一章「中串組」ー4
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食卓に人肉が乗らないのは一年振りくらいに久しぶりで、不思議な気分がした。数年前までは普通に食べていた牛肉や豚肉が懐かしいというか、彼女が「こんなんだっけ?」とぼくに小首を傾げて呟く程に違和感があった。
それに違和感を感じるぼくらは大変ヤバいのだろう。
ぼくらの≪グールズ≫という皮肉な意味合いを知っていそうな玄さんは汚泥を飲んだような苦い顔をしていたし、ぼくらを鶏好きと勘違いしていそうな奏ちゃんは微笑を浮かべて苦笑していた。
メニューは和風で、彩り美しい。
ほくほくの肉じゃがに鰹節が効いたほうれん草のおひたし、透き通るお吸い物に歯応えの良い漬物が添えられ、匠に作られたような茶碗には純白なご飯。
少し薄めの味付けだが、食材の良さを引き出す美味なる昼食だった。
昼食を作ったお弟子さんにレシピを聞きに行った彼女に置いてかれたぼくは何をしようか。
護衛なのであるから奏ちゃんの近くには居るつもりだが、如何せん暇だ。
その日暮らしをしていた癖か、ぼくは娯楽品を持ってくるのを忘れていた。彼女は最近本格化してきた料理の本やら持ってきているようで、今更読んでも、というか再びぼくが料理しても、彼女に「まだ練習中だから」と役割を奪われるのが目に見えているので諦めた。
なので、かれこれ数分程だらだらと縁側に座り庭園を眺めていた。
目が奪われたというわけじゃない。
変わらない姿を見ていたかった。
衣服を変えるだけで雰囲気が変わる人間よりも、季節に沿ってゆっくりと変化してゆく自然の方がぼくは好きだ。
変わるのが分かっていれば身構える必要が無い。
だから、ちょっとした心の空白を取り出して置いておくのには丁度良いのだ。
「茶菓子は要るか?」
唐突に戸の奥、つまりは部屋の中から問いかけられた。首を曲げて見れば玄さんが湯気立つ湯飲みを持って、歳の離れた孫に接するような笑みを浮かべていた。
茶菓子を駄賃に暇を潰させろという魂胆らしい。
「……マカロンなんてあります?」
「あー……、あったっけかなぁ。貰った覚えはねぇから多分無いな」
「なら、羊羹で」
「それなら、ここに」
にゅっと袖口から羊羹の箱を抜き出した玄さんは悪戯小僧のような笑顔を見せる。
つられてぼくも顔が綻ぶ。
本来なら縁側だなんて狙い撃ち著しい場所に居るべきでは無いのだが、大型ビルが存在しない高町市には少し高めに建てられた壁程度で問題無い。
それに、この抗争は片方の事務所が潰れた程度で終わるものじゃない。加えて、どちらも高町市程度に収まる規模の組織であるため、警察に追われて揉み消す事になれば面子に関わる。
中串組と≪スペアリヴ≫の名は既に裏世界の一部には広まっている。
面白半分に裏世界の誰かが首を突っ込む前に、静かなる抗争を終わらせねばならない。 何方かを完全に潰さなくてはならない。
一本貫く信念をへし折るか。
蜥蜴の心臓を握り潰すか。
さて、どちらが早いだろうか。
「中々美味しいですね」
「かっかっか、そうだろ。なんせ駅前の有名店のだ。不味かったら繁盛しねぇよ」
湯気立つ湯飲みと突き刺さる羊羹を片手に、ぼくらは無言になる。沈黙。黙祷のような寂しさは無く、冷たい風が緩やかに通ってゆくような平和の沈黙。
世界の何処かで人が死んでようが、ぼくには関係が無いためにこんなにゆっくりとできる。日本人に産まれて良かったなぁと羊羹の一切れを口に放る。
咀嚼する度に薩摩芋の甘さが引き出され、口の中を優しい甘さで包み込む。少し渋めのお茶が絶妙な具合で舌上を通り、美味と感じる。
侘び寂びという奴だろうか。
心が落ち着く。
けれど、食欲は収まらない。
一日一度はアパートに戻って塩漬けにした肉を食べるべきかもしれない。今はまだ地鳴りの余韻のような浅い衝動だが、そのうち我慢が効かなくなるかもしれないから。
ぼくが人肉を食らうのは主にそういう衝動があるからだ。
「なぁ、お前さんらは≪グールズ≫と呼ばれてるよな?」
「ええ、そうですね」
「もしかして日頃その……食ってるのか?」
「はい」
ぼくは躊躇い無く即答した。
道理でなぁという顔で玄さんは顎髭を撫でる。
やはり噂程度にはぼくらの通り名の意味を知っているようで、先程の様子から気になっていたようだ。
「……食いたい時があれば言ってくれ。随時増えてるからな」
抗争は激化にあるようで、戦果も犠牲もそれなりにあるようだ。玄さんの苦い顔がそれを証明していた。
「今は大丈夫ですね。でも、数日空けるのは久しぶりですからどれだけ我慢できるか自分でも把握してないんですよ」
「あん? そりゃ、食いたいじゃなくて食わなきゃいけないって事か?」
「……まぁ、“今は”そんな感じですね」
ぼくは三年程、父の同僚である教授による開発という名の実験に身を任せていた。いや、実験の内容としてはむしろ精神、心を弄られていたが。
まぁ、個人実験所の一部屋で暮らしていたのだから間違ってはいないだろう。
脳科学を専門とする教授は所謂狂科学者な人だった。
脳は普段十パーセントしか稼働していないという説を鼻で笑い飛ばすくらいに知識ある人間でありながら、知識欲に溺れた貪欲なる人間。
ぼくをラボの地下室に事実上監禁し、零号と呼んで嬉々として狂々とした実験を行う裏世界の怪物でもあった。
『人の脳には未だ未開の点が多い。ESPのような事例や火事場の馬鹿力という事例は未だ解き明かせぬ未知の領域。零号。私はな、その未知を見たいのだ。未知なる道の道標こそ、君の父親が施したそれらを受けて成長した君なのだよ。君の父親は私に劣る劣らずの怪物だ。ならば、同じ怪物の私が君を受継ぐのは当たり前にして明快な事だろう。彼はもっぱらESPを専門としていたが私は違う。脳にある枷を外す研究をしているのだよ。脳が十パーセントしか稼働していないというくだらない噂を盲信して二十、四十パーセントに引き出すという研究をしていた頃が懐かしく感じるよ。あの頃はにわかだった、そう今なら言えるだろう。とまぁ、そんなくだらない話は切るとしてだね。君にはこれから脳の枷を常時外せるような実験をやらせる。ああ、やらせるんだ。君には拒否権は無いし、逃げ出すような優しめな扱いはしてやらない。君が唯一この場所から逃げれるとしたら、私が死ぬ時か、君が死ぬ時だけだろうね。さぁ、始めようか。生贄になっておくれ、私の野望のために、ね』
と真顔で暇があればぼくに言い聞かせるように繰り返す恐ろしい人だった。ぼくがここに居る以上、その実験がどうなったかは誰でも察せるだろう。
教授の死によって実験は凍結され、ぼくは逃げ出す事ができたのだ。
実験の日々よりも前に心というものが枯れて朽ち果てかけていたぼくは、罅が入るだけで精神が壊れる事は無かった。
そうして教授の実験と称した攫った老若男女や死刑囚を喰らい続ける日々から抜け出したぼくは、外に出たぼくは半蔵さんに拾われ彼女のために殺人鬼となったわけだ。
その経緯は本が一冊程出るくらいに長いので割愛させて貰う。
ただまぁ一言で纏めるならば壮絶な家出騒動だ。
今となっては懐かしい思い出だが、今語る必要は無いだろう。
ただ、勘違いしては困るので付け足しておくが、ぼくの趣味嗜好は教授の実験による産物では無い。
いつか気付く筈だったそれが二回の出来事によって速まっただけなのだ。
むしろ、大人になってからそれに気付いていたら狂人として電気椅子や首吊りで死んでいたかもしれない。そんな無様な死に様はぼくとしても不本意だ。
『人間は脳にリミッターがあると思い込んで無意識に錠をかけているのさ。大人になるにつれて、いや、無知なる純粋から離れてゆく事でゆっくりと錠は閉まってゆくのだと私は考えている。だから、今の君は本当にギリギリなラインに居るのさ。だが、上手く行けば君は超人のような身体能力を育み培う事が可能になるだろう。これは君にとっても嬉しい事では無いかね? まぁ、今の君には自殺防止に布を噛ませているから答える事はできないからこれは私の独り言になるな。それもまぁ』
……悪くは無い。
教授の独り言の口癖。もしかしたらぼくに対する罪悪感などを打ち消す万能な言葉だったのかもしれない。いや、教授の事だからぼっち思考の成れの果てかもしれないな。
同僚にして友人だった父はその時既に死んでいたのだから。
ぼんやりしていたから羊羹の最後の一切れを取られてしまった。
したり顔なのが癪に触るが、まぁ良いだろう。これは元々玄さんのものだしね。
……お茶が渋いなぁ。
「まぁ……なんだ。して欲しい事がありゃ気軽に言ってくれ。深い事は聞きやしないからよ。あ、だが奏はくれてやらんからな。あいつは吟醸に惚れ込んでるから無理だぞ」
そうだったのか。女子高生落とすなんて案外やるな吟醸さん。
いやしかし、確かにあの鷹のような孤高さというか気高さは格好良いとぼくも思う。ハードボイルドが素で似合いそうな風貌だし。
「ご好意大変嬉しい限りですが、別に興味無いのでノーサンキューです」
「まぁ確かにお前さんには骨子くんが居るからな。手ぇ出しやしないか」
「……貴方の娘さんにも言われましたが、ぼくらは別に恋仲ではありませんからね」
「まだ?」
「いや、んなテンプレなもん付けてませんからね」
付けて……無いよな?
咄嗟に反論してしまったが覚えていないだけで無意識に言ってたりしないよな。そんなラヴコメの主人公みたいなキャラはノーサンキュー。八つ裂きにして丁重に送り返してやるさ。
そもそもぼくみたいな性格破綻者が好かれるわけが無いじゃないか。彼女との距離感が良い証拠だね。二年も同居して特に何も無いのだから。
良い雰囲気になった事も無いし、ぼくの過去を知っているからかフォローをしてくれる時もあるがそれは彼女が優しいからであって好意からの事じゃないはずだ。
玄さんは「うわぁ」という顔でぼくを哀れんだ瞳で見て、室内を見て、また此方を見て「やれやれ」というリアクションをした。
痴呆だろうか。見た目からして良い歳だし、その兆候かもしれないな。
……あれ、ならいつ奏ちゃんは産まれたんだ?
高三という事は十八年前で、明らかに五十を越えていそうな玄さんはどれだけハッスルしたんだ。
だが、奥さんをまだ見ていない。玄さんの性格なら自慢するように挨拶させると思うんだが……。
となると孫か?
いや、でも娘って言ってたし……。うーむ、分からん。
尋ねるには失礼だし、適当に補完しておこう。
「さて、そろそろわしは色々やらねばならんのでな」
「どっこ羅城門」と変な掛け声で立ち上がった玄さんは空いた二つの湯飲みと羊羹の箱を持って去ってしまった。
どうしたもんかね。安めの丈夫なタイプで飾り気の無い腕時計で時間を見ればまだまだ昼食には早い。
Good Morningedって感じの微妙な時間に暇になってしまった。
……どうしたもんかな。