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天空のムースと浮遊する食通

シンギング・マッシュルームの一件以来、エリオットの料理店『木漏れ日亭』は奇妙な評判を得ていた。「味は確かだが、何かが起こる店」として、怖いもの見たさの客も訪れるようになったが、肝心の料理をゆっくり味わってもらえないのでは本末転倒だ。エリオットは頭を抱えていた。

「今度こそ、普通に美味しくて、ちょっとだけ驚きがあって、そしてちゃんと食べてもらえる料理を……」


そんな彼の元に、またしてもあの行商人のリラがひょっこり顔を出した。彼女の背負う袋からは、いつも怪しげな気配が漂っている。

「エリオットさん、お悩み? また面白いもの、仕入れてきたわよ」

リラが取り出したのは、淡い灰色をした石鹸のような塊だった。表面には微細な気泡のような模様があり、手に取ると驚くほど軽い。

「これ、フロータイト鉱石っていうの。古代の風の精霊の力が宿ってるって言われててね。ほんの少しだけ削って食べると、体がふわっと軽くなるのよ」

「体が、軽くなる?」エリオットは眉をひそめた。「まさか、風船みたいに飛んでいったりしないだろうな?」

「まさか! ごく少量なら、気分が晴れやかになる程度だって話よ。もちろん、食べ過ぎたらどうなるか知らないけど……。デザートなんかにちょっと混ぜたら、食後の重たい気分が吹き飛ぶんじゃない?」


リラの言葉に、エリオットの心は揺れた。「食後の気分を晴れやかにするデザート」。それは魅力的だ。シンギング・マッシュルームのように、食べる行為そのものを邪魔するわけでもない。これなら、「普通に美味しく」食べてもらえるかもしれない。

「……分かった。少しだけ試してみよう」

エリオットは、お守り程度の量のフロータイト鉱石を買い取った。


厨房に戻ったエリオットは、慎重に鉱石を扱い始めた。まずは、ほんの爪の先ほどの量を削り取り、水に溶かしてみる。特に変化はない。次に、それを味見してみた。味はほとんどなく、わずかにミントのような清涼感があるだけだ。そして数分後、確かにほんの少しだけ、体が軽くなったような気がした。肩の力が抜け、気分が少し上向くような感覚。

「これはいけるかもしれない!」


彼は、この鉱石を新作のムースに使うことに決めた。軽やかな食感のムースと、「体が軽くなる」効果は相性が良いはずだ。彼は、新鮮なベリーとヨーグルトを使い、爽やかな酸味のムースを作り始めた。問題は、フロータイト鉱石の配合量だ。


最初の試作品は、鉱石の量が少なすぎたのか、ほとんど効果を感じられなかった。次の試作品では、少し量を増やしてみた。味見をすると、今度ははっきりと体が軽くなる感覚があった。気分も高揚し、思わず鼻歌が出そうになる。しかし、混ぜていたスプーンがひとりでに少し浮き上がり、カタンと音を立てて落ちたのを見て、エリオットは冷や汗をかいた。

「危ない、危ない。これは慎重に量を決めないと……」


彼は、まるで錬金術師のように、微量の鉱石を精密な天秤で測り、何度も試作を繰り返した。目標は、食べた人が「気のせいかな?」と思う程度の、心地よい浮遊感。数日間の試行錯誤の末、ついに彼は完璧な配合比率を見つけ出した。見た目は美しい三層のベリーヨーグルトムース。味も、甘さと酸味のバランスが絶妙で、後味は驚くほど爽やかだ。そして食後には、ほんのりと体が軽くなり、幸福感が訪れるはずだった。エリオットはこの自信作を「天空のムース」と名付けた。


発表の日、エリオットは再び食通のバーソロミュー氏を招待した。シンギング・マッシュルームの件で少し警戒している様子の氏に、エリオットは自信たっぷりに言った。

「バーソロミュー様、今度こそ、純粋に味と、食後の心地よさを楽しんでいただけるデザートです。どうぞ、ご安心ください」


ガラスの器に盛り付けられた「天空のムース」は、見た目も美しく、客たちの期待を高めた。バーソロミュー氏は、恐る恐る、しかし興味深そうにスプーンを手に取った。一口食べると、彼の眉が上がり、目が丸くなった。

「おお……これは……なんと爽やかな!」

彼は二口、三口とスプーンを進めた。周りの客たちからも、「美味しい!」「口当たりが軽い!」「後味がすっきりしてるわ」と感嘆の声が上がる。エリオットは心の中でガッツポーズをした。今度こそ成功だ!料理はちゃんと食べられているし、皆、味を褒めてくれている。


食事が終わり、客たちが満足げにコーヒーを飲んだり、談笑したりしている時だった。異変は静かに始まった。

最初に気づいたのは、隣のテーブルの女性だった。

「あら? なんだか椅子が低くなったかしら?」

彼女はそう言って、お尻を少し浮かせた。すると、体が予想以上にふわりと持ち上がり、慌ててテーブルに手をついた。


バーソロミュー氏も、カップを置こうとして、自分の手が少し浮いていることに気づいた。

「おや? これは……」

彼は面白そうに腕を動かしてみた。体がふわり、ふわりと揺れる。

「ははは、エリオット君、これは面白いデザートだ! まるで体が羽になったようだ!」


最初は、皆その不思議な感覚を楽しんでいた。店内のあちこちで、「わあ、浮いてる!」「私も!」「夢みたいだ!」と笑い声が上がった。エリオットも、客が楽しんでいるのを見て、安堵の笑みを浮かべていた。ほんのりとした浮遊感は、計算通りのはずだった。


しかし、その浮遊感は、エリオットの計算を超えて、徐々に力を増していったのだ。

「おっとっと、思ったより高く浮くな」

「ちょっと、誰か降ろしてくれないかしら?」

笑い声は、次第に困惑と焦りの声に変わっていった。客たちの体は、ゆっくりと、しかし確実に上昇を続け、気づけば天井近くまで達していた。


バーソロミュー氏は、天井に背中をつけたまま、片手で帽子を押さえ、もう片方の手で必死に壁の飾りを掴もうとしていた。

「エリオット君! 素晴らしいデザートだったがね! そろそろ降りたいのだが、どうすればいいのかね!?」

他の客たちも、「助けてー!」「私の靴が!」「コーヒーがこぼれる!」と、天井付近で手足をばたつかせ、阿鼻叫喚の様相を呈していた。


エリオットは、天井に張り付いてしまった満員の客たちを、呆然と見上げていた。美しいムースは完食された。客は味に満足し、驚きも提供できた。しかし、結果はこれだ。

「また……普通にはいかなかったか……」

彼は深いため息をつき、天井でじたばたするバーソロミュー氏に向かって叫んだ。

「バーソロミュー様! しばらくお待ちください! 今、重しになるようなもの……例えば、ロック・ゴーレムの岩塩心臓とか……探してきますから!」


厨房の奥で、残ったフロータイト鉱石が、まるで嘲笑うかのように、キラリと微かな光を放った気がした。エリオットは、次の新作は、絶対に「地に足の着いた」料理にしようと固く心に誓うのだった。例えば、そう、あの硬くて重い、オーガの腕力こぶあたりで……。

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