泡沫のアーカイブ
•主人公:普通の男子高校生「遥人」。
•ヒロイン(存在しない転入生)「コウ」。
四月の始業式から、二ヶ月ほど経ったある日のことだ。
俺――**遥人**は、教室に足を踏み入れて、ふと"違和感"を覚えた。そしてその違和感の正体に気づいた
――一人、多い。
いつものざわついた教室。黒板の前で騒ぐ仲のいいクラスメイト佐伯、美咲が机に腰かけて女子グループと笑っている。
そのどこにも違和感はない。けれど、窓際の二列目。俺の斜め前に、昨日までいなかった人物が、当たり前の顔で座っていた。
灰色がかった髪、白い肌。表情は淡々としていて、教室の空気にまるで馴染んでいない。
俺は慌てて座席表を見た。けど――やっぱりいない。
その席には、"誰も座っていなかった"。
「……え、転入生?」
誰にともなく呟いた俺の声は、騒音に紛れて消えた。
次の瞬間、佐伯がいつものように冗談を飛ばす。美咲が笑い声を上げる。
クラスは、普段通りに進んでいく。誰も、彼女に触れない。
そして、彼女自身もまた――。
俺と目が合うと、静かに笑った。
「……やっと、気づきましたね」
放課後。
俺が机を片付けていると、背後から声をかけられた。
振り向けば、例の灰色の髪の少女が、窓際に立っていた。
「え? ……え、ちょ、え?」
俺は慌ててあたりを見回す。教室にはもう誰もいない。
彼女は落ち着き払っていた。
声は透き通っていて、少しだけ古風な響きがある。
「あなたが最初に気づくと思っていました。」
「な、なにを?」
「私がここに“存在していない”ことを、です。」
「…………」
頭の中で、何かが音を立てて崩れる。
存在していない? じゃあ、俺は今、何を見てるんだ。
「でも安心してください」
彼女は軽く微笑んだ。表情の動きはほんの少し。けれど、奇妙に印象に残る。
「私は危険なものではありません。ただ、“消えた記録”を埋めるために、ここに立っているだけですから」
「……記録?」
「はい。あなたが理解できるかどうかは、まだ分かりませんが」
そう言って、彼女は俺の机の上に手を置いた。
次の瞬間、机の表面にあったはずの落書きや傷が――消えていた。
新品のように滑らかになっている。
俺は息を呑む。
「……あなたは、きっと最後まで残る人。だから私と会話ができる」
彼女の声は、どこか優しく、そしてぞっとするほど冷たい。
その両方を同時に感じて、俺は答えを返せなかった。
次の日も、彼女は当たり前の顔をして教室にいた。
やっぱり出席番号表には名前がないし、先生も彼女を一度も呼ばない。
けれど窓際の二列目には確かに彼女が座っていて、視線を向けると、静かに目を細めて返してくる。
クラスの連中は――誰も気にしていなかった。
佐伯はいつものようにバカ騒ぎしてるし、美咲は相変わらず俺をからかってくる。
それなのに、誰も彼女の存在を話題にしない。
いや、「気づいていない」というより、「最初からいなかった」かのように振る舞っている。
昼休み、俺はついに我慢できず、彼女に声をかけた。
「なぁ、コウ……って言ったよな? お前、ほんとに何者なんだよ」
すると彼女は箸を止め、弁当箱の上で首を傾げた。
「お弁当、美味しそうですね」
「いや話そらすな!」
「答えを知りたいですか?」
「当たり前だろ」
彼女は一拍置き、淡々と告げた。
「私は“記録”を補う存在。存在しないことを前提に、存在しているのです」
「……意味わかんねぇよ」
俺は即座にツッコんだが、同時に背中を冷たい汗が流れるのを感じていた。
存在しないのに存在してる? そんなバカな。
「意味がわからない方が、きっと幸せですよ」
そう言って、彼女は小さく笑った。
放課後。
帰り道で佐伯が肩を叩いてきた。
「お前さ、最近ボーッとしてね? 授業中もチラチラ窓際見てんじゃん」
「……あ、ああ。まぁ、ちょっとな」
「もしかしてアイツが気になるとか? ほら、美咲の隣の席の」
「え? 美咲の隣……?」
俺は咄嗟に教室の座席表を思い浮かべる。
そこには誰もいないはずだ。美咲の隣は空席だった。
「……お前、冗談だろ」
「何が?」
「美咲の隣に……誰か座ってたのか?」
「いやいや、なに言ってんだよ。あそこずっと空いてんじゃん」
佐伯は笑いながら去っていった。
俺はしばらくその場に立ち尽くして、ぞくりとした。
そして――次の日。
朝の教室に入った瞬間、俺は違和感に気づいた。
いつも一番うるさい佐伯の声が、聞こえない。
彼の机も椅子も消えていた。
いや、それだけじゃない。
クラスの誰も、佐伯のことを一切覚えていない。
「佐伯? そんなやつ、最初からいなかったよ」と、美咲は眉をひそめた。
俺は笑えなかった。
ただ一人、窓際のコウだけが、俺をまっすぐに見ていた。
「――始まりましたね」
放課後の教室は、妙に静かだった。
いつもなら佐伯の笑い声が真っ先に耳に飛び込んでくるのに、今日はそれがない。
「……なぁ、美咲」
俺は席を立ち、美咲に声をかけた。
「佐伯は? 今日休みか?」
「さえき?」
美咲はペンをくるくる回しながら首を傾げた。
「誰それ?」
心臓がひとつ跳ねた。
「いや、佐伯だよ。お前よくツッコんでただろ、“またバカやってんな”とか言って」
「は? なに言ってんの、遥人。そんな人、クラスにいないけど」
美咲は本気で不思議そうな顔をしている。冗談の色は一切ない。
その瞬間、背筋を氷の刃で撫でられたような感覚に襲われた。
俺は机の列を数える。
昨日まであったはずの佐伯の席が――ない。
机ごと消えている。まるで最初から存在していなかったみたいに。
「……そんな……」
声が掠れる。
頭の中に浮かぶのは、昨日までのバカみたいな笑顔。くだらない冗談。背中を叩いてきた重さ。
それが全部、俺だけの記憶になってしまった。
「――気づいたんですね」
窓際。
そこに座る少女――コウが、静かに俺を見ていた。
彼女の瞳は、どこまでも深く澄んでいて、逃げ場がなかった。
「消えた記録は、もう戻りません」
「……お前、知ってたのか」
「はい。これが始まりです。世界は、少しずつ空白に飲み込まれていきます」
彼女の言葉は、恐ろしく冷静だった。
まるで天気予報でも伝えるみたいに。
「待てよ……じゃあ、佐伯はどうなるんだよ! どこに行ったんだ!」
「“どこにも行っていません”。存在そのものが消えた。最初から、いなかったことになる。それが“記録の喪失”です」
俺は机を強く握りしめた。
震えが止まらない。
「なんで……なんで俺だけが覚えてるんだ」
「それは、あなたが最後に残る人だから」
その瞬間、教室の空気が急に重くなった気がした。
まるで「運命」を宣告されたように。
「……冗談、だろ」
俺の声は掠れていた。
だがコウは、淡々と、しかしどこか哀しげに微笑んだ。
「いいえ。これから、もっと多くのものが消えていきます」
窓の外では、何事もなかったように夕日が校舎を染めていた。
その光景だけが、妙に残酷だった。