15.癒やしの泉
時が止まったように静まり返った部屋の空気が再び振動したのは、十分後だった。外から微かな会話と物音が聞こえてきたかと思うと、音もなく開いた扉の向こうから靴音や衣擦れの音と共に一人の衛兵が槍を携えて姿を現し、床を見て歩き回る。何やら探し物を始めた彼女だが、机と椅子しか置かれていない板張りの床の上で落下物を見つけ出すのは造作も無い事で、机の下にあった手鏡は数秒で発見された。
「ありました」
「でしょう? 良かったぁ!」
手鏡を拾い上げる衛兵の感情を交えない言葉に呼応して、部屋の外から安堵する青年の声が飛び込んで来た。部屋を出た彼女から落とし物を手渡されたのは、兎人族の姿で中間色の多い民族衣装を着た小柄の男性。濃い茶色でフサフサした髪を揺らして、くりくりした赤い目を輝かせ、長い耳を動かし、綻ぶ唇から長い二本の前歯を覗かせる等、兎の特徴が随所に現れている。
「それじゃあ、失礼しましたぁ」
二人の衛兵に軽く会釈をしてからクルッと背を向けて、ズボンのポケットに手鏡を入れると、彼はスキップしながらその場を離れ、茶色の煙となって空中に溶け込んだ。
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再び彼が空中から茶色の煙を伴って姿を現したのは、どこまでも平らな草原の上――レイア達が最初に大精霊と対面した場所だった。遠方で聞こえていた爆発音はもう響いておらず、彼は呑気に鼻歌を歌いながら首を巡らす。
「白のクルツ、遅いなぁ」
「栗色のランゲこそ、遅いぜ」
「うわぁ! いつの間に!?」
踵付近から聞こえてきた声に驚いた青年ランゲが、跳び上がって後方を振り返ると、白い毛玉のような生物が長めの草にほぼ埋もれていて、ちょうどせり上がるところだった。毛玉はやや楕円形で、大きさは長い部分が四十センチメートルくらいだ。
「いつの間に、じゃないぜ。何時まで待たせやがる」
「悪い悪い。鏡をなくしてね。大精霊ヒルデガルト様の所まで戻ったのさ」
「あったのか?」
「もちろん」
そう言ってランゲは、ズボンの上から鏡を右の掌で叩くと、草の上に姿を現した金眼の毛玉――白のクルツと視線を交わしてニコリと微笑んだ。宙に浮いているクルツは、短い手足と耳と尻尾が毛の中から現れて、ようやくそれが毛の長い猫だと判明するのだが、モフモフ好きにはたまらない姿である。
「準備万端。それじゃあ、人間と契約しに行くとするか」
「ちょっと待て。それは後だ」
一歩踏み出したランゲは、さらに浮き上がったクルツが呼び止めるので怪訝な顔をする。
「どうして? 君も行きたいんじゃないの?」
「急用が出来た」
「急用?」
不満げなランゲがクルツに顔を近づけた。
「その急用とやらを聞こうじゃない? 契約より大事な」
「灰色のシュミットがグローベ一派にやられて、癒やしの泉へ運ばれた」
「嘘だろ? あのシュミットが?」
「俺も運ぶのを手伝ったが、見た感じではかなりの重傷だ。治療にはお前のその鏡が必要。どうしても契約に行くってんなら、その鏡を置いていけ」
「えー!?」
困り果てた顔をして頭を掻くランゲが天を仰ぐと、彼の仕草を見守るクルツの金眼は、ランゲのポケットに焦点を合わせ、縦長の瞳孔が丸くなった。
「はいはい。魔力を使ってでも、強引に持っていこうとするのね。置いていきますよ。ってか、癒やしの泉まで一緒に行きますよ」
「何? 治療までしてくれるのか?」
「しろって顔してるじゃない?」
「しちゃいないぜ。でも、良い判断だ。奴に貸しを作る絶好の機会だからな」
ランゲは心の中で「もちろん、それを考えての決断だけどね」と呟いて、クルツと一緒にフッと消えた。
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緑林の中に一周が四百メートルの丸い泉が、蒼天から降り注ぐ光を反射させて周囲の木々を照らしている。微風が水面を優しく撫で、中央付近で湧き上がる水が大きな波紋を描き、泳ぐ精霊や準精霊達がそこへいくつもの筋を書き加える。温泉に浸かるようにジッとして波に身を任せて目を閉じる者、潜水と浮上を繰り返す者、岸から豪快に飛び込む者。光の玉の微精霊までも浮き沈みをしている。岸辺には談笑する者もいて、大自然に囲まれた精霊界のプールは、割と賑やかだ。
ここは、精霊達が治療を目的に集まってくる癒やしの泉。動物や人間の体に受けた外傷を治し、経年劣化した部分や破損した魔法回路を修復し、時にはそれらが強化される。この効用から「若返りの泉」と言う者もいる。ただし、強化は泉に棲む精霊の気まぐれによって霊的な力を与えられることで生じるらしく、多くの来訪者はあまり期待しておらず、「儲けもの」程度に考えている。
精霊に人気の泉ではあるが、万能ではなく、治癒魔法の能力が高い精霊しか治せないほどの重傷者は、効き目がない。ランゲが呼ばれたのは治癒魔法が専門で、治癒魔法の能力を高める手鏡を持っているからだ。クルツも治癒魔法が得意で、手鏡さえあれば自分一人でもシュミットを治せるというのがクルツの考えだった。今回は、ランゲがあっさり同意したので、道案内役に徹しているが。
沐浴を終えて岸辺で話が弾む精霊達を縫うように、ランゲとクルツが歩く。
「どこ?」
「向こうだ。付添人は帰ったみたいで姿が見えないが……」
「ああ、あれ? まさか、手遅れで死んでないよね?」
「死んだら消えるだろうが」
「分かってるって。冗談だよ、冗談」
「奴にしては珍しく重傷だぜ」
「さっき聞いたよ、それ。二度も言うなんて、もうろくした?」
「とにかく急ぐぞ」
「無視された……」
二人の目に映ったシュミットは泉のすぐそばに仰向けで倒れていたのだが、寝返りを打てば水に入ってしまう位置だけに、付添人もなく放置されているのは危険であり、二人は急いで彼の所へ駆けつける。
「外傷は……ないから、自分で治したみたいだね」
「でも動けないってことは、マナ不足?」
「だね。あと、外から見ても魔法回路が壊れているのが分かる。何をやったんだか」
ポケットから手鏡を取り出したランゲが詠唱すると、全身が輝き始めた。それからクルツと一緒にシュミットを覗き込むと、怪我人は眼をゆっくりと開けた。
「お、気がついたみたいだね」
「こいつが鏡を持ってきたから、安心しな」
「どれどれ、この栗色のランゲ様が治して進ぜよう」
二人の姿を確認したシュミットは、迷惑そうな顔をしてムクリと上半身を起こした。
「なんだ、お前らか」
「なんだはひどいなぁ。せっかく鏡を持って治療に来てやったのにさ」
「ちょっと休んでいただけ。心配しなくていい。それに、泉で治る程度の怪我だ」
「またそうやって強がりを言う」
「嘘じゃない。ここまで一人で来たんだから」
「一人で来たのは嘘。運ばれたって聞いたよ」
「違う、転移魔法を発動した。そして、気がついたら、ここにいた」
「それ、途中の記憶が飛んでるよ。大丈夫?」
「大丈夫だ! ちょっと横になったから、平気だ!」
素直ではない怪我人が立ち上がると、目眩がしたらしく、ランゲに向かって倒れ込む。すると、シュミットの体がぶつかった弾みで、ランゲが手にしていた手鏡が泉の中へ落下した。
「ほら、言わんこっちゃない。無理するなって――」
「おい、お前の鏡が泉に落ちたぞ」
「え?」
クルツの指摘にランゲが泉へ視線を向けると、小さな波紋が広がっており、透明度の高い水が水底へ沈んだ手鏡の姿を見せていた。シュミットをその場に座らせたランゲが、水の中へ手を伸ばして拾おうとした途端、その鏡は水底に積もる砂の中から現れた白い手に掴まれ、手ごと砂の中へ沈んでいった。
「ちょ、ちょっと待て! おい! 泉の中に泥棒がいるぞ!」
泥棒騒ぎに、ランゲ達の所へ精霊や準精霊や微精霊までたくさん集まって来た。野次馬が見守る中、ランゲは服を着たまま泉に入って腰を屈め、両手で水底の砂を掻き回す。すると、野次馬の一人で狐人族の姿をした男が、腕を組んでニヤリと笑う。
「その泥棒に見えた奴、ここの泉の精霊じゃなかったか?」
「いやー、白い手が一瞬見えただけで、何とも」
「泉の精霊だったら、珍しい器具を見つけると有無も言わせず自分の物にしてしまうぜ。諦めな」
「諦めないね。僕の治癒魔法の能力を引き上げる鏡なんだから」
「だったら、精霊の物になれば、泉の能力が引き上がるんじゃねえのか? 大歓迎じゃねえか、なあ、みんな?」
男の言葉に、多くの野次馬が首肯する。
「独り占めしないで、精霊の供物にしちゃえよ」
「嫌だ! 諦められない!」
「――おや? 精霊が私のだって主張しているぜ。見ろよ、あそこ」
野次馬の中で猫人族の姿をした男が泉の中心部分を指差す。全員の視線が向いた先には、湧き出る水で水面が盛り上がる部分から、雪のように白くて細い右腕が空に向かって伸びていた。それが手鏡を持っているのは、精霊達の視力が人間の視力を遥かに凌駕するほどなので、誰もが視認できた。
「ほれ、見ろ」
「おーい! 返せー! 泥棒精霊! こん畜生め! おい、クルツ、あそこまで飛べないか?」
「無茶言うな。お前が泳いでいけ」
悔しがるランゲが犬かきの泳ぎ方で泉の中心へ向かってゆっくり進む。その遅さと滑稽さに野次馬が腹を抱えて笑うが、泉の精霊は手鏡を持ったまま腕を動かさず、ここまでおいでと言わんばかりだ。さらに見物人が増えて、泉の客の視線を独り占めにするランゲは、ようやくの泉の中心に泳ぎ着き、精霊から手鏡を奪い取ったものの、バランスを崩してしこたま水を飲んだ。それから精霊の白い腕に悪態をついて、口に手鏡を銜えながら犬かきの要領で岸まで戻り、野次馬に拍手喝采で迎えられた。
と、その時、ランゲが銜えている手鏡の中から、直径が二センチメートルほどの輝く光の玉が二つ現れた。
「おい、何だ、あれ?」「見習い精霊か?」「いや、微精霊だろ?」「凄く輝いているぞ」
騒めく野次馬に迎えられた光の玉は、突然の出来事に戸惑いを隠せない。
「ど、どーもどーも」
「あのー、ここはどこでしょうか?」
鏡を手に首を傾げたランゲは、目の前で浮いている二人に向かって、両手に腰を当てて問い質す。
「君達、誰? 何で鏡から出てきたの?」
「吸い込まれたのです」
「吸い込まれた?」
突如現れた精霊の声に、ハッと気付いたシュミットが、ヨロヨロと立ち上がった。
「レイア、ユミッチ! なぜここに?」
「あ、灰色のシュミットさんだ」
「分かりません。鏡に吸い込まれて、そこから先は記憶がないのです」
二人に近づいたシュミットが目を皿のようにした後、喜色満面になって「こりゃ驚いた! あり得ない! 素晴らしい!」と天を仰ぐ。
「驚いたって、何がでしょうか?」
「君達、どう見てもその格好、微精霊だよ!」
「「えー!!」」
「ああ、なんてことだ! こんなことが起こるなんて!」
レイアとユミッチは、上下に激しく揺れ、シュミットは怪我も忘れてはしゃぐ。
「ついさっきまで見習い精霊だったのに、この短時間で何があったのか知らないけど、微精霊に昇格だね! おめでとう!」
顔を見合わせる野次馬達だったが、一人二人と手を叩くと、忽ち緑林に拍手が響き渡る。
「しかも、魔法回路は――あり得ないことに――準精霊、いや、それをも越えているかも知れないよ。これ、僕の鏡のお陰かな?」
「誰が見ても、泉の精霊のお陰だろ」
右からシュミットと肩を並べるランゲが鼻を高くすると、ランゲの右隣に浮き上がったクルツがツッコミを入れる。実のところ、ランゲとクルツの推測はどちらも正しく、手鏡に吸い込まれたレイアとユミッチの能力はランゲがその鏡を使って魔法を発動したことにより引き上げられ、さらに泉の精霊が鏡を手にすることで――気まぐれだったのだが――霊的な力が注ぎ込まれて、相乗効果で見習い精霊から微精霊の体になり、魔法回路はラウラの魔法による増強に加えてさらに強化されたのだ。
問題は、彼女達が急速に成長し、体に似合わない強大な力を行使できる能力を手に入れたこと。これは、以後、度々二人を苦しめることになる。




