6.逃走
天幕の厚い布を通じて、下から椅子を静かに引く音と小さな足音が聞こえてきた。精霊の気配を感じたヨーコが、精霊に悟られないよう忍び足で天幕の中から出て来るのだろう。シュヴァイツァーの忠告――遭遇したら最後、気をつける暇はない――が記憶から鮮やかに蘇ったレイアは、恐怖で動けない自分へ『何やっているの!? 逃げるのよ!』と心の中で発破を掛けた。
このお陰で呪縛のような硬直がようやく解けたレイアは、急いで身を隠す所を探す。だが、天幕の周囲には木々が全くなく、あるのはどこまでも広がる草原だけ。このまま屋根から滑り降りて地面の草に隠れる手もあるが、兵士の目を逃れても、近場にいるヨーコに気配を悟られる可能性が大だ。ならばと青空へ意識を向けると、ちょうど白い千切れ雲の間から南中が近い太陽が現れた。自分の二センチメートル程度の小さい体なら、真上に上昇すれば太陽の白光の眩しさに紛れる事が出来るかも知れない。レイアはとにかく全速力で――と言っても秒速およそ五十センチメートルだが――浮上を開始した。
レイアの逃走に気付いたフリーダも、少し遅れて空に向かって上昇する。幸いなことに、二つの光の玉が上昇していく場面を見た者は一人もいなかった。
出入り口を塞ぐ布を静かにめくって、ゆっくりと体を外へ出したヨーコは、抜き足差し足で天幕から離れて、屋根を見上げる。彼女は、灰色の軍服を着た黒髪ロングヘアで黒眼の女性。百八十センチメートルはある痩身の彼女は、瓜実顔で、切れ長の目が少しつり上がっている。西洋人風の彫りの深い顔をした人間と獣人の住むこの異世界において、一目で違いが分かる東洋人の風貌。
「どうなさいました?」
「しっ、静かに」
出入り口の右に立っていた一人の兵士の問いかけを遮ったヨーコは、右手の人差し指を立てて唇へ押し当てる。そうして、眼光を鋭くして、屋根の上に何か止まっていないか、何かが張り付いていないかを調べたが、「おかしい。気配が消えた」と呟いて首を傾げた。
上昇するレイアの視界がそんなヨーコの顔貌を捉えた。遠く離れても驚異的な視力でつぶさに観察できるレイアは、これで確信した。彼女はこの異世界に転移してきたに違いないと。もし異世界に転生したのなら、この世界の人間と同じ顔付きになるだろうから。
初めて異世界転移者を見かけた。驚きと感動と郷愁を感じて「実は、私は転生者なのですよ」と打ち明けたくなるが、悲しいかな、相手はアメリア達の敵である。しかも、精霊殺しである。異世界での邂逅の感動を心の奥底へ封じたレイアは、ひたすら上昇を続けた。
「おかしい。屋根の上に精霊がいたはずだが、気配まで消えた。お前達、何か気付かなかったか?」
「屋根の上にですか? 何もいませんでしたが?」
集まってきた八人の狼人族の兵士が、一様に首を横に振る。
「本当に、屋根の上に何もいなかったと言えるのか?」
「ええ。鳥とかが飛んできたら、音がするではないですか? 一切、音は聞こえませんでした」
「音で判断するのか?」
「いえ、ちゃんと見ていましたよ。ただ、上だけ見ているわけにはいきませんから、常時ではありませんが」
「おかしい。じゃあ、なぜ気配があったのだ?」
「その気配は大きいですか、小さいですか?」
「小さい」
「それ、蝶とかの格好をした精霊ではないのですか? 虫みたいに小さかったら、我々も見逃すことはあり得ます」
「虫みたいに小さい……。そうか! 微精霊だ!」
はたと手を打ったヨーコは、悔しさに顔を歪めた。
「微精霊がどうかしましたか?」
「目も耳も良い奴らは、密偵に使われる事が多いのだ」
「なるほど。敵の密偵なら、林の方へ逃げたかも知れませんね」
「可能性はある。出でよ、ユルゲン」
ヨーコの召還に応じて、空中から大きな黒い煙の塊が現れ、妖気を漂わせて羽ばたく白頭鷲の姿に変化した。
「近くにいる微精霊を全て狩れ。奴らは、そう遠くへは行っていないはずだ」
使い魔のユルゲンはヨーコの頭上で一度旋回した後、上を向いたかと思うと、大きな翼を強く羽ばたいて一直線に上昇した。地上にいるヨーコと兵士達は、青空に向かって目を凝らしても微精霊の姿が見えないが、ユルゲンの目には微小な光が映ったらしい。
「私の使い魔から逃げ果せる精霊などいない。見ていろ」
まるで狩りでも楽しむように笑うヨーコは頭上を指差し、有能な使い魔を兵士へ自慢して悦に入る。だが、次の瞬間、上空で彼女達が目撃したのは、青白い魔方陣の出現と、氷柱の攻撃によるユルゲンの消滅であった。
□■□◆□■□




