第四話「封じられぬ混沌――荒れる神のささやき」
夕刻、まだ祭りの余韻が続く町のはずれ。
普段なら人気のない空き地で、妙なうめき声のような風の響きが耳を打った。
「……あれ、何? 空夜さん、見える?」
篝火 幸が、不安そうに僕の肩をつつく。
視線を向けると、まるで空間そのものがひしゃげているような黒い亀裂が漂っていた。
歪んだ穴の縁には、闇がどろりとした滴を垂らすかのように揺らめいている。
和泉 朝臣も目を凝らして一歩引いた。
「……こいつは普通じゃないな。 例の“認識外”ってやつか?」
僕は思わず筆を握りしめ、心の中で警戒を高める。
脳裏には、ノイズのような“得体の知れない文字”がちらついて“混沌の亀裂[小規模]”を示している。
誰も正体を知らないからこそ、この亀裂は理の外から侵食してくる
と古文書で読んだ。
「幸さん、朝臣さん、ここは危険です。 できるだけ下がって――」
言い終わる前に、亀裂の内側から長い触手のような黒い影がずるりと伸びてきた。
闇の粘液がにじむように地面へ垂れて、まるで生き物がうねるような動きを見せる。
「ひえーっ、き、気持ち悪い……」
幸は後ずさりし、朝臣が小さく息を呑む。
僕は札と筆を取り出し、素早く文字を刻む。
「封……!」
札に書き記した文字が淡い光を帯び、触手めがけて投げつけた瞬間、バチリという火花のような閃光が走る。
黒い靄は短く痙攣するが、すぐに別の触手が脅威を増して迫ってきた。
「斬……!」
今度は勢いよく右手を振り、文字を書き込んだ札を解き放つ。
空気を切り裂くように光の軌跡が走り、触手を何本かまとめて切り払った。
どす黒い液が飛び散り、地面にしみ込んでいく。
「すげえ……文字がそのまま武器になるとは」
朝臣が低く呟き、幸は後ろで目を丸くしている。
でも、まだ終わりじゃない。
闇の裂け目がぐにゃりと膨らむと同時に、次の触手が勢いを増して襲いかかってくる。
僕は急いで札をつかもうとしたが、同時に頭の奥からじわりと嫌な熱がこみ上げた。
(……オレがやる。ブッちぎってやる……)
声がする。耳の奥で、低く荒々しい囁き。
まるで僕の中の別人格がむき出しになろうとしているような感触。
脈がうるさく跳ね、意識が斜めにブレる。
「……くっ……!」
思わずうめき声が出る。
幸と朝臣が「どうした!?」と焦っているのがわかるけれど、言葉が出ない。
頭の中で誰かが叫んでいる
斬ってしまえ、粉々にしろ、と。
(駄目だ……押さえなきゃ……!)
歯を食いしばって自分を保とうとする。
だが一瞬、口から荒々しい言葉が漏れかける。
視界の端で幸が目を見開き、朝臣がこちらに警戒を向けているのが見えた。
まさかここで“もう一人”を晒すわけにはいかない……!
怪異が触手を振り下ろす。 僕は震える腕をこじ開けるようにして札を掲げた。
「封!」
怒涛の光が黒い裂け目を砕くように炸裂し、周囲に砂埃が吹き上がる。
バリバリッという音とともに亀裂は一気に縮み、かすかな衝撃波が足元を揺さぶった。
そして数秒後、闇は完全に霧散し、あの嫌な靄も見えなくなった。
「はあ……はあ……」
僕は膝に手をつき、必死に呼吸を整える。
頭がぐらぐらして汗が噴き出し、心臓が激しく脈打つ。
あの荒々しい声、荒神の気配がまだ胸の奥にへばりついているようで、吐き気すら覚える。
「空夜さん、顔色悪い……大丈夫ですか?」
「今、戦いの最中におかしくなりかけてたように見えたけど……」
幸と朝臣が駆け寄る。
僕は何とか笑みを作って首を振った。
「い、いや……慣れない事をやって、緊張しただけ……。 もう大丈夫……」
もちろん、そんな浅い言い訳でごまかせるはずはない。
二人とも心配そうだが、そっと黙ってくれているようだった。
薄暗い空き地には、もはや黒い裂け目の痕跡すら残っていない。
混沌はほんの短時間で姿を消し、まるで最初から何もなかったように
その静けさが、余計に不気味だ。
朝臣が震える手でノートを開き、何かをメモしている。
「“認識外”だからこそ厄介だ。 今回は浅い亀裂だったが、あれがもっと大きいとどうなるか……」
幸も、まだ冷や汗を浮かべながら、周囲を見回している。
「はぁ……本当に怖かった。 触手なんて……。 でも空夜さん、あれを封じたのはすごいです。 刻師って、こんな形で戦闘できるんですね……」
褒め言葉に僕は曖昧にうなずくだけ。
戦いそのものはともかく、あの瞬間の“もう一人の声”をどう説明すればいいのかわからないし、内心は震えたままだ。
「何にせよ、助かったよ。 混沌が暴れ続けたら、もっと大変なことになったかもしれない」
朝臣の言葉を受け、僕はようやく少しだけ胸をなでおろす。
とはいえ、荒神の声が再び表に出かけた事実は重い。
下手をすれば、僕自身が仲間や町を傷つける存在になるかもしれない……。
「……とりあえず、戻りましょう。 これ以上ここにいても危ないし、誰か別の人が来たら巻き込んでしまう」
そう告げて歩き出すと、幸と朝臣は少し離れた位置から僕に続く。
彼らの視線は優しいものだけれど、どこか探るようでもある。
そのうち、僕の“多重人格”の正体に勘づいてしまうのだろうか。
風が冷たく吹いて、町の外れの雑草を揺らしている。
夕闇が少しずつ濃くなり、空が赤紫に染まりはじめた。
「空夜さん、やっぱり顔が青いよ。 大丈夫? どこか痛む?」
「……ありがとう。 ちょっと疲れただけだから」
ぎこちない微笑を返しながら、僕は黙って筆を懐にしまう。
次に同じような混沌が現れたら、また“あの声”が呼び起こされるかもしれない。
その不安を押し殺すように、唇をかたく結んだ。
それでも二人の前では平静を保たなきゃ
そう思うと、足取りがどんどん重くなる。
亀裂を封じたはずの空気が、やけにざわざわと不吉に鳴っている気がしてならない。
(……混沌は、まだ完全に消えてなんかいない。 そして、僕の中の“もう一人”も……)
夕空の下、三人の影が細長くのびる。
小さな勝利を収めたはずなのに、胸に灯るのは微かな安堵と、拭いきれない暗い予感だった。
こうして、僕は初めて刻印を戦闘に用いることによって混沌の一端を退けたものの、
自分の中の荒れる神を、ほんの少し呼び覚ましてしまった
そんな感覚に苛まれながら、静かに祭りの喧騒が残る町へと戻っていくのだった。