大地のシチューと有り余る力
天井から客を降ろすのに丸一日かかった「天空のムース」事件の後、『木漏れ日亭』の評判はさらに奇妙なものになっていた。「命がけで食事をする場所」と囁かれ、物好きな冒険者崩れが冷やかしに来ることはあっても、純粋に食事を楽しみたい客の足はすっかり遠のいてしまった。閑散とした店内で、エリオットは深いため息をついていた。
「もう変な食材はこりごりだ……今度こそ、地に足の着いた、滋味深い、ただただ美味しい料理を作るんだ。客が浮いたり、音楽に聞き惚れて食べなかったりしない、ごく普通の料理を……」
そんな彼の決意を嘲笑うかのように、カランコロン、とドアベルが鳴り、あの行商人のリラが顔を出した。彼女はエリオットの憔悴した顔を見て、ニヤリと笑う。
「あらあら、エリオットさん、精気がないわね。まあ、天井に人が鈴なりになってた後じゃ無理もないか。そんなあなたに、ぴったりの食材があるのよ」
そう言って彼女がカウンターにドン、と置いたのは、まるで黒曜石の塊のような、ゴツゴツとした不定形の肉塊だった。鈍い光沢を放ち、持つとずしりと重い。
「これ、『オーガの腕力こぶ』。見ての通り、カッチカチよ。普通の刃物じゃ歯が立たない。でもね、根気よく煮込めば、とろっとろの極上の肉になるの。何より、滋養がすごいわ。食べれば力がみなぎる。地に足がつくどころか、地面に根が生えるような気分になるかもね。……まあ、ちょっとスタミナがつきすぎるのが玉に瑕、なんて話もあるけど」
「地に根が生える……スタミナ……」エリオットはその言葉に希望を見出した。「硬い」というのも、調理に工夫が必要だが、客に直接的な影響を与えるものではないだろう。「よし、リラさん、それをいただこう。今度こそ、普通の、力強い料理を作ってみせる」
彼はなけなしの金貨を支払い、その岩のような肉塊を手に入れた。
厨房に戻ったエリオットは、さっそく腕力こぶと格闘を始めた。まずは自慢の包丁を当てる。カキン、と鈍い音がして、刃こぼれしただけだった。肉には傷一つない。次は肉切り用の大きな鉈を振り下ろす。ガンッ、と硬い音と共に火花が散ったが、やはり無傷。ハンマーで叩いても、斧で叩いても、びくともしない。
「なんだこれは……本当に肉なのか?」
エリオットは途方に暮れた。数日間、あらゆる手段を試したが、腕力こぶは鉄壁の硬さを誇っていた。
彼は街のドワーフの鍛冶屋に相談してみた。事情を聞いた頑固そうなドワーフは、腕力こぶを矯めつ眇めつし、鼻を鳴らした。
「ふん、オーガのこぶか。こいつぁ、普通の熱じゃダメだ。わしらの鍛冶場の炉で、特別な鉱石を混ぜた燃料で三日三晩熱し続ければ、少しは柔らかくなるかもしれんがな。まあ、それでも切れるようになるかは分からんぞ」
鍛冶屋の炉を借りる金などない。エリオットは諦めかけたが、リラの「煮込めばとろっとろになる」という言葉を思い出した。「煮込む」ことに何か秘密があるのかもしれない。
彼は古びた料理書を読み漁り、古い伝承を調べた。そして、ある記述を見つける。「硬きものを穿つは、酸にして時なり」。酸と時間……? 彼は閃いた。以前、バーソロミュー氏から珍しい調味料として少量譲り受けた「ロック・ゴーレムの岩塩心臓」の粉末。あれは強い酸性を持っていたはずだ。
エリオットは、岩塩心臓の粉末をわずかに溶かした水と、香味野菜、そして赤ワインと共に、腕力こぶを大鍋に入れた。そして、ごくごく弱い火で、ひたすら煮込み始めた。一日経っても、二日経っても、見た目に変化はない。だが、三日目の朝、鍋からは信じられないほど芳醇な香りが立ち上っていた。おそるおそる木の匙で肉に触れてみると、あれほど硬かった肉が、ほろりと崩れたのだ。
「やった……! やったぞ!」
エリオットは歓喜の声を上げた。
彼はさらに数日かけて、野菜やハーブを加え、味を調えた。完成したのは、見た目は地味な、濃い茶色のシチューだった。しかし、その香りは深く、複雑で、食欲を強烈に刺激する。肉は口に入れると、繊維を感じさせずに溶けていくほど柔らかく、凝縮された旨味が口いっぱいに広がった。彼はこの料理を「大地のシチュー」と名付けた。これこそ、彼が求めていた、地に足の着いた、滋味あふれる一皿のはずだった。
その夜、エリオットは数少ない常連客――いつも静かに本を読んでいる学者風の男、物腰の柔らかい老婦人、そしていつも疲れた顔をしている若い職人の三人に、「大地のシチュー」を振る舞った。
「新作です。滋養たっぷりで、力が湧いてくると思います。まあ、普通のシチューですよ」
三人は、少し警戒しながらも、その香りに惹かれてスプーンを手に取った。一口食べると、三人の顔が驚きと感動に変わった。
「おお……これは、なんと深い味わいだ!」と学者。
「まあ、お肉が口の中でとろけるわ……」と老婦人。
「うめえ……なんだか体の芯から力が湧いてくるようだ……」と若い職人。
彼らは夢中でシチューを食べ進め、あっという間に皿を空にした。満足そうな客の顔を見て、エリオットはようやく安堵のため息をついた。今度こそ、本当に成功した。特別なことは何も起こらない、ただ美味しい料理を提供できたのだ。
……そう、思ったのも束の間だった。
食後のコーヒーを楽しんでいた時、異変が起きた。
最初に動いたのは、学者風の男だった。彼は読んでいた分厚い本をパタンと閉じると、すっくと立ち上がり、おもむろに店の重いオーク材のテーブルを持ち上げた。
「む、このテーブル、少し配置が悪いな。こちらの方が動線が良いだろう」
彼は軽々とテーブルを移動させ、次に椅子を持ち上げて並べ替え始めた。普段の物静かな姿からは想像もつかない力強さだ。
それを見た老婦人も、ふと壁のわずかな傷に気づいた。
「あらあら、こんなところに傷が。これはいけませんわね」
彼女はそう言うと、近くにあった装飾用の小さな金槌を手に取り、トントントン、と驚くほど正確かつ力強く壁の補修を始めてしまった。その手つきは熟練の大工のようだ。
そして、若い職人は、店の入り口の軋む扉が気になったらしい。
「ちっ、この蝶番、油が切れてやがる。放っておけねえな」
彼は工具箱もなしに、素手で分厚い木の扉を外し、蝶番を調整し始めた。その怪力は、もはや人間離れしている。
あっという間に、『木漏れ日亭』の店内は、客たちによる自発的な大改装&補修作業現場と化していた。テーブルや椅子が飛び交い(物理的に持ち上げられて)、壁からは槌音が響き、入り口では扉が分解されている。客たちは皆、妙に活き活きとした表情で、黙々と作業に没頭している。有り余るスタミナが、彼らを突き動かしているのだ。
エリオットは、そのカオスな光景を、カウンターの内側でただただ呆然と見つめていた。
「地に足の着いた料理を、って言ったじゃないか……なんでみんな、地面に足つけたままで、こんなことに……」
彼の目からは、涙か汗か分からないものが流れ落ちた。
リラの言っていた「スタミナがつきすぎるのが玉に瑕」という言葉が、やけに重く響く。
「次は……次はもう、味も素っ気もない、ただの……ただの水でも出そうかな……」
力仕事に励む客たちの掛け声を聞きながら、エリオットは力なく呟くのだった。厨房の隅では、使い切れなかったオーガの腕力こぶの欠片が、鈍い光を放っているように見えた。