生きてるんだから
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夜、静かな山道を、俺は一人で歩いていた。
すぐ横で水音が聞こえる。暗くて見えないが川が流れているのだろう。音を聞く限り、川は俺のいるところよりやや下を流れているようだ。つまり俺の歩いている道は、土手の上の道ってところか。まあ、どうでもいいことなのだが。
「たすけて…」
ふと、人の声が聞こえた。子供の声だ。見ると土手の下に子供が倒れていた。小学校に上がるか上がらないか位の男の子だ。
「嘘だろ…」
なぜこんな所に?なんてことも考えずに、俺はその子の所に駆け寄った。
土手と言っても角度は浅く、高さは2メートル程度。手を使わなくても降りられる位緩やかなのだが、土は足首が埋まる位柔らかかった。
なるほど、足を取られて落ちたのだろう。しかしそのお蔭で見る限り怪我もない。大方昼間遊んでいるときに落ちて、そのショックで今まで気を失っていたってところか。
「おにいちゃん、たすけて…」
その子は俺を見て、細い声でそう言った。
「ああ、もう大丈夫。」
安心させるように、俺はその子に笑いかけた。しかし、
(高いな…)
上から見下ろしたときには低く見えた土手が、下から見上げると意外に高い。土も柔らかいし、子供を一人背負って登るのは、結構大変な作業に思えた。だがそんなことも言っていられない。
「登るぞ。しっかりしがみついとけ。」
俺はその子を背負って土手を登ろうとした。両手は子供を支えるために使っているので足だけで。しかし予想通り、いや予想以上に登りづらい。足は土にとられるし、傾斜はさっきよりも急に思える。
(くそ、なんでこんなことに…)
息が荒い。たかだか数歩歩くのに、体中から汗が噴き出してくる。
「大丈夫?」
背中から心配そうな声が聞こえた。
「ああ、けど両手使いたいから、もっとしっかり摑まってくれ。」
「うん。」
俺は背中から手を放し、地面についた。傾斜とはいえ四つん這いの状態だ。子供が落ちないか心配したが、しっかりとしがみついている。首の辺りに両腕を回されているので少々息苦しいが、まあ、仕方がない。
「よし、登るぞ。」
俺はまた登り始めた。今度は両手を使っているのでさっきよりは登りやすい。しかし登りにくいことには変わりない。
(…俺、なんでこんなことしてる?)
汗まみれになり、ひいひい息を切らしながら、俺は思っていた。こんなことを考えていたからなのか、突然足が滑った。顔から地面に突っ込み、顔面泥まみれになって、ズルズルと滑り落ちた。
(俺、死にに来たのに…)
仕事が嫌になり辞めたのはいいが、再就職先が見つからなかった。絶望した俺はせめて人の迷惑にならないよう、この山に死にに来たのだ。にも拘らず、今俺は見知らぬ子供を助けようとして、顔面を泥まみれにしている。
(カッコ悪…)
さぞ背中の子供もガッカリしていることだろう。顔面どころか体中泥まみれになって、カッコ悪いったらありゃしない。
「おにいちゃん、がんばって、」
背中からまた声が聞こえた。小さな声が余計弱々しくなっていた。俺に気を使っているらしい。まあ当然か、笑い飛ばすわけにもいかない、頼りにならない俺を頼りにしなければならないのだから。
「平気だって。」
俺はそう言ってまた登りはじめた。どういう理由があろうとも、こんな子供に気を使わせたり、心配させるわけにはいかない。
少し時間はかかったが、どうにか俺は手が土手の上にかかる所まで上がってこられた。だがそこまでだ、たかだか残り数十センチを登る気力も体力も俺には残っていなかった。
「俺の体踏み台にして、上に上がれるか?」
この子を上に届ければ、もう俺の役目は終わる様な気がした。
それで十分だろう。子供を助けるなんて役目、俺には向いていない。その後俺がここから滑り落ちようとも、下から「大丈夫だから家に帰れ」とでも声をかければ、おとなしく帰るだろう。死ぬほどの高さじゃないのはこの子もわかっているはずだから。
俺の背中から肩によじ登り、頭を踏んづけて子供は土手の上に辿り着いた。お蔭で髪まで泥だらけになったが、辿り着いたのだから良しとしよう。今更どうということもない。
とにかく、これで俺の役目は終わった。
「おにいちゃん。」
ふと見れば、子供が俺に手を差し伸べている。
「摑まって。」
どうやらこの子は俺が登るのを手伝おうとしているらしい。
「俺は大丈夫。」
落ちるつもりなのだから手伝ってもらう必要もない。余程俺がヘタって見えるのか。
「いいから!」
初めてこの子が強い口調になった。こんな風に喋れるんだと感心しながらも少しムッとして、俺はその子の手を掴んだ。
「ううーん!」
がんばって俺の手を引っ張り上げようとしている。そう見えるのだが俺の手には引かれる力があまり感じられない。こちらに引けばこの子の方が簡単に落ちてしまうだろう。
(まったく…)
右手は引っ張られているので使えない。俺は子供が落ちないように気を遣いながら、残った左手と足だけで土手を登り切った。体力が尽きていても意外に出来るものだ。
「よかった。」
俺の目の前で子供が安心した顔をしている。自分で登った気でいたが、引っ張られた手に意外と助けられたのかもしれない。
「ああ、助かった。ありがとう。」
俺は素直に礼を言った。
そこから百メートル程山を下った処で家が見えた。家から明かりも見えるので人もいるだろう。ここを登る時にそれは確認していた。なにしろ、たかだか十分位前のことだ。
「おウチだ!」
家を見て、子供が走り出した。そこの家の子供なのだろう。近くに他に家はない。
「お前の家?」
「ううん、ちがうよ。」
では見当たらないが近くにこの子の家があるのだろう。或いは親が休暇中で、あそこが別荘ということかもしれない。そうすると、この子は金持ちの家の子なのか?いやいや、そういう気持ちで助けたわけじゃあないが。
「よかったね、生きてて。」
「あ?ああ、」
前を走っている子供が笑いながら振り返る。大げさだが、子供ならあれでも生き死にの問題になるのかもしれない。
「もう、死なないよね?」
笑っている子供の顔が、なぜか虚ろになっていく。いや…消えていく?
(あれ…)
「だっておにいちゃんは僕と違って…」
いや、顔だけじゃない。
「生きてるんだから。」
言葉だけを残して、俺の前から子供の姿がすうっと消えた。
俺はしばらく子供が消えた辺りを呆然と見つめていた。そのうち体中にガタガタと震えがきて、膝からその場にヘタリ落ちた。
…考えてみれば最初からおかしな話だ。土手の下など暗くて見えなかったはずなのに、あの子の姿ははっきりと見えた。小さく、細いあの子の声が、なぜかはっきりと聞き取れた。
(よかったね、生きてて。)
あの子の言葉が思い出される。
(もう、死なないよね?)
…ひょっとするとあの子は俺がここへ死にに来たのを知っていたのかもしれない。
(おにいちゃんは僕と違って、生きてるんだから。)
そうとしか考えられない。だからこそ、あの子は姿を見せ、しかもあそこに倒れていた。俺に助けられて、俺を助けるために。
「ふ、ふふふ…」
笑いがこみあげてくる。もう体の震えも収まっていた。当然だ、あの子は俺に何もしていない。いや、違うな、言い直そう。あの子は俺に何も悪さをしていない。いや、それどころか…
「そうだな。」
俺は立ち上がり、前を向いた。
目の前にはあの子が行こうとした家が先程と変わらず佇んでいる。泥だらけの他人なんて家に入れて貰えるとは思えないが、あの子のお導きだ、きっとどうにかなるだろう。
「俺はまだ、生きてるんだから。」
ひとり呟いて、俺は歩き出した。
おわり




