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その90です。
あっさりと嶺華が白旗を挙げてきたので、真剣な表情を作っていた繊里は完全に肩透かしを食らってしまった。
最初に決めたことは意地でやり抜く性格の嶺華が、半月ほどで諦めるとは考え難い。特に中学生高校生なんて「我」が強くなる時期である。親から怒られれば、反発して逆に進みたがるように。
「なんかあったの? ハッ、もしかして宇宙人にさらわれて頭の中を……」
「いつの時代の冗談ですか。どうということはありません。ただ、分かりやすい反面教師が身近にいただけです」
反面教師とは、もちろん五明田涼真を指している。
五明田のゲアリンデに対するアプローチを何回も見せられているうちに、「程度の差はあるけど、他人からすれば自分がいろはさんに行ってきたことも同レベルと断じるかもしれない」と反省に至った。口で指摘されるよりも鏡を見せられた方が納得できる。
「ちょっと私も意固地になっていました。暖簾に腕押しだったのもそうですけど、いろはさんの携帯に繋がらないことが多かった上に、アルバイト先が分からなかったこともあったので、つい」
「アルバイト先が分からない? なんで?」
普通の学生ならば、バイト先の住所や電話番号は学校に申請しておくものだ。いろはももちろんそれに倣っている。
だが、彼女が申請していた連絡先は雑居ビルの一室――つまり名義貸しのペーパーカンパニーだったのである。これは明らかにおかしい。
いっそ興信所を、などと行動を移す前に反省できたのは、今となっては幸いだ。
「なるほどねぇ。でもさぁ、いろはさんといえば全国区なセレブ(この場合は有名人を指す)だから、そこらのコンビニとかで働くってわけにはイカンでしょ」
「確かに。パニックになったり、よからぬ誤解を与えてしまうかもしれませんね」
「いろはさんって、豊浜には親戚とかいないんでしょ? なのに引っ越してきたってことは、そういうフォローがしっかりできる職場を紹介されたからかも」
なるほど、と嶺華は唸らざるを得ない。確かに辻褄は合ってる気がしてくる。……とはいえ、ペーパーカンパニーを利用する職場がマトモとは、ちょっと思えないが。
ある程度は合点がいったらしい妹分を眺めながら、繊里は「やれやれ」と紅茶をすする。
「ちょっと説教するつもりだったから須郷の二人に外してもらったのに。自己解決するなんて、嶺華ちゃんも大人になったねぇ。お姉ちゃん、感激だよっ」
「泣き真似はやめてください。……繊里さん、もしかして酔ってます?」
山井嬢は彼女に勧められた小説の一つに、紅茶にブランデーを入れて飲むのが好きな主人公がいたことを思い出した。