[超短編] 缶コーヒーを持った救世主
月曜日の朝7時半。
都心に向かう地下鉄は満員だ。2か月前、痴漢らしき人物に遭遇したのを境に、乗る車両を変えた。
私の駅からでは、吊革には掴まれない。ハイヒールで揺れに堪えるのは辛いため、最初の乗り換え駅で降りる人が掴まっていた吊革を狙う。
この車両の住人になって1週間ぐらいで気がついた。仕立てのいいスーツのサラリーマンが、そこで下りると。だから、毎日すぐ後ろで待機する。
今日も、彼が下りるものと思い、電車が止まると、扉までの道を譲るために、少し場所を空ける。
が、動かない。驚きと残念さと恨めしさで、その後頭部を眺めたとき、その頭が振り返る。
「どうぞ?」
吊革を譲られたと気づき、礼を言って代わってもらった。背中しか見てなかったが、同じぐらいの年の青年だった。
それから1週間、ほとんど毎日、その謎の交代劇があり、さすがに、少し気味が悪い。2か月前は痴漢だったが、これはストーカーなのでは…
翌週から、また車両を変え、吊革には掴まれないが、心穏やかな日々が始まった。
会社のある駅で降り、足早に改札に向かう。
「あの…」
無言で歩くスーツの群れの中で、誰かの声がする。
「あの!」
もう一度聞こえた声は、さっきよりも近く、私に向かって言っているようだ。振り返ると、あのサラリーマンだった。
「はあ…」
やはり、ストーカーか…
「これ。」
ストーカーは、いきなり名刺を差し出してくる。
思わず、両手で受け取ってしまうサラリーマン魂が悲しい。人の波に乗って歩き続けるが、周囲の人も訝しげだ。
名刺には、誰でも知っている旧財閥系の商社の名前。住所は私の会社のすぐそばだ。
「あなたと知り合いたいです。身元は怪しくありません。もし良ければ、昼食を。」
なんと言えばいいのやら。
そこに、50代の男性が首を突っ込んできた。救世主か!
人の流れを妨げない場所に誘導される。
「彼の同僚です。」
彼もまた名刺を出してくるので、両手で頂戴する。事業部長 鈴木義孝とある。さらには、バッグから缶コーヒーを取り出すと、それも渡してくる。
いまどき、常温の缶コーヒーを、満員電車で持ち歩く意味がわからないが、その奇妙な感じに警戒心は消えてしまった。
その日の昼、三人でランチをし、2年が経つ。
今日は、鈴木さんが仲人として私たちの結婚式に参列してくれる。あの日、常温の缶コーヒーがなければ、ストーカー認定されていた私の婚約者を見ると、幸せそうな笑みをこぼした。
2022年12月〜2023年1月 連載中
「喪服の乙女の異名をもつ嫁き遅れ令嬢が恋に落ちるまでの七日間」
異世界恋愛、魔法なし、ざまあなし、1月中に完結です。
あらすじ
家族大好き、自分の街が大好き、仕事大好き、悲壮感のない嫁き遅れ令嬢18歳。
恋が何かも知らない状態から、真っ逆さまに恋に落ちるまでの七日間。
全身が震えるほどの恋? 人生を変える恋?




