腐令嬢、突き放される
小春日和と呼ぶには陽射しが強く、けれど夏ほどの鮮烈さにはまだ足りない初夏始めの陽気は、長期休暇がなかろうともそこはかとない気怠さを誘う。相変わらずゴールデンウィークを恋しがり嘆きつつも五月は過ぎ、アステリア学園に入って二度目の六月が到来した。
アステリア学園では、一年毎のクラス替えがない。入学してから編成されたクラスがそのまま三年間続く。なので次回のクラス替えは、高等部に上がった時となる予定だ。
このような形式になっているのは、中等部高等部共通して一年では皆仲良く基礎を学ぶが、二年になると選択制の授業が増えるため、クラスの再編成がそれほど意味を為さないせいみたい。
てなわけで環境の変化で起こるという五月病は、二年ではあまり縁がない、と思われていたのだが――月が変わっても、それに似た症状に悩まされている者がいた。
私ではない、リゲルだ。
「あれ、また教科書忘れたの?」
「えへへ、何だかうっかりしてて」
恥ずかしそうに頭を掻いて笑うリゲルの机には、ノートと筆記用具しか置かれていない。そういえば昨日も一昨日も、彼女は数学の教科書を持ってきていなかった。こんなに何度も同じものを忘れるなんて、私ならともかくしっかり者のリゲルにはありえないことだ。
そこで私はある可能性に思い至り、そっと尋ねてみた。
「もしかして……なくしちゃった?」
リゲルは軽く目を泳がせたものの、すぐに力なく頷いた。
「それじゃ、後で購買に行って買ってこよ? お金なら私が」
「い、いえ、クラティラスさんに迷惑はかけられません。授業中に、ささっと写させてもらえれば大丈夫ですから」
そうは言うけれど、教科書がないと不便なはずだ。リゲルは家に帰っても、予習復習を毎日欠かさず行う努力家である。なのにこの前の中間テストでは、これまで必ず全教科トップ五位に入っていたリゲルの名前は十位圏内ギリギリといったところにまで落ちていた。私からするとそれでもすごいんだけど、彼女にとっては不本意な成績だったに違いない。
何たってリゲルは、その頭脳を見初められて特待生としてこの学園に入学したのだから。
教科書を買うことができないならせめてコピーでも、と思ったものの、残念ながらコピー機はこの世界では普及していないのだ。
不思議だよね……トイレ洗浄機能やらエアコンやら監視カメラはあるってのにさ。まあ恐らく、ゲーム本編で『頭の良いヒロインが攻略対象にノートを写させてあげて親密度を上げていく』っていう放課後定期イベントを活かすためなんだろうけど。
「あたしのことは気にしなくて大丈夫です。それより、いつも教科書を見せてくださってありがとうございます。すごく助かります」
凄まじい速度で教科書を書き写しながら、リゲルが小さくお礼を告げる。その声と横顔には、申し訳なさからか、暗い色が落ちていた。
「それこそ気にしなくていいよ。あ、だったら私の教科書を持って帰って一気に写しちゃえば? 私はどうせ予習も復習もしないし、もしもの時はステファニの教科書があるし」
「そうですよ、リゲルさん。あなたがしっかりなさっていないと、私も張り合いがありません。共にリコさんとドラスさんとイリオス殿下を、追い抜きましょう」
常にトップを争う三人の名を口にし、リゲルの反対側に座っていたステファニも後押しする。ついでに教科書の後半を先に書き写していたらしく、その部分を切り取ってリゲルにそっと差し出した。
「……クラティラスさんもステファニさんも、本当にありがとうございます」
そこでリゲルは顔を上げ、私達ににっこりと微笑んでみせた。その笑顔にも、どことなく陰があるように見えたのは、私の気のせい……だろうか?
教科書を貸してこれで安心、と胸を撫で下ろしたのも束の間、その翌日――――私はリゲルから、驚きの発言を浴びせられた。
「失くしたって……また? 待って、何で?」
「すみません。あたしのミスです。本当にごめんなさいっ!」
リゲルはひたすら頭を下げて詫びるばかり。いやいや、昨日貸した教科書がいきなり消えるなんて、そんなことある? ないでしょ!
おまけに今日のリゲルは、国語の教科書も理科の教科書、それにノートから体操着まで忘れてきたという。さらには上履きまでどこかに置き忘れたそうで、今日は職員室から借りたスリッパを履いていた。
いくら何でもおかしい。
お昼休みになってリゲルから部室に呼び出され、昨日貸した教科書の紛失を告げられた私は、泣きそうな顔で謝り続けるリゲルを前に呆然とするしかできなかった。
彼女がこんな状況になったのは、『恋煩い』のせいなんじゃないかと想像してしまったからだ。
リゲルが誰かに恋をしたのなら、何もかもが上の空状態になるのも納得がいく。私だって、三次はさておき二次のメンズに恋したことは何度もあるから、その気持ちはわかるもん。新しい推しができた時は、妄想に没頭するあまり電車を乗り過ごして、うっかり終点まで行っちゃった……なんてことは数え切れないし。
だとしたら相手は誰だ?
中身はクソだが成績優秀スポーツ万能、ついでにガワだけは麗しいイリオスか?
受けタイプだけど可愛げがあって実は紅薔薇支部でも好感度が高い、攻略対象の一人のロイオンか?
今はほとんど接点ないものの一応攻略対象だし顔も抜群だし、婚約者ができる前に惚れててもおかしくはないヴァリティタか?
男性恐怖症だった頃でも嫌悪感なく接することができた、我が家のイケてる世話係のネフェロか?
それともチャラ男のくせして一途に目覚めて、現在も絶賛押せ押せ中のクロノか?
ああっ、どうしよう?
ついにリゲルが乙女の仲間入りしちゃうの?
頼む……リアルの男じゃなくて、妄想の男に恋したと言ってくれ! 図書館で読んだ小説の登場人物とか、私やイェラノが描いた架空の人物とか、自分の理想を詰め込んで作り上げた脳内彼氏とか。
一番の腐レンドがリアルの恋に目覚めてしまったとしたら…………ダメ無理、私にはとても受け止め切れない。
いつかこんな日が来ると覚悟はしてたけど、まだ心の準備ができてないよー!!
「…………人から借りたものを失くすなんて、最低ですよね。ずっと隠してたけどあたし、こういうズボラでどうしようもない子なんです」
いつまでも黙っていたせいで、誤解されてしまったようだ。リゲルは私の目を見ようともせず、自嘲的に笑った。
それは太陽みたいに明るく花のように可憐だった彼女が、初めて見せた表情だった。
「教科書は、必ず弁償してお返しします。本当にすみませんでした」
戸惑う私に再び一礼すると、リゲルはドアの方に駆けていこうとした。慌てて私はその腕を掴み、彼女を引き留めた。
「ちょっと待ってよ。私はリゲルがズボラでも気にしないし、どうしようもない子なんて思ってない。教科書のこともいいから、ちゃんと訳を話してくれる?」
けれどリゲルは私の手を振り解き、俯いたまま低く漏らした。
「訳なんてありません。あたしには、もう関わらない方がいいですよ」
そのまま彼女は、呆然と固まる私を置き去りに部室を出て行った。
え……?
これ私、嫌われたパターン?
何で何で何で!?




