腐令嬢、蘇る
「…………ス……ラス……」
誰かが、誰かを呼んでいる。
うるせえな、一体何なんだよ。こっちは昨日も遅くまでBLゲーやってて、超絶眠いんだっつーの。
「……ティラス……クラティラス!」
ああ、違うわ。そうだよ、BLゲーじゃなくて亜希に貸してもらった乙女ゲーだ。
クラティラスって、そのゲームに出てくる悪役令嬢だったよね。あれ、どこでセーブしたっけ?
江宮にクソほど邪魔されて学校じゃ全然進められなくて……学校? そういや卒業したよな?
そうそう、大学に入って初めての一人暮らし始めたんだった。ご飯は買ってくれば何とかなるけど、洗濯とか掃除とかいろいろと大変で。それでもゲームは何とかクリアできたから、今度のゴールデンウィークに帰省したら亜希に返そうとして……。
そこで、私は一気に思い出した。その途中で、江宮と会って、事故で死んで――――。
「クラティラス! クラティラス!!」
そう! 私は何故かその乙女ゲーム『アステリア学園物語〜星花の恋魔法譚〜』の悪役令嬢、クラティラス・レヴァンタに転生したんだった!!
で、もう一回死んだんだよ! 私が死ねば万事解決だと思って!!
慌てて跳ね起きるや、傍にいたらしい何者かに両肩を掴まれた。
「クラティラス! 無事なのか!? ……ああ、無理して起き上がるな! す、すぐに医者を呼ぶから!」
肩を抱いて焦り狂ったように捲し立てるのは、必死の形相のお兄様。
辺りを見渡してみると、見事なまでに倒壊した朝顔のグリーンカーテンが目に映る。どうやら墜落した場所で、少しの間、気を失っていたらしい。
そういえば、と思い出して私は恐る恐る胸元を見た。鉄柵が貫通した証に、そこには穴が空いている。血の跡も大きく広がっていた。けれど、痛みは欠片もない。
「えっ……お、おいクラティラス!?」
ガバッと胸元を押し広げると、お兄様は咄嗟に首を背けて飛び退いた。相手が妹だろうと緊急事態であろうと、乙女の柔肌を見るのは失礼だと思っていらっしゃるのだろう。
誠に紳士らしい行動であるが、それに感心している余裕など今はない。
「…………何とも、ない」
自身の体を己の目で確認した私は、呆然と声を漏らした。
白い素肌には、傷一つない。胸だけでなく、腹部やスカートにも穴が空いて血の染みができていたけれど、どこもかしこも全くの無傷だった。
服の惨状から見て、確かに鉄柵は刺さった。刺さったはず……なんだけど?
「お、お兄様。私は大丈夫です。どうやら怪我はしていないみたい」
こちらに背を向けたままのお兄様に、とにかく私は無事を伝えた。
「ほ、本当か!? し、しかしそんなに血が……」
「ほら、この通り何ともないです」
「ぎゃああ! ちょおまバカ! 見せなくていい!!」
服を下着ごと肩から剥いておっぱいを出して見せると、お兄様は叫んでまた両手で顔を覆った。おーおー、紳士っすなー。
しかし、どういうことなんだ?
鉄柵が肉を押し破るあの生々しい感触は、とても夢だったとは思えない。それに夢ではない証拠に、衣服に痕跡が残っている。
「…………クラ、ティラス、様」
首を傾げながら全身を再びチェックしていた私は、微かな声を捉えてそちらを向いた。
見ると、倒れた鉄柵の下から繊細な白い手が伸びている。
とてもホラーな光景だが、オバケが大の苦手な私も恐怖に凍り付くどころではなかった。柵が葉に覆われているせいで全容までは窺えなかったけれども、その手が見覚えのあるレヴァンタ家の執事服を纏っていたから!
「……ネフェロ!!」
思わず叫び、私は彼の元へ駆け寄った。お兄様もすぐに私に続く。
「何故ネフェロがこんなところに……」
「私が無理を言って、ここまで連れてきてもらったのよ!」
手短に説明し、私はお兄様と力を合わせて鉄柵を持ち上げ、彼を救出した。
「ネフェロ、車で待っていろと言ったでしょう!? なのに、どうして……!」
「すみ、ません、クラティラス様…………あまりにも、遅いので、心配になって……」
長引く兄妹の話し合いにしびれを切らしたネフェロは、車から引き返し、グリーンカーテンの陰に隠れて待機していたらしい。そこで私の飛び降りの巻き添えを食って、鉄柵の下敷きになってしまったようだ。
「お兄様、すぐに使用人を呼んで医者を!」
「ダメだ!」
「いけません……」
最もな処置を申し出たというのに、二つの声が同時に拒絶の意を示した。
「何で!? このままじゃネフェロが……」
「クラティラス、頼むから静かにしていてくれ。今だけは、私の言うことを聞いてほしい」
お兄様に真剣な目で訴えられ、私はそれ以上何も言えなくなった。
ネフェロは自力で立ち上がることもできないようだったので、お兄様が肩を貸して我々が乗ってきた車へと向かった。
いつの間にか身体のサイズ差が逆転していた二人が寄り添う様を見ても、お姫様抱っこしてくれれば良かったのに〜なんて、萌えを語る気にはなれなかった。
初めて見るお兄様の運転する姿にも、私の膝枕でネフェロが眉を顰めて苦痛に喘ぐ姿にも、だ。
レヴァンタ家に到着するとお兄様は一人で車を降りて、何故か我が家の執事のアズィムを連れてきた。
アズィムは先端にポンポンの付いたナイトキャップを被ったまま、おまけにウサギさん柄のピンクのパジャマというえらくラブリーな格好をしていたけれど、トレードマークである片眼鏡からネフェロに注ぐ眼光は厳しく、表情も普段以上に険しかった。
それから私は、アズィムによって簡易な触診を受けた。見た目同様、骨にも全く異常はなかったようだけれど、後遺症が出る可能性も否めないから早く医師に診せるように、と彼は告げた。
「クラティラス様、ネフェロのことはどうか内密に」
そしてこう言い残し、アズィムはネフェロだけを乗せて車で去っていった。
ぼんやりとそれを見送っていた私だったけれど、すぐにお兄様に腕を引かれ、家に連れて行かれた。