表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

泡沫のアーカイブ

作者: 神酒井マウ

•主人公:普通の男子高校生「遥人はると」。

•ヒロイン(存在しない転入生)「コウ」。


四月の始業式から、二ヶ月ほど経ったある日のことだ。

 俺――**遥人はると**は、教室に足を踏み入れて、ふと"違和感"を覚えた。そしてその違和感の正体に気づいた


 ――一人、多い。


 いつものざわついた教室。黒板の前で騒ぐ仲のいいクラスメイト佐伯、美咲が机に腰かけて女子グループと笑っている。

 そのどこにも違和感はない。けれど、窓際の二列目。俺の斜め前に、昨日までいなかった人物が、当たり前の顔で座っていた。


 灰色がかった髪、白い肌。表情は淡々としていて、教室の空気にまるで馴染んでいない。

 俺は慌てて座席表を見た。けど――やっぱりいない。

 その席には、"誰も座っていなかった"。


「……え、転入生?」

 誰にともなく呟いた俺の声は、騒音に紛れて消えた。


 次の瞬間、佐伯がいつものように冗談を飛ばす。美咲が笑い声を上げる。

 クラスは、普段通りに進んでいく。誰も、彼女に触れない。


 そして、彼女自身もまた――。

 俺と目が合うと、静かに笑った。



「……やっと、気づきましたね」


 放課後。

 俺が机を片付けていると、背後から声をかけられた。

 振り向けば、例の灰色の髪の少女が、窓際に立っていた。


「え? ……え、ちょ、え?」

 俺は慌ててあたりを見回す。教室にはもう誰もいない。


 彼女は落ち着き払っていた。

 声は透き通っていて、少しだけ古風な響きがある。


「あなたが最初に気づくと思っていました。」

「な、なにを?」

「私がここに“存在していない”ことを、です。」


「…………」


 頭の中で、何かが音を立てて崩れる。

 存在していない? じゃあ、俺は今、何を見てるんだ。


「でも安心してください」

 彼女は軽く微笑んだ。表情の動きはほんの少し。けれど、奇妙に印象に残る。

「私は危険なものではありません。ただ、“消えた記録”を埋めるために、ここに立っているだけですから」


「……記録?」

「はい。あなたが理解できるかどうかは、まだ分かりませんが」


 そう言って、彼女は俺の机の上に手を置いた。

 次の瞬間、机の表面にあったはずの落書きや傷が――消えていた。

 新品のように滑らかになっている。


 俺は息を呑む。


「……あなたは、きっと最後まで残る人。だから私と会話ができる」


 彼女の声は、どこか優しく、そしてぞっとするほど冷たい。

 その両方を同時に感じて、俺は答えを返せなかった。



 次の日も、彼女は当たり前の顔をして教室にいた。

 やっぱり出席番号表には名前がないし、先生も彼女を一度も呼ばない。

 けれど窓際の二列目には確かに彼女が座っていて、視線を向けると、静かに目を細めて返してくる。


 クラスの連中は――誰も気にしていなかった。

 佐伯はいつものようにバカ騒ぎしてるし、美咲は相変わらず俺をからかってくる。

 それなのに、誰も彼女の存在を話題にしない。

 いや、「気づいていない」というより、「最初からいなかった」かのように振る舞っている。



 昼休み、俺はついに我慢できず、彼女に声をかけた。

「なぁ、コウ……って言ったよな? お前、ほんとに何者なんだよ」


 すると彼女は箸を止め、弁当箱の上で首を傾げた。

「お弁当、美味しそうですね」

「いや話そらすな!」

「答えを知りたいですか?」

「当たり前だろ」


 彼女は一拍置き、淡々と告げた。

「私は“記録”を補う存在。存在しないことを前提に、存在しているのです」


「……意味わかんねぇよ」

 俺は即座にツッコんだが、同時に背中を冷たい汗が流れるのを感じていた。

 存在しないのに存在してる? そんなバカな。


「意味がわからない方が、きっと幸せですよ」

 そう言って、彼女は小さく笑った。



 放課後。

 帰り道で佐伯が肩を叩いてきた。

「お前さ、最近ボーッとしてね? 授業中もチラチラ窓際見てんじゃん」

「……あ、ああ。まぁ、ちょっとな」

「もしかしてアイツが気になるとか? ほら、美咲の隣の席の」

「え? 美咲の隣……?」


 俺は咄嗟に教室の座席表を思い浮かべる。

 そこには誰もいないはずだ。美咲の隣は空席だった。


「……お前、冗談だろ」

「何が?」

「美咲の隣に……誰か座ってたのか?」

「いやいや、なに言ってんだよ。あそこずっと空いてんじゃん」


 佐伯は笑いながら去っていった。

 俺はしばらくその場に立ち尽くして、ぞくりとした。



 そして――次の日。


 朝の教室に入った瞬間、俺は違和感に気づいた。

 いつも一番うるさい佐伯の声が、聞こえない。

 彼の机も椅子も消えていた。


 いや、それだけじゃない。

 クラスの誰も、佐伯のことを一切覚えていない。


 「佐伯? そんなやつ、最初からいなかったよ」と、美咲は眉をひそめた。

 俺は笑えなかった。


 ただ一人、窓際のコウだけが、俺をまっすぐに見ていた。


「――始まりましたね」



 放課後の教室は、妙に静かだった。

 いつもなら佐伯の笑い声が真っ先に耳に飛び込んでくるのに、今日はそれがない。


「……なぁ、美咲」

 俺は席を立ち、美咲に声をかけた。

「佐伯は? 今日休みか?」

「さえき?」

 美咲はペンをくるくる回しながら首を傾げた。

「誰それ?」


 心臓がひとつ跳ねた。

「いや、佐伯だよ。お前よくツッコんでただろ、“またバカやってんな”とか言って」

「は? なに言ってんの、遥人。そんな人、クラスにいないけど」


 美咲は本気で不思議そうな顔をしている。冗談の色は一切ない。

 その瞬間、背筋を氷の刃で撫でられたような感覚に襲われた。



 俺は机の列を数える。

 昨日まであったはずの佐伯の席が――ない。

 机ごと消えている。まるで最初から存在していなかったみたいに。


「……そんな……」


 声が掠れる。

 頭の中に浮かぶのは、昨日までのバカみたいな笑顔。くだらない冗談。背中を叩いてきた重さ。

 それが全部、俺だけの記憶になってしまった。


「――気づいたんですね」


 窓際。

 そこに座る少女――コウが、静かに俺を見ていた。


 彼女の瞳は、どこまでも深く澄んでいて、逃げ場がなかった。

「消えた記録は、もう戻りません」

「……お前、知ってたのか」

「はい。これが始まりです。世界は、少しずつ空白に飲み込まれていきます」


 彼女の言葉は、恐ろしく冷静だった。

 まるで天気予報でも伝えるみたいに。


「待てよ……じゃあ、佐伯はどうなるんだよ! どこに行ったんだ!」

「“どこにも行っていません”。存在そのものが消えた。最初から、いなかったことになる。それが“記録の喪失”です」


 俺は机を強く握りしめた。

 震えが止まらない。


「なんで……なんで俺だけが覚えてるんだ」

「それは、あなたが最後に残る人だから」


 その瞬間、教室の空気が急に重くなった気がした。

 まるで「運命」を宣告されたように。


「……冗談、だろ」

 俺の声は掠れていた。

 だがコウは、淡々と、しかしどこか哀しげに微笑んだ。


「いいえ。これから、もっと多くのものが消えていきます」


 窓の外では、何事もなかったように夕日が校舎を染めていた。

 その光景だけが、妙に残酷だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ