そちらに行くまでお元気で
拝啓 親愛なる貴方へ
この手紙が見つかったということは、私はもう貴方の傍には居ないのでしょう。私が居なくなったあとの貴方はいかがお過ごしでしょうか。きっと変わらずに元気でいることと思います。
今日は久しぶりに貴方のお仕事姿を拝見しました。貴方ときたら相変わらず怖いお顔でお仕事をされているのですね。さぞや部下の方々から恐れられていることでしょう。
さて、貴方と私が出会って短くない月日が経ちました。
初めて会った日のことを貴方は覚えているでしょうか。
私が間違っていなければ、貴方はとても不機嫌そうに私を睨んでいましたね。
突然貴方に嫁ぐ事になった私は、優しくない旦那様に嫁がなければならない自分の人生を嘆き、これからの生活を思って絶望したものです。
ですが、まったく。
人生とはわからないものですね。
気がついたら私はこの世の中で一番の幸せ者になっていました。
恐ろしいはずの貴方は不器用なだけの素敵な旦那様で、今では胸がときめかない日は御座いません。
今、私の部屋から見える美しい庭は貴方が私のために設えてくださったと遠い昔にお義母様から教えていただきました。
春には桜、夏には蛍、秋には楓、冬には雪景色が見えるようにと貴方自らが手を加えたとお聞きして驚いたものです。「貴女が嫁いで来てくれることを本当に喜んでいるのよ」とお義母様が笑って教えてくださったとき、嬉しくて泣いてしまったことは秘密です。
この家に散りばめられた貴方の優しさを見つける度に、その不器用な愛情に恋をしました。
街で人気の水菓子だったり、流行りの簪や着物、ハイカラな帽子だったり、貴方はよく私に贈り物をくださいましたけど、本当は私、物なんていらなかったんですよ。
でも男性からも恐れられる強面の貴方が、私の為に御婦人方に混ざって水菓子やら装飾品やらを購入する姿を想像したら愛おしくて、その気持が嬉しくて、「もういいですよ」の一言がどうしても言えませんでした。
貴方のお顔がもう少しでも優しかったら、きっと他の女性に貴方を取られていたかと思うと、そのままでも良い気がします。
それはそうと、家の床下に貴方の好きな果実酒を拵えています。貴方が誤って脚でぶち抜いたあの部屋の床下です。是非召し上がってくださいね。
もうすぐ貴方の好きな季節になります。
お体に気をつけて。
敬具
※※※
暖かな陽気に包まれた、春。
裕福な家庭の庭で桜が花弁を散らす。
広い座敷に両家親族が並ぶ中、上座に一人、花嫁が静かに座っていた。
開け放たれた障子戸からは美しい庭の風景が広がっている。
それをぼんやりと見ていた花嫁は、座敷入口に袴姿の男が現れたことで表情を固くした。
男は春の陽気に似合わぬ顔で立っていた。
不機嫌そうに顔を顰め、口を真一文字に結んでいる。
これが夫となる人かと女は泣きそうになった。
優しく穏やかな人ならば良かったのに。女はどちらかといえば、そういう男性が好みだった。
しかし自分の夫となるこの男は理想とはまるで真逆だ。厳しく恐ろしい顔付きで、体だって熊かと思うほど大きい。女が全力で叩いたとしてもびくともしなさそうである。
これから旦那に怯えて息の詰まる生活が待っていると思えば知らず気が重くなる。
男は座敷に足を踏み入れると、その顔と体格からは想像もできないほど静かな動作で女の隣に座った。
その美しい所作に女が内心驚いていると、男は急に体の向きを変えて女へと向き直った。
その予定にない行動に戸惑う女に、男は膝で拳を握ると女を睨んだ。
「私は貴女をこの世で一番の幸せ者にします」
突然のことにぽかんと口を開けて呆ける女に男は続ける。
「誰もが羨むほどの幸せを、私の全身全霊でもって貴女に与えると約束します。よく働き、よく家庭を顧みて、貴女に苦労をかけることのない、良い旦那になると誓います。…貴女が私に嫁いでよかったと、そう思ってもらえる夫になれるよう努力を怠らず精進して参ります」
女はまじまじと男の顔を見た。
厳つい風貌で、今も女を睨みつけている。しかしその耳が真っ赤に染まっているのに気がついた時、女の顔が赤く染まった。
それに気がついた男の額を汗が伝い落ちる。
男は膝の上の拳が震えるのを抑えこむように力を込めた。
「私は…。…私は、貴女が笑顔になる理由になりたいのです。貴女を喜ばせるのも、笑わせるのも、私でありたい」
男はとうとう耐えきれずに目を瞑った。
男は女のことが好きだった。
女に恋人がいた頃から、ずっと女のことが好きだった。
男は自分が他人から好かれる人間ではないことを自覚していた。同僚からは堅物だ融通の利かない朴念仁だと謗られ、部下からは鬼だと畏れられる。
そんな自分が彼女に好かれるはずがないとわかっていたからこそ、女に想いを告げることはせず、女が他の男と幸せになる未来にも歯を食いしばって耐えてきた。
そんなある日、たまたま女の恋人が大馬鹿者であることを知った。
男が喉が出るほど欲しい女を手にしていながら、他の女に現を抜かす、愚かで救いようの無い屑野郎だったと知った時、男は初めてこの世の神に感謝した。
巡ってきた千載一遇の機会に男は腹を決める。もう指を咥えて見ているだけなど御免だった。
屑野郎の所業を暴いて女と別れさせた後、持てる限りの伝を使って女との婚姻を取り付けた。
何も知らない女に対して良心の呵責がないとは言わない。それでもどうしても女に自分を選んで欲しかった。
「ならば」
黙って聞いていた女が口を開いた。
「ならば私はずっと貴方の傍におりましょう。私が笑い喜ぶ理由に貴方がなってくれるというのなら、貴方の隣こそが私が幸せになれる場所ですもの」
もう女に不安はなかった。
「そうやって一緒に幸せになりましょうね」
女は花がほころぶように笑う。
男はその夢のような瞬間を目に焼き付けた。
きっと一生涯この瞬間を忘れることはない。
春麗らかな良き日。
男と女は夫婦になった。
※※※
拝啓
親愛なる私の妻へ
そちらでは如何お過ごしでしょうか。私は貴女が仰ったとおり病気もせず元気に過ごしております。
貴女が儚くなってそれなりの月日が経ちました。
この手紙を娘たちから渡されたときの私の気持ちを言うならば、青天の霹靂、寝耳に水。兎にも角にも驚きで老いた心臓が痛くなったほどです。
さて、一つ訂正するならば。
貴女と私が初めて出逢ったのは私達の婚礼の日ではなく、それより1年ほど前の雨の日だったと認識しております。
店の軒下で雨宿りする貴女を見かけたあの日から私の恋は始まりました。
貴女はご存知無かったかもしれませんが、私はずっと貴女に並々ならぬ思いを寄せておりました。今でもそれは変わりません。
日に日に増していく貴女への思いを自分でもどうするべきかと真剣に考える日々です。
他の女性が私を、なんて貴女が心配するような機会はとんとございませんのであしからず。
私の好きな季節はとうに過ぎ、今は貴女の好きな季節になりました。
寒い寒いと言いながら楽しそうに燥ぐ貴女が今でも目に浮かびます。
私は当分そちらに逝けそうにはありませんので、どうか私がいなくとも健やかにお過ごしください。
迎えには来なくてもよいですが、逃げられるとはゆめゆめ思わないように。
果実酒を有り難う。
大事に頂きます。
それではまた。
敬具
生前、妻が使用していた文机で文を書く。
愛した妻に先立たれても日常は続いていくことにどことなく虚無感を抱きながら、夫は書き上げ文を封筒に入れた。
さて、この文は燃やすべきか?供えるべきか?
妻への手紙を手に考える。
とりあえず娘たちに意見を聞こうと重い腰をあげて庭に向かった。