雷鳴のスクランブルエッグと甦る衝動
がらんどうの厨房で、エリオットは目を覚ました。頭の中には白い靄がかかったようで、自分が誰なのか、ここがどこなのか、なぜシェフコートを着ているのか、何も思い出せない。ただ、体の奥底から突き上げてくるような、漠然とした衝動があった。「何かを作らなければならない」。それは義務感のようでもあり、焦りのようでもあった。
彼は、まるで夢遊病者のように、ふらふらと厨房を歩き回り、食材庫の扉を開けた。見慣れない(であろう)食材が並んでいる。干し肉、野菜、スパイスの瓶……どれもピンとこない。その中で、ひときわ異彩を放つものがあった。棚の奥に置かれた、白鳥の卵ほどもある大きさの卵だ。殻は青白く、まるで磨かれた磁器のように滑らかだが、表面には微細な稲妻のような模様が走り、時折パチッ、パチッと小さな音を立てて仄かに発光している。
「なんだ、これ……?」
エリオットは恐る恐る手を伸ばした。指先が触れた瞬間、ピリッとした軽い痺れが走り、彼は思わず手を引っ込めた。しかし、その刺激は不快ではなく、むしろ体の芯に微かな活力を与えるような感覚だった。
「……なんだか、元気が出そうだ」
理由は分からないが、彼は直感的にこの卵を使うことに決めた。記憶がない今、頼れるのはこの本能的な感覚だけだった。
さて、どう調理したものか。エリオットは首を捻った。記憶がないため、得意料理も、基本的な調理法すら思い出せない。彼はとりあえず、最もシンプル(だと思われた)な方法を選ぶことにした。卵を割って、フライパンで焼く。スクランブルエッグのようなものなら、失敗も少ないだろう。
彼は卵を手に取り、調理台の角に打ち付けた。ガンッ、と硬い音が響き、卵にはひび一つ入らない。何度か試すが、結果は同じだ。「硬いな……」彼は近くにあった肉叩き用の小さな槌を手に取り、慎重に、しかし力を込めて殻の一点を叩いた。パリン、という音と共に、青白い光が一瞬強く瞬き、バチッ!と火花が散った。エリオットの手元が痺れ、危うく卵を落としそうになる。
「うわっ!」
なんとか持ちこたえ、ひび割れた殻を両手で押し広げると、中から現れたのは、太陽のように眩しい黄金色の黄身と、半透明で銀色に輝く白身だった。それはボウルに落ちると、まだパチパチと微かな音を立てている。
エリオットはフライパンにオイルを熱し、卵液を流し込んだ。ジュワッという音と共に、卵は勢いよく火花を散らし始めた。フライパンの取っ手を持つ手がピリピリと痺れる。厨房の金属製の調理器具が、共鳴するようにカチャカチャと音を立て始めた。まるで厨房全体が帯電しているかのようだ。彼は木製のヘラで必死にかき混ぜ、なんとか焦げ付かないように火から下ろした。
出来上がったのは、見た目は普通の、ふわふわとしたスクランブルエッグだった。しかし、皿に盛り付けられたそれは、まだ時折、微かにパチパチと音を立て、表面がきらめいているように見えた。
「……味見してみるか」
彼はフォークで少量すくい、口に運んだ。瞬間、口の中で静電気が弾けるような、しかし不快ではない刺激が走った。そして、すぐに体がカッと熱くなり、頭の中の靄が少し晴れるような感覚があった。
「おお……! これは……!」
記憶は戻らないが、気分は高揚し、体が軽くなった気がする。これなら、客に出しても喜ばれるかもしれない。「元気が出る朝食」と名付けよう。
ちょうどその時、カランコロン、とドアベルが鳴った。入ってきたのは、以前「天空のムース」で天井に張り付いた、あの若いカップルだった。彼らは物好きなのか、あるいは何も覚えていないのか、懲りずにまたやって来たらしい。
「やあ、やってる? なんか面白いもんない?」男性が軽薄な口調で言った。
エリオットは、自分が作ったばかりのスクランブルエッグを指さした。
「今できたての、元気が出る朝食です。いかがですか?」
「へえ、卵料理? 普通じゃん」と女性は少し不満げだったが、男性は「まあ、腹減ってるし、それでいいや」と注文した。
エリオットは二人に「サンダー・スクランブルエッグ」を提供した。二人は最初、普通の卵料理だと思って食べ始めたが、すぐにその様子が変化した。
「うわっ! なにこれ、口の中がパチパチする!」
「でも、なんか……力がみなぎってきた!」
男性は突然、貧乏ゆすりを始め、指でテーブルを高速で叩き始めた。女性は早口でまくし立て始め、髪の毛が静電気でふわりと逆立っている。
「すごい! なんか今日、なんでもできそうな気がする!」
「見て、私、こんなに速く瞬きできるのよ!」
二人は異常なほどの興奮状態に陥り、店の中を落ち着きなく動き回り始めた。男性は突然「走り込みしてくる!」と言って店の外へ飛び出し、女性は壁に向かって高速で腕立て伏せを始めた。
エリオットは、その光景を呆然と眺めていた。客は喜んでいる……ようにも見えるが、明らかに普通ではない。なぜか、胸の奥がざわつく。「また、何か……何かやらかしてしまったような……?」そんな既視感が彼を襲った。
そこへ、聞き慣れた(はずの)声がした。
「あらあら、エリオットさん。記憶はなくしても、人を騒動に巻き込む才能は健在みたいね」
振り返ると、行商人のリラが呆れた顔で立っていた。彼女は興奮状態のカップルと、パチパチと音を立てる卵の皿を見て、すぐに状況を察したようだ。
「それはサンダーバードの雷卵よ。活力が出るけど、普通の人間には刺激が強すぎるの。加減を間違えると、ああなっちゃう」
「サンダーバード……活力……」エリオットはリラの言葉を反芻した。「あなたは……僕を知っているんですか? 僕は……」
「あなたはエリオット。『木漏れ日亭』のシェフよ。腕は確かだけど、ちょっと……いや、かなりお騒がせな料理人」リラは苦笑した。
エリオットは、リラの言葉に、失われた自分の輪郭を少しだけ掴んだ気がした。「料理人……エリオット……お騒がせ……」
やがて、卵の効果が薄れてきたのか、カップルはようやく落ち着きを取り戻し、ぐったりと疲れた様子で帰っていった。「……なんか、すげえ疲れたけど、ある意味スッキリしたかも」と言い残して。
一人残されたエリオットは、厨房の後片付けを始めた。疲労感がどっと押し寄せる。自分が何者なのか、少しだけ分かった。だが、なぜこんな状況になっているのか、過去の記憶は依然として靄の中だ。
ふと、ゴミ箱に捨てたサンダーバードの卵の殻が、パチッ、と最後の火花を散らした。
その瞬間、エリオットの脳裏に、ほんの一瞬だけ、断片的な映像がフラッシュバックした。
――天井に張り付いて助けを求める老紳士の顔。
――美しい音色を奏でるキノコ。
――力が有り余って壁を殴る人々。
「……なにか……何か、とても大事なことを……忘れているような気がする……」
頭の片隅にかすかな疼きを感じながら、エリオットは再び深いため息をついた。彼の、騒々しくも美味しい(?)料理人としての日常は、記憶があろうとなかろうと、まだ始まったばかりなのかもしれない。