妖精の忘れ水と消えゆく記憶
オーガの腕力こぶによる「大地のシチュー」事件は、物理的な被害こそ甚大だったが、ある意味では客に喜ばれた(?)とも言えた。有り余る力で店の改装や補修を手伝ってくれた(?)客たちは、妙な達成感と共に帰路につき、エリオットの『木漏れ日亭』は、半ば強制的にリニューアルオープンを果たしたのである。しかし、その評判は「入ると無意識に肉体労働させられる店」という、もはやホラーの領域に達しており、客足は完全に途絶えていた。
がらんとした店内で、エリオットは力なくカウンターに突っ伏していた。
「もう嫌だ……美味しいだけじゃダメなのか……。音楽が聞こえても、宙に浮いても、力がみなぎっても、全部裏目に出る……。いっそ、食べたことなんてすぐ忘れられるような、存在感のない料理がいい……」
疲れ果てた彼の呟きは、誰に聞かれるでもなく、静かな店内に虚しく響いた。
その時、カランコロン、と軽やかなドアベルの音がした。反射的に顔を上げたエリオットの前に立っていたのは、やはり、あの行商人のリラだった。彼女は同情するような、それでいて面白がるような複雑な表情でエリオットを見ている。
「エリオットさん、お疲れみたいね。まあ、あのオーガ肉の後じゃ無理もないわ。そんなあなたに、今度こそ、本当に穏やかな気持ちになれるものを紹介するわ」
リラがそっと取り出したのは、朝露のように透明な液体で満たされた、小さな水晶の小瓶だった。液体は光を受けて、淡い虹色にきらめいている。
「これ、『忘却の露』。月の光の下で咲くフェアリーベルの花に溜まる、特別な露よ。これをほんの少し、デザートなんかに垂らすとね、食後の嫌な気分や、食べ過ぎた罪悪感、そういう些細なモヤモヤを、すーっと忘れさせてくれるの。まるで心に爽やかな風が吹いたみたいにね」
「忘却……」エリオットはその言葉に、藁にもすがる思いで食いついた。「嫌なことを、忘れられる?」
「ええ。だから食後感が最高だって評判よ。まあ、ごく稀にだけど、うっかり大事なことまで忘れちゃうそそっかしい人もいるらしいけど……ほんの一滴なら、まず心配ないわ。妖精の祝福みたいなものよ」
リラはウィンクして見せた。
「一滴なら、大丈夫……」エリオットは自分に言い聞かせた。これまでの失敗は、すべて「やりすぎ」が原因だった。今度こそ、ごく少量、慎重に使えば、きっと穏やかな結果になるはずだ。嫌なことを忘れられるなんて、今の自分にこそ必要な効果ではないか。
「……分かった。その露、試してみよう」
彼はなけなしの銀貨で、水晶の小瓶を買い取った。
厨房に戻ったエリオットは、小瓶を注意深く扱った。蓋を開けると、ふわりと甘い花の香りがしたが、味も匂いもほとんどない。彼は、新鮮な季節の果物をカットし、自家製の軽いシロップと合わせたシンプルなフルーツポンチを作ることにした。そして、仕上げに、スポイトで慎重に「忘却の露」を、たった一滴だけ、ポンチの表面に垂らした。露はシロップに溶け込み、跡形もなく消えた。見た目は、ただの美味しそうなフルーツポンチだ。彼はこれを「妖精の忘れ水ポンチ」と名付けた。
その日の午後、幸運にも(あるいは不運にも)三人の客が店を訪れた。一人は、懲りずに顔を出してくれた食通のバーソロミュー氏。もう一組は、街で噂を聞きつけ、冷やかし半分でやってきた若いカップルだった。エリオットは、メインディッシュの後、緊張しながら「妖精の忘れ水ポンチ」を提供した。
「食後のデザートでございます。気分をすっきりさせる、ささやかなおまじない入りです」
彼の言葉に、バーソロミュー氏は興味深そうに、若いカップルは面白半分といった顔でスプーンを手にした。
「おお、これは爽やかで美味しい!」
「フルーツが新鮮ね!」
「うん、なんか普通にうまいじゃん」
三人は口々に感想を述べ、あっという間にポンチを平らげた。エリオットは息を詰めて見守っていたが、特に変わった様子はない。客たちは満足げに微笑み、食後のコーヒーを楽しんでいる。
「やった……今度こそ、うまくいった!」
エリオットは心の中で叫んだ。
しばらくして、カップルの男性が席を立った。
「さて、そろそろ行こうか」
「ええ、そうね」と女性も頷く。
「じゃ、お会計お願いしまーす」
男性が財布を取り出しながら言った。エリオットが伝票を持っていくと、男性は首を傾げた。
「あれ? こんなにしたっけ? 俺たち、何食べたっけな?」
「え? あなた、覚えてないの? 美味しいシチューと、このフルーツポンチよ」と女性が言う。
「ああ、そうだっけ? なんかもう、すっきり忘れちゃったな。まあ、美味しかったんならいいか!」
男性はあっけらかんと笑い、代金を支払って女性と腕を組んで出て行った。
エリオットは少し引っかかりを覚えたが、「まあ、食後の重たさを忘れるっていうのは、こういうことか」と自分を納得させた。
問題は、バーソロミュー氏だった。彼はコーヒーカップを置き、満足そうにため息をついた。
「ふぅ……実に素晴らしいデザートだった。おかげで気分がすっきりしたよ。さて、そろそろ失礼するとしよう」
彼は帽子を手に取り、優雅に立ち上がった。そして、店の入り口に向かいかけたが、ふと足を止め、きょろきょろと店内を見回した。
「ところで……ここは、何という店だったかな?」
「は?」エリオットは聞き返した。
「いや、実に居心地の良い店だったからね。名前を覚えておこうと思ったのだが……どうにも思い出せん」バーソロミュー氏は困ったように頭を掻いた。
「『木漏れ日亭』ですよ、バーソロミュー様! いつも来てくださっているじゃないですか!」
「おお、『木漏れ日亭』! そうか、そうか。良い名前だ。……して、君は?」
「私ですか? シェフのエリオットです!」
「エリオット君! そうか! いやはや、君のような若い才能が……ん? 君とは、どこかで会ったかな?」
バーソロミュー氏は、エリオットの顔をまじまじと見つめ、首を捻っている。明らかに、エリオットのことも、この店のことも、綺麗さっぱり忘れてしまっているようだった。
「そんな……たった一滴で……」エリオットは愕然とした。妖精の祝福どころか、これは呪いだ。バーソロミュー氏はその後も、「ここは初めて来たが良い店だ」「君の料理は初めて食べたが素晴らしい」と、エリオットを褒め称えながら、記憶がリセットされた状態で店を出て行った。彼が明日、この店のことを覚えている保証はどこにもない。
その夜、エリオットは一人、後片付けをしながら深いため息をついた。客は料理を美味しいと言ってくれた。店を出る時にはすっきりした顔をしていた。しかし、彼らはこの店のことも、食べた料理のことも、そしてエリオットのことさえも忘れてしまうのだ。これでは、どんなに美味しい料理を作っても、意味がないではないか。
「忘れられる料理を、なんて言ったけど……こんな形で叶うなんて……」
彼はカウンターの上に置かれた「忘却の露」の小瓶を睨みつけた。水晶の中で、淡い虹色の液体が悪戯っぽくきらめいているように見えた。疲れと絶望が、どっと押し寄せてくる。
「もう……何もかも……」
彼は無意識のうちに小瓶を手に取り、蓋を開けた。甘い花の香りが鼻孔をくすぐる。
「いっそ、この店のことも、これまでの失敗も、全部……忘れてしまえたら……」
エリオットは、まるで何かに導かれるように、小瓶を傾け、中の液体を――ほんの一滴ではなく、ごくごくと――飲み干してしまった。
翌朝。
『木漏れ日亭』の厨房で、一人の若い男が目を覚ました。彼はぼんやりとした頭で周囲を見回す。見慣れない厨房、使い込まれた調理器具、壁にかかったシェフコート。
「……ここは、どこだ?」
彼は首を傾げた。なぜ自分がここにいるのか、思い出せない。自分が誰なのかさえ、今は少し曖昧だった。ただ、何か、とても美味しいものを作らなければならないような、そんな気がした。
「まあ、いいか。とりあえず、何か……何か作ってみるか」
彼はそう呟くと、おもむろに近くにあったフライパンを手に取った。外からは、新しい一日を告げる鳥の声が聞こえていた。