賢者のポタージュと万華鏡の記憶
ドリームキャップ・マッシュルームが見せた悪夢の残像は、記憶を失ったエリオットの心に奇妙な波紋を残していた。天井に浮かぶ老紳士、けたたましく鳴り響くキノコ、壁を殴る人々、そして全てを忘れさせる虹色の露……。断片的なイメージは靄のように漂い、掴もうとすると消えてしまう。自分が誰なのか、何をすべきなのか、確かなものは何もない。ただ、「普通の、美味しい料理を作りたい」という切実な願いだけが、混乱した心の中で確かな形を持ち始めていた。
そんなある日、まるでエリオットの心の迷いを見透かしたかのように、行商人のリラが店に現れた。彼女は疲れ果てたエリオットの顔を見て、いつもの悪戯っぽい笑みを少しだけ引っ込め、同情するような眼差しを向けた。
「エリオットさん、大変だったみたいね。記憶がないってのも、楽じゃないでしょう?」
彼女はそう言うと、懐から小さな黒いベルベットの袋を取り出し、中から親指の先ほどの小さなガラス瓶を取り出した。中には、砂粒のように微細な、しかしダイヤモンドのように強く輝く粒子がほんの少しだけ入っている。
「これ、『賢者の石の欠片』よ。ほんの少し、料理に加えるだけで、どんな平凡な料理も、驚くほど味が深まって、完璧なバランスになるの。まあ、伝説の錬金術師が作ったとか何とか……。今回は大丈夫。味覚にしか作用しないから。ただ、本当に強力だから、入れすぎると味が完全に壊れちゃう。くれぐれも、ほんの少し、よ?」
リラは念を押すように言った。「味を良くするだけ」。その言葉は、今のエリオットにとって何よりも魅力的に響いた。
「味を、完璧に……」エリオットはその輝く粒子に目を奪われた。これさえあれば、記憶がなくても、最高の料理が作れるかもしれない。今度こそ、客を驚かせるのではなく、純粋な美味しさで満足させられるはずだ。彼はリラに礼を言い、その貴重な(そして危険な)小瓶を受け取った。
エリオットは早速、厨房に立ち、シンプルなポタージュを作り始めた。冷蔵庫に残っていた野菜くずと、少しの牛乳、そして水。普段なら味気ないものになるだろうが、今日は違う。「賢者の石の欠片」がある。彼は鍋を火にかけ、野菜が柔らかくなるのを待った。
リラの「ほんの少し」という警告は頭にあった。しかし、同時に「完璧な味」への渇望が、彼の心を強く揺さぶった。失われた記憶、繰り返される(であろう)失敗への不安、そして料理人としての本能的なプライド。「ほんの少し」では、本当に完璧になるのだろうか? もっと、もっと美味しくしたい。記憶のない自分でも作れる、最高の味を。
彼は、小瓶から慎重に、しかし指定された量よりも明らかに少しだけ多い量の欠片を、煮立つポタージュの中に振り入れた。瞬間、鍋の中の液体が淡い金色に輝き、ふわりと複雑で芳醇な香りが立ち上った。
味見をしてみる。スプーンで少量すくい、恐る恐る口に運んだ。
「……!!!」
エリオットは言葉を失った。信じられないほどの美味しさだった。野菜の甘み、牛乳のコク、それらが完璧な調和を保ちながら、次々と新しい味覚の層が現れては消えていく。それはまるで、味の万華鏡。一口ごとに風景が変わる、未体験の味覚旅行だった。
「すごい……これなら……!」
彼は感動に打ち震えた。そして、その感動と共に、脳裏に鮮明な記憶の映像が、堰を切ったように流れ込んできた。
――シンギング・マッシュルームの美しい音色に聞き惚れ、冷めていく料理。
――フロータイト鉱石のムースを食べ、天井に張り付いて助けを求める客たちの顔。
――オーガの腕力こぶシチューで力がみなぎり、店を破壊し始める常連たち。
――忘却の露で店の記憶を失い、初めて来たかのように話すバーソロミュー氏。
――サンダーバードの卵で興奮し、奇行に走るカップル。
――ドリームキャップのスープで悪夢にうなされ、逃げ帰る老紳士。
それは、彼が忘れていた、あるいは忘れようとしていた、失敗と騒動の記憶だった。味が深層心理に作用し、記憶の扉をこじ開けたのだ。
「ああ……僕は……こんなことを……」
エリオットは頭を抱えた。完璧な味は、完璧な過去の追体験をもたらしたのだ。
その時、カランコロン、とドアベルが鳴った。入ってきたのは、質素だが清潔な身なりの、中年の旅人風の男だった。彼は長旅に疲れた様子で、温かい食事を求めて偶然この店に立ち寄ったようだった。
「何か、温かいスープでもありますかな?」
エリオットは、まだ記憶の洪水と自己嫌悪で混乱していたが、料理人としての習性で、作りたてのポタージュを勧めた。
「はい、ちょうど特製のポタージュが……どうぞ」
彼は、その完璧な味のポタージュを客の前に置いた。
男は、まずその芳醇な香りに驚き、一口飲んでさらに目を見開いた。
「こ、これは……なんと……!」
彼は夢中でスプーンを口に運んだ。一口ごとに、彼の表情は目まぐるしく変化した。最初は至福の表情だったが、やがて眉間に皺が寄り、涙ぐみ、かと思うと突然笑い出し、次の瞬間には怒ったようにテーブルを叩いた。
「ああ、母さんの味だ……いや、違う、これは初恋の彼女と食べた……うっ、あの時の失敗が……! そうだ、あの時、俺は……! ちくしょう! でも、楽しかったな、あの頃は……! うおおお!」
男は、ポタージュを飲みながら、自分の人生の喜怒哀楽を全て追体験しているかのように、感情を激しく揺さぶられていた。スープの味は、彼の記憶と感情そのものを映し出す鏡となっていたのだ。
エリオットは、その様子を呆然と見ていた。客の反応は、彼自身が味見をした時よりも遥かに激しい。そして、気づいた。この「賢者の石の欠片」は、単に味を良くするだけではない。飲む者の心の奥底に眠る記憶や感情を、味覚を通じて強制的に引きずり出すのだ。「完璧な味」とは、その人の人生の縮図そのものだったのかもしれない。
そして、自分自身の蘇り始めた記憶――それは、輝かしい成功の記憶ではなく、数々の失敗と、客に迷惑をかけた苦い記憶だった。
やがて、ポタージュを飲み干した旅人は、まるで嵐が過ぎ去った後のように、ぐったりと椅子にもたれかかった。彼の顔には、疲労と、涙の跡と、そして不思議なほどの晴れやかさが混在していた。
「……ふぅ。何だか、自分の人生を……丸ごと味わったような気分だ。ありがとうよ、シェフ。こんなスープは、初めてだ」
彼はそう言うと、少しふらつきながらも、思ったより多めのチップを置いて、静かに店を出て行った。
一人残されたエリオットは、空になったポタージュ鍋と、まだ微量の輝く粒子が残る小瓶を見つめた。失われた記憶は、少しだけ戻ったかもしれない。しかし、それは輝かしい過去ではなく、むしろ目を背けたい失敗の連続だった。「普通」を求めたはずが、またしても最も複雑で、人の心の内側をかき乱す料理を生み出してしまった。
「僕は……これから、どうすればいいんだ……?」
蘇った記憶の重みと、新たな騒動(?)の後味に、エリオットは深く、深いため息をつくしかなかった。厨房の隅で、賢者の石の欠片が、まるで全てを見通すかのように、冷たく鋭い光を放っていた。