6.迫る脅威
城の窓から跳躍した裸足の幼女は、三階建ての家の高さを落下し、石畳のバルコニーへ難なく着地する。膝を曲げて衝撃を器用に吸収したが、それでも弾みで両手から飛び出そうになった瓶をしっかり抱きかかえると、膝を使った跳躍でバルコニーの手すりへ飛び移り、今度は五階建ての家の高さを岩肌の斜面に向かって落下する。
この驚異的な身体能力の幼女は、踊るクーノの抱えた瓶の中からレイアが目撃した銀髪ロングヘアの人造精霊。両腕を横に伸ばせないほど狭苦しくて透明な容器の中で長い時を過ごし、もし外の世界を見ていたとしたら液体を通して視界に映るカオスな実験室が彼女の知識の全てだったはずだが、人間が簡単には追尾出来ない逃走経路を迷うことなく選択する。なぜこれが可能なのか。目指す先――森に潜む何者かによって導かれているのか。
彼女は斜面へやや前のめりに着地して滑り、転びそうになったがすぐに体勢を立て直して、眼下に迫る広大無辺の精霊の森を目指して岩を蹴る。堅くて凹凸の激しい石を直に踏んで足を切らないだろうかと追っ手でさえハラハラする行動だが、銀髪をなびかせる彼女に苦痛の表情はなく、やがて白いドレス姿は密生する木々の中へ吸い込まれて行った。
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「婆さん! 大変だ! 人造精霊が逃げた!」
「あの見習い精霊がかい!?」
「いや、容器の中にいた連中の方!」
動揺するクーノの声に、木の扉から浮き上がっている茶色の唇が忌々しそうに歪むと、その唇が引っ込んで元の状態に戻った扉が直ぐさま開いた。
「馬鹿者! 今まで逃げられたことがないのに、何をやっておるか!」
「未完成だから、あそこから出られないと思っていたんだけど――」
肩をすくめたクーノが黒檀の机に駆け寄ると、不快感を顕わにするラウラが燭台の横からひょいと顔を出し、薄く開いた灼眼で彼を睨み付けた。そんな中、天井から床の近くまで二百冊以上の本が開かれた状態になって宙に浮いており、ラウラはかなりの大掛かりな調べ物の並行処理中なのか、本が勝手にパラパラとページをめくる音が室内を満たしている。
「実は完成していたってことか?」
「そうとしか思えない。凄くない、僕?」
「然り気無く自慢をぶち込んでくる馬鹿を褒める言葉など思いつかんわ!」
ラウラがそう言い切ると同時に、開いていた本達が一斉にバンと音を立てて閉じ、これらの音が衝撃波となってクーノを襲い、彼の首を竦めさせる。二百冊以上の本は自分の置かれている位置を目指して、互いにぶつかることなく一斉に飛翔するが、その風切る音と本が空を飛ぶ不思議な光景は、見慣れているはずのクーノに口を開けて見送ることを強要する。
「――で、これを目当てに来たんじゃろ?」
ラウラが顎で上の方を指し示すと、大人の上半身が映る大きさの丸鏡が十個、空中に現れて、森を鳥瞰する光景を映し出したかと思うと、白フクロウを数羽含むたくさんの鳥たちが鏡を横切っていく。
「ヴィッセンの間抜けぶりを観察するか?」
「いや、やめておく」
「なら――」
今度は、七個が森の中へ急降下する映像に切り替わった。
「やはり、森へ逃げたと?」
「そこ以外に逃げたとしたら、探すのはお前の担当じゃ」
「城の中だけにしてくださいよ」
「森以外は全て」
「街も!? そんな殺生な……」
丸鏡へリアルタイムに送られている映像は何を通じて映っているのかは不明だが、暗い森の中を巧みに枝葉を避けて突き進む映像を見ていると、幹に衝突するのではないかと手に汗を握る。スリリングな映像を食い入るように見つめる二人は、1分後に、白いドレスを着て走る子供の姿を五つの丸鏡が一人ずつ次々と捉えたのを確認する。その内、一人は瓶を抱えて走るあの人造精霊だが、映像では後ろしか見えていないので、見習い精霊も一緒であることを彼らは知らない。
「今すぐこいつらを捕まえてこい」
「僕一人で!?」
「言うと思ったわい」
五人とも森に逃げたので安堵したクーノが一人ハンターを命ぜられて焦るのを見て、鼻で笑うラウラは左を向く。すると、空中からボウッと三つの黒い影が揺らめき、それが人型になったかと思うと、全身が黒光りするプレートアーマーを装備した兵士が三人現れた。
「さあ、こいつらを使え」
「逃げたのは五人だけど」
「馬鹿者。ヴィッセンもいるだろうが。一桁の数も数えられなくなったとは嘆かわしい」
確かに、ヴィッセンはただの白フクロウではなく、子供一人を足で掴んで飛翔できる怪力の精霊なので、クーノは顎を引いた。
「位置はこれで掴め」
ラウラが右手を挙げると、逃亡者を一人ずつ写す五つの丸鏡が掌に載るコンパクトサイズに縮まり、クーノと兵士とラウラの掌を目指して滑るように飛んでいく。
「ヴィッセンには?」
「今からここに映っている人造精霊を捕まえろと、位置情報を伝えて指示する」
丸鏡を握り、手を煩わせるなという顔をして嘆息するラウラを見て、クーノは丸鏡を持った右手を挙げて微笑み、感謝の意を伝えた。
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光の玉を二つ入れた瓶を持って走る人造精霊は、息切れする様子はないが、次第に走りが遅くなってきた。地面を這う太い木の根が多くて飛び越えたり乗っかったり、前方で通せんぼうをする巨大な幹を迂回したりで、平地を進むようには行かないからだ。
「姫、この子、どこへ向かっているのかな?」
「分からない」
「城から逃げるだけかと思ったけど、こんなに深い森の中へ入っていくって、なんか変じゃない?」
「きっと、何かに導かれているんだと思うけど」
「それにしても、どこまで行くんだろう……」
瓶の中で木々が上下したり薄暗い景色が後方へ飛んで行ったりするのをただただ見ているだけの二つの玉――レイア達は、心配の素振りを前後左右の揺れで表現していると、
「みーつけた」
急に人造精霊が立ち止まって後方から聞こえてきた声に振り返る。すると、かなり高い位置で白フクロウが羽ばたいていた。ヴィッセンが追いついたのだ。
「捕まえちゃうぞ」
そう言って、白フクロウが斜め下に滑空すると、人造精霊は両腕で抱えていた瓶を左手に持ち替え、接近する相手に右腕を突き出し掌を向けた。
「来ないで!」
「おわっ!」
彼女の掌から大人の腕の太さもある灼熱の光が発射され、それは円錐状に広がり、寸前で避けたヴィッセンの羽の一部を無慈悲に焼き、さらに斜め上にある数本の巨木の幹や多くの枝を瞬時に灰にした。突然、森に青空が見える穴が出現し、斜めに差し込む光の帯が辺りを照らす。だが、その穴は、木々が忽ちのうちに自己修復することで青空ごと去り、再び森は暗くなった。
「やるじゃないか。でも、その体じゃ、マナがいつまで持つかね」
ヴィッセンは正面からではなく彼女の背後に回って隙を窺う。と、その時、斑色の太い何かに右側面を叩かれ、万有引力を無視して真横に吹き飛び、近くの幹へ激突した。
「誰だよ、酷いことするなぁ」
凹んだ幹が自動修復するのを背にし、少し蹌踉めくように羽ばたくヴィッセンは襲ってきた方角へ目をやる。すると、太さが一メートル以上もある大蛇が鎌首を擡げて巨木のようにたちはだかっているのを確認。おそらく、音もなく近づき、体当たりで不意打ちを食らわしたのだろう。
「とっとと失せろ」
「嫌だね。それ、うちが飼っている精霊だから」
突然の強敵乱入でもたじろがずに応じるヴィッセンを見て、大蛇はユラリと動いた。
「うるせえ。そっちが飼っていようと関係ねえ。ここに来た以上、俺の獲物だ」
大蛇は金色の目の中央にある縦長の瞳孔を少し開き、先が二つに割れた赤くて長い舌を動かしなが相手に顔を近づけた。




