腐令嬢、脱走す
お父様とお母様には、私の気持ちをしっかり伝えられた。そして、お兄様の実のご両親にも。
あとは、お兄様だ。
お兄様は、どうせ自分は他人なのだと心を閉ざしている。血の繋がりなんか関係ないと誰より本人が思いたいはずなのに、お父様とお母様の愛を信じ切れなくて苦しんでいる。
だから、ここは私が架け橋となってだな……。
「架け橋…………っつってもなぁ」
寝室からネフェロが出て行くと、私は独り言を呟きながら着せてもらったネグリジェを脱ぎ捨て、密かに用意しておいた服に着替えた。
本日ついに、お兄様がプラニティ公国から帰ってきた。
けれどこちらの屋敷に来る予定はないらしい。
お父様とお母様は明日、お兄様が宿泊する別宅に顔を出すそうだけれど、当然ながら私は同伴させてもらえない。
そりゃそうだよなぁ……お墓参りの帰りに、お兄様とあの日に何があったかやんわり聞かれたけど、やっぱり答えられなかったもん。私が口を噤むのを見て、まだ接触させない方がいいと判断したんだろう。というか、全部打ち明けたら余計近付けさせないようにするよなぁ。
イリオスや両親、さらにお兄様の本当のご両親達にまで大口を叩いてみせたものの、まだ何をどうすればいいのかわからない。
でもだからって、何も行動しないままこのチャンスを見送るなんて嫌だ。
「やるしかない、か……」
再び呟きを零すと、それを合図に私は寝室を出た。
向かった先は、部屋の窓。
周囲に誰もいないことを確認してから、私はスカートをまくり上げて桟に足をかけた。そして窓枠に両腕でぶら下がり、あらかじめ目をつけておいた一階の大きな弓形出窓の上に飛び降りる。ここはダイニングルーム、この時間にはもちろん誰もいない。けれど想像以上に大きな音を立ててしまった。
焦った私は、急いでその場から下に飛び降り――ようとして、思い留まった。落ちても死なないレベルの高さだけれど、怪我をしては困る。今宵のミッションは、これからなのだ。
なので私は安全策を取り、部屋を出た時と同じように出窓からぶら下がった。幸いにも、物音に気付いた誰かがやってくる気配はない。なので私は冷静且つ慎重に着地点を狙い定めてから、手を離した。
やっと大地に到達。
よし、誰にも見られずに家から出るという第一段階はクリアできたぞ! 登るのは簡単だけど、降りるのはやっぱり大変だなぁ。
私がこんな荒業を使ったのは、玄関にいるフットマンのせいだ。私がこんな遅くに外に出ようとすれば必ず止められるし、お父様とお母様にも報告されてしまう。極秘計画を遂行するためには、この方法しかなかったのだ。
外に出たら、後は簡単。
お兄様がお泊まりしているという別宅に向かうのみだ。別宅は、車で二十分弱くらいのところにある。のんびり歩けば三時間弱はかかるけど、走れば一時間強ほどでいけるだろう。
そっと門を抜けたところで私は準備運動をし、レヴァンタ家の別宅のある北側に向かって駆け出した。
私は今もまだ九時に寝かしつけられているけれど、お兄様は成人してから勉強することが増えたため遅くまで起きていたらしい。今も夜ふかしタイプのままなら、まだ眠ってはいない……と思う。
プラニティからの移動で疲労して寝落ちている可能性もあるけど、とにかく行ってみてからだ! 侵入経路も、到着してから考えればいい!
スカートの裾が、大地を蹴り進む度に膝に纏わりついて鬱陶しい。ヒールがないとはいえ、パンプスの固い靴底は足裏にダメージを蓄積していく。
やはり体操着とスニーカーを装備してくるんだった、と軽く後悔した。しかし、久々にお兄様とお会いするのだ。無理矢理押し掛けるというのにそんなやる気のない格好を見せて、さらに幻滅されたくない。
夜になって幾ばくか気温が落ちたとはいっても、八月初旬。昼間に熱せられた空気の名残りが、じわりじわりと肌を苛む。
既に汗だく、髪もモッサモサになってしまった。この状態で格好もクソもないが、それでも私は少しでもお兄様の目に『良き妹』として映りたかった。嫌われているのはわかっている。でも、これ以上は嫌われたくない。
この行為そのものが迷惑極まりないんだけどさ……だからこそ、格好くらいまともにしておきたかったの!
等間隔に置かれた街灯を、数々の貴族の屋敷の門を、幾つ通り過ぎたか。不意に背後から強い光に照らされ、私は驚いて足を止めかけた。
が、何のことはない。一台の車が通り過ぎていっただけだ。
まだ深夜という時間帯ではないけれど、この辺では一人で出歩く奴なんてそうはいないから、向こうも驚いてハイビームで確認したんだろう。良かった、ドレッシーな服着といて。変な格好してたら、それこそ空き巣か何かと間違われて拘束されてたかも……。
安心して走りに集中しようとした私だったが、通り過ぎたはずの車が凄まじい勢いでバックして迫ってくるのを見て、今度こそ立ち止まった。
忘れ物をしたことにでも気付いたのかしら?
……なーんて、このタイミングでそれはないよね。明らかに私だよね、私に向かってきてるよね!
供も付けずに、うら若き令嬢が汗だくで走り狂ってるんだ。何かあったのではないかと思われても仕方ない。自宅に帰ろうとする紳士淑女か、はたまた第一居住区画警備隊の見回りか……。
どっちにしても、ピーンチ!
はぐらかそうにも、髪飾りでレヴァンタ一爵令嬢だと即バレーる!
こんなこともあろうかと言い訳は一応考えたけど、果たして通用するか……!? 頼む、私の泣き落とし攻撃よ、どうか相手の良心にクリティカルヒットしてくれ……!
数メートル向こうに停まった車から、人が降りてくる。テールランプが逆光となってよく見えないけれど、服装から窺うにどうやら男性のようだ。
「わ、私は怪しい者ではありません! この時間に一人で走っていたのには、大きな訳がありまして……」
「やはり、クラティラス様……?」
泣き落としを繰り出すより早く、その人物から名前を呼ばれるという先制攻撃を受け、私は飛び上がった。
ぎえええええ! もう正体がバレてる!
もしかして知り合いだった!?
いや待て、ならば顔馴染みのよしみで見逃してもらえる可能性が高いかも!
「は、はい! 全く少しもちっとも怪しくないレヴァンタ一爵の娘、クラティラス・レヴァンタこそが私です。ええとですね、何故一人でこんなことをしているかというとですね……最近ちょっと体重が気になるお年頃というかですね、ダイエットをですね、始めましてですね、でも皆に知られるのは恥ずかしいなーと思いましてですね、それでこっそり家を抜け出して、こうして走って脂肪を燃焼させてですね、魅惑のスレンダーボディを目指し……んがっ!」
目を泳がせながら、懸命にあくびを堪えて涙を生成しつつ繰り出していた言い訳は、途中で強制的に終了させられた。
頭部に、凄まじく重い拳骨が落とされたせいで。
「なぁ〜にぃ〜が、ダイエットですか。夏バテ知らずの化物じみた食欲で、毎日毎日それはそれはモリモリとお食事なさっているくせに。今夜も夕食が足りないと言って、お仕事で遅くに帰る一爵閣下のために作ったお夜食まで食べ尽くしたあなたが、体重を気にしている? そんな戯言を宣うのは、どの口ですか? レヴァンタ家の食材吸引器と呼ばれている、この口ですか? 何でしたら、私が縫い止めて差し上げましょうか!?」
両手で私の頬を抓り上げ、美しい翠の眼を釣り上げて凄んできた美青年は、知ってるなんてレベルを越えてよく知る人で。
「にぇ、にぇふぇお!?」
頬肉を千切れんばかりに横に引かれているせいで言葉にならない言葉を漏らす私に―――ネフェロは呆れたように溜息をつき、金の髪を軽く揺らして頷いてみせた。