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第一話「血に染まる筆」

気づけば、筆の先が真っ赤に染まっていた。


それがどうして僕の手にあり、ましてこんな血のような液体が付着しているのか、さっぱり思い出せない。


湿度のこもった小さな木造小屋の中。


気配を殺したかのような静寂が、胸の奥をじわりと締めつける。


耳元では夏の太陽が照らすはずの外界の喧騒が、なぜか遠く感じられた。


僕はゆっくりと息を吐きながら、恐る恐る筆を見つめる。


いつもは奉納に使う大切な道具だ。墨や特製の塗料を吸わせ、社や門に“言霊”を刻むのが刻師こくしとしての日常。


けれど、これは。


赤黒く粘りついた染みは、どう見ても血――そのにおいまでが生々しい。


しかも、洗い落とそうとしてもじっとり絡みついて離れない。


まるで筆そのものが、これを吸い込みたがっているみたいに。


「いつ……こんなことを……」


自問しても、答えは出てこない。


頭の奥がじんと痛み、どこかから低い声が聞こえた気がした。


(……オレが、やる……)


誰の声だろう。


一瞬背筋が総毛立つ。


小屋の中に、ほかの人の気配はない。もちろん気のせいだろうけれど、ひどく現実味を帯びた響きだった。


空夜くうや、起きてるか? 入るぞー」


扉の外から、聞き慣れた行商人の声が聞こえた。


祭りが近いから届け物も増えている。それに、今日は朝早くから町のあちこちで準備が進んでいるはずだ。


こんな奇怪な筆を握ったままじゃ、誰が見てもおかしい。


慌てて古びた布切れで筆を拭うが、擦っても擦っても赤黒い汚れは消えない。


一瞬、“血を奉納する”なんて話が昔の怪異譚にあったような - いや、そんなことが現実になっていいはずがない。


渋々、布をかぶせるように筆を床に置き、扉を開ける。


外には陽光があふれ、行商人が荷物を抱えて待っていた。


「ああ、やっぱり起きてたか。今朝はちょっと顔色が悪いんじゃないか?」


「寝不足なだけですよ。すみません、少しボーッとしてました」


努めて平静を装い、言い訳をする。


行商人は「今日の祭りで忙しいから無理するなよ」と笑い、荷物を置くとすぐ立ち去った。


その背中を見送っても、胸のざわめきは消える気配がない。


小屋の隅に目をやると、先ほど隠した筆が妙に主張するように横たわっている。


-あれが、ただの悪い夢の残滓ざんしならどんなにいいだろう。


けれど筆先に宿る得体の知れない気配は、確かに僕の五感に絡みついていた。


僕は奥歯を噛んで、小皿の水を手繰り寄せる。


指先に水をつけ、筆の汚れをもう一度そっと洗おうとするが、やはり落ちない。


不意に、脳裏に視界の隅で一瞬、ノイズのような“得体の知れない文字”が浮かぶ。


“認識”を視覚化するという、僕の刻師としての特性だ。


(奉納:不明 神威:測定不能)


視線だけで確認するとそのノイズには、見慣れない“測定不能”という文字がにじんでいた。


まるで、この血の奉納がどんな由来なのか、一切の情報がつかめないということか。


(どういうこと……こんなの、初めて見た)


まもなく聞こえてきた祭囃子が、少しずつ町をにぎやかにする。


普段なら僕も心踊らせながら、筆を持って依頼先の社や店先を回るところだ。


人々の笑顔が集まる、祭導さいどうノ界の日常


僕の仕事は、そこに“刻印”を添えることだ。


だけど、今日の朝だけは違う。


妙に生ぬるい空気の中、まるで誰かに見つめられているような息苦しさが、小屋の壁際に滞留している気がする。


「……行こう。仕事をこなさないと。変なこと考えすぎて、祭りを台無しにするわけにはいかない」


声に出してそう呟くと、なんとか自分を落ち着かせることができた。


布に包んだままの筆をそっと懐にしまい込み、小屋を出る。


一歩外に踏み出すと、鮮やかなのぼりや装飾が一面に広がっていた。


屋台の香ばしい匂い、子どもたちのはしゃぎ声、大工衆の掛け声……


いつもの活気あふれる“祭りの朝”そのものだ。


なのに、心の奥に巣くった黒い不安は、ほんの少しも晴れる気配がない。


(あれは、一体……どうして僕の筆に……血なんか……)


胸に重くこびりつく疑問。


耳鳴りのように頭を揺らす“誰かの低い声”。


それが何を意味するのかを考えるたび、寒気が指先をかすめる。


この世界では“認識”が力になる。


裏返せば“認識できないもの”は、すべての理を無視して侵食してくる脅威だという。


あの血塗れの筆は、もしかするとそんな危うい存在と関係しているのかもしれない……


「……いや、考えすぎだ」


苦い想像を振り払い、町の中心部へ足を運ぶ。


どんな不穏な予感が渦巻こうと、今日だけは大事な祭りの日。


刻師として、やるべき刻印を納めなければならない。


依頼主にも迷惑はかけたくないし、そもそも僕が変な行動をすると、みんなを余計に不安にしてしまう。


(オレに任せろ……)


またしても頭の奥で聞こえた声に、思わず心臓が高鳴る。


いったい、この声の正体は……?


まるで、僕の中に別の“誰か”が潜んでいるみたいだ。


けれど、ここで立ち止まっているわけにはいかない。


商店街には笑顔の人々があふれ、うちわをあおぎながら屋台を冷やかす姿が見える。


普段と変わらない祭導さいどうノ界の風景


でも、どこか歪みが生じそうな気がしてならない。


「とにかく、今は目の前の仕事に集中しよう。余計なことを考えてはいけない……」


小さく自分に言い聞かせ、表通りへ進む。


夏らしい光を浴びた町の景色は、写真のように鮮やかで、一瞬そこに“異常”が入り込む余地などないように思える。


でも、僕の胸は妙に痛んだ。


遠くから聞こえる太鼓の音が、いつか爆ぜる予兆みたいに感じられる。


この日の終わりまでに、何かとんでもないことが起こる。


そんな言い知れない不安だけが、はっきりと僕を支配していた。


そして、懐に隠した筆に染みつく血の臭いが、決して拭えない事実として重くのしかかってくる。


まるで、祭りの華やかさとは真逆の闇を携えて。


だから僕は、少しだけ唇を噛みしめて、紺碧の空を見上げる。


遠くに見える神社の鳥居が、熱気の中でゆらゆら揺れていた。


(もし本当に、何かが始まるのなら……僕は――)


そこから先の思考を、どこかの“声”がかき消す。


僕は目を伏せ、いずれ尋常でない日々が待ち受けていようとは知らずに、


ただ固く筆を握りしめながら、祭りの雑踏へと歩を進めていった。

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