精霊に嫌われた青年
森は、精霊たちの住処だった。
木々の枝葉をすり抜けた光が、淡い粒となって地面に降り注ぐ。風が吹けば葉はさざめき、その隙間を縫うように小さな光がふわりと舞う。鳥の声よりも軽く、川のせせらぎよりもやさしく、森はいつも精霊たちの気配で満ちていた。
――はずだった。
その森の中を、一人の青年が鼻歌まじりに歩いている。
肩には大きな荷物。手には身の丈ほどもある一本の杖。旅人にしては妙に長いその杖を、青年――アルトは器用にくるくると回しながら、迷いなく森の奥へ進んでいく。
だが、彼の周囲だけは妙に静かだった。
本来なら寄ってくるはずの精霊の気配がない。木陰に潜む小さな光も、葉の上で遊ぶ風の精も、アルトの姿を見つけると、まるで何か恐ろしいものでも見たかのように、すっと姿を消してしまう。
「ガイストまで、あとどれくらいなんだろなぁ……」
返事はない。
それでもアルトは気にした様子もなく、空を見上げた。
「ま、着けば分かるか!」
その時だった。
木の陰から、小さな光がふわりと姿を現す。
「……!」
アルトの表情がぱっと明るくなる。
「いた!」
嬉しそうに駆け寄る。
「おーい! 待てって!」
しかし光はビクリと震えると、一目散に森の奥へ逃げていった。
「あっ……」
アルトは立ち止まる。
逃げられた。
「……またか。」
肩を落とし、大きくため息をつく。
「俺、そんな怖ぇ顔してるかなぁ……」
頭をかきながら苦笑する。
精霊を見つけるたび、いつもこうだった。
近づけば逃げられる。
話しかけても逃げられる。
理由なんて分からない。
それでもアルトは、精霊を嫌いになれなかった。
幼い頃に読んだ絵本。
どの物語にも精霊術師がいた。
精霊と笑い合い、助け合い、世界を旅する。
その姿が、たまらなく格好よかった。
「……いつか、友達になれたらいいんだけどな。」
そう呟くと、アルトは気持ちを切り替えるように頬を叩いた。
「よし!」
杖を肩に担ぎ、再び歩き始める。
今日の目的地は、精霊国家ガイスト。
精霊術師たちの国。
絵本の中でしか見たことのない場所。
胸は期待でいっぱいだった。
しばらく歩くと、森の先に小さな村が見えてくる。
「おっ! やっと着いた!」
腹の虫が鳴いた。
「まずは飯だな!」
笑顔で駆け出そうとした、その時。
村の方から甲高い悲鳴が響いた。
「きゃあああっ!」
アルトの笑顔が消える。
煙が上がっている。
黒い魔物が村を暴れ回り、人々は必死に逃げ惑っていた。
その中心には、一人の少女。
蒼い髪を揺らしながら、静かに手をかざす。
「──《水壁》」
透き通る水の壁が村人たちを包み込み、魔物の爪を受け止める。
次々と襲い来る攻撃も、その壁は揺らぎもしない。
少女は冷静に村人へ指示を飛ばす。
「大丈夫です。慌てず避難してください」
魔物はあと一体。
少女は小さく息を吐き、精霊へ呼びかけた。
「お願い──」
その時だった。
「おーい! 大丈夫かー!」
森の中から、場違いなほど明るい声が響いた。
少女が振り向く。
杖を担いだ少年が、こちらへ全力で走ってきていた。
その瞬間。
少女の周囲を舞っていた精霊たちが、一斉に逃げ出した。
「……え?」
水の壁が音もなく消える。
精霊の気配が、消えた。
「どうして……!」
初めて少女の表情が揺らぐ。
魔物が大きく跳び上がり、その牙を少女へ向けた。
「逃げて!」
叫ぶ。
だが少年は足を止めない。
「なんで?」
きょとんと首を傾げると、杖を両手で握り直した。
「俺が助ける!」
次の瞬間、長い杖が風を切った。
少女は腰の湾曲剣を抜き、迫る魔物の爪を受け流す。
甲高い金属音が夜気を裂き、火花が散った。腕に痺れるような衝撃が走り、足元の土が靴底ごと削れる。
「くっ……!」
精霊術さえ使えれば、こんな相手に押されるはずがない。
そう思って、少女はすぐに周囲へ意識を広げた。いつもなら、呼びかけるより先に気配が返ってくる。木々のざわめき、風の流れ、足元の土の震え――そのどれかに紛れて、精霊たちは必ず応えてくれた。
なのに、今は違う。
静かすぎる。
耳を澄ませても、返ってくるのは魔物の荒い息と、自分の呼吸音だけ。精霊の気配は、まるで最初からこの場所に存在していなかったかのように薄い。
あり得ない。
少女の胸に、じわりと冷たいものが広がる。
精霊が、ここまで人間から離れるなんて。いや、それだけじゃない。呼びかけても、祈っても、気配すら返さないなんて――まるで、この森そのものが何かに怯えているみたいだ。
魔物が再び距離を詰める。低く唸る息が生臭く吹きつけ、巨大な体が踏み込むたびに地面が鈍く揺れた。
受け流す。
だが次の一撃で体勢が崩れた。重い爪を弾いたはずなのに、衝撃が腕から肩へ、さらに背中へと抜けていく。膝がわずかに沈み、呼吸が詰まる。
――おかしい。
少女は歯を食いしばる。
この森で、精霊が沈黙することなんて今まで一度もなかった。何かが起きている。何か、精霊たちが近づくのを拒むほどの“異常”が。
「しまっ──」
鋭い牙が目前まで迫る。獣臭い息が頬をかすめ、逃げ場のない圧力に思わず目を見開いた。
その瞬間だった。
「どけぇぇぇっ!」
ドゴォッ!!
一本の長い杖が魔物の横顔へ叩き込まれた。鈍く重い破裂音が響き、空気が震える。魔物の巨体が横へ弾き飛ばされ、地面を何度も転がって土煙を巻き上げた。
「大丈夫か!」
アルトは少女の前へ立つと、杖を肩へ担いだ。
少女は一瞬、返事を忘れたまま彼の背中を見つめる。
――この人は、どうして平気そうなんだろう。
精霊がいない。森が静かすぎる。魔物の動きも、どこか普通ではない。胸の奥に積もっていく不安を、少女は振り払えないまま、喉を震わせた。
「だから逃げて!」
少女は思わず叫ぶ。
「あの魔物は危険──」
「平気平気!」
アルトは笑う。
「こういうの慣れてる!」
その軽さが、かえって少女の不安を際立たせた。
慣れている? こんな状況に?
精霊が戻らない異常も、夜の森に満ちるこの不気味な沈黙も、彼には何でもないというのだろうか。いや、違う。何でもないのではなく、彼だけがこの異常を異常だと思っていないように見える。
魔物が怒りの咆哮を上げる。耳をつんざくような声が周囲の家々に反響し、窓枠がかたかたと震えた。
次の瞬間、一直線に突っ込んできた。
アルトは動かない。
少女は思わず息を呑む。
――避けないの?
魔物の爪が届く寸前。
「……今!」
半歩だけ身体をずらす。
爪先が空を切り、風圧だけが頬を撫でた。すれ違いざま、アルトはその勢いを逃さず杖を滑らせる。
ゴンッ!
鈍い打撃音とともに、杖が魔物の顎を下から突き上げた。骨に響くような手応えが伝わり、魔物の頭が大きくのけ反る。
その隙に、
今度は回転しながら杖を薙ぐ。
風を裂く音が短く鳴り、重い一撃が連続して叩き込まれた。
脚。
胴。
頭。
三連撃。
打たれるたびに魔物の体がびくりと揺れ、鈍い悲鳴が漏れる。最後の一撃で巨体はたまらず吹き飛び、民家の壁へ叩きつけられた。
ドン、と壁が軋み、瓦がぱらぱらと落ちる。
「……すごい。」
少女は思わず息を呑む。
精霊術でもない。
魔法でもない。
ただ一本の杖だけで圧倒している。
けれど、少女の胸に浮かんだのは感嘆だけではなかった。
――やっぱり、おかしい。
こんなに強いのに、どうして彼は平然としているのだろう。どうして、この異常な静けさに眉ひとつ動かさないのだろう。まるで、精霊が戻らないことを最初から知っていたみたいに。
アルトは魔物へ杖を向け、にやりと笑った。
「さぁ、もう一回くるか?」
魔物はふらつきながらも立ち上がる。
魔物はふらつきながらも立ち上がる。
血走った瞳でアルトを睨み、低く唸り声を上げた。
「おっ、まだやるのか!」
アルトは嬉しそうに杖を構える。
怖い――そんな感情はないのだろうか。
少女がそう思うより早く、少年はまるで遊びの続きを見つけた子どものように目を輝かせていた。
「じゃあ今度は――」
踏み込もうとした、その時。
「止まってください!」
少女の声が飛ぶ。
「え?」
アルトが振り返る。
その一瞬。
二人の間に数歩の距離が生まれた。
ふわり。
静まり返っていた空気が揺れる。
小さな光が一つ。
また一つ。
逃げていた精霊たちが、おそるおそる少女の周囲へ戻ってくる。
「……戻った。」
少女は小さく息を吐いた。
やはり間違いない。
精霊たちは、この少年の近くにはいられない。
嫌っているわけではない。
もっと根源的な何か――本能の奥底で、近づくことそのものを拒んでいる。
精霊たちは震えるように光を揺らし、アルトのいる方角だけを避けるように漂っていた。
少女は思わず息を呑む。
こんな光景は、生まれてから一度も見たことがない。
精霊は人を愛し、人と共に生きる存在だ。
その精霊たちが、一人の少年をここまで恐れている。
その事実だけで、背筋に冷たいものが走った。
けれど――
今は考えている場合じゃない。
「力を貸してください。」
少女が静かに手を掲げる。
集まった精霊たちが水色の光となり、その手へ集束する。
空気中の水分が渦を巻き、一枚の透き通る刃を形作った。
「《水刃》」
放たれた水の刃は一直線に空を裂き、魔物の首を音もなく通り抜ける。
一拍遅れて、巨体が地面へ崩れ落ちた。
重い音が村中に響く。
しばしの静寂。
そして、
「助かった……!」
「ありがとうございます!」
「レテさん!」
歓声が村に広がる。
少女は剣を鞘へ納め、小さく息をついた。
「皆さんが無事でよかったです。」
そう答えながらも、視線は自然とあの少年へ向いてしまう。
杖を肩へ担ぎ、
「終わった終わった!」
と笑っている。
その周囲だけ、今も精霊は一匹も近づかない。
精霊に恐れられる人間。
そんな存在は聞いたことがない。
それなのに、彼自身はその異常を知っている様子もなく、無邪気に笑っている。
少女は無意識に一歩だけ距離を取った。
恐ろしい。
そう感じた。
けれど同時に、それ以上の感情が胸の奥で膨らんでいく。
知りたい。
この少年は、一体何者なのか。
「あなた。」
「ん?」
「名前は?」
「アルト!」
屈託なく笑う。
あまりにも真っ直ぐな笑顔だった。
さっきまで抱いていた警戒心が、一瞬だけ揺らぐ。
だが、その笑顔の裏側を精霊たちは知っているかのように怯えている。
少女は静かに息を吸い、決意を固めた。
「私は精霊国家ガイスト所属の精霊術師、レテです。」
その言葉を聞いた瞬間。
アルトの目が、子どものように輝いた。




