腐令嬢、身を挺す
時間が迫ってきたのでディアス様は退室し、先に大聖堂入りされた。
それから幾ばくも経たない内に、いよいよ私達も出発――となったのだが。
「アフェルナ、どうしたの? 緊張しすぎて気分でも悪くなった?」
「い、いいえ、大丈夫よ。何でもないわ」
控室では笑顔だったのに、大聖堂へと移動する間にアフェルナはどんどん元気がなくなっていった。本番に向けての練習がてら、長い長いベールを持ってかなり後方を歩いていた私には、顔色まではわからない。けれど後ろ姿だけでも、様子がおかしいことは察せられた。
アフェルナの側に付いている古参らしき王宮専属の侍女達に声をかけて尋ねてみたものの、『急にマリッジブルーに襲われたのだろう』『これから王族になられるのだから大きなプレッシャーを感じてもおかしくはない』『今までの婚儀の際にもこういった方はよくいらっしゃった』と答えるばかりで相手にしてくれない。
マリッジブルーになんてなったことないからわかんないけど、王宮入りする覚悟はとっくにできてたと思うんだけどな。でもまあ、ベール持って歩くだけの私でも緊張するんだから、主役のアフェルナはもっと精神的にキツいものがあるんだろう。
しかし、ついに大聖堂の荘厳な扉の前に到着した瞬間、アフェルナが小さく鋭い声を上げた。押し殺してはいたけれど、それは確かに苦痛を訴える悲鳴で――そして、私は見てしまった。
扉脇に退いた侍女の一人が、薄っすらと口角を上げたのを。
あの女、まさかアフェルナに何かした……?
「アフェ……」
慌てて彼女の名前を呼びかけたその時、正装した二人の門兵の手で扉が開かれた。
こうなっては、もうどうにもできない。アフェルナと共にヴァージンロードを歩き、ディアス様の元に行くしかない。
ヴァージンロードの長さは、およそ二十メートル。カーペットの類は敷かれておらず、磨き上げられた純白の床が祭壇へと続いている。そこには、スポットライトに照らされたディアス様がアルクトゥロ現国王陛下と共に花嫁の到着を待っていた。
そうそう、この国では宗教もゆっる〜い感じなんだわ。死生観だって、死んだら良い奴は神様がいて天使がいていい感じのところでのんびり暮らせる、悪い奴は怖い悪魔にいじめられ続けるっていう驚きのわかりやすさだからね。
聖職者はいるにはいるけど、教えを説くってよりは自分が持ってる寺院や教会や聖堂を貸すことで収入を得ていて、どちらかというと管理人みたいな感じらしい。
なので冠婚葬祭で全てを仕切るのは、大体が家長となる。今回は王族の婚儀だから、国王陛下が司祭役をやるってわけ。
サヴラの父上が儀典卿とかいう催事のあれこれを取り扱う仕事をしてるそうで、下準備はそちらできちんとなされたらしいとは聞いてるけど。
親父が司祭やるって、不思議な感じだなぁ……と緊張も忘れて国王陛下を眺めていた私は、はっと我に返り、自らに課せられた責務に戻った。いけない、うっかり歩調を乱しでもしたら大変だ。
が、そこで――――視線を足元に落とした私は、白いはずの床に薄く筋を引く紅の色に気付いた。
汚れ?
いや、まさか。王子の結婚なんていう大きな儀式が行われるってのに、ズボラな私でもわかるような拭き残しがあるわけがない。
それじゃあ、これは一体……?
戸惑う私の耳に、アフェルナの足音に紛れて微かな音が聞こえた。幸い、参列者には届かなかったようだけれど、ひどく耳障りなそれは確かに悲鳴だった。
アフェルナのものではない。
これはきっと、いや間違いなくガラスの靴の声なき声。
そこに思い至ると、私の背にぞっと悪寒が走った。
こんな恐ろしいことをしたのが、あの侍女なのかまではわからない。けれど少なくとも、あいつは知っていた。こうなると予想して、嘲笑っていた。
アフェルナの王族入りを良く思わない者は、大勢いたと聞く。ディアス様は次期国王と目される人。ならば彼の子が、その次の王座を受け継ぐ可能性は高い。それなのに、彼が選んだのは身分の低い女だった。王への忠誠心が高ければ高いほど、由緒正しき王族の血が汚されると感じて、嫌がらせの一つもしたくなるかもしれない。
でも、だからってひどすぎる!
――花嫁が式に履く、伝統ある『ガラスの靴』に細工するなんて!!
どんな手を使ったかは知らないが、恐らくアフェルナの靴はひび割れてひどいことになっているのだろう。この紅は、彼女の足から流れる血。進むにつれ、さらにガラスの破片まで混じるようになってきた。しかしアフェルナは、割れた靴を踏みしめ苦痛を押してでもやり遂げると決めたのだ。
これじゃシンデレラじゃなくて、王子のために歩くたび痛みを伴う足を手に入れた人魚姫だ。
でも……させない。
人魚姫みたいな悲恋物語なんかにさせない。海の魔女をぶん殴ってでも、この私がアフェルナを幸せに導く!
そうと決めたら、行動あるのみ。
まず私は、掴んでいた幾重ものベールの内側数枚から手を離して床に落とした。そしてその上に自らの足を乗せて、キュキュッと擦りながら進む。これで床の汚れは目立たなくなった。
フン、どうせアフェルナが我慢して歩ききっても『進む側から道を汚す不浄の女だ』『これだから品のない女は』なんて喚いて、難癖つけて辱めるつもりだったんでしょ? そうはさせるか!
あとは……大いに恥をかくことになるけれど、アフェルナのためだ。いったれ!
ディアス様の待つ祭壇に向かうには、数段の階段を登らねばならない。そこで片足ずつに体重をかければ、靴が大破する可能性大。
しかし参列者の目に付くようなところで行動すれば、バレてしまう。
そこで私は参列者席を過ぎるまで待ち、階段に差し掛かったその時に、盛大に転んでみせた。
「ぎゃあん!」
わざとらしい悲鳴を上げ、転がり行く先は――アフェルナの大きく広がったドレスの内側!
「何これ、えっえっ!? 私、どうなってしまったの!?」
叫びながら私は手早く靴を脱ぎ、アフェルナの足を軽く叩いた。
「クラティラス? 落ち着いて、大丈夫よ」
すぐに意味を理解してくれたようで、アフェルナはそっと片足を上げてくれた。
彼女の足は大惨状だった。ガラスの靴はギリギリで形を保っているものの、あちこちが欠けて鋭利な棘と化し、透明どころかアフェルナの血で真っ赤に染まっている。よくこんな状態でここまで歩いてきたもんだ。
脱がすだけでも痛いだろうが、ここは我慢してもらうしかない。
容赦なく一気に靴を外すと、私はハンカチを靴底に敷いた自分の靴を彼女に履かせた。ちょっと小さかったみたいけど、踵を踏めばいけそうだ。反対側の足も同じように取り替え、血塗れのガラスの靴は私の胸元のドレープの内側に隠し、ペチコートで飛び散った血を拭けば任務完了。
そして私はやっと、もそもそとウェディングドレスをたぐって外に出た。
「す、すみませんでした。緊張して、足が縺れてしまって……」
弱々しく謝罪の言葉を吐けば、周囲からガラスの破片以上に鋭い視線が痛く刺さる。演技ではなく本当に泣きそうになって、私は思わず項垂れた。
その頬に、ふんわりとあたたかな手の感触が舞い降りた。
「いいのよ、クラティラス。本当に、本当にありがとう。あなたに出会えて良かった。あなたという友人の存在は、私の誇りです。小さなレディ、あなたに心からの敬意を」
見上げた先にいたアフェルナは、もう控室で見た彼女ではなかった。
万人に等しく大きな愛を注ぐプリンセス――それすら超えて、『国の母』となるに相応しい威厳に満ち溢れた、次期王妃の顔をしていた。
恭しく私の額にキスをすると、アフェルナはこの事態にも顔色一つ変えず厳かな表情で待つディアス様に向き直り、彼の元へと進み行った。
ヴァージンロードで呆然としていた私の腕を引いたのは、参列席最前列の通路側にいたイリオス。今日も重ね手袋で武装してるようで、もっこりとした感触の手にエスコートされるがまま、私は彼とクロノに挟まれて最高の絶景ポイントで婚儀を見ることができた。
クロノの隣にいたスタフィス様を始め、他の皆様には『何であのアホなベールガールが王族と一緒に座るんだ』『第三王子の婚約者だからといって生意気な』と思われたに違いない。
でも、そんなの気にするどころじゃなかったよ……。感動して感動して、人間はこんなにも感動できるのかってくらい熱く激しく感動しちゃって!
泣き声で式を台無しにしないようイリオスにハンカチを噛まされ、クロノにだばだば流れる涙と鼻水を拭いてもらい、ついには呆れ果てた顔でスタフィス様まで替えのハンカチを寄越してくださったくらい、私は泣いた。泣きに泣いた。
国王陛下がアフェルナ・ネモーニに王族としての新しい名『アフェルナ・ドニース・アステリア』を授与なされ、ディアス殿下と誓いのキスを交わした瞬間は、感極まるあまり頭が真っ白になって、危うく感激死しかけたさ!
結婚式すごい、超すごい。三回出席したら、心に体がついていけなくて心臓も脳も破裂してしまうかもしれない。
どうせ死ぬなら、そんな幸福な死を迎えられたらいいんだけど……って、せっかくの結婚式なんだから不吉なことは考えないでおこう。