影の煮込みと見えない食卓
スライム干しが引き起こした「存在希薄化」騒動の後、エリオットは深い自己嫌悪と共に、新たな教訓を得ていた。「普通すぎるのも問題だ。存在感がなさすぎるのは、ある意味もっと厄介かもしれない……」。半透明になって壁をすり抜けかけた客たちの姿が脳裏に焼き付いている。
しかし、彼の根本的な願いは変わらない。「どうか、どうか普通の、ただ美味しくて、客に迷惑をかけない料理を……」。蘇りつつある過去の失敗の記憶が、その願いをより一層切実なものにしていた。彼は慎重に、本当に慎重に、次の食材を選ぼうと決意した。
食材庫を前に、彼は一つ一つの素材を吟味した。派手な色のもの、奇妙な形のもの、怪しげな光や音を発するものは全て避ける。彼の目に留まったのは、棚の奥にひっそりと置かれていた、真空パックのようなものに入った黒っぽい筋張った肉だった。ラベルには「シャドウ・パンサーの闇筋」と記されている。
「シャドウ・パンサー……影の豹か。名前は少し物騒だが、見た目は地味な干し肉のようだ」
彼はその肉を取り出し、まじまじと観察した。色は深い黒で、光を吸い込むような質感がある。匂いもほとんどない。
「影のように……ひっそりと体に染み渡る滋養がある、ということかもしれないな。目立たず、騒ぎも起こさず、滋養だけを与える。これこそ理想的じゃないか?」
過去の経験から学習せず、またしても彼は食材の性質を自分に都合よく解釈した。これならば、スライム干しのように存在が曖昧になることもないだろうし、賢者の石のように心の中をかき乱すこともないはずだ。
エリオットは、その闇筋を使い、赤ワインと香味野菜でじっくりと煮込むことにした。見た目が地味になるように、ソースも黒っぽいものを選んだ。調理中、肉は特に変わった様子を見せず、ただ静かに柔らかくなっていくだけだった。時折、鍋の中のソースが、光を吸い込むように一瞬だけ深く黒くなる気がしたが、気のせいだろう、と彼は自分に言い聞かせた。
完成したのは、「シャドウ・パンサー闇筋の赤ワイン煮込み」。見た目は非常に地味で、皿の上では黒い塊のようにしか見えないが、香りは悪くない。エリオットは味見をしてみた。肉は驚くほど柔らかく、深いコクがある。そして、特に体に変化はない。
「よし、これなら完璧だ。地味で、滋養があって、美味しい。三拍子揃っている」
彼は満足げに頷いた。
その日の夕食時、三組の客が『木漏れ日亭』を訪れた。一組は、以前「サンダー・スクランブルエッグ」で異常興奮した、記憶のない(と思われる)若いカップル。もう一人は、記憶がリセットされた後もなぜかこの店を気に入っている(らしい)老紳士、バーソロミュー氏。最後の一人は、見るからに屈強そうな、しかし少し疲れた表情の傭兵風の男だった。
エリオットは、今度こそ自信を持って新作を提供した。
「本日の特製煮込みです。滋養が豊富で、ええと、とても……落ち着いた味わいです」
彼は「地味」という言葉を避け、「落ち着いた」と表現した。
客たちは、運ばれてきた黒っぽい料理を見て、少し訝しげな顔をしたが、その芳醇な香りに食欲をそそられ、フォークを手に取った。
「へえ、見た目は地味だけど、いい匂いだな」とカップルの男性。
「ふむ、滋味深い香りがする」とバーソロミュー氏。
「腹が減っては戦はできぬ、だ」と傭兵。
彼らが最初の一口を食べた瞬間は、何も起こらなかった。
「うん、うまい!」
「柔らかくて美味しいわ!」
「悪くないな」
客たちは満足そうに食事を進めている。エリオットはカウンターの内側で、祈るような気持ちで見守っていた。「大丈夫だ、今度こそ……」
異変は、料理が半分ほど減った頃に始まった。
カップルの男性が、皿に残った肉片にフォークを刺そうとした時だった。
「あれ? 肉はどこ行った?」
彼はフォークで皿の上を探るが、何も引っかからない。しかし、皿の上にはまだ黒っぽいソースが残っており、肉があったはずの場所が空いているわけではない。まるで、肉だけが透明になったかのようだ。
「おい、俺の肉が見えないんだけど!」
「え? 何言ってるの? 私のも……あれ? フォークに何も乗らないわ!」
隣の女性も同じ現象に見舞われ、混乱し始めた。
バーソロミュー氏は、パンでソースを拭って食べようとしていた。
「おや? パンにソースがつかないな。皿が汚れているのかな?」
彼は皿を怪訝そうに見つめている。ソースはそこにあるように見えるのに、物理的に触れることができないのだ。
傭兵は、無言で自分の皿を見つめていた。彼はフォークで皿をつつき、眉間に皺を寄せている。やがて、彼は自分の手を見た。
「……おい、俺の手が……」
彼の指先が、手首のあたりから徐々に色が薄くなり、透けて見え始めているではないか。
その声に、他の客たちも自分の体を確認し、悲鳴を上げた。
「きゃっ! 私の足が消えてる!」
「うわっ! 俺の腹が見えない!」
「なんと! ワシの姿が……!」
食べた料理が見えなくなり、さらに食べ進めた本人たちの体までが、徐々に、しかし確実に透明になっていったのだ。
あっという間に、『木漏れ日亭』の店内には、食器がカチャカチャと鳴る音、混乱した声、そして悲鳴だけが響き渡る、異様な空間と化した。姿は見えないが、客たちがパニックに陥り、動き回っている気配だけは伝わってくる。
「誰かいるのか!?」
「ぶつかるな! 見えないんだから!」
「出口はどこだ! ここから出してくれ!」
「わしの眼鏡! 眼鏡がどこかへ……!」
エリオットは、声だけが飛び交うカオスな状況を前に、完全に思考が停止していた。地味な料理を求めた結果が、これだ。見えない客による、見えない大パニック。スライム干しの時よりも、ある意味もっとタチが悪い。
「ど、どうすれば……」
彼が途方に暮れていると、店のドアが開き、聞き慣れた声がした。
「はいはい、皆さん落ち着いて。順番に誘導しますから、壁際を伝ってゆっくり……あら、エリオットさん。今度はステルス機能付き料理?」
リラが、慣れた様子で見えない客たちをなだめながら入ってきた。彼女は声しか聞こえないエリオットに近づき、呆れたように言った。
「シャドウ・パンサーの闇筋ね。あれは食べたものを影に同化させて、物理的に見えなくするのよ。食べた本人もね。まあ、光の強い場所にいれば、少しは輪郭が見えることもあるけど……。効果が切れるまで、大人しくしてるしかないわね」
リラの助けを借りて、エリオットは見えない客たちをなんとか店の隅に集め、効果が切れるのを待った。数時間後、徐々に客たちの姿がぼんやりと現れ始め、やがて元の姿に戻った。彼らは皆、青ざめた顔でエリオットを睨みつけ、一言も口を利かずに(あるいは、声にならない呪詛を吐きながら)店を飛び出していった。
一人残されたエリオットは、空っぽになった(ように見えるが、まだ闇筋の煮込みが残っているかもしれない)皿と、静まり返った店内を見回した。
「目立たない料理が……見えない騒動に……」
彼は力なく床に座り込んだ。記憶が戻った今、過去の失敗を踏まえて慎重に選んだはずだった。それでも、結果はこれだ。自分には、普通の料理を作る才能がないのではないか。そんな絶望的な考えが頭をよぎる。
「……見えないよりは、まだ半透明の方がマシだったかもしれないな……」
彼は、以前のスライム干し騒動を思い出し、乾いた笑いを漏らした。
「次は……次はもう、絶対に『形のはっきりしたもの』にしよう。そうだ、硬くて、大きくて、誰が見てもそこに『ある』と分かるような……」
彼の脳裏に、かつて格闘した、あの岩のように硬い肉塊の記憶が、不吉にも蘇り始めていた。