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ドリームキャップ・スープと過去からの悪夢

記憶という名の海図を失った船のように、エリオットは『木漏れ日亭』の厨房という港で漂っていた。「料理人エリオット」。リラが教えてくれたその名前は、まだ彼の中で空虚に響くだけだった。しかし、「何かを作らなければならない」という衝動だけは、まるで羅針盤の針のように、彼の心を揺さぶり続けていた。


サンダーバードの卵による騒動の後、店は再び静まり返っていた。エリオットは、手持ち無沙汰に食材庫を整理しているつもりだった。野菜、干し肉、奇妙な瓶詰……どれもこれも、彼にとっては初めて見るものばかりだ。そんな中、木箱の隅に、ふっくらとした丸い傘を持つ、見るからに美味しそうなキノコがいくつか入っているのを見つけた。色はクリーム色で、表面にはうっすらと銀色の粉が降りかかっているように見える。

「これは……普通のキノコっぽいな」

彼は一つ手に取ってみた。ほんのりと甘い、土のような良い香りがする。これまでの経験(思い出せないが、体のどこかが覚えている失敗の感覚)から、彼は警戒心を抱きつつも、このキノコには危険な匂いを感じなかった。

「よし、これで温かいスープでも作ろう。シンプルで、体に優しいものがいい」

記憶はないが、なぜかスープの作り方は体が覚えているようだった。玉ねぎを炒め、野菜を加え、そして主役であるこのキノコをたっぷりと刻んで鍋に入れる。コトコトと煮込むうちに、厨房には食欲をそそる優しい香りが満ちてきた。


ちょうどスープが完成した頃、カランコロン、と控えめなドアベルの音がした。入ってきたのは、どこか見覚えのあるような気がする、しかし思い出せない、上品な佇まいの老紳士だった。食通と評判の(はずの)バーソロミュー氏だ。彼は、以前「忘却の露」の効果でエリオットと店のことを忘れてしまったが、なぜか「初めて来たが良い店だ」という印象だけは残り、再び足を運んだのである。

「やあ、こんにちは。先日……いや、初めて来た時だったかな? とても雰囲気が良かったのでね。何か温かいものでもいただけないかね?」

「いらっしゃいませ」エリオットはぎこちなく応えながら、出来立てのスープを勧めた。「ちょうど、キノコのクリームスープが出来上がったところです。よろしければ」

「おお、それは良い! 是非いただこう」

バーソロミュー氏はにこやかに席に着いた。


エリオットは、深皿にたっぷりとスープを注ぎ、クルトンを浮かべて提供した。バーソロミュー氏は、まず香りを楽しみ、そしてゆっくりとスプーンを口に運んだ。

「む……ほう! これは……!」

彼の目が感嘆に見開かれる。

「素晴らしい! 実にクリーミーで、キノコの風味が豊かだ。それでいて、後味はどこか……夢見るように心地よい。エリオット君、君はやはり天才だ!」

「エリオット……そうです、僕の名前はエリオットです」記憶のないエリオットは、褒められて悪い気はしないが、どこか他人事のように呟いた。

バーソロミュー氏は夢中でスープを飲み干し、満足げにため息をついた。「ふぅ……満たされた。少し……眠くなってきたな……」

彼は心地よさそうに目を閉じ、椅子の背にもたれかかった。やがて、すーすーと穏やかな寝息が聞こえ始めた。


「眠ってしまった……」エリオットは少し困惑したが、よほど美味しくてリラックスできたのだろう、と好意的に解釈した。静かに食器を片付けようとした、その時だった。

バーソロミュー氏の穏やかだった寝顔が、苦痛に歪み始めた。額には脂汗が浮かび、眉間に深い皺が刻まれている。

「う……うぅ……」

彼は呻き声を上げ始めた。そして突然、叫んだ。

「た、助けてくれ! 落ちる! 天井が……!」

彼は椅子の上で必死に手足をばたつかせ、何かから逃れようともがいている。

「し、静かに! うるさいぞ、そのキノコめ!」

今度は耳を塞ぐような仕草をする。

「力が……力が有り余る! 壁が……壊れる!」

彼は見えない壁を殴るような動作をし、うなり声を上げた。

「わ、忘れ……忘れたくない! 私は誰だ!? ここはどこだ!?」

最後には、自分の頭を抱え、混乱したように叫び始めた。


エリオットは、何が起きているのか全く理解できず、ただオロオロするばかりだった。穏やかなスープが、なぜこんな悪夢を引き起こすのか?

「ど、どうしよう……!?」

彼が狼狽していると、背後から聞き慣れた(気がする)声がした。

「あらあら、今度は安眠妨害ときたわね。エリオットさん、あんた本当に……」

振り返ると、呆れた顔のリラが立っていた。彼女は眠りながら暴れるバーソロミュー氏と、空になったスープ皿を一瞥し、すぐに原因を突き止めたようだ。

「それ、ドリームキャップ・マッシュルームでしょ? 普通のキノコに見えるけど、食べた人の精神状態や記憶に作用するのよ。少量なら楽しい夢を見るけど、感受性が強い人や、過去に強烈な体験をした人が食べ過ぎると、悪夢に変わることがあるの。特に、忘れようとしている記憶とか、トラウマとかね」

リラはバーソロミュー氏を指さした。「あの様子だと、相当キョーレツな体験を、この店でしたみたいねぇ……」


「悪夢……? 強烈な体験……この店で?」エリオットは混乱した。バーソロミュー氏が悪夢の中で叫んでいた言葉――「天井」「キノコ」「力」「忘れる」――が、彼の頭の中で反響する。その瞬間、再び断片的な記憶の閃光が彼の脳裏を駆け巡った。天井に浮かぶ人々、美しい音を奏でる料理、壁を殴る腕、そして虹色に輝く液体……。

「あ……ああ……!」

頭痛と共に、何かが繋がりそうで繋がらない、もどかしい感覚に襲われる。しかし、完全な記憶はまだ戻らない。ただ、目の前の老紳士が見ている悪夢が、決して他人事ではないことだけは、漠然と理解できた。


やがて、悪夢の嵐が過ぎ去ったのか、バーソロミュー氏ははっと目を覚ました。彼はぜえぜえと肩で息をし、恐怖に引きつった顔で周囲を見回した。そして、エリオットとリラ、そして『木漏れ日亭』の店内を認識すると、血相を変えて椅子から飛び退いた。

「ひぃぃ! この店は呪われている! もう二度と来るものか!」

彼は財布から金貨を数枚カウンターに叩きつけると、文字通り転がるように店から逃げ出していった。後に残されたのは、静寂と、困惑したエリオット、そしてやれやれと肩をすくめるリラだけだった。


「……また、お客さんに……逃げられたような気がする……」

エリオットは力なく呟いた。記憶はないはずなのに、なぜか胸に込み上げてくるのは、懐かしい(?)失敗の味だった。

「さて、エリオットさん。次はどんな『普通じゃない』料理で、お客さんを驚かせるのかしら?」

リラの言葉は、からかっているのか、それとも期待しているのか。エリオットには、まだ判断がつかなかった。ただ、厨房の隅に残っていたドリームキャップ・マッシュルームが、まるで全てを知っているかのように、静かに銀色の粉をきらめかせているのが、やけに気になった。

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