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シンギング・マッシュルーム狂想曲

シンギング・マッシュルーム狂想曲


エリオットは、埃っぽい裏通りの小さな料理店『木漏れ日亭』の若きシェフだ。彼の悩みは、この古びた店と同じくらい古臭い、代わり映えのしないメニューだった。祖父から受け継いだレシピは確かにおいしいが、それだけでは客の心は掴めない。何か新しい、驚きのある一皿が必要だった。


そんなある日、薬草や珍しい食材を扱う行商人のリラが、奇妙なキノコを持ってきた。傘は淡い水色で半透明、内部には銀色の微細な結晶のようなものがキラキラと輝いている。

「これ、面白いわよ。シンギング・マッシュルームっていうの」

リラはそう言って、キノコの傘にそっと指で触れた。すると、ポロン、と竪琴のような澄んだ音が響いた。

「触れると音を奏でるの。面白いでしょう? 味は……まあ、淡泊らしいけど。聞いた話じゃ、調理法で音色が変わるんですって」


エリオットの目が輝いた。「音を奏でるキノコ……調理法で音色が変わる?」

これだ、と思った。味だけでなく、音で客を楽しませる料理。これこそ、彼が求めていた革新的な一皿になるかもしれない。彼は有り金をはたいて、リラからシンギング・マッシュルームをすべて買い取った。


その日から、エリオットの厨房は実験室と化した。彼はまず、シンプルにバターでソテーしてみた。ジュージューという音とともに、キノコは「ピーン、ピーン」と甲高い、少し耳障りな音を立てた。味は悪くないが、淡白で、音も心地よいとは言えない。

「うーん、高温すぎるとダメなのか?」


次に、低温でじっくりと煮込んでみた。今度は「ボー……ボー……」と霧笛のような、低くこもった音が響いた。味は染み込んだが、音はどこか物悲しい。

彼は試行錯誤を重ねた。ハーブと一緒に蒸すと、フルートのような軽やかな音色になった。スパイスを効かせて揚げると、打楽器のようなリズミカルな音が響いた。特定の酸味を加えると、弦楽器のような伸びやかな音が出ることも発見した。


「温度、湿度、組み合わせる食材……すべてが音色に関係しているんだ!」

エリオットは興奮し、寝る間も惜しんでキノコと向き合った。彼は単に美味しい料理を作るだけでなく、美しい「音楽」を奏でる料理を目指し始めた。厨房には、食材の匂いと共に、様々な音色が満ち溢れるようになった。時には不協和音、時には美しいメロディが、エリオットの試行錯誤を物語っていた。


数週間後、エリオットはついに納得のいくレシピを完成させた。それは、低温でじっくりと煮込んだキノコをベースに、数種類のハーブで香りづけし、最後に軽く炙って香ばしさを加えたものだった。それぞれの工程で、異なる音色が引き出され、それらが複雑に重なり合って、まるで小さなオーケストラのようなハーモニーを生み出すはずだった。味も、淡泊なキノコに様々な風味が重なり、深みのあるものに仕上がっていた。


彼はこの新作を、店の常連であり、街一番の食通と評判の老紳士、バーソロミュー氏に試してもらうことにした。

「バーソロミュー様、本日は特別な一皿をご用意いたしました」

エリオットは緊張しながら、純白の皿に乗せられたシンギング・マッシュルームの料理をテーブルに置いた。キノコは美しい飴色に輝き、芳しい香りを漂わせている。


バーソロミュー氏は興味深そうに皿を眺め、ゆっくりと銀のフォークを手に取った。そして、最も大きなキノコの一片に、そっとフォークの先を触れさせた。


その瞬間、静寂を破って、信じられないほど美しく、澄み切ったメロディが流れ出した。それはまるで、妖精が奏でるハープのようであり、森の奥深くで響くフルートのようでもあった。低温調理による深く柔らかな低音、ハーブによる軽やかな高音、そして最後の炙りによって加えられた、キラキラと輝くようなトリル。複数の音色が完璧に調和し、一つの楽曲として完成されていた。


「おお……!」

バーソロミュー氏は息を呑み、目を閉じてその音色に聞き入った。エリオットも、客席の他の客たちも、皆その場に釘付けになり、美しい音楽に酔いしれた。厨房から漏れ聞こえる音に、道行く人さえ足を止めるほどだった。


音楽は数分間続き、やがて静かに消えていった。店内はしばし沈黙に包まれ、やがてバーソロミュー氏がゆっくりと目を開けた。

「素晴らしい……エリオット君、これはまさに……芸術だ」

彼の顔には、深い感動の色が浮かんでいた。


エリオットは誇らしさと安堵で胸がいっぱいになった。「ありがとうございます!どうぞ、お召し上がりください。味も、最高の出来のはずです」


バーソロミュー氏は頷き、再びフォークを手に取った。そして、もう一度キノコに触れた。すると、またあの美しいメロディが流れ出した。彼はうっとりと聞き入り、音楽が終わると、満足そうにため息をついた。

「いやはや、何度聞いても素晴らしい……」


彼はそう言うと、またフォークでキノコをつついた。ポロン、と美しい音が響く。

エリオットは少し戸惑った。「あ、あの、バーソロミュー様、冷めてしまいますので……」

「ああ、そうだな。しかし、この音色……もう少しだけ……」

バーソロミュー氏は、まるで貴重な楽器を扱うかのように、そっとキノコに触れては音を楽しみ、食べることをためらっているようだった。


それは、他の客も同じだった。エリオットが自信作を他のテーブルにも運ぶと、あちこちから美しいメロディが聞こえ始めた。しかし、誰もがその音色に聞き惚れてしまい、フォークを進めようとしないのだ。美味しいはずの料理は、まるで演奏会の主役のように、ただただ美しい音を奏でるばかりで、一向に口に運ばれる気配がなかった。


エリオットは、美しい音楽を奏でる自慢の料理が、テーブルの上でどんどん冷めていくのを、ただ呆然と見つめるしかなかった。最高の料理は、皮肉なことに、誰もが「聞きたがる」が、「食べたがらない」一皿になってしまったのである。


「……次は、もう少し…無口なキノコを探そうかな」

美しいけれど物悲しい、キノコたちのハーモニーを聞きながら、エリオットはぽつりと呟いた。厨房の片隅では、まだ出番を待つシンギング・マッシュルームたちが、かすかにポロロン、と囁くように鳴いていた。

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