一章「中串組」ー1
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才能というのは底無し沼だ。
溺れれば一生抜け出せず、足を踏み入れる事を躊躇わせ、踏み入れたなら窒息する事を逃れられない。
ぼくはそんな沼に入り損ねた人たちを知っている。
世間一般に馴染めず、裏世界の穴に落ちた者たち。
ぼくは死体処理班グループ≪グールズ≫の片割れとして、世界に数億人は居るだろう裏世界の住人の一部を回収している。
沼に溺れた無謀な野心家。
沼に入り損ねた無知な愚者。
沼に近付けない臆病な奴隷人。
大概はそんな奴らが死体として捨てられ、ゴミ処理場のぼくらが処理する。
ぼくはどちらかと言えば、そんな死体を増やしては喰らい、喰らっては増やす側だったけれども、そのせいか沢山の人に出会った。
彼女ならばそんな人たちを家畜と称するのだろうけれど、ぼくは家畜以下と称する。
人間が肥やす鶏や豚や牛は人間を逆に利用し生きている強かな食材だ。生きようと懸命に生きている。ただ、飼われている自覚が無いだけだ。
飼われている自覚がありながらそれに身を委ねる奴なんざ、家畜にも劣る間抜けさだ。
獣の牙のように突き立てる信念も無い。
鳥の翼のような飛び立つ勇気も無い。
魚の鱗のように守る知恵も無い。
だから、食物連鎖に従い他人に喰われる。
ただ、才能さえあればその食物連鎖の輪から解き放たれるチャンスがある。
食される以外の魅力があれば良いのだ。
牙や翼や鱗があれば、他から自分を守れる。
他を守る事もできるだろう。
ぼくには牙や翼や鱗は無いから、食欲という凶器しか持っていないから、そんな凶器を振り回すために技術を研ぐ事しかできない。
愚行と呼ばれるものがぼくらの最高であり、愚考と呼ばれるものがぼくらの最善であり、愚形と呼ばれるものがぼくらの最美。
それを貶められようが底辺より下は無いから特段気にしない。
まぁ……、要するに底辺根性論を語りたくなるような暇な時間ができてしまったぼくの独白なのだけれども。
「すいませんね、色々ごたごたしてまして」
「いえ、気にしませんよ。そのごたごたで文字通り食わして貰っていますから」
「は、はぁ……?」
「まぁ、今日は相方の代わりですし、さくさく行きましょう。ぼくは不器用ですから」
アパートからバスを乗り継いで二十分程にある極道な人たちが暮らす和風なお屋敷にぼくは居る。
彼女はスーパーへ買い出しに行ってしまったので、午後に来た解体のお仕事をぼくが代わりにやるために中串組の総本山とも呼べる風情溢れるお屋敷に来ているわけだ。
呼び鈴を押してから数分も待たされ、帰ろうと痺れを切らしかけた頃に下っ端かつ鉄砲弾な方が現れたという事だ。
凄く厳つい。これに尽きる。
表向きには中串建設という工事関係の社長宅とされているが、明らかな極道屋敷だ。そうで無ければ死体処理なんて作業を依頼しないだろう。
「……成る程、骨の姐さんが言ってた相棒ってのはあんたの事か」
「へぇ、何て言ってました?」
「汚泥のように濁る瞳におっかなびっくりな雰囲気を醸す相棒だ、と言っておりましたねぇ」
「……はぁん」
オーケー、よーく分かった。
見た者全員を吐かせるような解体の仕方をしてあげなきゃ駄目だね、こりゃ。出来るだけ残酷にやって別の印象で塗り直さないとぼくの評判が底辺に落ちてしまう。
彼女はぼくを出汁に信頼関係を築いたようだから、期待に過度に応えるとしようじゃないか。
そんなちっぽけな野望を企てていたぼくは、厳つい背中を追いながら縁側から覗く繊細かつ優美な庭園に視線が向いた。
和風な庭園。緑と柔らかい土色が目を休ませるコンセプトだろうか、見ていて爽やかな風が荒む心に訪れるような、そんな美しい庭園だった。
「良い庭園ですね」
「あっしの数少ない趣味でさぁ。自分が安らぐもんを置いただけですが、組長の計らいで良さげなもん置けましたからね。あっしみたいな素人でもやれるもんだと思いましたよ」
「へぇ、あなたが……」
厳つい顔が綻ぶのは吊り橋効果みたいな感じで優しげに見える。まぁ、単にこの人が優しい心の持ち主だろうけども、慣れないもんだね。
他人の笑顔というものは未だに慣れない。
冷笑嘲笑微笑。ただでさえ人間の本性ってのは見えないのだから、そんな風に上っ面すらも偽装されてしまえばもはや誰も信用出来やしない。
少なくともぼくはそう思う。
「ええ、春には桜が咲きますし、冬には雪化粧で乙なもんでさぁ。縁側座って組長の乾杯で年越すのは今じゃ恒例になりやしてね。あっしとしちゃあ嬉しい限りですよ」
だから、ぼくは感情を見る。
本当に嬉しいのなら瞳は輝く。
それが嘘なら曇る。
心にも無いなら黒く濁る。
誰にも鍛えられない無意識な感情の色は恐らくぼくくらいの臆病者にしか見えないのだろう。
だから、日陰なぼくにとってこの人の向日葵のような輝きは毒のように感じられる。
「……お名前を伺っても?」
「ああ! こりゃ失礼いたしやした。あっしは桜川銀杏。組では庭師の真似事をしております」
「……桜、綺麗に咲くと良いですね」
「……ええ。本当に」
普通なら自分の名を返すのだろうけど、長い付き合いをするつもりは無いから止めた。
≪スペアリヴ≫との抗争で死ぬかもしれないから、あまり情を移さない方が良いとも感じたからだ。
それから無言で数十秒歩いた先で、桜川さんは「こちらにお呼びしろと言われてますんで」と戸を開けてぼくを催促した。
そこは古い稽古場のような時代を感じる造形の木の間であり、中央に置かれた細長く伸びるシーツは所々赤く染まっている。
「……おや、骨子くんでは無いのだね」
奥側の壁に背を預けていた老人がぼくに、いや、シーツに包まれた死体に近付く。
厳格そうな風貌に飄々とした渋い声。江戸時代に居ればそれはもうモテたであろう粋な渋めな群青色の着物を着こなす男性は杖を軽やかに着きながら死体の前で、ぼくの三メートル前で止まった。
「……生憎片割れは出払ってましてね。代わりにもう片方の片割れが来たというわけです」
「かっかっか、そうかいそうかい。残念だなぁ、骨子くんのアレは芸術に通じるもんがあると桜坊が言ってたらしいからな。昨日見逃したから見たくて最前列を取ったんだがね」
「ありゃ、ぼくじゃお眼鏡に合わないですかね、帰りましょうか?」
「いんや、お前さんはお前さんで面白そうだ。まぁ、好きにやっちまってくれ」
壁際にどかっと座る老人に食えない何かを感じる。皮肉では無く、文字通りに食えないと感じた。
意図は分からないが仕事は仕事。どうやらスプラッターな展開は求められてないようだ。
スマートにやろうか。
死体に近付き、シーツを取り去る。ピクピクと痙攣し、俯きに未だに血を流している現在進行形な死体に眉を歪める。
老人を見やれば酒を取り出しているし、やるしか無いのだろうと諦めた。
「……ま、鶏の首を締めるようなもんだしね」
ぼくは何と無く老人の正体に気が付いたので、趣向を凝らす事にする。
例えば、右腕の付け根を足で押さえて引っ張り脱臼した所を捻って筋を痛めつけるとか。
ブチブチとゴムが限界を感じて切れたような音が部屋に響き、死に来れてない死体が絶叫をあげる。
しかし、事前に薬で痺れさせているようで、必死なもがきが無いまま腕は三週した。
爪、指、関節、と痛む部分を増やし、絶叫のオーケストラを奏でさせる。
十五分程じっくりと右腕を潰した頃には動かなくなっていて意識が完全に落ちたようだ。
左腕を、右脚を、左脚を、同じように潰して背骨に取り掛かる頃には変なオブジェが出来ていた。
全身の骨を外し終え、丁寧に畳むと頭を中心に円状になった死体は大分持ち運びやすくなっていた。
淡々黙々と作業を終えたぼくは老人に振り向く。
「こんな感じでよろしかったですかね?」
「かっかっかッ! よう言うわい。体の節々やらが痛く感じてきたぞ。えげつないのう、お前さん」
「そうですかねぇ」
「……素で聞き返してる時点でな」
中串組の組長である中串玄はゆっくりと立ち上がる。
「冷徹な面を見せろってやらしたのはそっちでしょうに。酷い言われようで心が傷付きました、死体を持ち帰るケースでもくれませんかね?」
「ああ、構わんよ。なぁに、お前さんはわしが認めた死体処理屋、無下にはせんよ」
玄さんが杖で床を叩けば、良い音が部屋に響いた。
それを合図にどたどたとケースを持った下っ端ーズがオブジェを仕舞い込み、ドライアイスのようなものまで詰め込んで準備してくれた。
んー、やられた。
こいつ最初からぼくの性格を把握していたな。となると出処は消去的に彼女しか浮き上がらない。
あの時、許してくれたのはこの茶番のためか。
やれやれ、本当にしてやられた気分だ。
ふぅー、……ブチ殺しても良いかな。
久しぶりに食欲が疼くんだけど、喰べていいかな、マジで。
「そ、そんなにカッカせんでも良かろう。骨子くんの提案のようなものだ。信じるに値する信頼の儀式というものだ。礼金も弾む。……そうだ、良いもんをお前さんにあげようじゃないか!」
「……へぇ?」
「ーーッ、おい! 至急あれを持ってこい! 磨いたのをな!」
「へ、へえ!!」
……おや、悪ノリしたら良さげな小遣いとお土産も貰えるようだ。
ケロリと表情を戻すと玄さんは鳩がアッパーブロウ食らったような顔で「……策士だのう、お前さん。食えん奴め」と苦い顔をした。
玄さんは罪滅ぼしというよりもぼくという狐に化かされた手痛い駄賃として業物をくれた。
名匠が打ったマジもんの刀を渋々ながらもポンとくれた玄さんには、正直に懐疑半分驚愕半分だったが、男の子特有の浪漫が込み上げてくる。
銘無しの「影蔵」。肉を断つために特化された等身大肉切り包丁だそうで、普通の刀よりも短い代わりに切れ味が板前の刺身のように鮮やかに切れる業物らしい。
……是非、これで鮪でも解体してみたいが、値段と量的に流石に無理そうだ。
絶対に彼女に却下されるだろう。
柄が滑りにくい特殊な木で作られているため、鞘に収めると修学旅行先でよく買われるというハーフサイズの木刀がまっすぐになったようにしか見えない。
シザーケースのような腰に巻いて収納するタイプの鞘入れも貰ったので、コートがあれば外からは隠せる小太刀を手に入れた。駄賃にしちゃ高すぎる気がするが、貰えるなら貰っておこう。
試し切りは辻斬りになってしまうので自重し、昼頃にはアパートに帰れそうな帰路についていた。
「おや、随分と浮かれているじゃないか」
後ろからビニール袋が揺れる音がした。
こんなに飄々とぼくに話しかける女性は一人だけ、振り向けば彼女が微笑を浮かべて居た。
「ぼくとしちゃ君らのサプライズにまんまとハメられてしまったからね。高い駄賃を貰ったのさ」
影蔵を見せて苦笑する。
「君らしいな」と彼女はぼくの負けず嫌いを褒めてくれた。それは少し耳にこそばゆい。
彼女が持っていたビニール袋を受け取って、アパートへ向かう。
「面白い人たちだったろう?」
「確かにね。君だけしかあちらには行って無いから、ぼくとしちゃあ面食らったよ」
「くくくっ。そうかい、そりゃ良かった。君にもあの庭園を見せたくてね。ちょいと昨日下準備したのさ」
「ああ、あれは良いもんだね。自然ってのは美しい。例えそれが人工的でも、儚く生きる姿程美しいものはない。まぁ、君には劣るけどね」
「さらりと口説くなんて、いつから君はプレイボーイになったのさ」
「ぼくの場合ゲームボーイでも烏滸がましいよ。……ってぼく、いつ口説いたんだ?」
「自覚無しとはね。本心からの無意識という奴かい? 嬉しい限りだけど……油断ならないなぁ」
まぁ、鈍感な振りなのだけれど。
そんなぼくに悶々としてくれる彼女の姿が愛らしい。可愛らしい年相応の少女に見えるなら、尚更破壊力が段違いだ。
行動が計算染みているというのに、ちょっとしたイレギュラーにわたわたしてしまう彼女は本当に可愛らしい。
願わくば、その姿をぼくにだけ魅せ続けて欲しい。
恋愛というのは複雑な奴で、恋と愛の違いを誰か教えてくれ。そのせいでぼくは脚を踏み出せやしない。複雑な愛を知ったぼくには恋心という感情がどれを指すのか分からない。
でも、誰かの側に居たいという気持ちだったなら良いなぁとは思う。
まぁ、それを知るのは誰かの犠牲が必要なんだろうけども。
ぺちゃくちゃと喋り通す団地の井戸端会議や、学校から抜け出して早いランチを楽しむ学生たちや、外回りをするスーツ姿のサラリーマン。
彼らから見たらぼくらはどう写るのだろう。
「ーーだからだね、あの小指のコリコリ感は……って聞いているのかい?」
「見惚れるくらいに真面目に聞いているよ」
ぼくの言葉に嘘は無い。