腐令嬢、苦悩す
重く垂れ込めていた雲がついに雪を落とし始めた頃、暦は十二月になった。
「クラティラスさん、この頃元気がありませんわね。この天気のせいかしら? それとも、リゲルさんの件で行き詰まっていらっしゃるの?」
のろのろと帰り支度を始めた私に、アンドリアがそっと声をかけてくる。クラスメイト達をごきげんようハイごきげんようと見送り、二人きりになるまで待ってくれていたようだ。
んもう、すっかり気遣い上手になっちゃって。
「ええ……ごめんなさいね、なかなか上手くいかなくて。少しずつ進歩はしているのだけれど、もう少し長引きそうだわ」
「それなら、もっと楽しいことを考えてみてはいかが? 週末のパーティーのこととか」
…………それが嫌で嫌で死にそうになってんだよ、バカヤロウ!
私はアンドリアに気付かれないよう、グギギと奥歯を噛み締めた。
まだまだ先だよ♪ウ腐腐ン腐ン♪なんて余裕こいてたら、イリオス王子殿下の誕生パーティー開催はもう今週末。
おかげで、このところ毎日がとても憂鬱なのだ。
「ああ、あの麗しのイリオス殿下に会えるのが今から楽しみだわ! 今年こそダンスに誘っていただけるかしら?」
アンドリアがうっとりとした表情で呟く。BL萌えに目覚めたとはいえ、王子という存在は別格らしい。
ちなみに毎年の誕生日パーティーでは、王子が適当に会場から見繕った何人かのお嬢さんと数曲のダンスを踊る。それが人気イベントの抽選なんかより倍率高くてさ、物心ついた頃から参戦してる私もまだ一回も選ばれたことないんだよね。
でも今年は婚約する予定らしいから、いよいよ抜擢されるのかもしれないなぁ……。
色々考えたけれど、パーティーで何かやらかすにしても、レヴァンタ家の名に傷を付けて皆に迷惑をかけることがあってはならない。
じゃあ何ができるかといったら、そのダンスの時に王子と二人きりなりたいとでも言って誘い込み、お父様に借りたカメラでえっちな写真撮りまくって『これをバラまかれたくなければ言うこと聞きな』……って待て待て、アカーン! んなことしたら不敬罪やら反逆罪やらに問われてしまうがな!
だったら『心に決めた人がいるので』とでも言っておけば……いや、王子がNTR属性だったらどうしよ? 逆に燃える的な感じになっちゃったら困るな。
何か良い案がないかと考えても考えても悪いことしか思い浮かばず、今に至るというわけだ。
「アンドリア、私、先に失礼するわ。今日もリゲルのところに行ってくるから、会のことはお願いね」
「あ、あら、ごめんなさい。私ったら浮かれてしまって……クラティラス様、あまり根を詰めすぎてはいけませんわ。暗い気持ちになったら、パーティーのことを思って元気を出してくださいね!」
思い出したくもねーわ、コンチクショー!
引き攣りそうになる頬を必死に押さえて、アンドリアにごきげんよう、と別れの挨拶を口にすると、私は教室を出た。
今週はほぼ毎日、パーティーに向けてのダンスレッスンに勤しんでいる。幼い頃から習っているとはいえ、どんどん要求されるレベルが上がっていくので大変だ。
特にこの期間は、ダンスがお得意なお母様も側について目を光らせている。
でも先週のマナーレッスン地獄に比べたら、全然楽なもんよ。毎年毎年、同じことばかり繰り返し教えられるもんだから退屈で退屈で。恐ろしく強い睡魔に負けて、鬼みたいに怖いマナー講師に死ぬかと思うほど叱られたよ。目を開けたまま寝るという方法まで編み出したのに、即見破られてさらに怒られたし。あれは本当に辛かったなぁ……。
「今日はここまで。クラティラス様、大分上達しましたね。技術もさることながら、表現力が豊かになって喜ばしい限りですわ。これなら、殿下からお誘いを受けても大丈夫でしょう」
お母様にも手解きしたという老婦人が微笑む。お上品なお顔立ちをしていらっしゃるけれど、レッスン時は般若におなりあそばせるのよね。
「まあ、本当ですか! 良かったわね、クラティラス。先生のお墨付きをいただいたわよ」
私よりも先に華やいだ声を上げたのは、今日も教育ママよろしくレッスンを見守っていたお母様だ。
「先生、本日もありがとうございました。お忙しい中、練習にお付き合いくださったお母様のためにも、頑張りますわね。では、私はこれで……」
「あら、クラティラス。今日も出かけるの? たまにはゆっくり休んだら?」
「いえ、そんな時間はありませんもの。お先に失礼いたします」
娘の言葉を遮ったお母様の言葉を遮り返し、私はレッスンに使っていた大広間を飛び出した。
先生もお母様も、私がリゲルの元に通っていることを存じている。そしてそれを、美しい感性を持つ彼女から、表現力とやらを学んでいるのだと信じている。
でも本当は――ただ逃げただけだ。迫りくるその日の話題を耳にしたくなくて。
車の中でモサモサの三つ編みを作り、庶民的な服に着替えると、私はリゲルの詩広場が開催されている場所に降り立った。
が、リゲルの姿はない。
いつもよりレッスンが長引いて少し遅れたから、今日はもう来ないと思って帰っちゃったのかな?
「お家に行ってみますか?」
しゅんとしょげた私に、お父さん風に偽装した護衛が尋ねる。リゲルの家の場所は教えてもらった。けれど、まだ行ったことはない。
病気のお母様が伏せっていると聞いたし……やっぱり、いきなり訪れたら迷惑だよね?
「その前に、まずはいつもの噴水前に行ってみましょう」
少し逡巡して出した答えは、これだった。
そこにいなければ、今日は諦めて帰ろう。誘われてもいないのに家まで押しかけるのは、友達未満の自分には出過ぎた行為だ。
雪は降っていないとはいえ、木枯らしが痛く頬を切る。普段はふかふかのコートで出歩いているけれど、今は薄手の粗末な羽織なので余計に寒さが染みた。
女子高生ん時は制服の上にパーカーだけ、しかもミニスカにハイソっていう防御力低い格好でも全然平気だったのに。年取ったのかな……って、若返ってるんだっけ。
そんなどうでもいいことを考えながら歩いていると、凍えた耳に、鋭い悲鳴が飛び込んできた。
「きゃあっ! やめてくださいっ!」
これは、リゲルの声……?
「あっ、クラティラス様っ!」
護衛を振り切り、私は全速力で薄く凍った石畳の道を駆けた。といっても子どもの足ではすぐに追い付かれたので、共に走ることになった。
リゲルの身に、何かあった?
さっきの叫び声は、ひどく切迫しているように聞こえた。
リゲル……リゲル、どうか無事でいて!!
「それは私のものです! 返してっ!」
「結構稼いでんだろ? 少しくらいいいじゃねえか」
噴水広場に到着すると、リゲルと一人の男が激しく言い争っていた。
どうやら、男がリゲルから木箱を奪ったらしい。リゲルはそれを取り返そうと、必死になってジャンプしていた。
「稼いでませんっ! 毎日、生きるのに精一杯なんですよ!」
「どれどれ〜? あー、本当に大したことねえな。んだよ、ガッカリだぜ」
男はそう吐き捨て、中から彼女が稼いだ僅かな賃金を片手で掴み取り、リゲルに向かって木箱を投げ付けた。
「何をするの、お金を返して! お母さんの薬を買わなきゃならないの! お願い、返して!」
木箱が顔面に当たったせいで、リゲルは鼻血を出していた。それでも彼女は、必死に男の体に縋り付き、懇願を続ける。
思わず駆け込もうとした私を、護衛が取り押さえた。
「いけません、クラティラス様。ここで騒ぎを起こされては困ります」
強い力で抱き留められ口まで塞がれたけれど、私は必死に藻掻いた。
「ご自分の立場を理解してください。あなたはレヴァンタ一爵令嬢、本来ならば『こんな場所にいてはいけない』人物なのですよ?」
そんなことはわかってる。でも、それでも!
「奪われた賃金は、後でこちらから支払って差し上げれば良いでしょう。大した金額ではなさそうですし、関わり合って面倒事になるくらいなら安いものです」
護衛の言葉に、私は心の中で懸命に抗議した。
そうじゃない、そうじゃないんだよ!
あのお金は、彼女が稼いだ、彼女だけのものなんだ!
同額のお金を渡せばいいってもんじゃない、何億以上もの価値あるものなんだ!
それを奪い取ろうとしている者がいるのに、何もできないなんて……だったら爵位なんか要らない。大切な人を守ることもできない、むしろ邪魔になるような地位なんざ、こっちから願い下げだ!
「いてっ!」
伊達眼鏡ごと顔を覆う掌の中で、変顔をしながら何とか噛み付くことに成功すると、力が緩んだ隙をついて私は護衛の手から飛び出した。