18.三匹のエルザ
力強く羽ばたくクリストフは、限界の速度で疾風のように飛翔する。その背中に乗る一行は、シュミットの結界がなければ、たとえ背中に這いつくばるようにしがみついていたとしても、強烈な風圧で全員が後方へ飛ばされたであろう。それを想像したレイアは、結界の外から聞こえてくる嵐のような風の音に背筋が凍る思いがしたが、一方で、人の姿になってこのような気分を味わえることに喜びを感じていた。
だが、マナ不足でこの擬態の魔法はいつかは解除される。そう思うと、今のうちに人の感覚を人の姿で色々と味わっておきたい。彼女は人魂の姿では得られない感覚を求めて手を伸ばし、鱗の感触や温度を確かめる。さらなる感覚を求めて、一時的に結界の上に穴を開けてもらって、そこから顔を出してみたくなった。走行中の車の屋根から顔を出して風に当たりたくなるのと同じだ。恐る恐るシュミットに結界の部分開口を提案したところ、呆れ顔で断られ、彼女はシュンとなった。
諦めたレイアは結界のすぐ近くまで這って移動し、眼下を見下ろした途端、クリストフが揺れて左に傾き、バランスを崩したため、結界に両手を突いて左腰までぶつかって止まった。このまま背中の上から落下していたらと思うと、四肢の血の気が引くのに近い感覚を得られたが、これが嬉しい。どうやら、容姿が少女になっただけではなく、人間の感覚もある程度再現できているのが発見出来て、思わず笑みがこぼれる。
地上に広がる森林の向こうに街道、農村、小都市、河川が現れ、みるみるうちに後方へ飛んでいく。レイアの人を超越した眼は、闇に溶け込んだ景色も認識できるので、景色の移り変わりが良く判る。だが、色彩に乏しい今よりも、やはり陽光が降り注ぐ美しい田園風景と街並みを眺める方が格別だ。緑一色の大地の中に現れる色彩豊かな建物等はミニチュアのように見えるであろう。想像するだけでも愉悦を覚える。
眼下を眺めているうちに自分が一人で空を飛んでいる気分になったレイアは、ふと、前世を思い出す。翼を得て空を飛ぶのが、幼い頃からの夢だった。帰宅時に曲がりくねった道を歩き、マンションの階段を上るよりも、学校の窓から一直線に家の窓まで飛べたらどんなに楽だろう。道も階段もない大空を自由自在に飛び回る鳥が羨ましかった。レイアは、精霊に昇格して人の姿に固定されなかったら――ということはないと思うが、万が一、能力不足で出来なかったら――鳥の精霊になろうと思い始めていた。
しばらくすると、右方向の地平線がうっすらと明るくなってきた。
「そろそろ限界だね、茶色のクリストフ。地上に降りてくれ。みんなもしっかり掴まって」
シュミットが目を落として指示を与えると、クリストフは川の近くに広がる草原へ急降下した。確かに、言われてみると、徐々に速力が落ちてきたようにも感じていたレイアは、精霊の力の限界――マナ不足による行動の限界を今更ながら痛感した。そのうち自分も動きが鈍くなる事態が訪れるのだろう。
急降下によるフリーフォールの現象でゾクッとするレイアは、フワフワと浮いていた人魂の姿では感じ得ない感覚が嬉しくて思わず口元が綻ぶ。クリストフが、丈の長い草地に腹ばいの格好で着地すると、シュミットは結界を解除し、レイアを後ろから抱えて飛び降りる。自分より背の高いレイアを軽々と運ぶ彼の動作は、傍らから見ると怪力のコボルトだ。
「このドラゴンは、今から帰るの?」
「いや、そこの山に隠れて、夜になったら帰ってもらう」
シュミットが川のそばにある樹木が密生した山を指差すと、その方向に視線を向けたエルザが首を傾げた。
「隠れなくても、姿を消して飛べばいいのに」
「あのねぇ……。茶色のクリストフはそろそろ限界なんだよ。マナが希薄な人間界では、十分な休息が必要だしね」
エルザはジッとして羽を休めるクリストフを見上げ、この巨体ならマナを貯める時間が掛かっても仕方ないだろうと納得した様子で、シュミットの方へ振り返る。
「で、ここはどこなの?」
「シュヴァルツカッツェン辺境伯領の北辺。そこの川がグリューンブリュン大公国との境の川」
「なら、ローテンベルゲン公国はどこなの?」
「君は意外に何も知らないんだね。ここからグリューンブリュン大公国を越えた北さ」
「何? ここから歩いて行くの?」
「僕は鳥に擬態できるから、飛んで行くよ。レイアも、鳥になれるだろう?」
「たぶん……」
その前にマナ不足で人魂の姿に戻るのではと不安が過るレイアが眉根を寄せると、その表情から彼女の心配事を察したシュミットが、人魂の姿に戻ることを提案する。フリーダと同じく球体の結界に入れて持ち運ぼうというわけだ。
「私は鳥になれないわよ」
「猫の格好で空を飛ぶのかい? 怪しまれるよ」
「別にいいじゃない。空高く飛べば。あんたも、余計な変身をしないでそのまま高く飛んだら?」
結局、エルザの提案にシュミットは同意し、人魂の姿に戻ったレイアを透明な球体の結界に入れて左肩に乗せ、右肩には同じ結界に入ったフリーダを乗せた状態で垂直に上昇した。シュタルクは「高く飛ぶのは面倒だ」と愚痴をこぼしつつ、エルザの後ろを追いかけた。忽ち、三匹は五十メートル以上の上空に浮上する。
「ローテンベルゲン公国の方角はこっちだから、公国までは先導してもいいけど、公国の上空に入ったら君の行きたい場所へは君が先導してくれないか?」
「何を言っているの? ずっと私の後ろを付いていけばいいじゃない?」
「――――」
「あんた。ドラゴンでここまで連れて来た勢いで言っていない? 頭が固い精霊ね」
「だって、公国の位置を知らないんじゃないの?」
「さっき、あんたが『こっち』って指差したじゃない」
エルザはそう言い残して腹ばいの姿勢でさっさと飛んでいき、彼女の図々しさに苦笑するシュミットも同じ姿勢で出発した。
「鳥でもないくせに、よく飛ぶわい」
呆れるシュタルクは、大きく羽ばたいて飛翔した。
夜明けから三時間後に、彼らはローテンベルゲン公国の領空内に入った。平均速度はおよそ二十キロメートルだったので、約六十キロメートル飛んだことになる。森の多いシュヴァルツカッツェン辺境伯領や荒れ地が多いグリューンブリュン大公国と違って、見渡す限り畑が広がっていて農家も多い。ローテンベルゲン公国は農業が盛んなのだろう。
「おーい。まだかい?」
「まだよ。中心地まで行くんだから」
「って、どれくらい?」
「何? あんた、マナ不足?」
「君より体が大きいのでね」
「小さな鳥になればいいのに」
「君がそのままでいいって言ったじゃないか?」
「あら、そう? 知らない」
「あのねぇ……」
気まぐれな性格なのは分かっていたが、平気で嘘を言うエルザに、先が思いやられるシュミットは、遅れ気味のシュタルクを振り返る。
「君の仲間は、こういう性格らしいよ」
「そこがいいんだよ」
「なんでまた?」
「俺とおんなじだから」
嘆息するシュミットは「先が思いやられるよ」と呟いて、前方に目をやった。
さらに二時間後。遠くに円形の城壁に囲まれた大きな町が見えてきた。途中、小さな城壁都市がいくつかあって、シュミットは「ここかな?」と何度も思ってエルザに問いかけ、つれない返事をもらっていたので、今度こそと確信する。と、その時、エルザが急降下して近くの林の中へ身を隠した。シュミットは、何の予告もないエルザの行動に焦って、彼女の後ろを追いかける。エルザは木の枝に着地していたので、シュミットは幹を挟んで反対側の枝に着地した。シュタルクはエルザの横に止まって羽を畳む。
「さっき見えていた大きな町へ行くんじゃないのかい?」
「ここが待ち合わせ場所よ」
「誰と?」
「仲間と」
てっきり、町が行きたい場所だと思い込んでいたシュミットは、ぽかんと口を開けたままエルザの短い回答を聞く。どうしてそう思い込んだのかは、エルザが銀行を監視していたからだ。それが林の中とは、誰が予想していたであろう。想定外はシュタルクも同じはずだが、当然ここだろうという顔をしてシュミットの方へ視線を送る。
「仲間って?」
「ほら、来たわよ」
言うが早いか、エルザは枝から飛び降りて、地面に厚く堆積している枯れ葉を踏んでカサッと音を立てる。それから、尻尾巻き座りをしてジッとしていると、何処からともなく二匹の猫がやって来た。
それは、黒猫と灰色の猫。二匹とも、姿形はエルザと瓜二つ。金眼で赤いリボンを結った長い尾までそっくりだ。ただ、違うのは毛並みの色だけ。
「白のエルザ。姿を隠していたみたいだけど、また戻ってきたの?」
黒猫の喋る声は、エルザにそっくりだ。
「逃げてなんかいないわよ。キルヒアイスがいきなり『シュヴァルツカッツェン辺境伯領のノイフェンに行く』って言うから付いていっただけ。そしたら、彼、殺されて、何だかんだで精霊界へ行って――」
「「精霊界!?」」
黒猫と灰色の猫が同時に驚きの声を上げたが、エルザが倍の声で驚いたかのように聞こえる。後ろを向いて声だけ聞いたら、三匹は全く区別が付かないであろう。
レイアは、エルザと連絡を取り合う人造精霊がいるのは知っていたが、まさか、色違いの三つ子かと思えるほどそっくりさんとは考えてもみなかった。
「大したことなかったわよ」
「「ふーん」」
エルザは、清めの泉に行くことで、ある程度の自然崩壊を免れた恩もすっかり忘れたようだ。
「で、やる事がなくなったから、持ち場に戻り、その前にあんた達の報告を聞こうと、ここに来たの。じゃあ、まず、黒のエルザから」
「商会には動きはないわ」
「灰色のエルザは?」
「同じく、役所にも動きはないわ」
レイアは、三匹がエルザを名乗っていることに仰天した。シュミットの方は驚いた様子もないので彼に念話で尋ねてみると、精霊で名前が一緒なのはいくらでもいるとのことだった。
『だから、色を付けて区別するのですね』
『同じ色で名前が一緒の奴もいるけどね』
なるほどと思っていると、黒のエルザが「そう言えば」と切り出した。
「昨日、うちの精霊使いが殺されたけど」
「あら、偶然ね。うちの精霊使いも昨日、殺されたわよ」
続く灰色のエルザの報告に、白のエルザが「ふーん」と関心がなさそうな返事をする。
「ということは、私たちだけになったのね」
「「そういうこと」」
「じゃあ、報告終わり。さ、持ち場に戻りましょう」
と、その時、シュミットに結界を解除してもらったレイアは彼の肩の上から離れて、急いで三匹の輪の中へ飛び込んだ。
「何を呑気なこと言っているの!? 魔の手はすぐそこに伸びているのかも知れないのよ!」
叫ぶ人魂に驚いた三匹のエルザは、ポカンと口を開けて一斉に首を傾げた。




