第九話「ささやかな祭りと笑い声──めぐる人の道の情景」
祭導ノ界の街は、朝から穏やかな陽射しに包まれていた。
いつもと変わらないようでいて、微かに弾んだ空気が漂っている。
今日は“ささやかな祭り”が開かれる日。
どこを見渡しても、笑顔と活気に彩られた支度の風景が目に入ってきた。
僕は神社の境内で、刻師として最後の奉納仕事を手伝っていた。
神社の飾りや御幣に刻印を施し、ほんの少しだけ“護”の力を高める。
しめ縄に触れていると、祭囃子の音や子どものはしゃぐ声が風に乗って届いてくるのが、どこか心地よかった。
「空夜さん、お疲れ! 神社のお手伝いはもう終わった?」
声をかけてきたのは、取材コンビの篝火 幸。
その後ろには和泉 朝臣が控えている。
二人とも普段の仕事モードより、楽しげな顔つきをしているのは、やはりこの祭りの雰囲気ゆえだろうか。
「うん、神社側の奉納はだいたい片づいたよ。 祭りの準備もしばらく大丈夫そうだ」
「じゃあさ、よかったら一緒に食べ歩きしようよ! 町の人に聞いたら、いろんな屋台が出てるんだって!」
幸が目を輝かせて提案する。
朝臣も「まあ、たまにはそれも悪くない」とクールな声で同意する。
こういうささやかな祭りの日には、何もかもが和やかに進んでほしい
そう願いながら、僕は二人に軽く頷いた。
境内を出ると、そこには多くの屋台が並び、色とりどりの幟が揺れている。
醤油や味噌が焼ける香ばしい匂い、甘い菓子の香りが混ざり合い、人々の笑顔が絶えない。
子どもたちが駆け回り、誰もが“今日は楽しい日だ”と言わんばかりに華やいでいた。
「うわー、串焼き、お団子……あっちには綿菓子もあるみたい!」
幸は目移りして、朝臣は苦笑いしつつ付き合っている。
僕もその横で笑みをこぼす。
先日まで感じていた混沌の気配や、“理の狭間”の歪みが嘘のように思えるほど、ここは平和だ。
屋台を覗きながら歩いていると、小さなハプニングも起こる。
例えば、ある店主が棚を崩しかけて困っている場面に遭遇すれば、周りの人々がすぐに集まって助け合う。
あっという間に補修して、店主は「皆さんのおかげで助かった!」と笑顔でお礼を言う。
そんな協力や思いやりが自然発生的に生まれているのを見ていると、ここに“人としての道”の根源があるようにも感じた。
誰かが困れば、声をかけ合い、笑顔でもっと元気になれる。
それは刻師という存在だけでなく、町の人々も含めた“善意の奉納”なのかもしれない。
「こういう風景、なんだか暖かいね」
幸がしみじみと言葉をこぼす。
朝臣もうなずく。
僕も一緒になって「そうだね」と穏やかな気持ちになる。
しかし、一方で胸の奥には拭いきれない不安があった。
混沌の気配が消えたわけではなく、昨日までの“妙な風”や“警告めいた兆し”は、この瞬間も眠っているだけかもしれない。
けれど今日はほとんど人格ブレのような違和感もなく、僕は穏やかに過ごせている。
それが却って次の“大きな波”を暗示しているのでは、と悪い予感がよぎる。
そんな考えを振り払うかのように、幸が「次はあっちの団子食べてみよう!」と手を振る。
朝臣が微かに苦笑し、「こんなに食べて大丈夫か」とツッコむ。
僕は二人のやり取りに笑いながらついて行く。
通りの中央で子どもたちが踊りの練習をしており、微笑ましい光景が広がっていた。
ふと、視界の端で“ステータス”のようなものが一瞬だけ明滅した気がして、反射的に振り向く。
(……また、あれか?)
謎めいた文字列がちらりと見えたようだったが、すぐにかき消えてしまった。
幸と朝臣は気づいていない。
(きっと疲れてるんだ……今日はあまり深く考えないようにしよう)
自分にそう言い聞かせる。
もし“理の狭間”が歪みを増しているなら、いずれ分かるときが来るだろう。
今はこの“人々の笑い声”を感じ取りたい。
この一時が、人の道が育んだ暖かさであるなら、僕はそれを護る力になりたいと思うから。
祭りはそのまま夕刻へと流れ込み、町の空は茜色に染まる。
人々の笑い声や屋台の呼び声はさらに賑やかになり、提灯がひとつずつ灯されていく光景が美しい。
幸は大満足の表情で「お腹いっぱい」「楽しかった!」と語り、朝臣も「案外、悪くない時間だった」と珍しく和やかに笑みを見せる。
僕も彼らと別れる直前まで、しばし談笑を楽しみ、「また明日」と手を振った。
夜空を見上げながら胸に込み上げるのは、じんわりした安堵と、かすかな不安。
(このまま平穏であればいいけど……)
“ステータス”のかすかなノイズ、深層にうごめく“荒神”の影、そしていまだ確証を持てない“理の狭間”の歪み。
そのすべてが、今はまるで静かに息を潜めているかのようだった。
だからこそ、今日の祭りの笑い声がいっそうまばゆく感じられる。
いっときの笑い声であっても、それが人同士を結ぶ糸となるならば。
この国で紡がれている“人としての道”が、いつまでも途絶えないことを願うばかりだ。
そう心に刻みながら、僕は夜の町並みを通り抜け、徐々に薄れていく祭りの喧騒を背に受けて家路へ向かっ
た。
目を閉じれば、そこには人々の笑い声がやわらかく残響しているようだった。