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戦国の偶像とアーティスト

作者: 小城

 出雲阿国。歌舞伎の始祖と言われる。彼女の周辺には様々な人間が現れ、消えていったと思われる。

 安土桃山時代。信長、秀吉の絢爛豪華な文化の時代。京都、大坂は発展、発達し、日本国有数の都市として機能していた。

 その頃、阿国の芸能一座は各地を巡業していたという。一座の演ずるものは「ややこ踊り」である。幼女による舞である。一座は公家の屋敷にも招かれて、「ややこ踊り」を演じた。慶長8年(1603)に、彼女の一座は「カフキ躍り」を演じた。「歌舞伎踊り」。一座の女優が伊達男の扮装をして演じる舞踊劇である。当時、これが京都で大流行した。


長谷川派の絵師

 長谷川等伯。彼は安土桃山時代の絵師である。生まれは能登国七尾。彼は地元では名の知れた絵師であり、門人もいた。やがて、彼は一門を率いて、京都に上り、仕事をするようになる。

 その門人の一人に、笹川道千という絵師がいた。

「(世の中は下らない。)」

彼は等伯一門として、長谷川等伯の工房で働いている。京都の町の歩いていても、彼にとっては雑多な空間でしかない。商人、侍、若者、老人、人足、男、女、子ども、頬っ被りをした者など。

「(うるさい。)」

等伯に頼まれた物を買って工房に戻った。師等伯は頼まれた仕事で忙しい。笹川も仕事にとりかかる。工房の外では、話し声、馬の脚音、物売りの声、喧嘩する声など。

「(うるさい。)」

世の中の下らないものが押し寄せてくるおかげで、仕事ができない。彼にとって世の中は不協和音でしかなかった。その中で唯一の協和音が彼らの作品であり、彼らが作品にしようとしているものであった。

「(下衆共目が。)」

彼は世の中のすべてのものを見下していた。彼は歪んだ性格の持ち主というわけではなかった。彼はそれらの悪口雑言を口に出すことはない。仕事に情熱を傾けているときがそういう感情が強くなる。彼が他に情熱を傾けられ得るものはなかった。

 夕暮れ間近、京都の四条河原周辺を歩いていた。人だかりが見えた。楽器の音も聞こえる。芸能一座が来ているのだろう。

「(少しだけ。)」

笹川は人混みを嫌うが、それが最近巷で話題の「歌舞伎踊り」だろうと思った。そこでは、男の格好をした女が舞っていた。笹川は気がつくと「歌舞伎踊り」が終わるまで見ていた。

「(妖艶。)」

彼の脳は女の虜になっていた。

「(何者なのだ。)」

笹川の胸の中に何かが生まれた。仕事をしていても女のことが気になる。

それから、笹川は頻回に歌舞伎踊りを見に行くようになった。

「(妖艶。)」

笹川はその言葉をよく使った。阿国の歌舞伎踊りは魅せる踊りであった。

「(天女。)」

笹川の心の中にあるものは、彼にとって芸術作品に共通する根源的なものを持っていた。それは不協和音の中の数少ない協和音であった。


イエズス会の耶蘇教徒

 くるれいらと言われる耶蘇教徒がいた。名は田中直正。山城国の元武士。若い頃、耶蘇教に改宗した。今はイエズス会に入り、天正遣欧使節の一人千々石ミゲルの従者をしている。

「(主でうすよ。)」

彼は敬虔な耶蘇教徒であった。主でうすを愛していた。しかし「神」というものが彼の眼前に現れたことはまだなかった。

「(まりあよ。)」

彼は木製のまりあ像を首にぶら下げていた。しかし、「愛」というものが彼の眼前に現れたことはまだなかった。彼の前に「神の愛」が現れることはあるのだろうかと毎日、思っていた。彼にとっての耶蘇教は偶像崇拝とフェティシズムのひとつであった。

「(おや。)」

四条河原を歩いていると群衆が見える。鐘や太鼓の音も聞こえる。

「(何事だろうか。)」

彼は何事にも好奇心旺盛で移り気であった。

「(おお。)」

仮舞台の中央で男の扮装をした女が踊っている。色っぽく、どこか母性的でもある。

「(でうすよ。)」

彼はその女の中にひとつの神聖を感じた。尊く厳かで侵しがたい神性。それは彼が耶蘇教の中に求めたものに似ていた。

「(まりあよ。)」

その女はでうすでもまりあでもなかったが、彼にとっては、すべてが同じものに感じ、ひとつにつながった。彼の眼前に「神の愛」が現れた。直正は心ゆくまで神の舞う姿を眺めていた。

 

傾城屋の主人

 京都六条三筋町の傾城屋のひとつに富士川屋という店があった。主人は富士川屋五郎左右衛門。豊臣秀吉も訪れたというが真偽は定かではない。慶長、文禄の役、関ヶ原合戦に主人五郎左右衛門も参加したというが、これも真偽は定かではない。どちらにしても、この富士川屋、商売の才覚は今一つではあるが、新しいもの好きではあった。そんな富士川屋が四条河原を歩いていると、辺りは賑々しく、人だかりと鼓の音が聞こえている。

「(どれどれ。)」

ちょっと覗いてみようかと、群衆を分け行ってみると、鐘や鼓の伴奏のもと、女が傾いた格好で踊っている。

「(ほう。これは…。)」

富士川屋はしばらく、これを観覧していた。

「(金になるかもしれないな。)」

最近、大坂の遊廓に押されて実入りも怪しくなっていた。新しいもの好きの富士川屋としては大いに受けた。後日、店に戻った富士川屋五郎左右衛門は、男装させた富士川屋の遊女に「歌舞伎踊り」の練習をさせていた。伴奏は五郎左右衛門、自ら三味線を弾いた。最近、琉球から泉州堺に伝わったといわれるこの楽器を、新しいもの好きの富士川屋は持っていた。


傾城屋の女郎

「(嫌やわあ。)」

今度、主人が何やら新しい芸事として「歌舞伎踊り」なるものを教えてきた。

「(あんな恥ずかしい格好…。)」

主人は店の女たちに傾き者の出で立ちをさせて、茶屋遊びに行く様子を演じさせる。

「(ほんに嫌やわ…。)」

主人は自分の奥方にも歌舞伎踊りを教えては踊らせていた。

「(三味線が弾きたいだけなんと違うんかしら…。)」

踊りの伴奏は主人自らが三味線を弾いていた。

「右近太夫早よ。」

「はあい。ただいま。」

階下では三味線の音が聞こえる。寛永6年(1628)幕府により、女歌舞伎が禁止されるまで、これら遊女による歌舞伎踊りは好評を博し、加藤清正や伊達政宗などの諸大名の席にも太夫が呼ばれたという。


猿若三十郎

 阿国の芸能一座に猿若の三十郎という者がいる。もと狂言師である。今は阿国一座で、道化役や下人の役をやっている。彼はもとは播磨国の狂言師であったが、阿国に一目惚れをして一座に加わった。

「(実、雅な。)」

阿国、阿菊といった女優が舞う横で鼓を打ちながらその姿を見ている。

「御苦労様でごさる。」

舞台の後、猿若が阿国たちに声を掛ける。夏場など彼女は袖口で着物を脱ぎ、肌を露わにする。

「(ふむ…。)」

それらの姿を見ても、三十郎は何ら感じることはない。

「(先程の雅はどこにいったのだろうか。)」

播磨で阿国の興行を見た三十郎は阿国に惚れたと思った。それは阿国の躰に惚れたとも思った。しかし、こうして一緒に旅をしてみると、どうやら違うことに気がついた。

「(一瞬の花…。)」

三十郎が惹かれるのは舞台の上でのほんの一瞬間に、心を打たれる。それはちょうど鼓を打つように、心をぽんと打たれたようにである。しかし、それが過ぎてしまうと、阿国は別の存在になってしまったような気がした。

「(私が惚れたのは一体何なのであろうか。)」

それはどこにも存在しないもののようにも思えるし、阿国ではなく、三十郎自身の中に存在しているようにも思える。

「有難うござる。」

その正体が何なのか分からないまま、今日も猿若三十郎は阿国たちの世話をしている。


小間物屋の男

 小間物。高麗物。細物。櫛、笄、髪油などの婦人用品や日用品のことである。当時は店棚ではなく、小間物屋といえば行商人が主であった。瑞吉もその一人である。もとは臨済宗の僧であったが、己の煩悩消えることなく、僧の道を諦め行商人になった。

 あるとき、北野天神の境内で歌舞伎踊りがあると聞き、人だかりを求めて商売に出た。

「ほほう。これは。」

初めて瑞吉は、歌舞伎踊りを見た。踊り子の肉体美が官能的であった。瑞吉は商売も忘れて魅入っていた。

その後も、度々、踊り子を求めては歌舞伎踊りの場に姿を現した。商売のためでもあった。

「(近頃は遊女屋でも歌舞伎踊りを踊るそうな。)」

そんな話を聞き、瑞吉は遊女屋へ通うようになった。

「これは良い。」

遊女たちが舞い、踊る。瑞吉はそれに純粋な官能的喜びを求めていた。遊女屋遊びに耽る瑞吉を見て、かつての学友僧たちは、それが瑞吉であることに気がつくことはなかったという。


阿菊

 阿国一座の中に阿菊という女優がいた。阿菊は阿国と同年齢である。慶長5年(1600)には、阿国とともに、宮中でややこ踊りを演じた。ややこといっても、それほど二人は幼くはなかったが。阿国と阿菊は同じ散所の出身であった。阿菊はもともと歩き巫女で口寄せ、修験などをしていたが、阿国に誘われて踊り子になった。一座には踊り子が十数人いる。だいたいは阿菊らと同じ散所出身者だが、道中で拾った子もいた。

「皆様、有難う御座います。」

踊り子たちと挨拶を交わす。

「阿国はん。有難う。」

阿国はにこやかに笑い、狂言師の三十郎のところへ行ってしまう。三十郎は一座を取りまとめる役にある。いわば阿国の夫とも言える者であった。

「(冷たい。)」

最近、阿菊は阿国にそう思うことがある。

「(嫌われているのかしら…。)」

彼女には好いた男がいた。その男は遠くへ行ってしまった。元しかる大名の小姓として仕えていたが、主が病没してからは浪人となり、京都に暮らしていた。阿菊はその男のもとに呼ばれることがあり、関係を持った。しかし、その男は去る大名家に仕官が決まると阿菊を置いて行ってしまった。阿菊は今もときおりその男のことを思い出すことがある。阿国の一座に不満がないわけではないが、一座にいれば実入りはあった。一座を抜ける理由もなかった。

「(はあ。)」

阿菊は着物を脱いで裏手へ行った。


名古屋山三郎

 蒲生氏郷の小姓に名古屋山三郎という者がいた。奥州攻めの際、一番槍の手柄にも預かった。彼は美男子だった。

「名古屋山三は一の槍。」

と小唄にも歌われた。氏郷が病没してからは浪人となった。しばらく彼は京都の妹夫婦のもとに寄寓していたが、今は妹夫婦の伝手で美作の森家に仕えていた。

彼は傾き者であった。つまり伊達男であり、目立ちたがりであった。

「(俺はこんなところで終わる男ではない。)」

いずれは暹羅、呂宋、爪哇に渡り王になると思っていた。奥州攻め一番槍のときに、氏郷から賜った金銀装飾の鞘に納めた刀を肩に掛けて、辻が花染めの帷子を着ている。

「其の方は新参者か。」

井戸宇右衛門というその男は森家に仕える同僚である。

「かような傾いた風体、何かあれば美作守様がお咎めを受けることになろう。」

「これは無体な、彼の信長公も若かりし折りはうつけと呼ばれ、朱塗りの大太刀に湯帷子という格好で御座ったそうな。其方は美作守様の亡き旧主を愚弄なさりますか。」

森家は元織田家の臣であった。山三郎と宇右衛門はそのような関係だったので、ついに慶長8年(1603)、刃傷事件を起こし、その年の4月10日に、名古屋山三郎は亡くなった。享年28歳とも言われる。


阿国

 奈良近郊の散所に生まれた。阿国は幼い頃から門付けの舞や踊りで稼いでいた。あるとき、春日大社の摂社若宮神社の御祭りを見に行った。そこでは神楽、舞楽、田楽、猿楽、能など様々な神事芸能が執り行われていた。

「(不思議な。)」

ぽうっと見蕩れるほどにのめり込んで座っていた。

阿国はそれが神様に捧げられるものであると知った。

「(神様はなんであないなものを喜びはるんやろな。)」

それからというもの門付けの舞や踊りも阿国は神様がどこかで見ていると思って舞い踊った。自然、舞や踊りにも心がこもるようになった。阿国は一人前の歩き巫女として活動するようになってからも、口寄せや占いよりも舞踊を好んだ。

「(誰かうちといっしょに行ってくれる人がおらんかなあ。)」

阿国は阿菊に声を掛けた。阿菊は口寄せや占いを得意としており、自分の欠点を補ってくれると思った。

「阿菊はんがおってくれるとほんに安心やわあ。」

阿国の本心だった。そのうち、阿国と阿菊は畿内に限らず、山陰、山陽、北陸、東海まで活動範囲を広げた。道中で仲間も増えた。播磨で会った狂言師の三十郎は一座の下役や勘定のことなどを執り仕切ってくれた。

「三十郎さんがおってくれてほんに助かります。」

阿国の本心だった。

阿国は出雲の御師たちから、出雲大社には毎年10月に日本中の神様が集まるということを聞いた。

「うちもいつか日本中の神様の前で舞を舞いとおしやす。」

そして、出雲大社修理勧進の手伝いをするようになった。

京都の公家たちの間でも踊るようになった。禁中では、阿菊と二人でややこ踊りを踊った。

「(神様は見てくれましたやろか。)」

阿国の傍にはいつも神様がいた。

「(最近、阿菊はんの様子がおかしいわあ。)」

後をつけていったときがある。阿菊は傾いた格好の美男子と逢い引きをしていた。

「(阿菊はんはあないな容姿の男が好きなんや。)」

その後、阿菊と男が別れたことを阿菊の様子から何となく知った。

「(悲しおすな。)」

阿菊のせめてもの慰みにと、阿国は傾いた格好で舞踊をしてみようと思った。

「舞踊に歌としぐさとせりふを入れてみてはどうか。」

そう言ったのは元狂言師の三十郎だった。阿菊も手伝ってくれた。そうしてできた「歌舞伎踊り」は民衆に大いに流行り受けた。巷では阿国たちの真似をするものも現れた。

「(神様、おおきに有難う。)」

慶長12年(1607)阿国一座は江戸城中で、歌舞伎踊りの興行をした。晩年、阿国は出雲で出家して智月尼と称して連歌などを楽しみながら、87歳で没したという。

 阿国一座の興した「カブキ躍り」は、その後も形を変えて「歌舞伎」として現代に残っている。

 そして、人々が阿国に感じたであろう魅力は神秘性、アイドル性、芸術性、官能性、商業性など人によって様々であったが、それらは原始から今に至るまで、人間の中に根源的な何かとして存在している。

この短編は創作であり、実際の歴史、文化的事実とは異なる場合があります。

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