なぜかはるばる来たぜ日本
そして日常は、またしても同じ男に文字通り切り裂かれる。
知世が執務室で書類に判子を押そうとしたとき、書類と判子の間に空間の切れ目ができた。
「チセ、大変だ」
「ぅひゃあっ!」
切れ目からキルスの頭が、にゅっと現れる。
突然のことに驚いた知世は、素っ頓狂な声を上げた。途端執務室の扉が開く。
「チセ、どうしました?!」
偶然通りかかったのか、イーニアスが部屋に入ってきて言葉を失う。
キルスは二人の様子を気にも留めず、そのまま話し続けた。
「そなたの両親に、夢でそなたのこれまでの経緯と言葉を伝えてきたのだ。
そうしたら母親が盛大にキレ散らかしてのー。そなたを死んだことにして、残った体を焼くと言い出したのだ」
「………ああ、へぇ…、ふーん…」
「薄い反応だな、焼かれて良いのか?」
「…良いもなにも…、あっちの世界には私は行けないんだから、焼かれるしか…」
「いや、行けるぞ?」
当然のように驚きの事実を言葉にするキルスに、知世は目をぱちくりさせた。
「少人数なら、自分を含め体ごと異世界へ運べるようになった。
行くかチセ、行くよな?行くだろう?展開が楽しみだ」
言うが早いか、キルスは空間の切れ目からにゅっと出した腕で知世を掴むと、有無を言わさず切れ目に引っ張り込んだ。
「チセ…!!!」
遠いような近いようなところからイーニアスの声がする。それを最後に知世の意識は途切れた。
気が付いたら知らない天井、再び。
知世が意識を取り戻すと同時に感じたのは、鼻を刺激する消毒薬の匂いだった。
次いで真っ白な天井が目に入る。一目で知世の元居た世界の建築物だとわかった。
知世は深く長いため息を吐き出す。キルスの横暴には振り回されっぱなしだ。今度何とかして弱みでも握っておかないと。
そんなことを考えつつ、体を起こそうとするが、できない。声を出そうとしても、出せない。
知世は慌てた。そこに突如空間の切れ目ができる。にゅっと現れたのは言うまでもない、キルスだった。
「すまんなチセ、緊急事態だ。とりあえずこれを飲め」
そう言って何かの小瓶を口に押し付けられた。よくわからないものを意識する前に飲まされてしまう。知世はごほごほとむせた。
途端動かなかったはずの体が、驚くほど自然に動いた。声も確かめてみる。普通に出せた。
知世は病院の白いベッドに起き上がると、キッとキルスを睨む。キルスは薄ら笑いを浮かべた。
「おー、こわ。心配するな、怪しい薬ではない。
ただの筋力アップ剤だ。そなたの体は弱っていたからの」
その言葉で知世は初めて気づいた。自分の手がセレスティアの長い指ではなく、日本人特有の指になっていることに。
慌てる知世の前に、キルスがすっと小さな鏡を差し出す。そこに映っていたのは、本当に久しぶりの知世の顔だった。
「……ど、どうして…」
「すまん、儂の失敗だ。
こっちにそなたを連れてくるとき、急にセレスティアの体から魂が抜けだしてしまってな。
おそらくこちら世界の知世の元の体に、魂が吸い寄せられてしまったのだろう。本来の体との結びつきは強いと言うわけだな」
「…じゃあ、セレスティアの体は…!」
「心配するな、回収済みだ。儂は責任をもってセレスティアの体を向こうの世界に送り届けてくる。
そなたのことは後回しになるが、致し方ない。何とか切り抜けろ。ではの」
「えっ…!?待っ…」
「そうだ言い忘れていた、その筋力アップ剤、二日後にすさまじい筋肉痛が来て動けなくなる。
まあ薬に副作用はつきものだ、諦めてくれ」
「違う!聞きたいのはそこじゃなくて…」
キルスの顔が覗いていた空間の切れ目は、無情にも閉じてしまった。
一人ぽつねん…と病室に取り残された知世は、あまりのことに呆然とするしかなかった。
知世は気を取り直して、病室を見回す。広い個室タイプだった。
父親はお金だけは稼いでいる。この部屋をキープすることも簡単だっただろう。だが面会には来ていない、そんな気がした。
母親はきっと、毎日ここに来ては、知世の心配よりも自分の不幸を嘆いていることだろう。感情がスッと冷めるのを感じた。
知世は枕もとのサイドテーブルに眼鏡ケースを発見し、眼鏡を取り出してかけた。それと同時に部屋の扉が開く。そこには会いたくなかった顔があった。
「……………知世…?」
「……………お母さん…」
知世が言い終わらないうちに、母親は駆け寄り、ぎゅっと知世を抱きしめた。
予想外の反応に知世は目を白黒させるが、母親はそんなことには構わずぎゅうぎゅう抱きしめてくる。
「知世…知世…!よかった……ああ、よかった……。
夢のお告げなんて、お母さん信じてなかったわ…!帰ってきてくれた…!」
「…お母さん………ごめ」
「これで受験に間に合うわ!」
その一言で、知世に湧きかけていた謝罪の意思はなくなった。何も変わっていない。知世は抱きしめ返そうとした手をぱたりと落とした。
知世の様子を気にも留めない母親は、体を離して知世の肩を掴むと、畳みかけるように言葉を続ける。
「あなた…、今まで散々休んだでしょう?これからはみっちり勉強しなくっちゃね!
国立大に受かるんだから、遅れを取り戻すようにしていかないと、他の子たちに負けちゃうわよ!
そんなのお母さん、許しませんからね!受験に失敗するのももちろんダメよ!聞いてるの、知世?!」
知世の頭の中が急速にぼんやりしてくる。ああ、この感覚はまずい、母親の言葉に支配されかけている、従ってしまいそうな自分がいる。
物心ついたころからの長年にわたるこの感覚は強力で、ほんの少しの期間自由になっていた知世の自我程度では抗いようがない。
――――落ちる。落ちる、落ちる、落ちてしまう、誰か、たすけ――――
「……………チセ?」
知世のどこまでも落ちていっていた自我がフッと浮上する。その耳触りの良い低い声は、ベッドの窓側から聞こえた。
知世が母親を突き放して後ろを振り向くと、そこには頭を押さえて立ち上がろうとしている、イーニアスの姿があった。
涙が出るほどホッとした知世だったが、イーニアスは知世を見てもキョロキョロと何かを探している。
そこで改めて、今の自分がセレスティアの姿でないことに気付く。認識されていないことに血の気が引いた。
「…イーニアスさ…」
「…男を連れ込んでたの?知世?!」
イーニアスに手を伸ばし、知世だと気づいてもらおうとしたとき、母親に今度はもっと強い力で肩を掴まれた。
「どういうこと?!あなたまさか、私を欺いて今まで意識があったんじゃないでしょうね?!
夜な夜な男と出かけていたとか…そんな汚らわしいことしていないわよね?!
ダメよ知世、あなたはこれからいい大学に入って、いい出会いがあって、もっともっといい人生が待っているんだから!!
今遊んでいる暇はないの!こんな男とは別れなさい!!聞いてるの、知世?!言うこと聞きなさい!!」
ヒステリックになった母親に、知世は体をがくがく揺さぶられた。
昔この状態の母親に出刃包丁を突き付けられたことのある知世は、真っ青になって体が動かせずにいた。
その知世の体が、ヒョイッと宙に浮く。イーニアスが後ろから抱き上げたのだ。
叫ぶ知世の母親を尻目に、イーニアスは病室の扉へ向かうと――――激突した。
一瞬理解が追い付かなかった知世だが、すぐに横スライドドアの知識がイーニアスにないことに気付いた。
知世は抱き上げられたまま扉の取っ手を掴むと、力いっぱいドアをスライドさせる。開けた視界にイーニアスが駆け出した。
「ちょっと!!どこへ行くのよ、知世えぇぇぇぇーーーーーーーー!!!!」
病院内の看護師さんたちが驚いて飛び退く中、イーニアスは建物を出たらめに走っていく。
知世はとりあえず指差しで指示を出し、階段のありそうなところを示す。とにかくここから出なくては。
大パニックになっている病院内を駆け抜ける中、知世はおそるおそるイーニアスを見上げた。
それに気づいたイーニアスが、知世を安心させるように微笑み返した。知世の鼓動が高鳴る。
そのままイーニアスに身を任せ、知世の指示出しで何とか二人は病院の二階渡り廊下に出る。
そこでは子供が窓を開けて空を見ていた。イーニアスが猛然とその子供に近づく。知世は嫌な予感がした。
イーニアスは「ごめんよ」と呟いてから、子供を押しのけ開いている窓から身を乗り出した。
知世が悲鳴を上げる間もなく、二人の体は宙に舞い、地面に降り立った。
途端、イーニアスが呻く。衝撃に耐えているようだった。
「………何だこの灰色の地面……、硬い……」
そんな声が聞こえ、知世はコンクリートの地面に初めて意識がいった。
イーニアスは衝撃をやり過ごして立ち上がり、走り出した。
「………何だこの地面、走りやすい……」
今度はそんな声が聞こえ、知世は思わずぷっと吹き出して笑った。
その顔を見て、イーニアスも安心したような笑みを見せる。ああ、この人はどこの世界にいても変わらない、知世は心から安心して、イーニアスに身を任せた。
主な登場人物
今週の金曜日(2025/11/21)に完結の予定です~。
毎日アップにお付き合いくださりありがとうございます!
最終話までどうぞよろしくお願いします~。




