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#4 服従の誓い

窓から差し込む光は暑いと言うほどではなく、入り込む風は心なしか冷気を含んでいるように思われた。夏が終わり、秋が始まろうとしている。今は夏を惜しむように緑の葉を広げる木々も、やがて葉を落とし、冬支度を始めるだろう。


オルサはそんなことを思いながら窓の外を眺めていた。彼女と向かい合って座っているセクエという少女もまた、同じように外を眺めていた。


もともと子供が好きなオルサは、セクエの世話を引き受けることには何の抵抗も感じていなかった。だがしばらく一緒に過ごしてみると、彼女は少し変わっているというか、面白い一面があると思うようになった。


彼女は文字の読み書きがほとんどできなかった。魔導国の子供であれば、剣使いであれ魔導師であれ、読み書きは必ず教えられる。だから、彼女が異国の子供であることは知っていたが、まさか読み書きができないとは思っていなかった。しかし、読めないことに不都合は感じていたようで、文字の勉強をしてみるかと誘ってみれば、嬉しそうに頷いた。だから、彼女に文字を教えることにした。だというのに、セクエは窓の外に目を向け、文字を書く手を止めてしまっている。


セクエは本当に不思議な子だ。文字を教えてほしいと言っているのに、勉強している間、意識は常に外の世界に向いている。机に向かって文字を書いている時も、オルサの話を聞いている時ですら、どこかぼんやりとした表情をしているのだ。


別に集中していないわけではないと思うし、本人に意欲がないわけでもないと思う。だが、自然と意識が外に向いてしまうのだろう。別にそれが腹立たしいわけでもないため、セクエが窓の外に視線を向けている時は、黙って待つことにしている。


(でも今回は少し長いわね。…一体何を考えているのかしら。)


もしかしたら、ただ景色を見たり、考え事をしているだけではないのかもしれない。オルサは特に優れた魔導師ではなかったが、彼女が持っている魔力が人並み以上であることは、なんとなく分かっていた。その魔力が、敏感に何かを感じ取っているのかもしれない。


(もしくは、グアノ様を探している、とか…?)


セクエはオルサよりもグアノに懐いていた。グアノには失礼な話だが、それもセクエを不思議に思う理由の一つだった。


グアノはいつも仮面をつけている。そのため、表情が分かりにくい。彼が真面目な性格であり、決して冷たい人ではないと分かっていても、表情の読めない人間はどうしても警戒してしまうものだ。だから、セクエはきっとグアノのことを苦手に思うだろうと、そう思っていた。


だがセクエは、グアノと一緒にいる時は少し口数も増えるし、表情も柔らかくなる。グアノはそれに気づいているだろうか。


やはり事情を知っているから、セクエは心を開きやすかったのだろうか。と、オルサはまた考える。オルサはセクエがなぜこの城にいるのか、詳しい事情を知らない。隠されている以上、知られてはいけないものであるのは間違いないため、オルサは無理にそれを知ろうとは思わないし、それを意識してセクエと接しているつもりもない。だがそれでも、事情を知らない相手と話すのはあまり気が乗らないのかもしれない。それを考えれば、グアノに懐くのも当然のことのように思えた。


あっ、と小さく声をあげ、セクエがオルサに視線を戻した。


「すみません、教えてもらっているのに、余計なことをして。」


少し慌てて謝るセクエに対し、オルサは笑って答える。


「別に構わないわ。でも、もしよかったら、何を見ていたのか教えてくれないかしら。」

「…外に。」


やはりオルサに話すのは少し抵抗があったのか、セクエはためらいがちに話し始めた。


「たくさん、人が集まっていました。中には見慣れない人もいて…、この城に誰か来る予定があるんですか?」


ーーーーーー


「落ち着きが無いのは良くありませんよ。悪いことをした訳ではないのですから、堂々としていてください。」


異国からの来客を前に少しソワソワしているライに対してグアノは言った。


「は、はい…。」

「普段通りのライ様ならば、大きな失敗は出ないでしょう。もう少し自信を持って大丈夫ですよ。」


少しでも緊張をほぐそうと声をかけるが、ライの顔はまだこわばっていた。


「申し訳ありません。こんな初歩的なことで注意されるなんて…。」

「気に病む必要はありません。これまでの立場だったら、このような仕事はまず任されなかったでしょうから、緊張するのも仕方ないことです。」


ライにそう声をかけた後、グアノは自分の服装を軽く整え、もうじきやってくる来客に備えた。


今二人が立っているのは王城の入り口。ライとグアノ以外にも多くの兵や召使いが並んでいた。正面には城の門があり、その門が開けば、つまり来客が来ればすぐに分かるようになっていた。


今回王城へとやってくるのは、隣国、リダム王国からの使者だ。だが、それだけであればこうして国王補佐の人間が出迎える必要はない。それでもこうしてライとグアノが入り口で待っているのは、その相手が並大抵の身分ではないからだった。


ツァダルの即位を祝うためにリダム国王が直々にやって来る。その知らせを聞いた時、流石のグアノも驚いたものだ。普通であれば、王子か王女、継承権のない王族でもいいほどのものを、国王自らがやって来るというのだから当然である。ライもそれを不安に感じたのだろう。その連絡を受けるとすぐにグアノにその話をした。そして、国王が国に留まる間、対応に失礼がないかどうか自分に指南をしてほしいと言ってきたのだ。


グアノはもう補佐の座を降りているので、本来であれば事前に質問などに答えることはあっても、こうして仕事中に隣に立って指南することはありえない。だが、ライはまだ補佐としての経験も浅く、万が一にも相手に失礼があってはならない。ツァダルにも話を通し、今回は例外的に認めてもらうことになったのだ。


といっても、ライは長くツァダルの側近として仕えてきた。そのため、よほどのことが無ければ大きな失敗もなく仕事を終えることができるだろう。ライはかなり緊張しているようだったが、グアノはあまり心配していなかった。


やがて門の外が騒がしくなる。グアノは一つ深呼吸をし、閉じたままの門を見据えた。


ガチリ、と門の錠が開く音がした。ゆっくりと、少し軋む音を立てながら木製の門がいっぱいに開かれる。その向こうに見えたのは、リダム王室の馬車だ。全体は黒く塗られ、金で縁取りがされている。それほど大きいわけではなく、特に派手な装飾が付いているわけでもないが、二頭の黒い馬に引かれたその車体全体は艶やかな光沢があり、王族の威厳を感じさせる。


先ほどまでは平然としていられたグアノでも、これを見ると気が引き締まる。少しでも緊張をほぐそうと唾を飲み込んだが、どれほど効果があったかは分からない。もっとも、王族を前にして緊張せずにいることは不可能だ。たとえどれほど長く王族に仕えていたとしても。グアノはこうした緊張に少しは離れているつもりだったが、ライはどうだろう。今まで国王という立場の人間と関わることは少なかったはずだ。今さらながら心配になってくる。


馬車が見えた時点で、召使いたちは頭を下げた。二人と兵士は直立の姿勢を崩さず、馬車がさらに近づくのを待つ。


馬車が止まると、扉が開く前に二人は馬車へと近づいた。国王はゆっくりと馬車を降りる。それを待ってからライは言う。


「ようこそおいでくださいました、カイレス国王陛下。」

「急に連絡をしてすまない。手厚い歓迎、感謝する。」

「とんでもありません。」


丁寧に受け答えをするライを見て安心する。これならば自分は必要なさそうだ。


受け答えはライに任せ、グアノは国王の付き添いを確認する。王の側近が一人、御者が一人、警備の兵が七人。国王も含めて合計十人。思ったより人数が少ない。用意していた部屋は十分に足りるだろう。


七人いる兵のうち二人は馬に乗っている上に、馬車を引く馬が二頭。合わせて四頭の馬の世話も城の者に頼んでおかなければならない。その際の諸注意もきいておかなければ。


「それでは、どうぞこちらへ。部屋へご案内させていただきます。」


ライがそう言って客人たちを先導する。グアノは違和感のないようにライのそばから離れた。その時にもう一度付き添いの者の顔を確認する。顔は一通り頭に入れておかなければ、いざという時に対応ができなくなるからだ。


その中で、目を引く人が一人いた。列の一番後ろで立っていた兵だ。別に彼が何か目立つ行動をしていたわけではない。ただ、まだ若く見えるその兵の髪は、夕日に染められた空のように真っ赤だったのだ。


赤髪の魔法使い。頭の中でそう呟いた時、グアノは何か思い出しそうな気がしたが、それが何なのかは分からなかった。


ーーーーーー


「気になるなら、会いに行ってみる?」


オルサはそう言って、少しだけいたずらっぽい笑みを浮かべた。


「えっ?」


セクエが意味を理解できないでいると、オルサは開いた窓から身を乗り出した。


「今日は隣国の国王陛下がやって来られるの。ここからだと見えにくいけれど、門のあたりが騒がしいのは分かるでしょう?」

「はい。」

「来客が来ないような部屋で、門のあたりの様子がよく見える部屋があるの。そこに行けば、門の前を直接見ることができるわ。見つからないように気をつけるなら、連れていってあげるけど、どうする?」


セクエは少し迷ったが、頷いた。どんな人がやってくるのか、気になっていたのは事実だし、なんだか冒険をしているみたいでワクワクする。それを見てオルサは満足げに頷く。


「それじゃあ、ついてきてちょうだい。」


オルサは部屋を出て歩き始めた。セクエは遅れないようにそれに続く。セクエはまだこの城の中のことをよく覚えていなかったので、はぐれるわけにはいかなかったのだ。それに対してオルサは慣れた様子で通路を進んでいく。


進むに連れて、すれ違う人も減っていく。やがてオルサは一つの部屋の前で止まった。そしてあたりを注意しながら扉を開け、中へと入った。セクエもそれに続き、後ろ手に扉を閉める。オルサは窓の手前で手招きしていた。


「窓は開けちゃダメよ。気づかれてしまったら失礼だから。」


オルサはそう言ってセクエを窓に寄せる。セクエは窓の下の方に見える門の付近を窺った。


その窓は城の入り口のほぼ真上にあった。そのため、門のあたりはよく見えても、入り口付近は見ることができない。大勢の人が集まっているのはなんとなく分かったが、すでに門のあたりには誰もおらず、ほとんど見ることはできなかった。


背伸びをして入り口付近を覗くように見る。全てを見ることはできなかったが、それでも数人、見慣れない魔力の人が何人か見えた。おそらくは彼らが客人なのだろう。全員が兵士の格好をしているので、国王はここからでは見えない位置にいるようだ。


なんとなく残念な気持ちになり、窓から離れようとした時、誰かに見られているのを感じた。見れば、列の一番後ろに立っていた兵士がこちらを見上げている。赤い髪をした兵士だった。


自分たちのことを気づかれてしまったのかもしれない。そう思って窓を離れようとしたが、その兵士から目を逸らすことができない。セクエは唾を飲み込んだ。


嫌な感じがする。何がとは分からない。だが、思わず警戒してしまうような、じわじわと不安になってくるような、そんな気配を発していた。だんだん怖くなってきて、目を離そうとするのだが、やはりうまくいかない。少しずつ自分の呼吸が荒くなっていくのが分かった。その兵士はセクエを見上げたまま、わずかに笑みを浮かべたように見えた。


「セクエ?」


オルサから名前を呼ばれ、セクエはハッとしてオルサを振り返った。


「どうかしたの?」

「い、いえ…。」


セクエはゆっくりと窓から離れる。オルサはまだ窓の外を珍しそうに眺めていた。


あの男から目を離しても、まだ嫌な感じが離れない。恐怖はむしろ増えていくばかりだった。


荒く息を繰り返す。不意にめまいがして、セクエはその場に崩れるように座り込んだ。


「セクエ?どうしたの?」


オルサがかけてくれている声が、少しだけ遠くで鳴っているような気がした。


ーーーーーー


あたりは静まり返っていた。しかしそれは当たり前だった。ここには自分以外は入れない。フィレヌは森の中、一人で黙って考え続けていた。


セクエがカロストの王に見つかり、連れていかれたことも、セクエがカロストに残ることを決めたことも、何もかもが偶然のように思えた。しかし、それは本当に偶然なのか。故郷に、あの国にいる『奴ら』が、これを仕組んでいたのではないか。


まさか。そんなはずはない。フィレヌは首を振ってその考えを否定する。いくら奴らでも、そこまでできるはずがない。きっと考えすぎなのだ。だが、そう思おうとすればするほど、不安が胸に広がっていく。


奴らがセクエを狙っている。それがもし本当ならば、一体自分に何ができるというのか。もし今ここを出てカロストへ向かえば、自分は故郷からの追っ手に捕らえられてしまうだろう。バリューガを見捨てることにもなる。それは避けたい。だが、このままではセクエは…。


フィレヌはそこで考えるのをやめた。枯れ草を踏む乾いた音が聞こえたからだ。


ありえないことだ。鏡の向こうに作り出したこの世界は、作った本人であるフィレヌと、フィレヌによって連れてこられた者、あるいは肉体を持たず、鏡や水面を通り抜けられる者しか入ることはできない。セクエとともにナダレがカロストに行っている今、この世界に入れる者はいないはずだった。


やがて足音は止まる。フィレヌはその人物に向き直った。そして全てを諦めた。自分にできることは、もう何も残ってはいないのだと。


「久しぶりだな。魔法姫。」


姫、か。懐かしい響きだ。そういえばあの国にいた頃はそんな風に呼ばれていた。もう二度とその名で呼ばれたくはないと思っていたが。


「ああ。久しぶりじゃな。カイサレオ。」


フィレヌは力なく微笑む。名前のことを訂正しようとは思わなかった。フィレヌという名は彼には知られたくなかった。たとえ全てをこの男に握られようとも、この名前だけは守りたいと思った。


彼がそのことに気づいているかは分からない。カイサレオと呼ばれたその男は口元に笑みを浮かべる。気まぐれに吹く風が彼の短い髪を揺らした。


それはまるで、燃え上がる炎のように見えた。


ーーーーーー


応接間には魔導王であるツァダルと、リダム国王のカイレスが向かい合って座っていた。ツァダルはまだ王子だった頃に何回かカイレスと会っているため、その頃の思い出話に花を咲かせている。


二人の国王の他には最小限の付き添いの兵士と側近が立っていた。当然、その中にグアノとライも入っている。二人は特に会話に混ざることはない。ただ国王のそばで控え、不測の事態に備えるだけだ。


ふと、視界の端に誰かを捉えた。見れば、応接間の入り口のあたりにオルサが立っている。会話の様子を見て、今中に入るのは悪いと判断したのだろう。グアノに気づいてもらえたことに安心したのか、しきりに何か目で訴えていた。グアノは隣に立っているライに小声で伝える。


「少し席を外します。大丈夫だとは思いますが、何かあれば兵士に私を呼ばせてください。」


ライは少し驚いたようだったが、オルサが目に入ったのだろう。すぐに納得したように頷いた。グアノは会話の邪魔をしないよう、何も言わずに一礼して応接間を出る。


「どうなさいました?」


部屋から少し距離を置いた場所で、グアノはオルサに声をかけた。オルサは不安げな表情を浮かべている。


「実は、セクエのことで…。」

「彼女が、なにか?」

「先ほど、急にめまいがすると言って、立てなくなったんです。なんとか部屋までは戻ったのですが、体調が優れないようで…。本人は大丈夫と言っているので、医師には見せていないのですが、一応報告しておいたほうがいいかと。」


思わぬ報告に、グアノの思考が一瞬乱れた。


(セクエが不調…。単なる体調不良か?いや、病だとも考えられるな。だが、医師に見せれば、呪いのことが知られてしまう可能性も…。)


グアノが見る限り、セクエは今まで魔力に関すること以外では特に異常は無かった。おそらく元々病気があった可能性は低いだろう。本人が大丈夫と言っているのならそうなのかもしれないが、セクエもまた医師に呪いを気付かれてしまうことを警戒しているのかもしれない。


「…分かりました。今から様子を見に行きます。オルサ様は、しばらくセクエのことはそっとしておいていただけますか。」

「分かりました。」


グアノは少し急ぎ足でセクエの部屋へ向かう。何か不調があるのなら、できるだけそれは取り除いてやりたかった。医師にもし見せるのであれば、どうやって呪いを隠すか。そんなことを考えていた。


気付けばすぐ目の前に部屋の扉があった。グアノはそれを開ける。


「セクエ、大丈夫ですか?」


セクエはベッドの上で上体を起こして休んでいた。グアノがいきなりやってきたせいか、セクエは驚いたように目を開いてグアノを見た。それからすぐに元どおりの表情になり、少し微笑んだ。


「はい。大丈夫です。」


大丈夫というのは本当のようで、グアノから見てもセクエは元気そうに見えた。それを見て安心する。グアノは部屋の中へ入り、扉を閉めた。


「心配しました。オルサ様は体調が優れないと言っていましたので。」

「すみません、この国に来てからいろいろあって、疲れていたのかもしれません。」

「それだけなら、少し休めば良くなるでしょう。しばらくは安静にしていてください。」


そう言って、グアノはベッドのそばに椅子を持ってきて座る。そうすると、セクエとグアノの目線はほぼ同じ高さになった。セクエは少し不安そうな顔をしていた。


「大丈夫なんですか、仕事があったんじゃ…。」

「その点は心配いりません。私の役目はほとんどありませんから。」


そう答えるが、セクエは表情を変えなかった。無理やり時間を作っていると思ったのだろう。


「嘘ではありませんよ。第一、私はすでに補佐の座を降りています。後任の者はすでにいますし、彼の実力を考えれば、私の出る幕などありません。」


そう言いながら、グアノは自分のことを考えた。これまで仕事を任され、この城に残り続けているが、補佐ではなくなった自分はこれからどうすればいいのだろう。それ以前にセクエのことを考えなくてはならないことは分かっている。だが、こうして漠然と考えてみると、何も思い浮かばない。やはり兵士としてこの城に残り続けるか、それとも何か、別のことをすべきなのか…。


「この城に来ているのは、どんな方なんですか。」


セクエの問いかけに、グアノは物思いから覚めた。


「今この城に来られたのは、隣国のリダム王国の国王、カイレス陛下です。」

「リダム国王…ですか。」


よく分からなそうな反応をするセクエに対し、グアノは少し微笑んで続ける。


「セクエも行ったことがあるはずですよ。シンシリアへ向かうために船に乗ったのが、リダム王国だったはずです。」

「ああ、そういえばそうでしたね。誰かから聞いたんですか?」


納得した様子のセクエの質問に、さらに続けてグアノは言う。


「誰からも聞かなくとも、そのくらいのことは容易に想像がつきます。カロストからシンシリアへ向かう場合、魔導国から近く、さらに海に面しているのはリダム王国とサーズ王国です。どちらも魔法使いの国ですから、入国を許されないことはありません。しかし、サーズ王国は魔導国には面していない。利用するには不便です。」

「……。」


セクエは困ったような顔をして黙ってしまった。それを見てグアノは言う。


「ああ、セクエはまだカロストの国を知らないんですね。位置関係や国名を言われても、分かるはずもありませんか。」


ここで話をやめようかとも思ったが、まだ本調子ではないはずのセクエを置いていくのはまだ不安だったし、会話中の二人がいる応接間に何度も出入りするのははばかられる。


グアノは部屋を見渡し、紙と書くものを用意する。そしてそこに二つの大陸とその間に浮かぶ島々を描き、さらに大まかな国境線を引く。そしてそれをセクエに見えるように置いた。


「まず、二つ並んだ大陸のうち左側、つまり西にあるのがシンシリア。反対側の、東にあるのがカロストです。」


言いながら、グアノは紙に大陸の名前を書き込む。セクエは興味深そうにそれを見ていた。


「カロストの中で、魔導国はここです。」


そう言ってグアノは国境線によって分けられた国のうちの一つを指差す。カロストの最北に位置する国で、カロストの中で二番目に大きな国だった。そしてそこに魔導国と書き入れた。


「そして、リダム王国とサーズ王国はここです。」


グアノはさらに、魔導国の西側にある、隣り合った二つの国を指した。一つは魔導国に面しているが、もう一つは魔導国よりやや南にあり、隣り合ってはいない。グアノはその二つの国の北側にリダム王国、南側にサーズ王国と書き入れる。


「…この二つの国は、どんな国なんですか?」


地図をまじまじと眺めながらセクエは尋ねた。


「まず、リダム王国は漁業や貿易によって栄えた国です。そのため、大きな港町も多くありますし、造船の技術も非常に高い。様々な魔道具を組み込んでいるので、高い波に飲まれても沈まないと言われていますし、風がなくとも前に進むことができると聞いています。」


リダム王国は隣国であり、魔導国とも友好的な関係を築いているので、その国の特徴はすぐにでてくる。だが、サーズ王国はそうはいかない。グアノはセクエや地図から視線を逸らし、考えながら答えた。


「サーズ王国は…そうですね…。リダム王国と同じく港町が多いのですが、産業で栄えたというよりは、軍事力によって栄えた国です。魔導国やリダム王国と同じく魔法使いの国ですが、周辺の小さな国をいくつも攻め落とし、今の勢力まで成長しました。今はそう言った動きは無くなってきていますが、それでも油断のならない国です。」


言った後、しまったと思った。セクエにあまり悪い情報を与えるべきではないと思ったからだ。セクエがそんなことを望んでいるとは思えないし、自分が住んでいる大陸の国のことをあまり悪く言いたくなかった。セクエに視線を戻してみると、セクエはグアノに目もくれず、なにやら地図に書き込んでいる。グアノはそれを覗き込んだ。


セクエが書き込んでいたのは、絵だった。グアノが書いた国名のすぐ下に、小さく絵を描いていたのだ。


「…何をしているのです?」

「私、まだ文字がうまく読めないので、この方が分かりやすいんです。ほら。」


そう言ってセクエはグアノにその絵を見せた。この絵はどうやら国のことを表しているらしい。軍事力が強いサーズ王国には剣、港によって栄えたリダム王国には船が描かれている。しかし、魔導国には何も描かれていない。


「魔導国には、何も描かないのですか。」

「それは…。」


セクエは言葉を濁し、困ったように微笑んだ。


「この国のことは、まだよく分かりませんから、なんとも…。」

「それなら、この国についても、少し話をしましょうか。それから、魔導師についても。」

「魔導師?」


セクエはその言葉を知らないようだった。この国にいる以上、一度は聞いたことがあるはずだが、その意味は分かっていないらしい。


「あなたも聞いたことはあるでしょう。この国に住む魔法使いは、魔導師と呼ばれるのです。魔法は使うものではなく、正しいあり方へと導くものであるという考えがありますから。」

「魔力を導く…ですか。」


呆然とセクエは繰り返した。そして少しだけ、悲しそうな顔をする。


「…すごいですね。私には、正しさなんて分かりません…。」


その言葉に、不意をつかれた気がした。それは、グアノもまた、正しさが分からなかったからだ。そしてそれを、グアノもどこかで気にしていたから。


「…私にだって、分かりませんよ。」


グアノは答える。


「多くの民はその意味を考えもせず、ただ受け入れているだけでしょう。私は兵士になる時、魔導師の誇りを胸に戦えと教えられましたが、それでも…未だに何が正しいのかは分かりません。」


セクエはそう話すグアノをじっと見ていた。グアノは続ける。


「強い魔法を使うことなのか、より効率よく魔力を使うことなのか、誰かを守るために使うことなのか、あるいは…人間が決めていいものですらないのか。」

「……。」


セクエは何も言わずにグアノを見ていた。グアノはそんなセクエを見て、少し微笑み、さらに続けた。


「ですが、私はこの言葉の意味を初めて聞いた時、嬉しくなったのをよく覚えているんですよ。」

「…どうしてですか?」

「魔法が使えなくとも、魔導師になれるからです。」


そう答えると、セクエは予想通り怪訝そうな顔をする。


「魔法を使えなくとも、魔力を持たなくとも、魔力のあり方やその正しさを知っているならば、それは魔導師と呼ぶことができるはずでしょう?今は、魔法使いと剣使いの国で戦争が起きていますし、魔法使い同士でも、本人の能力の差によって差別されることがあります。しかし、もし全ての人が魔導師になれたら…魔力の有無や能力に関係なく、皆が同じであるのだと、そうした考えが広まれば…もう争いなど起こらないのではないかと、そう思ったのです。」


そしてグアノは話し始めた。二種族が手を取り合って生きている、愛すべき故郷のことを。


ーーーーーー


「それで?こんな所まで、はるばる何をしに来たのじゃ?」


フィレヌはカイサレオに尋ねる。


「まさか、わらわをあの国まで連れ帰ろうとは思っておらぬじゃろうな?あれだけの扱いを受けて、わらわがすんなり帰るとでも思っておるのか?」


フィレヌが言うと、カイサレオは声を上げて笑った。


「まさか。俺だってお前に無条件で帰ってきてもらおうなんて、そんな都合のいいことは考えちゃいない。」

「その言い方、条件は用意してあるようじゃな。」

「まあ、そんなところだ。」

「…では聞こうか。条件とやらを。」


フィレヌは警戒しつつ、カイサレオに尋ねる。できれば彼とは話はすらしたくなかった。だが、話も聞かずに追い出すのはあまりにも不自然だし、そんなことをしてもし彼を怒らせれば、自分の命も危うい。彼はかなり優れた魔法使いなのだ。


カイサレオはフィレヌにゆっくりと近づいた。そして口を開く。


「なあ、お前…人間になる気はないか?」


その言葉が、胸の深いところを突いたような気がした。決して揺らぐまいと思っていた意思が急に頼りないものになってしまう。


「人間…。」


呆然と呟く。ずっと、それを欲していた。自然に魔力が回復する体が欲しかった。それを、カイサレオは分かっているのだ。


「お前の中の意思や記憶を、人間の体にそのまま移すんだ。今の技術なら、それは不可能じゃない。それに、お前が魔獣じゃなくなれば、お前はもう迫害を受けることもない。そうだろう、姫?」


断る言葉が出てこない。罠だと分かっていても、わずかな希望に賭けたくなってしまう。


「…少し、考える時間をもらえぬか。」

「俺もそうしてやりたいが、あいにくこっちも時間がない。答えは早急にもらいたい。」

「……。」


フィレヌは視線を落として考えた。


「わらわは…。」


ーーーーーー


グアノは廊下を歩いていた。ライに今回の仕事はもう手伝えないと話しておかなければならない。セクエは平気そうに見えたが、また何か起こらないとも限らない。できるだけセクエのそばで様子を見ていたかった。


予定通りに進んでいれば、今はもう国王の会談は終わっている頃だ。あまり長い間連絡も無く仕事を離れるのはまずい。早くライに伝えに行かなければ。


早足で進むグアノは、一つ角を曲がったところで思わず足を止めた。そこに人影が見えたからだ。誰かは分かっている。リダム王国の兵士の一人、あの髪が赤かった男だ。辺りを見回しており、何やら困った様子だ。


「どうかなさいましたか。」


グアノは声をかける。男は驚いたように振り返り、そして言った。


「実は、その…部屋へ戻るよう言われたのですが、迷ってしまったようで…。案内していただけると、ありがたいのですが…。」


困ったように、恥ずかしそうに男は言う。


「でしたら、すぐにご案内いたしましょう。」


グアノがそう答えると、男は安心したように表情を和らげた。


「ありがとうございます。助かります。」


グアノは廊下を再び進み始めた。この城の構造はそれほど入り組んでいるわけではない。だが、初めて城に来た者が迷ってしまうことも、以前に無かったわけではない。グアノは冷静だった。


二人分の足音が静かな廊下に響く。しばらくは、二人とも黙ったままだった。


「…そういえば。」


不意に、男が口を開く。


「先ほど、白い髪をした少女を見かけました。」


その言葉に、グアノはどきりとした。彼が話しているのははセクエのことでほぼ間違いない。だが、なぜ彼がそれを話すのか。それが分からない。


「…それが、どうかなさいましたか。」


この感情を悟られないようにしながらもグアノは尋ねる。相手は特に何も気にしていないような様子で答えた。


「いえ、別にどうということはないのですが、体調が優れないように見受けられたので。」

「それは…お見苦しいものを見せてしまい、申し訳ありません。」

「いえ、そういうことではなく。」


男はグアノの言葉を遮るようにして続けた。


「その症状に、心当たりがあるもので、つい気になってしまって。」

「心当たり、というと?」


何か病の可能性があるのかと思い、グアノは尋ねる。しかし、男は思ってもみないことを口にした。


「黒い蜂に刺されたのでは?」


その言葉に、グアノは驚き、思わず足を止めた。そして男を振り返る。


「黒い、蜂?」

「ええ。」


男はグアノに合わせて足を止めたが、相変わらず何食わぬ顔をしていた。何かを探る様子も、こちらを煽る様子もない。だが、やはり彼はセクエについて、そしてあの呪いについて何か知っている。


「あの蜂の毒は厄介です。あのまま放置しておくと、心臓の力が徐々に弱まり、やがて死に至る。」

「…その毒を取り除く方法を、あなたは知っているのですか。」


警戒しつつも、グアノは尋ねる。


「ええ。…と言っても、完全に毒を抜くことは、不可能です。ただ、毒を弱めることなら、不可能ではありません。」

「それは、どうやって…?」

「……。」


男は口元に面白がるような笑みを浮かべ、黙り込んだ。そしてグアノから視線を逸らし、また口を開く。


「あなたは、蜂という生き物がどのようにして生きているか、ご存知ですか?」

「いきなり何を…。」

「蜂は一匹の女王蜂を中心にして生きています。女王は主に卵を産むだけ。それに対して、働き蜂は餌を集め、巣を作り、卵や幼虫の世話までもを行う。一つの蜂の群れは、働き蜂によって支えられていると言っても過言ではない。だというのに。」


男は再び視線をグアノに合わせた。


「女王蜂がいなくなれば、働き蜂は生きていけず、やがて死んでいく。」

「…何が言いたいのです。」

「あの蜂の毒も、それと同じことですよ。」


男は歩き出す。立ち止まったままのグアノを追い越し、そしてグアノを振り返って言った。


「案内していただいて、ありがとうございます。ここまで来れば、あとは私一人でも大丈夫です。」

「待ってください。」

「まだ何か?」

「…あなたは、何者なのですか。」


グアノの最後の問いに、男は再び笑みを浮かべた。


「おかしなことを聞くのですね。私が何者であるか、あなたはよくご存知でしょう?」

「……。」


グアノは黙ったまま何も言わない。男は少し呆れたような表情で言った。


「私の名はエルナン。異国からの使者です。」


男は短くそう答え、再び歩き出した。グアノはそれを追おうとはしない。その背中を、ただじっと睨みつけるだけだった。


彼が、セクエを引き渡してほしいと言っている奴らからの使者で、間違いないだろう。一体これから、自分はどうすればいいのか。グアノはしばらく立ち止まったまま考えた。


ーーーーーー


「グアノ様?…グアノ様!」


セクエの呼び声で、グアノは物思いから覚めた。あれから、ライに話を通して休みをもらい、セクエの部屋に再び戻ってきたのはいいが、それからどうしていいか分からず、しばらくぼんやりとしていたのだ。セクエはそんなグアノを心配そうな顔で見ていた。


「何かあったんですか?」


セクエは尋ねてきたが、グアノは今起こっていることを話す気は無かった。セクエに言ったところで、嫌がるのが見えていたし、それにこれは、この国の王家の信頼にも繋がりかねない問題だ。無情なことだとは分かっていたが、セクエの私情をできるだけ挟みたくなかった。


「いいえ、何もありませんよ。することが無くなってしまったので、何をしようかと思っていたところです。」


グアノは再び部屋の扉に手をかける。


「資料を取りに行きますが、すぐに戻るので、くれぐれも出歩かないようにしてくださいね。」


そう言い残して部屋を出る。資料とは、言うまでもなく呪いに関する情報のことだ。読み取れた効果や常時消費される魔力の量など、事細かに記してあるそれは、すでに薄い本のほどの厚さになっていた。


歩きながら、グアノはため息をこぼした。今さら呪いのことを調べようなんて、自分は何を考えているのか。諦めればいいではないか。見捨てるべきではないか。自分が生まれ育ったこの国のために。


だがそれを決断することはできなかった。まだ何か、心の奥に引っかかるものがあった。手放すことには利益しかないと、相手側は言っていたし、自分もまたそう思っているのに。なのになぜ、彼女を手放すことにこんなにも抵抗を覚えるのだろう。


まだ罪悪感が拭えないのか、非情な行為を取る自分を許せないのか、それとも、自分が何か、彼女に価値を見出しているのか。


答えが出せないままグアノはセクエの部屋へと戻る。扉を振り返って閉めた時、背後から魔力を感じた。特に殺気や敵意は感じられなかったため、セクエが何か魔法を使ったのだろう。


まだ体調が優れないのに魔法を使うのは体に良くない。グアノはそれを注意しようとして振り返ったが、声を出すことはできなかった。


セクエは魔法でいくつも泡を作り出し、それを空中に浮かべていた。人の頭ほどもある大きな泡で、七色に淡く光っている。おそらくは光魔法で包んでいるのだろう。それほど難しい魔法を使っているわけではない。グアノでも簡単に真似できるし、もしかしたら町に住む子供でも使えるだろう。


だが、グアノはそれに見惚れてしまっていた。その魔法が言葉も出ないほどに美しく感じられたのだ。


(なぜだ?何が違う?どうしてこんなにも…。)


そこまで考えて、はたと気づく。


(そうか…だから私は、彼女を手放したくないのか。)


思えば、美しいと感じたのはこれが初めてじゃない。彼女を連れて来るため村に行った時、街中で敵兵を次々と見つけていくセクエの幻を見た時、ルーベル帝国の兵と国境で戦った時でさえ、グアノはその魔法の精度や威力に驚きつつも、心のどこかでその美しさに魅せられていた。


同じ魔法を使ったとしても、きっと自分は同じようにはできないだろう。その美しさの根底に、何があるのか。自分はそれを知りたいのだ。


(そしてきっとそこに、魔導師になるための…魔力の正しさを知るための手がかりがあるはずだ。)


なぜかは分からないが、そう思った。グアノは呆然とセクエのその魔法を眺めた。七色に輝く無数の泡は、まるで夢でも見ているような幻想的な世界を生み出していた。


突然、一つ残らず泡が消えた。グアノは我に返る。


「セクエ?」


声をかけたが反応はない。グアノはセクエに駆け寄った。セクエは上体を起こしてはいるものの、背中を丸めて荒い息を繰り返している。両手は胸のあたりを掴み、体は小刻みに震えていた。垂れ下がった髪で表情は分からなかったが、体調が悪いのは明らかだ。


(まずい、すぐに医師を呼ばなければ!)


すぐに扉へ向かおうとしたが、グアノは動けなかった。さっきの男、エルナンの言っていたことを思い出したからだ。


(この症状が、病ではなく呪いの影響だとしたら…。)


医師を呼んだところで、治せるわけがない。それどころか、呪いが知られる危険性が高い。


(となれば、医師は呼べない。ならば、どうすればいい…?)


焦る心を精一杯落ち着けて、グアノは考える。だが、あまり悠長にはしていられない。グアノはセクエの背に手を当て、呟くように呪文を唱えた。


衰弱化フィアル・デンソル。」


そう唱えると、苦しそうだった呼吸は穏やかになり、体の震えも止まった。しかし、それと同時にセクエの体から力が抜ける。


グアノは前に倒れこみそうになる体を抱えて支え、ゆっくりと横たえた。その顔はグアノに向けられていたが、目は虚ろで、呼吸も浅い。それを見てグアノは唇を噛んだ。この程度のことしかできない自分が歯がゆい。


衰弱化の魔法。相手の持つあらゆる感覚、能力を鈍くし、弱める魔法だ。前にセクエが国王から受けた感覚遮断魔法と似ているが、この魔法はあくまで弱めることを目的とする魔法で、意識を奪う魔法ではない。


この魔法ならば、セクエのすべての感覚を弱めてしまう代わりに、セクエにかかっている呪いの効果も同時に弱めることができる。


だが、この魔法は、相手のすべての能力を極限まで弱めてしまう。その上、一度使うと効果は一定の間継続し、それを途中で解くことはできない。この魔法自体は命に関わるものではないが、魔法の効果が続いている間は食事をとることもできなくなるため、繰り返して使えば確実に死んでしまう。この魔法は時間稼ぎにしかならなかった。


「目を、閉じて、休め。」


グアノはセクエの耳元に口を近づけて、ゆっくりと、やや大きめの声で語りかける。聴力も思考力も落ちている今は、普通に話しかけても本人には届かない。簡潔に、はっきり伝えなければならないのだ。


それからしばらく経った後、セクエは眠るように目を閉じた。グアノは一つため息をつく。


何もできない自分が、もどかしかった。どんなに手放したくないと思っても、結局自分に彼女を助けるだけの力はないのだ。


グアノは悔しかった。しかし、どんなに歯を食いしばっても、爪が掌に食い込むほど強く手を握っても、そんなことには何の意味もなかった。


ーーーーーー


夜、人気のない廊下を歩く。夏が終わりかけている今、夜の空気は冷たく、月明かりは冷ややかにグアノを見下ろしている。


あれから、自分の中にまるで二つの人格ができてしまったように思えた。焦りや不安が胸の奥底で激しく渦巻いているが、頭の中ではそれを冷静に受け止め、諦めている自分がいる。鏡を見ても、そこに映るのは落ち着き払った自分の姿だった。仮面に隠されていない口元からは、罪悪感や焦燥感は微塵も感じられなかった。


そうだ。分かっている。もう何もできないことも、救えないことも。だからこそ、自分はこんなにも冷静でいられるのだ。しかし、それならば一体、この胸のざわめきはどこからやってくるというのか。


グアノは足を速めた。セクエにかけた魔法がそろそろ解ける頃だ。魔法をかけ直さなければならない。そうしなければ、彼女は呪いによって殺されてしまう。


(だがこれは、彼女を生かすためではなく…彼女を引き渡すまでの時間稼ぎでしかない。)


そう思うと、胸が苦しい。本当は渡したくなどない。だが、それは一体なぜだ?助けたい理由も、手放したい理由も、グアノは分からなくなってしまっていた。さっきまでは分かっていた気がするのに、考えるたびに思考が鈍っていくような気さえする。


だがそれも、彼女がこの国を去れば、忘れてしまうのだろう。きっと自分は間違っていない。この国のために、仕方のないことだ。


扉を開ける。そこにセクエはいなかった。


(もう…行ってしまったのか。)


グアノは驚かなかった。こうなることは分かっていたからだ。


なんとなくまだ自分の部屋に戻る気にはなれず、グアノは部屋に足を踏み入れる。その瞬間、何かに包まれた気がした。


(……?)


目に見えぬそれに誘われるように、グアノは部屋の中央へと進む。ふと白いものが見えて目を向けると、机の上に呪いの資料が置かれたままになっていた。無意識のうちにそれに近づき、そっと手を触れた、その瞬間、目が覚めたような気がした。


(……!)


頭の中の霧が晴れた、とでもいうのだろうか。自分の中の迷いが、小さくなっていくのを感じた。それと同時に、何かを思い出す。


(そうだ。…助けなければならない。)


理由ならある。彼女を見捨てる理由など、もうどこにも無い。


部屋を飛び出したグアノに、迷いは無かった。


ーーーーーー


上空から城全体を見渡す。自分の使った催眠魔法がこの城を隙間なく覆っていることを確認し、エルナンはゆっくりと中庭に着地した。


正面にいるのは白い髪の少女。名前は確か、セクエといったか。セクエは座り込み、胸に手を当てて苦しそうに息をしていたが、こちらを睨みつけている視線は冷たく、鋭い。


「そんなに警戒することもないだろう。別にお前を殺そうって訳じゃない。」


エルナンは呆れて言うが、セクエは睨んだままの視線を変えなかった。やれやれ、とため息をつく。


「あの時王女を通して話した通りだ。お前はいずれこの国の邪魔になり、捨てられる。それはお前も勘付いているだろう?他国へ連れて行こうっていうこの提案はお前にとっても得が多いはずだ。」


そう言うと、セクエは少し動揺したように視線をそらす。エルナンはそれを見て内心ほくそ笑んだ。


セクエは周囲に迷惑をかけることを恐れている。もしこのままこの国を追われることになったとしても、セクエはそれに逆らわないだろう。自分の命が危うくならない限りは。


(まったく、扱いやすい性格だな。こっちの思惑にも、どこまで気づけているんだか。)


こちらの考えが知られていないことには、エルナンは絶対的な自信を持っていた。セクエについては事前に情報を集めてある。特にこちらにとって不利になる情報は入念に調べた。当然、彼女が人の心や考えを読む魔法を扱えるということは知っている。


だがそれでも、今のセクエはエルナンの考えを読めていないに違いない。エルナンがこの国に来る以前から、思考を制限する魔法を使っているからだ。もちろん、本人に気づかれない程度の威力に抑えてあるが、それでも十分に効果は出ている。こうして呼び出しに応じているのが証拠だ。普通なら、誰にも何も告げずにこの国から逃げるだろう。この国に頼れる人間がいない上に、周囲に迷惑をかけたくないなら、それが当然の選択になる。だがこいつはそれをしなかった。こちらに従ったところで大した得など無いことは考えれば分かるはずなのに。


「まあ、警戒しているにせよ、ここに来たということはこちらの提案に乗るということでいいんだな?」


エルナンは再確認する。セクエは黙ったままだったが、エルナンはその沈黙を了承と受け取った。


「それじゃあ始めよう。邪魔が入らないとも限らない。」


邪魔、というのはあの仮面の男、グアノのことである。あの男にもセクエと同じ魔法を使ってある。王女を通してセクエと話をした際、側近を利用してあの男にかけたのだ。あの魔法は、かけた直後は効果は薄いが、じわじわとその精神を蝕み、特定の思考を相手に根付かせる。


今頃はセクエのことなど諦めているだろう。それが自分の本心ではないと気づくこともないまま。口では邪魔が入ると言ったが、その点についてはあまり心配していなかった。他の者が来る可能性もあったが、城を覆う催眠魔法によって眠らされているので、朝まで目覚めることはない。


エルナンはセクエの首筋に見える呪いの模様を見つめ、スッと指差した。その瞬間、セクエがわずかに身震いし、体が硬直する。


呪いという魔法の特徴として、呪いをかける時や解く時に、相手の動きを止める効果がある。より確実に呪いの効果を体に染み込ませるために、全ての呪いに組み込まれている効果だ。


「体に潜む黒き蜂よ、服従の象徴よ。」


エルナンは唱える。セクエが驚きに目を見開くのが分かった。呪いの印がわずかに光っていることを確認し、エルナンはさらに続ける。


「お前に新たな主を与える。今ここに新たな服従の誓いを立て、新たな主の命令に従え。主の名は…」


そこまで唱えたが、そこから先を唱えることはできなかった。自分の体が水でできた蔓に締め付けられたからだ。印の光が消える。セクエの体には自由が戻り、再び苦しそうに息をし始めた。


(…驚いたな。まさかあの魔法を受けた者が、自力でここまでやってくるとは。)


エルナンは体をちぎらんばかりに締め付けてくる蔓を無視しながらそう思った。呆れて物も言えない。エルナンが深くため息をつくと、水の蔓は一瞬にしてかき消えた。魔力がやってきた方に目を向けると、そこにいたのはやはりグアノだった。


グアノは驚いているようだった。相手が使った魔法を同系統かつ同威力の魔法を使って打ち消すことなど、エルナンには造作もないことだったが、ここまで自然にそれができるというのはこの国では珍しい。その上、苦しむそぶりも見せなかったのだから当然か。


(だが、実力の差を見せつけてもなお、諦める様子はない、か。)


本当に呆れる。エルナンはグアノに向き直り、近づいた。一歩、また一歩と距離が縮まるに連れて、違和感に気づく。


(魔法の効果が弱められている。)


これはセクエが仕組んだことか?だとするなら、セクエにはこの男を巻き込む覚悟があるということなのか。それとも、覚悟なんてものはなく、ただ誰かにすがりたかっただけなのか。


(どちらにせよ、セクエには気づかれていたということか。少々甘く見ていたが、なかなか勘の鋭い奴だ。)


エルナンは足を止める。向かい合った二人はしばらく黙っていた。先に口を開いたのはグアノだった。


「あなたは言った。この要求を拒むなら、その時は止めればいいと。」

「そうだな。」

「だから私は…あなたを止めさせてもらう。」

「やってみるといい。お前にそれができるなら。」


エルナンがそう言うのとほぼ同時に、グアノは両腰の剣を抜き、浮遊魔法を使って一気に距離を詰めてきた。しかし、その剣がもう少しで体に触れるというところで、その体の動きは完全に止められた。


「ぐっ…?!」


身動きが取れなくなったグアノがうめく。エルナンはそれを冷たい目で見ていた。グアノの体は黒く揺らめく炎のようなものに包まれている。エルナンが使った影魔法だった。


(馬鹿らしい。この程度の魔法も見抜けないのか。)


夜、暗闇の中で使う影魔法はたしかに避けるのは難しいが、影を作る光が弱いため威力が下がる。直撃が避けられないだけならまだしも、身動きすら取れないのはあまりにも情けなかった。


動けないままのグアノの額に手を伸ばす。弱められているとはいえ、こいつにかけた魔法はまだ残っている。繰り返して魔法を使うのは魔力の消費が激しいためできないが、残っている魔法を利用すれば、戦意を削ぐことは容易い。


「口ほどにもないな。その程度で俺にかなうと思ったか?」


手が仮面に触れる。月明かりを反射して銀に光っているそれは夜の冷気で冷やされていた。エルナンはさらにその手を撫でるようにして後頭部に回す。そしてグアノと視線を合わせた。グアノが警戒して身をこわばらせたのが分かったが、身動きが取れないこの状況では意味が無い。


「認めたらどうだ?お前は俺には勝てない。そうだろう?」


息がかかるほど近くで、グアノに言い聞かせるように囁く。相手の不安を煽り、魔法の効果を再び強めるための言葉だ。


「……光魔法フィオウラっ!」


グアノは呪文を唱え、影の炎の中からなんとか脱出すると、後ろに飛び退いてエルナンから距離をとった。


「影魔法を光魔法で相殺、か。なかなか考えたじゃないか。」


魔法は、同系統で同威力のものでも打ち消せるが、正反対の性質を持つ魔法でも打ち消せるのだ。それが分かっているということは、こいつもそこまで馬鹿ではないらしい。


グアノは片膝をつき、エルナンを見つめている。仮面のせいで表情は読み取れないが、呼吸は荒く、空気は冷たいというのに妙に汗をかいていた。自分の中に再び生まれた感情に驚いているのだろう。


「何を…した…?」

「さあ?何だろうな。」


エルナンはニヤリと笑う。セクエは扱いやすい性格をしていたが、その点で言えば、グアノの方がはるかに上だった。こいつは自己評価が低く、過去の失敗や後悔に囚われやすい。心の中にはいつも迷いがあり、他人の言葉ですぐに揺れる。たった少し言葉を聞かせただけで、こいつの心は術中にはまってしまうのだから、ここへ来たのもその程度の意思ということだ。魔法が弱められていなければここへ来ることはまずなかっただろう。


「どうした?止めるんじゃなかったのか?」


エルナンは両手を広げ、挑発する。グアノは立ち上がり、再び剣を構えた。そして呼吸を整える。その仕草はゆっくりとしていて、余裕を感じさせる。


その動作を疑問に思う暇も無く、気づけばすぐ目の前までグアノが来ていた。その剣はエルナンの喉元まで迫っていたが、刺さってはいない。エルナンを覆う影魔法によって止められたからだ。グアノはそうと気づくとすぐに浮遊魔法で上へと逃げた。反撃を恐れてのことだろう。


エルナンは再び影を操ってグアノへと向かわせる。それと同時にグアノは右手を上げ、そして勢いよく振り下ろした。


瞬間、辺りが明るくなった。影魔法はその光を受けて力を増したが、その代わりに色が濃くなり、形もはっきりしたものになる。グアノはそれを両手で持った剣でなぎ払った。


エルナンは軽く辺りを見渡す。周囲の明るさから考えて、これは月光を利用した広域照射魔法だろう。特定の範囲に光を集め、周囲を照らす魔法だ。それほど難しい魔法ではないが、範囲の広さを考えれば、魔力の消耗は大きいはずだ。そう長くは魔法を維持できない。


だが、それ以前に気になる点がある。あの魔法を受けていながら、動揺しているそぶりが無いことだ。動きが鈍るどころか、むしろ無駄が少なくなっている。魔法が効いていないのだ。


(すでに覚悟は決まっている、ということか。驚いたな。セクエを助ける理由が、一体どこにある?)


ともかく、戦意を削げないのなら、少々手荒な手段を取るほかない。こいつが集めた月光を使わせてもらうことにしよう。


魔法では、月光は冷気を司る。月の光が集められている今、その威力は普段より格段に強められている。それを利用するのだ。


グアノは地面に着地し、跪くようにして両手の剣を地面に突き刺す。エルナンが冷気を操って巨大な波を作り出したのと、グアノの周囲に大きく濃い影の渦ができたのが、ほぼ同時だった。


二人は魔法を作り出したまま、しばらく動かなかった。エルナンの周りでは凍りついた空気が月明かりを浴びて銀に光り、グアノの周囲には地面から吹き出すように黒い影が湧き上がり、渦巻いていた。


エルナンは隙なく魔法を構えながら、周囲を確認する。集められた月光はすでに消え、周囲は暗くなっている。おそらく、グアノが光を使ったのだ。そうでなければ、ここまで影魔法が強くなることはない。


グアノは地面に跪いたまま動かなかった。魔法を扱うのにかなり集中力がいるのだろう。だが、その姿勢はあまりにも無防備だ。エルナンは渦巻く影を冷気で覆い尽くした。瞬間、激しかった動きが止まり、影は凍りついた。そして耳障りな音を立てて崩れ落ちる。


グアノは砕け散った影がまだ空中にあるうちにエルナンに走り寄り、構えた剣をエルナンに振り下ろす。エルナンは魔法で迎え撃とうとしたが、グアノの剣が体に触れる直前、グアノはエルナンの後ろに転移した。避けることもできず、エルナンに剣が振り下ろされる。


「なっ……?!」


思わず、といった様子でグアノが声を漏らすのが聞こえた。エルナンの体は剣の軌道に沿って真っ二つに切れたが、それでもなお、エルナンは体勢を変えなかったのだ。ちぎれた上半身は空中に浮かび、血が流れるどころか、痛みすら感じてはいない。切り口はかげろうのように揺らめいていた。グアノは警戒して距離をとった。


「なるほど。なかなかやるようだな。」


エルナンは余裕の表情でグアノに言う。切られた部分は混ざるように合わさり、元どおりの体になった。幻覚魔法を用いた防御魔法だ。たとえどんな攻撃を受けようと、今のエルナンには傷一つつけることはできない。再び魔法を構えようとするグアノを見て、エルナンは口を開く。


「いつまでこんなことを続けるつもりだ?」


それを聞いて、グアノの動きが止まる。エルナンは続けて言った。


「何をやろうと無駄だ。もう諦めろ。お前にセクエは救えない。」

「それは、まだ分からないだろう。」

「もう時間がない。」


エルナンはぴしゃりとそう言い放つ。グアノは口をつぐんだ。


「お前の実力は大体分かった。もうこれ以上戦う理由はない。」

「…私では、あなたには及ばないと?」

「それもそうだ。だがそれ以上に、それだと時間がかかりすぎる。」

「……?」


どうやら何も分かっていないらしい。まったく呆れた奴だ。


「お前も気づいているだろう。セクエの体は、黒い蜂の毒に侵されている。」


グアノは頷く。


「それは分かっています。しかし、主の命令に逆らったわけでもないのに、なぜそんなことになるのか、それが分からない。」

「なら聞くが、あの呪いの今の主は誰だ?」

「それは…ツァダル陛下だ。」

「違う。」


エルナンはグアノのその答えを否定する。


「あの王は呪いに誓いを立てていない。呪いの主になれるのは、誓いを立てた者だけだ。」

「それなら…。」


グアノは言葉を濁す。


「今、あの呪いには…主がいない。」

「その通り。そして、働き蜂は女王がいなければ生きられない。」


グアノが息を呑むのが分かった。


「前の主が死んで、もうかなり時間が過ぎている。あのまま放置すれば、次の朝を迎えることもなく、セクエは死ぬだろう。それを防ぎたいのなら、新たな主を定めるしかない。」


今のセクエはいつ死んでもおかしくない状態だ。これ以上時間をかけるわけにはいかない。


「まあ、方法がわからないなら教えてやらないでもない。だが、お前にそれだけの覚悟はあるか?セクエの命を救うために、セクエの命を支配することができるか?」

「それはっ……!」

「できないだろう。かつての王と同じ過ちを繰り返すことは、お前にはできない。」


グアノは言い返せずに黙り込んだ。それを見てエルナンはグアノに近づく。ある程度距離を詰めると、エルナンは立ち止まり、再び口を開いた。


「お前にそれができないなら。」


ドス、と鈍い音が聞こえた。油断しきっていたグアノの体を、エルナンの影魔法が貫いたのだ。


「これ以上俺の邪魔をするな。」


吐き捨てるようにそう言って、グアノの体から魔法を引き抜く。グアノは声を上げることもなく、その場に倒れた。地面にじわりと血が広がり、嫌な匂いが鼻をつく。


(まったく、手間ばかりかけさせる奴だ。大人しく諦めていればいいものを。)


セクエの所へ戻ろうと振り向いた瞬間、はっきりとした敵意を感じ、エルナンは飛び退いてそれを避けた。首に痛みが走り手を当てると、その手には血が付いていた。


(防御魔法が、消された…?)


しかも、狙われたのは首だ。あと少し反応が遅ければ、確実に死んでいただろう。


「驚いたな。まだここまで動けるだけの体力が残っていたとは。」


エルナンは攻撃が来た方を睨みつける。グアノとエルナンの間、まるで彼をかばおうとするような位置に、セクエが立っていた。その顔は苦痛に歪んでいる。じっとしているだけでも相当に苦しいだろうに、わざわざこちらを攻撃してくるということは、要求に応えるつもりはなくなったということか。


(まずいな。奴を少し攻撃しすぎたか。)


もともと、グアノは止められればそれで良かったのだ。それをわざわざ殺してしまったことで、セクエの反感を買ってしまった。


「…確かに少しやり過ぎたかもしれないな。だが、国を出るお前にとっては、もう関係のないことだろう。」


エルナンは言う。セクエは言葉が聞こえているのかいないのか、表情を変えることはなかった。


「私は…。」


セクエは口を開く。その後に続いた言葉は、エルナンの予想を超えるものだった。


「私は、グアノ様に服従を誓う。」


一瞬、思考が停止する。なぜセクエがそんなことを言うのか、まったく分からない。


「何を言って…。」


言いかけて、言葉を切った。首筋の印が、わずかに光っている。


(なぜだ…?)


あんな言葉に、意味などないはずだ。呪いの効果を書き換えるには、特定の呪文を唱え、呪いに誓いを立てなければならない。口先だけのあの言葉に、そんな効果はないはずだ。なのに、なぜ。


(誓い…。まさか、俺が呪いから助かる方法を口走るのを待っていたのか?そのために、騙されたふりをし続けていた…?)


そして何かの偶然で、セクエの思惑通りに事態は進んだ、ということか。


(いや、たとえそうだとしても、俺がやることは変わらない。)


エルナンは心を落ち着け、状況を確認する。セクエの表情には余裕が戻っていた。呪いは正式にグアノを主と定めたようだ。呪いが反応したということは、まだグアノは生きているということになる。しかし、あの攻撃を受けて、そう長く生きられるとは思えない。そして、セクエがそれを助けられる可能性もない。


魔法使いはそれぞれ異なる質の魔力を持つ。それは個人の判別にも使えるが、質によって魔法の得意不得意が変わる。セクエの魔力の質は、氷魔法が非常に得意だが、そのかわりに回復系の魔法が全く使えない。この状態のグアノを救うことは不可能だ。


グアノが死ねば、主はいないことになる。少し時間を稼げば、状況は振り出しに戻るわけだ。


「そんなことを言ってどうするつもりだ?お前にあいつは救えない。人を呼ぶつもりなら無駄だ。全員眠らせてある。仮に起こしたところで、お前がすべての罪を被ることになる。どう足掻こうと、お前の負けだ。」

「……。」


セクエは相変わらず黙ったままだった。その口の端が、わずかに笑っている。


「お前…まさかっ……!」


そう言うと同時に、エルナンは浮遊魔法で上へと逃げた。きっとセクエはそれを予想していたのだろう。目にも留まらぬ速さでエルナンに追いつき、行く手を塞いだ。その動きに冷や汗が垂れる。


セクエは全身に魔力をまとい、ニヤリと笑う。夜の闇の中で、その目だけが光っているように見えた。


魔力が暴走しているのだ。そのせいで、理性が飛んでしまっている。怒りによって増幅された魔力を抑えることができなかったのだろう。


(まずい。普通の状態なら、魔法でいくらでも動きを止めることはできる。だが…。)


暴走してしまうと、攻撃魔法や催眠魔法では止めるのは難しくなる。何せ理性がないのだ。感情が無くなるため催眠魔法は通用せず、瀕死の状態まで追い詰めなければ体は動き続けるだろう。体を拘束することもできるが、セクエならばその程度の魔法は簡単に防がれてしまう。その上、相手はこちらを殺すことをためらわない。状況が圧倒的に不利だ。


(グアノが死ぬまで持てばいいが…。)


エルナンは目の前のセクエに対して、火炎魔法を使った。しかし、セクエの周りに渦を巻くように放ったその魔法は、ほとんど火にならずに消されてしまう。


やはり駄目か、と思った瞬間だった。魔力とは違う、空気の塊のようなものに包まれたような気がした。そして疑問が生まれた。それが自分ではなく、もう一人の誰かが抱いた疑問であることを、エルナンは分かっていた。


(何だ?)

(ここはどこだ?)

(奴は誰だ?)

(何が起こっている?)

(『僕』は何をしているんだ?)


疑問が、次々に浮かんでいく。自分の身に何が起こったのか分からないまま、エルナンはただ呆然とするしかなかった。


(…『お前』は、誰だ…?)


目の前の少女ではなく、他ならぬ自分自身に向けられたその疑問に気づいた瞬間、恐怖が全身を駆け巡った。


「くそっ…!」


まだだ。まだ『あいつ』に戻るわけにはいかない。『あいつ』に、俺がここにいることを知られてはいけない。自分の中で大きくなっていくもう一人の力を必死に押しとどめながら、エルナンはセクエから距離をとった。セクエは追ってこない。自分の置かれた状況が分かっているように、ただ静かに見つめているだけだった。


(解除の力で魔法を解いたのか?俺がこうなることを分かっていて…?)


エルナンは転移する。故郷の地へ帰るのだ。この状況では、セクエを連れていくことはできそうもない。つまりは甘く見過ぎていたのだろう。セクエの実力、グアノの思考、そして『あいつ』の存在。その全てを読み切れていなかった。


(だが、グアノは遠からず死ぬ。次こそは…必ず手に入れてみせる。お前のその『力』を…!)

最後まで読んでいただきありがとうございます。前回よりは早い更新となりましたが、それでも数ヶ月かかってるんですよね…。書き始めた頃の私はいったいどうやっていたんでしょうか(汗)。


このシリーズはもうそろそろ終わらせようかと思っています。また遅い更新になるとは思いますが、それも読んでいただけたら嬉しいです。

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