1.老人の精霊使いと白猫
アメリアが精霊達に除隊の希望を伝えた翌朝、彼女が恰幅が良く禿頭で灼眼のメービウス小隊長に除隊願を提出すると、彼は新たな道を歩もうと再び決意した少女の輝く目を見つめ、吐息混じりに「今までご苦労だった。決まるのは早くても明日だから、それまではまだ兵士だからな」と言って、頷く彼女の肩を優しく叩いた。
「では、朝の訓練もいつも通りに実施でしょうか?」
「……特別に免除する」
唇を僅かに綻ばせる小隊長から許可が下りて驚くアメリアは、訓練に身が入らない一日を過ごす苦痛から解放される事に安堵する。敬礼をして去る金髪ショートボブの彼女の後ろ姿を瞳に映す彼は、除隊願の表書きの筆跡に目を落とし、書類を躊躇いがちに懐へ仕舞うと、丸めた背中を彼女へ向けた。
自分の部屋へ戻ったアメリアは精霊達と今日一日の時間の潰し方を相談し、近くの町にみんなで遊びに行く事で話がまとまった。蒲鉾形の建物を出て心地よい風を浴び、深呼吸をして大きく伸びをする彼女は、訓練中の歩兵の声を遠くに聞きながら、宿舎の門へ向かう。彼女の右肩にはクルツが浮かび上がり、レイアとフリーダはガラスの小瓶に入れられてポケットの中に収まっていた。
コバルト色の天蓋で輝く太陽は、流れる千切れ雲で時折隠れ、涼しい風が大地を撫でる。黒い軍服に紫色のマントを羽織ったアメリアは、足取りも軽く、街道に足を踏み出した。
歩いて三十分の場所に、ノイフェンという中規模の町がある。そこには見世物小屋もあり、珍しい物を扱う雑貨屋があり、流行最先端の洋服を店先に並べる人気の服屋もある。彼女のお目当ては、田舎へ凱旋する時に着ていく服と身につける小物だった。軍服と就寝用の寝間着との間を往復している少女は、たまにはおめかしをしたいのだ。どちらかと言うと自分の買い物がメインで、精霊界へ戻るレイアに珍しい物を見せるというのはサブ――もっと言うとついでに近かった。
ヴァインベルガーの宿舎が視界から見えなくなる頃、クルツが思い出したかのようにアメリアへ語りかけた。
「そう言えば、ヨーコは南へ土地を探すと言っていたが、北のお前に気を遣ったのかもな」
「さあ、どうかしら」
「どの辺に良い土地があると思う?」
「南は、北と違って肥沃な土地が多いから、どこにでも行けると思うわ」
「それでも農業の初心者が行きそうな場所とか分かるか?」
「分からない。人手不足でどこでも大歓迎だと思うから。引く手数多ってやつ」
ポケットの布とガラスが間にあってもちゃんとクルツとアメリアの会話が聞こえるレイアは、ヨーコが行きそうな場所が分かるかも知れないと聴覚に意識を注いだが、漠然とした情報しか手に入らず、失望する。実は、クルツはレイアが聞いている前提でアメリアに話を振っていたのだが、情報が何も得られないので会話をいったん打ち切り、次の話題を考えていると、
「でも、敢えて危険な国境付近に行くほど物好きでなければ、北寄りの方かしら?」
ポツリと呟いたアメリアの声で、レイアの心に希望の灯がともった。南部地方の北寄りという情報しかないが、範囲が絞られただけでも幸いだ。
「町で言うとどの辺りだ?」
「ん? どうして聞くの?」
「別にいいだろう?」
「なんかおかしい。さっきから聞いていると、クルツは自分が知りたいと言うより、間接的にレイアへ聞かせたいんじゃないの?」
半眼になったアメリアが右を向いて、会話で巧みに誘導して情報を引き出していたクルツを牽制する。
「――いや、俺もちょっと会ってみたいなと」
「それ、嘘よね? 顔に書いてあるわよ」
「毛と耳と眼しかない顔にか?」
クルツの事実に基づいたボケにアメリアが失笑する。
「クラインフュルステンブルクかツヴァイカッツェンブルクかベルリヒンゲンヒュッテに行けば、と言っておいたから」
アメリアはクルツがいないところで、旅立つヨーコと別れる際に、感謝の言葉も道中の無事を祈る言葉も掛けなかったが、安住の地の候補を三つ伝えることでそれらの代わりとしていたのだ。早速、レイアはその三つの町の名前を記憶する。
「お前は物好きなのだな?」
「なんで? 彼女に町の名前を言った事が?」
「いや、お前は狼連中との国境に接する土地に行くから」
「あのねぇ。生まれ故郷だから行くのよ! 魔物も一杯出るし」
「忙しくなるか?」
「おそらくね」
「狼の奴らが橋を架けてきたらどうする?」
「野菜が欲しいなら、倍の値段をふっかけるわよ」
「喧嘩になったら?」
「追い返す。私達で」
そう言って小さく笑うアメリアは、「こちらから橋を架ける日が来るのはいつになるかしら」と呟いて、クルツを越えて視線を草原の向こうに見える青い山の起伏へ移し、焼け落ちた橋の方角を探した。
ゆっくり歩いたので三十分以上費やしたが、一行は田園風景を抜けてノイフェンの町に入った。アメリアはポケットに入っていた小瓶を取りだして蓋を開け、レイアとフリーダに町を見せる。
「クルツ、レイア、フリーダ。ここが、私のお庭よ」
「凄い大邸宅なんですね」
もちろん、アメリアは「良く行って隅々まで知っている町」という意味で「庭」と言っているのだが、フリーダは盛大に勘違いしていた。
石造りと木造の二階建ての建物が入り交じる町の中央を走る大通りは、六車線の広さ。まだ昼まで時間がたっぷりあるので、歩道には買い物に出かける人々の姿はあまりなく、通行人より道端で遊ぶ子供らが多かった。舗装がされていない道で無数の轍を作るのは、ほとんどが市場へ荷物を運ぶ荷車。それは二足歩行の竜が引いたり、人が引いたりで、重量感のある荷車は新鮮な食材や様々な雑貨類が満載だ。これらの食材は、物によっては調理され、昼時になると市場から空腹をくすぐる匂いを風に乗せて人々を誘い、忽ちのうちに町中の食卓へ行き渡るのだろう。
道行く人も子供も人間がほとんどで、たまに猫人族を見かける。他の種族もエルフも皆無だ。軍服姿のアメリアに注がれる眼差しは、敗北を重ねていた頃は冷淡だったが、今は違う。戦勝の報告がすでに伝わっていたらしく、彼女へ感謝や労いの言葉を掛ける彼らの顔に不安の色は全く見られない。
精霊達を両脇に従えたアメリアは、広場の中心に辿り着いて周囲の建物を見渡すと、万感胸に迫り、突然過去の出来事が脳裏に浮かんだ。
連続して精霊を失うという敗北を重ねて心が挫け、除隊願を出した。今度は新たな精霊と契約して田舎に引きこもる計画だった。それが、契約した精霊がしつこく訊いてくるので「自分の部屋で話す」となり、竜車の進む道を変えさせてヴァインベルガーの宿舎に戻ってから、リベンジの道を怒濤の如く突っ走った。その終着点がグリューンブリュン大公の拘束。一人の精霊使いの竜車を方向転換した事が一国の運命の分水嶺になったとは、辺境伯の歴史を著述する作家なら劇的な表現を屈指して書き進めることであろう。
とにかく、この平和を守れたのだ。感慨深く過去を振り返るアメリアの胸には熱く込み上げてくる物があり、目に涙がうっすらと光った。
穏やかな平和が確かにここにある、と実感していたその時、
「助けてー!!」
背後から女性の悲鳴を聞いたアメリアが、来た道を振り返ると、彼女は愕然とした。二十メートル後方で、全身が灰色の醜悪極まりない巨躯の人型魔人十体が大通りの真ん中に出現していて、その前に乳飲み子を抱きかかえた母親と町娘が腰を抜かして倒れ込んでいる。荷車を引く竜は暴れて御者が制御不能状態になっていて、荷車を引いていた人間も歩道へ避難し、大通りには混乱が広がっていた。
二分前くらいに自分はあそこの左側の歩道を歩いていた。だが、女性らに降りかかっている災難から自分は運良く逃れられた事を安堵している暇はない。
「クルツ、行くわよ!」
「無論だ」
と、その時、アメリア達の前に人影が現れた。それはまるで、空気中から湧いてきたかのようだった。こちらに背を向けた状態なので顔形は分からないが、警戒した彼女は足を止め、精霊達と一緒に数歩後退する。
突如として現れた人物は、古代紫のローブを纏った小柄な白髪の老人だった。アメリアに背を向けたままの彼は、目の前で怯える二人の女性に「今のうちに逃げなさい」と声をかける。魔人達は、逃げる女性には目もくれず、邪魔に入った人間を睨み付けた。全く動じない老人は、右手を挙げる。
「――顕現せよ。白のエルザ」
老人が詠唱すると、彼の右肩に金眼の白猫が出現した。
「精霊使い?」
そう呟いたアメリアは、記憶の棚の引き出しを片っ端から開けるが、こんな色のローブを着た人物の記憶には辿り着かなかった。
見たこともない精霊使い。彼はブルーノと同じく、流浪の精霊使いなのだろうか。
だが、この老人はブルーノとまるで格が違う手練れの精霊使いであることは、この後、魔人十体にも怯まず、指を一回弾く時間内で数え切れないほど槍を投擲し葬り去る実力を見せつける事で明らかになる。
騒ぎを聞きつけて、野次馬が集まってきた。建物の窓から行方を見守る人も増えてきた。こうして離れた所から息を詰め、「魔人集団」対「老人と白猫」の睨み合いを見守っていたアメリアと野次馬達は、老人が再度右手を挙げると頭上に無数の輝く金色の魔方陣が出現し、それぞれの中から冷酷な光を放つ長い金色の槍が姿を見せると、矮躯の老人が操れるとは信じがたいこの恐るべき数の武器に瞠目して怖気を震う。そして、術師がフィンガースナップの音を響かせると、槍がまるで血に飢えた獣の如く獲物目がけて突進し、大通りに盛大な血煙が上がる。こうして、一方的な戦闘は瞬く間に終わりを告げた。
安堵の声を上げた群衆は、「騒がせてすまない」と白髪を撫でて苦笑する老精霊使いと、その傍らで宙に浮いて長い尾の先に赤いリボンを結った白猫姿の高位精霊に拍手喝采を送り、魔の手から辛くも逃れた二人の女性は命の恩人へ駆け寄り、何度も頭を下げて感謝の言葉を贈る。
精霊クルツと違って、精霊の白猫エルザは何もしていない。
ということは、精霊が老人へ魔力を供給したのだろう。
そんな推測をするアメリアを置いてきぼりにして、周囲の群衆が動いた。
あのお方はきっと高名な精霊使いかも知れない、ならば間近で尊顔を拝したいと、野次馬達は杖を突いて立ち去ろうとする老人へ押し寄せ、建物の窓から顔を出していた住人達もその輪に加わろうと我先にと外へ飛び出してくる。そうして彼らは、老雄を十重二十重に取り囲んで矢継ぎ早に質問を浴びせかけた。
「お名前をお聞かせください!」
「どちらからいらしたのですか!?」
「ここに来た目的は!?」
「これからどちらへ行かれるのですか!?」
「宿は予約されましたか!? まだでしたら、うちなら格安でお部屋を提供できますので、是非!」
「その猫、なんて言う精霊なの!?」
「高位の精霊よね!?」
「可愛い! 撫でてもいい!?」
老若男女の歩きながらの問いかけや歓声に包まれて、肩の高さまで上げた手を振る老人は、微笑むだけで何一つ答えず、人垣を割って悠然と進む。賞賛に酔う白猫は愉悦の表情で付き従い、大人が手を伸ばしても届かない高さに浮揚して周囲を見渡し、真後ろにいるアメリアの方へ首を巡らす。
『ねえ。後ろの精霊使い、腰抜けみたいね。失望したわ』
高位精霊がその表情とは裏腹に、老精霊使いの心へ落胆した声で語りかける。これは念話だ。衆人環視の中で彼らだけの会話をする場合は、いつもこのやり方を取る。これは、アメリアも同じで、クルツもレイアによく使っている。語りかけられた老人も、周囲に向ける和やかな顔の表情とはかけ離れた失望の心の声で、まだアメリアに背を向けたまま、精霊に言葉を返す。
『同じく。じゃが、そばにいる毛玉の精霊は強そうに見えるが?』
『さあね』
『微精霊も二匹おるようじゃ。その内の一匹は、ちょっと他と違うみたいじゃが』
『そりゃ微精霊くらいいるのは分かっているわよ。でも、私にはゴミみたいな物よ』
自分より低いランクの精霊達へ順繰りに侮蔑の視線を送った白猫は、嫌な物でも見たとばかり不快感をあらわにして鼻を鳴らす。
彼らがそんな念話をしているとはつゆ知らず、桁違いの精霊使いを目の当たりにしてアメリアは感動に震えていた。レイアは、白猫の姿に惚れ惚れとしていて、自分は人の姿になると決めていたことを忘れて、あのような猫になりたいと思い始めていた。
「ねえ、クルツ。あの猫、知っている? 詠唱では白のエルザって言っていたけど」
「知らん」
「ふーん。物知りのクルツがそう答えるなんて、想定外」
「新参者が猫になったのだろう」
「ちょっと聞きに行ってみる?」
「やめとけ」
「なんで?」
首を傾げるアメリアに、クルツの方から顔を近づけた。
「あの年寄り、相当の精霊使いだ。俺が今まで見てきた精霊使いとは格が違う。そんな奴が、お前を精霊使いだと見抜けぬはずがない」
「背中を向けていても?」
「全身で感じる精霊使いを何人も見てきた。奴らは、目で見ていない。肌で感じるのだ」
「――――」
「だから、会うな。お前はあの程度の魔人を見て尻込みする奴だと、馬鹿にされるだけだぞ。それが野次馬の耳に入ってみろ。辺境伯軍の精霊使いが面目丸潰れだ」
「あ。師匠が会いに行っちゃいましたけど」
フリーダの声でアメリアとクルツが老人の方を向くと、フラフラと跡を追うレイアの姿が見えた。
「ちょっと待って、レイア!」
アメリア達はレイアを止めるべく追いかけた。




