干しスライムの炒め物と曖昧な存在
賢者の石の欠片がこじ開けた記憶の扉は、エリオットに過去の失敗の数々を突きつけた。それは歓迎すべき再会とは程遠く、むしろ彼の心を重く沈ませるものだった。自分が繰り返してきた騒動、客たちに与えた迷惑(と恐怖)。「普通の、美味しい料理」への渇望は、もはや切実な祈りに近いものとなっていた。
「もう味覚や精神に作用するものは絶対にダメだ。浮いたり、力がみなぎったり、記憶がどうこうなるのも論外だ」
エリオットは固く決意し、食材庫を慎重に物色した。彼の目に留まったのは、棚の隅で忘れられたように置かれていた、干物のようなものが入った袋だった。中には、半透明で薄っぺらく、まるで昆布か干し椎茸のようにも見える、不定形なカケラが詰まっている。添えられたラベルには、かろうじて「スライム干し」と書かれていた。
「スライム……干し……?」
彼は眉をひそめた。スライムといえば、最弱モンスターの代名詞。特殊な能力があるとは到底思えない。しかも干物だ。水分も抜けているし、これほど地味で無害そうな食材も珍しいだろう。
「これだ……! これなら絶対に大丈夫だ。ただの乾物だ。味付け次第で美味しくなるかもしれないし、何より『普通』のはずだ」
エリオットは、まるで最後の希望を見出したかのように、そのスライム干しの袋を手に取った。
彼は、スライム干しを水で戻してみた。乾物はゆっくりと水分を吸い、プルプルとしたゼラチン状の、しかし形は崩れない不思議な物体に変わった。匂いはほとんどなく、味も淡泊だ。エリオットは、これを細かく切り、新鮮な野菜と一緒にシンプルな塩味で炒めることにした。調理中も、特に変わったことは起こらない。パチパチと音を立てることも、怪しい光を放つことも、異様な香りを漂わせることもない。出来上がったのは、見た目も地味な野菜炒め。スライム干しは、半透明のクラゲのような具材として、野菜に紛れている。
「よしよし、完璧だ。実に普通だ」
エリオットは自分で味見をしてみた。少し弾力のある、面白い食感だ。味付けも悪くない。そして、体にも心にも、何の変化も感じられない。彼は安堵のため息をつき、深く頷いた。
その日の昼下がり、物好きにも『木漏れ日亭』を訪れた三人の客がいた。一人は、以前「大地のシチュー」で店の扉を破壊した若い職人。もう一人は、サンダーバードの卵で異常興奮したカップルの片割れの女性。そして最後は、店の前を通りかかり、妙な静けさに興味を惹かれたらしい旅の商人だった。彼らは皆、どこか「何かが起こるかもしれない」という期待(あるいは覚悟)を秘めているようだった。
エリオットは、自信を持って(しかし内心はまだ少し怯えながら)、「スライム干しの野菜炒め」を提供した。
「新作です。ええと、食感が面白い、普通の野菜炒めですよ。本当に、普通ですから」
念を押すエリオットに、客たちは少し拍子抜けしたような顔をしながらも、フォークを手に取った。
「うん、うまいじゃないか」と職人。
「あら、このプルプルしたの、何かしら? 面白い食感ね」と女性。
「ふむ、旅の途中の腹ごしらえにはちょうどいいな」と商人。
客たちは特に変わった反応を示すことなく、穏やかに食事を進めている。エリオットは、カウンターの内側で固唾を飲んで見守っていたが、何も起こらないことに、ようやく心からの安堵を感じ始めていた。「やった……! ついに、ついに普通の料理ができたんだ……!」
しかし、その安堵は、やはり長くは続かなかった。
食事が終わり、客たちが談笑している時、最初に異変に気づいたのは、若い職人だった。彼はテーブルに肘をつこうとして、スルリ、と腕がテーブルの表面をすり抜けたのだ。
「おわっ!?」
彼は驚いて腕を引いた。もう一度試してみるが、やはり腕がテーブルにめり込むような感覚がある。まるで、自分の体とテーブルの「境界」が曖昧になっているかのようだ。
隣では、女性が自分の手を見て悲鳴を上げた。
「きゃっ! 私の手が……透けてる!?」
見ると、彼女の手のひらが、背景がうっすらと透けて見えるほど半透明になっている。慌てて自分の顔を触るが、その指もまた半透明だ。
旅の商人は、椅子から立ち上がろうとして、壁に軽く肩をぶつけた。しかし、予想した衝撃はなく、まるで濃い霧の中を通り抜けるかのように、肩が壁に少しだけ「めり込んだ」。
「な、なんだこれは!? 幽霊にでもなったのか!?」
店内の三人の客は、自分の体に起きた奇妙な変化に気づき、パニックに陥り始めた。
「俺の体がテーブルをすり抜ける!」
「透けてて気持ち悪い!」
「壁にめり込んだぞ!」
彼らは互いの姿を見て、さらに驚愕した。全員の体が微妙に半透明になり、輪郭がゆらゆらと揺らめいている。まるで、存在そのものが希薄になっているかのようだった。
エリオットは、その光景を目の当たりにして、膝から崩れ落ちそうになった。「そんな……ただの干物だったはずなのに……!」
彼は、自分の腕を見た。味見をしただけなので影響は軽微だが、それでもほんの少しだけ、指先が透けているような気がする。
そこへ、まるでタイミングを見計らったかのように、カランコロン、とドアベルが鳴り、リラが入ってきた。彼女は半透明になって騒ぐ客たちと、絶望した顔のエリオットを見て、ああ、と納得したような顔をした。
「やっぱりねぇ。スライム干し、使ったのね?」
「リ、リラさん! これは一体……!?」エリオットはすがるように尋ねた。
「スライムってのはね、元々、物理的な形が曖昧な生き物なのよ。それを干しても、その性質は残る。だから、スライム干しを食べると、食べた人の存在の『境界』が一時的に曖昧になるの。物理的な存在感が薄れるって言えばいいかしら? まあ、命に別状はないし、数時間もすれば元に戻るけどね」
リラはこともなげに説明した。
「境界が……曖昧に……」エリオットは呆然と呟いた。物理法則にまで干渉するなんて、もはや料理の範疇を超えている。
「もう……普通なんて……無理なんだ……」
彼は天を仰いだ。
やがて、客たちは半透明で輪郭が揺らめく奇妙な姿のまま、互いにぶつかっても大した衝撃がないことを利用(?)して、お互いをすり抜けながら、なんとか店を出て行った。「二度と来るか!」という捨て台詞さえ、どこか輪郭がぼやけて聞こえた。
一人残されたエリオットは、厨房のテーブルに突っ伏した。記憶が戻っても、慎重に食材を選んでも、結果はこれだ。この世界では、「普通」でいることの方が難しいのかもしれない。
ふと、彼はカウンターの上に残された、食べかけのスライム干しの炒め物に目をやった。半透明のそれは、まるでエリオット自身の曖昧模糊とした未来を象徴しているかのように、ゆらゆらと頼りなく揺れていた。
「……次は何が起こるんだろうな……」
諦めにも似た感情と共に、彼は乾いた笑いを漏らすしかなかった。