信機は、雨や風が強いと雑音が酷く、世間話すら間々ならない時すらある。
執務机の椅子に背中を預ける師匠の顔は少し疲れているように見えた。
「大丈夫ですか?」
「これくらいで心配しないでくれよ」
柔らかく笑う師匠は、コーヒーを片手に山積みされた書類に目を通していく。
「エルの話、本当になっちゃったな」
「エールディア? あぁ、ベネクじいさんの天気予報か」
「うん。私にも使えないかな? 星読みの術」
「あれは術といっても魔力によるものではないからな、俺にも出来ないよ。まじないとか占いとか、そういう類のものだ。学会の術士なんかに言わせたら『そんな非科学的なものは存在しない!』って講釈垂られるのがオチだぞ」
エルの祖父、ベネクおじいさんは天気を星石を使ってある程度予測できる。『ある程度』っていうのは、一週間だったり次の日だけだったり。その時々によってまちまちだから、そう言わざるを得ない。
おじいさんが言うには、その日の風や湿度、気温で星石の表面に付着する微精霊が違っていて、それで天気が分かるのだとか。
絶対に当たるわけではなく(本人も認めている)教えてもらったこともあるけれど、私には違いが全然分からなかった。
軽く笑い流すように師匠は話すけど、明日の天気を知れたらもっと暮らしが便利になるだろうし、たとえば友達と遊びに行く日を天気を見ながら決められたらみんな喜ぶと思う。
「おじいさんの言う微精霊って、術力の源になっている守護精霊達が残した小さな欠片みたいなものでしょう? だったら――」
自己強化魔術を使役して微精霊達の軌跡を辿れれば何か分かるんじゃ――そう言おうとして先回りされた。
「微精霊が可視化したら、五感から得る莫大な情報量に人間の脳はついていけない。焼けるように脳が沸騰して自我を失い、最終的には物言わぬ廃人になるだろうな」
「……怖っ。じゃあなんでおじいさんは分かるのさ?」
「だから実際に見ているのは微精霊じゃなく『それ以外の何か』だろう」
「だーかーらー、それが何かって話ですってば」
「それが分かったら、王院教授になれる」
そう言って師匠は話を切り上げると、書類で分厚くなった封筒を持って部屋を出て行ってしまった。
「逃げられた……」
一人執務室に残されても何もすることがない。機織の手伝いは午後からだし、この雨では日課の散歩にも行けない。
(何か面白いものないかな……)
考えながらも期待せずに視線を泳がせていると、机の上の本に挟まれて擦り切れそうになっている封筒が目に止まった。
抜き取とろうと軽くつまんで引っ張ってみるが、予想以上にぼろぼろだった封筒はびりびりと悲鳴をあげた。
「あっ……。……だ、大体、ぼろぼろ過ぎるのよ。取っておくにしても新しいのに入れ替えるべきだわ」
誰に聞かせるでもない釈明をし、中身を取り出してみた。びっしりと走り書きされた文字が羅列されていて、何かの論文のようなものだった。
「エスタレボルシオン?」
聞き慣れない言葉が論文の一番上に書かれている。
えっとたしか、古代カルデナ語で『偶像革命』って意味だ。
古代カルデナル語っていうのは、ロンドベルがまだ単一国家だった頃に使われていた言葉で、現在使われている教皇文字は、ロンドベル領の拡大に伴って統合国側の文化性を損なわないように標準言語として統一されたもの――本で読んだ知識だけど間違ってはいないはず。
「偶像革命……」
読むのを躊躇うほど殴り書かれた文章だったが、好奇心に心が駆け出していたせいか不思議と必要以上に引っかかることなく読み進められた。
半分ほどまで目を通し終えた頃、窓の外で何かが光った気がした。
一瞬だったので見間違いかと思っていると、不意にまた一瞬だけ光った。
エルの農場の更に向こう。河を渡った先の辺りだ。
「こんな雨の中に、人?」
目を凝らしても当たり前のようにそれ以上は何も分からない。
『君は無茶しちゃいけない――――これは俺達の責任だ』
カイルの言葉が頭の中に響いた。
それでも……私にできることがあるのなら。私が守れるものなら、放っておけない。
「それに、もしかしたら何か事故が起きているのかもしれないし」
論文を新しい封筒に入れ引き出しにしまうと椅子にかけてあった革のコートを羽織いながら部屋を飛び出した。
◇
フードに叩きつけられた雨が勢いよく目の前を流れ落ちていく。
ぬかるんだ泥に足を取られないように注意しながら、出来るだけ速く、目立たない林道を選んで駆け抜けた。 光りは動いていた。もし人がいたとしても同じ場所に留まっているとは限らない。感覚を研ぎ澄ますように警戒を強めた。
(……もしカイルを狙う暗殺者だったら)
やっぱり師匠に声をかけるべきだったのかもしれない。
(ううん、まだ暗殺者と決まったわけじゃないし。確認しに行くくらい私にだって)
過ぎる不安を振り払うように歩を緩め、乱れたコートを直した。
最初に光ったのはこの辺りだったはず。 相変わらず視界は悪く、水量の増えた河から響くゴーゴーという音が足音を消してしまう。死角を取られたら反応できるかどうか……。
(落ち着け……練習では出来ているはずなんだ)
緊張で思わず唾を飲み込んだ瞬間、背後で動く気配がした。
「誰ッ!?」
咄嗟に振り向いた私を見て、灰色のローブに身を包んだ人は逃げるように林の中に飛び込んだ。
「あ、待って! そっちは!」
茂る草木に隠れているが切り立った崖になっている。河の水に削られた岸は反り返リながら高さがあり、平時でも落ちたら上流まで歩かなければ戻ってこれない。こんな水かさが多い日に流されたら――
程なくガサガザと派手な物音と共に悲鳴が響いた。
「もうっ、世話が焼けるわね」
意を決してコートの前止めを外した。肩に直接触れる雨粒は予想以上に冷たい。
◇
国内最大の流域面積を持つローム河は、レイオスを縦断して海へと注ぐ。
雨季の大雨に備えて、ローム河に沿うように点在している監視小屋。雨季を過ぎたこの時期には誰も近寄らなくなるため、一種の秘密基地として私はちょくちょくここに足を運んでいた。
「くしゅんっ」
冷えた身体を震わせながら暖炉の火種を探す。
「すまなかった……」
暖炉の前に座っている男は、眉尻を下げると力なく呟いた。
温厚な顔立ちの男は申し訳なさそうに大きなの両肩を落とし、ずぶ濡れになっている風体も相まって、その姿はもはや哀愁さえ漂っている。
「こっそり後ろを取っておいて、見つかったら逃げるなんて。まさかおじさん」
「おじ……」
「あれ? お兄、さん? ……。あなたは暗殺者ギルドの人?」
そんな風には見えないが少しだけ身構えながら尋ねてみる。
「……」
(あれ? ……もしかして本当に?)
人は見かけによらないとか、殺しを生業にしている相手を目に見える雰囲気から安易に判断してはいけない――師匠が今回の一件の後に何度も言っていた。
返答を待つ数秒がとても長く感じた。大きく脈打つ心臓を押さえるように右手を胸に当て、いざという仮定に備える。
「……僕を追いかけてきた身のこなしもそうだが、君は何者なんだ? 僕が質問に答えられるかどうかはその後だ」
真っ直ぐに見つめ返してくる視線が、少しだけ鋭くなった気がした。
「私はテッサ。トリウィウムに通う学生よ。おじ、お兄さんは? レイオスの人ではなさそうだけど」
「トリウィウム……レイオスに術士は少ないと聞いていたが。学生が本から得る知識と真実は必ずしも一致しない。知らなくていいことが世の中には多くあると僕は思うのだが……そうもいかない、か」
私は暖炉に火をつけ終えると、俯くお兄さんの顔を覗き込もうとして――ちょうど顔を上げたお兄さんと近い距離で目が合った。
「私には、お兄さんが悪い人には見えないもの」
主観は客観を超え得ない。 何が善で何が悪なのか。経験という色眼鏡を、人は掛けずにいられない。
だけど、全てが疑うことから始まってしまったら、きっと息が詰まってしまう。
だから私は歩み寄りたい。差し伸ばした手が歴史を変えることだってあると信じたい。
「お兄さんが私を信じてくれたら、私もお兄さんを信じられるよ。ね? それって素敵な事だと思わない?」
「……君は、面白い子だな」
お兄さんは息を逃しながら左右に首を振る。
「ロバートだ。ジェフリー・ロバート」
握手を返してくれたものの、ロバートはまだ迷っているようで、
「……君を信じよう。それでも、僕が話せるのは名前だけだ。話せば必ず君に迷惑がかかってしまうから」
やはり眉尻を下げながらそう続けた。
「その代わりといっては難だが、この小屋を少し借りていても構わないだろうか? 身を隠したいんだ」
「ここには私くらいしか来ないから、殺し屋さんじゃないならどうぞ」
「はは、手厳しいな。ありがとう、テッサ」
ロバートさんは優しい苦笑いで返してくれた。
◇
かたんかたんと織機が軽快なリズムを刻んでいく。
「こんな雨の日にまで、いつも悪いねぇ」
手元を忙しなく動かしながらもジョゼおばさんはいつも笑いかけてくれる。
「気にしないで下さい。今日は他にすることもないですし」
作業着姿のおばさんは、凄く真剣な表情で織機と向かい合う。レイオスの工芸品である平織のタペストリーはこの工房で全て織られている。
職人さん達に混じって織機のペダルを踏みながら、ぴんと縦に張った青い糸に、赤い横糸を繰り返し通していく。 一本ずつ糸を編んでいく地道な作業だけど、少しずつ形になっていく模様に想像を膨らませていくのは楽しい。
「テッサは器用だから、みんな頼っちまうんだよ。うちの娘にも少しくらいその繊細さがあったらよかったんだがね。全く誰に似ちまったんだか、お淑やかさの欠片もありゃしないんだから」
カラカラと豪快に笑うおばさんにつられるように、周りで作業している人達も破顔した。
「うるさいわね。人には向き不向きってものがあるのよ。薄暗い部屋に何時間も押し込められるのが性に合わないだけ、細かい作業が苦手なわけじゃないわ」
トレイに人数分のコーヒーを乗せながらエルが反応する。
織機が並ぶ工房にはおばさんの他に四人の職人がいる。みんな優しく、工房の中はいつも陽だまりのような笑顔に包まれている。
エルは実家である工房にはあまり顔を出さない。自分で言うようにたしかにエルには合わないと思うし、黙々と機織り機の前に座るエルはちょっと想像しにくい。
エルからコーヒーを受け取りながらみんなは手を休めて談笑し始める。
いつもと変わらない日常にある光景。恒久的に続くと信じて疑わない平和だ。
(師匠たちは何か分かったのかな……)
手の中で湯気を立てるカップに視線を落としながら、そんなことを考えていた。
ロバートさんを残し、監視小屋から着替えに一度戻ったが、師匠もカイルも家にはいなかった。
ロバートさんのこと、師匠たちに話すべきか。
私は迷っている。自分だけで答えを出すべきことじゃないと思うから。
でもあの人が嘘をついているようにも私には思えない。
「テッサ? どうかした?」「え? ううん。なんでもないよ。ごめん」
「なんで謝るの」
「えっと、そうだよね、何か変だったね。コーヒーありがとう」
「大丈夫? 疲れてるなら今日は休んだって構わないんだよ。元々お願いしているのはこっちだし」
エルは隣に座りながら、私と自分の額に手を当てて、
「熱はないみたいね」
そんなことを言っていた。その様子がなんだかおかしくて私は笑ってしまう。
「……やれやれ、こっちが笑われたか」
「あ、ご、ごめん」
「いいって。元気そうだし。無理はするんじゃないよ」
トレイを持って工房の奥に戻るエルの背中を見送る。一息ついたみんなも作業に戻り始めていた。
(明日、もう一度ロバートさんと話してみよう)
使わないといっても、誰かと会ってしまう可能性だってあるだろうし。匿うにしても師匠たちに話した方がロバートさんにとっても安全なはず。
帰ったら師匠たちの方で進展が無かったか聞いてみよう。もしかしたらもう犯人の目星もついているかもしれないし。
そんなことを考えながら工房を早めに出た。 ――だけどその日、師匠たちは帰って来なかった。
◇
――事件はすぐに起きた。
翌朝、ジョゼおばさんが真っ青な顔をして師匠に相談しに来ていた。
そこで「エルが灰色のローブを着た男に斬りつけられた」という言葉を聞いた私は家を飛び出した。
背中越しに師匠の呼び止める声が聞こえたけれど、そんなことは気にしてなんていられなかった。
(私の……私のせいだ……ッ!)
心臓が押しつぶされるように痛む。
いつもならなんでもない距離なのに自然と呼吸が荒くなり肩で息をしてしまう。だけど、どんなに苦しくなったとしても、もっと強く地を蹴り、速く腕を振るんだ。何よりも早くエルに会わないといけないと思うから。
「……ッ!」
「わっ!」
駆け込んだ曲がり角で人とぶつかってしまった。
「す、すみませんっ! 急いでいて。だいじょ――」
慌てて謝り、逸る心を抑えながら顔を上げる。しかし私はその瞬間、心から安堵していた。
「……エルッ!?」
腰をさすりながら立ち上がるエルを見て、ふっと全身から力が抜けていく。
「いたた……。誰かと思ったらテッサじゃない。どうしたってのよ、ぶつかるなんてらしくない」
「だってエルが……あれ……?」
エルはトリウィウムに向かう途中だったようで、ふわりとしたロングのワンピースに、お気に入りのヘッドドレスをつけ、手にはカバンを提げている。
いつもとあまりに変わらないその姿に、気が抜けた私は崩れ落ちるようにその場にへたり込んだ。
「ああ。それか……ほら」
エルは肩袖を少しまくると右腕を見せた。
「母さんやじっさま達が大げさ過ぎるのよ。ちょっと掠っただけ」
白い包帯は血が滲んだ様子もないし、本当に軽く巻かれているだけのようだった。
「でも斬られたって……」
「だから腕をちょこっとね。はぁ、混乱するだけだから街のみんなには言うなってあれほど言っておいたのに。母さん、ジル先生の所へ行ったんでしょう?」
エルは驚くほど冷静だった。
「そりゃびっくりするよ……でも良かった、本当に。エルが、エルがいなくなっちゃったら、どうしようって……私……」
ほっとしてつい視界が滲んだ。
「馬鹿ね、泣かなくてもいいでしょうに。ほら、いい加減立ちなさいな」
「……うん」
エルの手に引かれながら立ち上がり服についた砂を払う。
エルがそばにいるだけで、こうして手を握っているだけでこんなにも心が暖かくなる。
「……ありがと、エル」
「だから、なんであんたがそれを言うのよ。まったく、少しは頼りがいも出てきたと思っていたんだけど、まだまだね」
エルの手にそっと頭を撫でられて、また涙が滲みそうになる。
「問題はこれからよ、テッサ。本当は学校でジル先生に話そうと思っていたんだけど、母さんが話しているだろうし、あんたも止めても聞かないだろうし。……灰色のローブを着た男だったわ」
「ッ!」
心臓がどくんと大きく脈を打った。
「まぁといっても、突然だったから大したことは話せないんだけど。雨漏りしてた納屋を直そうとしていたらいきなり斬りかかられたのよ。男っていってもフードで顔は見えなかったから、体格と漏らした息遣いからの予測だけどね。特に何か着込んでいる様子もなかったし、女であの厚みある体はちょっと想像しにくいわね。かわした時に盛大にひっくり返ったからか、そのまま消え――大丈夫? 顔色悪いわよ?」
エルの目を真っ直ぐ見れなかった。
「……そっか。なるほど、ね」
エルは小さく呟いた。
「あたしはこの通り平気だからトリウィウムに行くけど――」
「ジル先生にはあんたとは会わなかったって伝えておくわね」
「え?」
エルの手が伸びて肩に触れる。
「――しっかりなさい。あんたはあたしの『妹』だろ」
犯人に心当たりがあってしまうことをエルは気付いたんだと思う。そしてそれを話せていないことも。
遠くなってしまったエルの背中を見送りながら、肩に手を置く。こうしているとエルから力がもらえるような気がして。
「ありがとう。エル姉」
◇
地面を踏みしめる力が体の奥から湧きあがってくる。
エルは何も話せない私を信じてくれた。エルの想いに応えるため、これ以上犠牲者を増やさないためにも絶対にはっきりとさせなきゃいけない。
林道から監視小屋の様子が窺える所まで進んで足を止めた。
近くにあった樽ほどの大きさに圧縮されまとめられた乾草束の山から、一握り分をむしってポケットにしまう。私にとってお守りのようなものだ。
小屋の扉は開いていないが特に変わった様子はない。
「身を隠したい」と言っていたロバートさんの顔が浮かぶ。
温厚で優しい感じを受けた物腰とは対象的に、とても深い瞳をしていた。それは敵意とか悪意とか、そういうものじゃなくて――使命を果たす強い覚悟を秘めたような、そんな瞳だった。
たとえばロバートさんがカイルの言っていたような暗殺者だったとして、あの状況から私を見逃すだろうか。それにエルの話を聞いて、何か引っかかっているんだけれど……。
「……よし」
「考えても分からないことを考えるのは止めよう」そう言い聞かせ、周囲に人気がないことを確認しながら小屋に近付く。物音しないその扉にかけた手はじっとりと汗ばんでいた。
そんなことはないと否定しながら、心のどこかで怖いと思ってしまっているのだろうか。
(大丈夫……絶対に、大丈夫ッ!)
疑心を振り払うように「えいっ」と扉を押した。
「……ッ!」
扉が開いて、暗い室内に光が射し込んだ刹那、鈍く光る銀色の何かが鋭く伸びた。
あっ! と思った瞬間にそれは喉元で静止していた。
「……君か」
『銀色の何か』の正体が、一メートル程の短槍だったということを認識して息を呑む。槍の向こうには、目を丸くしているロバートさんの姿があった。
「気配を絶っているからてっきり『彼ら』だと。昨日のことといい、君には驚かされるな」
一番驚いたのは私だと思いますが……。
「……あの。それ、しまって貰えると、助かります……」
「ああっ、すまない」
慌てて下ろされた槍先は手入れの行き届いた綺麗なものだった。
「そうか。そんなことが……」
状況を聞いたロバートさんが静かに呟いた。
椅子に座って人心地ついた私は、目の前の、凪いだ海のように穏やかな目をした人を見据える。
「テッサの考えは最もだ。どう考えても最初に疑うべきは僕だろう」
「そういうつもりじゃ……。ただ私は、何に置いても最初に確認したかったんです。あんなことをする人じゃないって。教えてくれますか? ロバートさんがレイオスを訪れた理由を」
ロバートさんは何も言わず、壁によりかかり腕を組んだままじっと目を閉じている。
(私じゃ無理でも師匠なら……)
「レイオスにはジルフード九卿が治めています。師匠ならロバートさんの力にもなれると思うんです」
沈黙していたロバートさんの眉が跳ねた。
「……なるほど。君はシュテルス候の門人だったのか。その力も納得というものだ」
その顔つきは凄く真剣なものに変わっていたが、私は「ああ、やっぱりな」なんて思っていた。それに『候』だなんて。師匠の底は想像もつかないくらい深いのだと改めて思い知らされる。
「だけどすまない、シュテルス候といえど話すことはできない。今回のことは全て僕の責任だ、いずれ償いはさせてほしい。だが、今はとにかくこれ以上ことが起きる前にすぐにでも発って――」
瞬間、外からダッと踏み切るような物音がした直後、大きな音と共に黒い影が小屋の窓を破って飛び込んできた。
「……ッ」
襲撃を予測していたのか、ロバートさんは怯む間もなくショートランスを構え、影の攻撃を迎え撃った。
甲高い金属音が狭い小屋に響く。
「ぐっ――!」
「ロバートさんッ」
三合、四合と打ち合うが、相手も相当な剣速の持ち主だった。ロバートさんは次第に押され始め、槍を弾かれて強く蹴り飛ばされてしまう。
簡素な木戸を突き抜けて外へ転げ出たロバートさんを真っ黒な黒衣を着た影が追う。眼中にないのか、こちらには目もくれず立ち上がれないでいるロバートさんに剣を振り下ろした。 再び金属音が重なる。ロバートは懐刀でなんとか凌ぐが、馬乗りになった相手にじりじりと差し込まれていく。
「なんとかしないと……!」
暖炉脇にあった火かけ棒を咄嗟に手に取るが、走って殴りにいったのでは間に合いそうにない。ポケットに忍ばせた乾草を使っても同じだろう。用意した術は護身用で素早く助けるには向いてない。
(お願いッ! 力を貸してっ)
目を閉じ、デレッキに強く念じる。 地面からひんやりとした柔らかい風が、私の身体に流れ込んでくる。溢れる風は瞬時にデレッキを包み込み、槍投げの要領で黒衣の侵入者に向かって思いっきり投げつけた。
「っ!」
魔力で制御されたデレッキは空気を裂くように真っ直ぐ飛んでいく。生憎黒衣の人には弾かれてしまったが、その隙にロバートさんは男を蹴り飛ばし体勢を戻した。
いよいよ挟み撃ちかと身構えるが、林道のほうから同じような姿をした影がもう一人現れた、何やら叫ぶと黒衣の人達は逃げ出すように去っていった。何かの暗号だったのか叫んでいた内容までは分からなかったけれど、かなり慌てていたようにも見えた。
「すみません。きっと私が――」
「すまない。僕はもう行くよ」
「え? でもまだ」
槍をしまいばがらロバートさんは口早に続けた。
「人を探しているんだ、レイオスに入ったのもその為だよ。そしてさっき彼らは僕が探している名を言っていた。おそらく近くにいるんだろう。僕らがいなくなれば黒影達も離れるだろう。悪いが今はそれで納得してくれないか?」
ロバートさんは苦しそうだった。たぶんすぐにでもその人の所へ駆けつけてあげたいんだ。
「……わかりました。困ったことがあったら街のお屋敷を訪ねてください。師匠が働きますから」
出来る限りの笑顔で返すと、
「ありがとう。いつか必ず寄らせてもらうよ」
ロバートさんは左胸に握った拳を当てて応えてくれた。 それは誠実を示す、騎士の誓いだった。
騎士の誓いというのは本で得た知識だが、私は同じ光景を自分の目で見た記憶があった。どうしてそんなことを覚えているのか全く見当がつかないけれど、とても大切な、暖かい思い出としてそれは残っている。
――私はロバートさんを知っていたのだろうか。
◇
ロバートさんと別れ、帰り道の林道をぼんやりと歩く。 今朝の事件はおそらく私を(正確にはロバートさんと接触した人間を)誘導させるためのものだったのだろう。黒衣の人は複数いた。エル以外にも被害に遭った人もいるのかもしれない。帰ったら他に怪我をした人がいないか確認しないと……。
彼らの目的がロバートさん達を探すことなら、カイルや師匠の話していた『暗殺者』とは関係がなかったのかもしれない。
「ふぅ……」
なんだか一人で空回りしていたかもしれないと思うとどっと疲れてきた。
「でもまだやることはあるし。疲れたなんて言っていられない」
気合いを入れなおすように胸の前で両拳を握る。それに呼応するように道脇の草むらががさがさと揺れて、思わず飛び上がりそうになった。
「な、なに……?」
黒衣の影が頭をよぎり咄嗟に身構える。しかし、草むらから現れたのはおよそ争いとは縁がなさそうな女の子だった。
女の子は私を見つけると困惑したように眉尻を下げる。
「あ……」
歳は私と同じか少し下にも見える。背まで届いた青みがかった艶やかな髪、どことなく気位を漂わせる端正な顔立ちをしている。
剣だろうか、粗末な布にくるまれた身の程もある長物を大事そうに抱えている。その体躯に合わない大きな荷物が女の子の可憐さを強調し、まるで森から出てきた妖精のよう。
「えっと……」
とりあえず状況を整理してみた後も、女の子はまだ固まっていた。
「私はテッサ。この先の街に住んでいるの。貴女は? 道に迷ったのならこの道をまっすぐ行けば街に――」
「驚かせてしまい申し訳ありませんでした。失礼します」
道の先を指差す間に、はっとしたように硬直が解けた女の子はばさっと音を立て草むらの中に引き返した。
「……?」
一人残された私はただ首を傾げるしかない。 ただ、なんとなくまだ今日は終わらないような。そんな予感がしていた。
◇
陽も落ち切り夕闇が辺りを包み始めた頃、街は騒然としていた。
警備隊が街中を忙しく駆け回り、住民に家の中にいるよう指示をだしている。 聞けばやはり今朝被害に遭っていたのはエルだけではなかったらしく、師匠の指示で街の北側を警備しているということだった。
警備隊の人はなぜ北側だけなのかと首を傾げていたが、私にはすぐにわかった。
南側はほとんどが農地で、家といえば領主の屋敷しかない。今朝のことが師匠やカイルへの挑発なのだとすれば、師匠たちも暗にそれをやり返しているのだろう。
『何百人つれて来ようと、お前らじゃ俺に勝てない』いかにもカイルの考えそうなことだからだ。
そしてそれは確かに効果をもたらしていたらしく、師匠達の動向に注視していたらしき黒衣の影を捉えることができた。
向こうも気付いたようだけど、潜伏と近くにいたであろう仲間との合流という手段を失った彼は、すでに見限られた存在になっている可能性が高い。
師匠たちは無理するなと言うかもしれない。けれど私だって、エルやみんなに危険が及ぶかもしれないことを、黙って見過ごすなんてできない。
見失わないように気を張りながら黒い影を追いかけた。どうせ相手も気付いているんだし、今更こそこそ隠れたって仕方ないもの。
開き直った追走の中、時間だけが過ぎていった。
変化が起きたのは、夜の帳が降り街灯が頼りなくその足元を照らした頃だった。
「何故だ?」
靴音を鳴らして暗闇から現れた真っ黒な人影がぽつりと洩らした。フードで顔は見えないが低い男の声だ。
「その言葉、そのまま返させてもらうわ。あなた達みたいな人がどうしてここにいるのか。昼間の人達も仲間なのであれば是非色々聞かせてもらいたいのだけど?」
「貴様、小屋にいた女か。ヤツはどこだ?」
「……。何人か見かけているけど、みんな同じカッコだから私はよく分かりません。諦めたなら大人しく――あ」
大人しくしてくれるなんて思ってなかったけど、自分から話を振っておいて失礼な。
北側へ走っていく黒い影を追う。
ちなみに、北へ逃げやすいように屋敷(南)と河(東)と私(西)で挟むように追いかけたりしていたりする。街の中は警備隊のみんなを含め、行き止まりから裏道まで知り尽くしている、地の利は私にある。
◇
「追いかけっこは終わり?」
私が追い詰めたのか、それとも誘い込まれたのか。黒衣の男は思惑通り路地裏に入り込んだ。改めて気配を探ってみるが、誰かが待ち伏せている様子はない。
「八つ裂きにするまで人目については興ざめですしね。楽には死ねるなんて思わないことですね。警備隊気取りか知りませんが、安い正義感に駆られていると長生きできませんよ? 生意気な子供を躾けるのは大人の役目ですから」
「大人だったら周りを振り回さずに生きなさいよ。エルを傷つけたことは絶対に許さないし、もちろんロバートさんを渡したりしない」
「クク……その勇ましさが悲壮に変わっていく様は存外見物かもしれません。せいぜいいい声で鳴いてくださいよ」
男は腰を落として地を蹴ると低い姿勢のまま剣を構え真っ直ぐに突っ込んできた。勝利を疑っていないその顔は、狂気的な笑みを浮かばせて余裕を漂わせている。
(結局ぶっつけ本番になっちゃったけど、あの時は上手くいったし――大丈夫、だよねッ)
術式を思い浮かべ、取り出した乾草を一文字を描くように宙に投げる。
「其は砕け得ぬ鋭刃――」
半透明な幾何学模様の術式が右手の甲に展開されると、宙を舞う乾草を中心にして急速に伸びるつららのように氷塊が連なっていく。
「其は氷塊の刃ッ」
両手幅ほどに連なった氷塊を迫る狂気に力の限りぶつけた。
一閃を受け止めた衝撃が直に手に伝わる。
「くー、思ったよりくるなぁ」
「氷の刃だとっ!」
振り下ろされた金属製の剣と交差し、鍔迫り合いになってもそれはヒビ一つ入っていない。
――うん、強度はばっちりだね!
予想以上の結果に心の中でガッツポーズした。
それよりも問題なのは正真正銘の氷だということ。ありていに言えば――冷たい。
手の平を薄く防御膜で覆っているとはいえ、冷気の塊をずっと握っていられるはずもない。
だから『砕いた』――
刃を弾くと同時に魔力生成を止める。
強度を失い、ただ水が固まっただけの物質がきらきらと空中で輝いた。
得物が砕けたとみるや、口角を不気味に吊り上げながら更に速度の増した剣先が迫ってくる。
淡く降り注ぐ街灯の灯りを反射させながら漂う氷の残滓達を媒体に、再び刃を生成すると、向けられた殺意へ切り返した。
水平に薙いだ刃が重なった反動を利用して距離を開ける。
好機を逸した動揺を広げたまま、男が苦々しく呟いた。
「魔女がっ……」
「失礼な。殺し屋さんに言われる筋合いはないと思うんだけど」
むっとして思わず言い返した。
完全に機を失っているというのにまだ諦めていないのか、こちらを警戒しながらもじりっと間合いを詰めてくる。
どうあっても大人しく捕まるつもりはないらしい。
「仕事熱心も度が過ぎると、ハゲるよ?」
瞬間、男の表情が強張ると一気に踏み込んできた。
「だまれっっ!」
同時に警備隊の笛の音が暗闇の向こうから響いてきた。
ラクーンかな。慌しく叫んでいる声には聞き覚えがあった。
その気配に気付いた男は一転して潔く剣を納めると、すぐに路地の暗がりへと消えていった。
去り際にひどく睨まれた気もしたけど見なかったことにしよう。でも顔覚えちゃったし、もう会わないってのは無理かなぁ。
長い夜に一人嘆息していると、少々時代遅れの鉄鎧姿のラクーンと警備隊の面々が駆けつけてきた。
「テッサ! 無事かい!?」
ラクーンはいつも以上に大きな声を張った。
ラクーンの声は元々よく通るので、彼が叫びながらここまで来るのにどれだけの人を起こしてきたのだろうかと思うと、通りに住む人たちが少し気の毒だった。
「大丈夫だよ、ラクーン。皆さんもお勤めお疲れ様です」
ぺこりと軽くお辞儀をする。張り詰めていた隊員さんたちの緊張も解れたようだ。
ただ、問題が片付いたわけではない。それはラクーンも同じ考えでいてくれたようで、すぐに隊員たちに次の指示を出していた。
「ごめんテッサ、僕らがしっかりしていればみんな危ない目に遭わなくて済むのに」
全力で走ってきたのだろうラクーンは肩で荒く呼吸を繰り返していた。彼が動く度にカチャカチャと音を立てるほど着膨れした鎧姿は、見ているだけでなんだか可愛く思えてしまう。彼自身はみんなを守る騎士のつもりなのだろうけれど。
「私は大丈夫だから。今だってちゃんと来てくれたでしょう。みんな頼りにしているから」
「ありがとう。ああ、だけどエールディアに続いてテッサまで狙われるなんて……クライスさんに申し訳が立たないよ」
私の場合は自分から首を突っ込んだところもあるんだけど、説明が面倒なので黙っておくことにした。
思いつく限り一通りラクーンを励まし終え、長い一日の帰路に着く。あの子のことは気になるけれど、もう眠いし、それになんとなく自分からは会えないような気がするので今はもう忘れることにしよう。
「2時かぁ……ん、んぅー」
街灯に照らされた時計を恨めしく眺めながら、欠伸と背伸びをいっぺんにして明日のことを考える。
「授業、起きていられるかなぁ」
師匠の授業で居眠りなんてすれば、あの黒ずくめの大人たちに立ち向かうより数段怖いし、何が起きるかなんて考えたくもない。
「師匠も寝坊しないかな?」と歩きながら夢をみてみるのだった。