#2 再び迫る脅威
朝、目を覚ましたグアノは朝食を早めに済ませ、再び国王の部屋を調べていた。だが、本棚はやはり大きく、思っていたようには進まない。朝早くから調べているが、まだ半分も終わっていないのだ。
だが、もう休んでいるような時間はない。急がなければ、セクエに呪いが定着してしまい、解くことができなくなる。そうなる前に、解く方法を見つけなければならないのだ。
グアノは調べていた本を棚に戻し、そしてその隣の本に手を伸ばし、調べる。さっきからこれをずっと繰り返していた。一向に終わりが見えてこない。だが、この本棚のどこかにあるはずなのだ。そう広くはないこの部屋の中で、物を隠せておける場所には限りがある。机は調べたのだから、あとは本棚しか考えられない。
突然扉を叩く音が聞こえ、扉が開いた。グアノは扉を振り返って見た。
「グアノ、やはりここにいたか。」
「ツァダル殿下。どうなされましたか。」
「お前は、セクエというあの少女について、何か知っているのか?」
グアノはなぜそんなことを聞くのかと少し疑問にも思ったが、答えた。
「はい。この国に来た経緯は分かっています。」
「そうか…。」
続けて質問が来るかと思ったが、ツァダルはそんなことはせず、少し悩むように視線をそらして言った。
「お前に、セクエの見張りを頼みたい。」
「私に、ですか?彼女は今牢屋に入れてあります。見張りは兵に任せた方がいいと思うのですが…何か問題が?」
「…お前は彼女を牢屋に入れたな。それはなぜだ?」
「それは…彼女には自分で抑えきれないほどの魔力があり、暴走の危険性があったからです。」
「そうだ。彼女は危険すぎる。他の兵に任せるのは不安だ。それに、事情を知っているお前なら彼女から話を聞きやすいだろう。頼めるか?」
「…分かりました。お受けしましょう。」
「そうか、助かる。見張りと言っても、四六時中見張る必要はない。ただ、食事を持っていき、その時に少し彼女の様子を見るようにしてくれ。分かっていると思うが、無理に刺激を与えるのはまずい。」
「…そうですか。」
グアノは複雑な気分になった。昨夜タンザと話したことを思い出す。脆いと言っていたあの言葉と対照的なツァダルの考えに少しだけ違和感を感じた。といっても、グアノ自身セクエを恐ろしいと思っていることもまた、事実なのだが。
「それから、今後はお前に補佐としての仕事はあまり頼まないことにする。補佐も引き継ぎを行わなければならないからな。そういった仕事は私の側近に頼むことにする。」
「分かりました。」
「では、よろしく頼んだぞ。」
グアノは何も言わずに頭を下げる。ツァダルが部屋を出て扉を閉める音が聞こえた。
(さて…また仕事が増えたか。)
できれば早急に呪いについて調べたいのだが、そろそろ城の者が朝食をとる時間帯だ。グアノは早めに終えていたが、セクエはそうではないだろう。頼まれたからには役目を果たさなければならない。セクエに朝食を持っていくことにしよう。
一度食堂に寄り、朝食を持って牢屋に行く。入り口を見張っている兵には話を通してあるのだろう、一礼してすぐに中へ入れてくれた。
入り口を入ると鉄格子がずらりと並んだ通路に出た。窓があり、空気の入れ替えはできているはずだが、空気は重苦しく、日が差しているというのに心なしか少し寒い。
足音がよく響く通路を進む。セクエは一番奥の牢屋に入れられていた。鉄格子の隙間から朝食を中に入れる。
「朝食を持ってきました。」
そう声をかけたが、聞こえていないかのように無反応だった。膝を抱えてうずくまっている。顔を両膝に埋め、こちらには視線さえ向けてくれない。体が震えているのは、寒さのせいか、それとも恐怖のせいなのか。
(弱い人、か。)
そうだろう。いくら魔力があるといってもまだ子供だ。力を抑えられず、その結果引き起こされた事態に怯えることしかできないのだ。だというのに、周りからはその魔力のせいで恐れられ、距離を置かれる。彼女もまた、被害者であるというのに。
(理不尽なものだな。せめてこんな魔力を持っていなかったなら、もっと穏やかな生活があっただろうに。)
グアノは通路の床に腰を下ろす。思っていたよりも冷たかった。
(私は…同情しているのかもしれない。)
膨大な魔力を持つ彼女と、治らない病を持つ自分を重ねているのかもしれない。せめてこれがなかったなら、他の生き方ができたのに、と。そんな自分勝手なことを、思っているのかもしれない。彼女の呪いを解こうと思うのも、時間がないのに見張りの仕事を断れなかったのも、全て同情心によるものなのかもしれない。
自分の心のことなのに、何一つ断言できない自分が悔しい。
(罪人に同情するなど…判断が鈍るだけだというのに。)
ーーーーーー
悲鳴が聞こえる。血が飛び散るのが見える。それを見ている、自分がいる。
思い出した。思い出してしまった。思い出したくなんてなかった、この記憶を。
膝を抱えているこの感覚も、体の震えも、冷たい床の感触も、何もかもが遠くにあった。自分は川辺に立っていて、兵が次々に死んでいくのを、殺されていくのをただただ見ている。そんな錯覚に陥ってしまう。
目を開けば、牢屋と思われる部屋の景色と重なるように、血で真っ赤に濡れた草原が見え、立ち上がる氷の柱が見え、それに貫かれた死体が見えた。
体の震えが止まらない。血の気が引いて意識が薄れる。だが、セクエは歯を食いしばって意識を保っていた。目の前の現実の風景が見えなくなったら、この記憶にずっと閉じ込められてしまうような気がしていた。
あの時、自分は国境の近くの建物のそばでうずくまっていた。国王から何を言われたのか思い出せず、自分は何のためにここにいるのか、何をすべきなのか、何も分からなかった。
遠くで魔力がぶつかり合う気配を絶えず感じていた。たくさんの人が戦っているんだと思った。自分はその中に入りたくないと思った。
でも、なぜだろう。気がついたら自分は動いていた。全速力で、魔力がぶつかり合うところに向かっていた。何かあったら逃げろと言われた声を、確かに覚えていたはずなのに。
そうだ。声が聞こえた。殺せと言われたのか、戦えと言われたのか、それは分からなかったけど、ここにいてはならないという、何かを命じる声。
自分はそれに、従わずにはいられなかった。使命感のようなものに駆られて自分は動いていた。何が何でも、その命令に従わなければならないような気がしていた。
でも、一度は止まったのだ。国境の様子を見て、逃げなければならないと感じた。足がすくんで、戦うどころではなかった。
それなのに、どうして自分は止まれなかったのだろう。自分はあの時、逃げることを選ばなかった。そんな考えはどこにもなく、ただひたすらに、どうやって命令に従うかだけを考えていた。自分が何をすればいいのかさえ分からないままで。
そして自分が見つけた答えが、指輪を外すことだった。魔力が暴走すれば、もうそれは自分の意思ではないから、怖い思いをしなくて済む。魔力が勝手に解決してくれる。なんて、そんなことを考えたのだろうか。
自分は指輪を抜いた。そこからの記憶は、はっきりしない。ただ一つはっきりと覚えているのは、後で元に戻れるように、指輪だけはしっかりと握りしめていたということ。元に戻れなくなることを恐れてはいたけれど、きっと自分はあの状況を楽しんでいただろう。魔力がなくなり、体が軽くなっていく快感に酔いしれていただろう。悲鳴も血しぶきも、その時は気にならなかったに違いない。ひたすらに自分の快感だけを求め、その犠牲として死んでいく者たちを嘲笑って、不気味な笑みを浮かべていただろう。
それが終わって、あたりが急に静かになると、その時にはもう、自分は少し落ち着きを取り戻していた。でも正気ではなかったと思う。
物足りないと思った。あまりにも呆気なくて、続きを求めてしまった。呆然と辺りを眺めると、川の向こうに人がいるのが見えた。だから次の標的を彼らにした。
その時は、その人が誰かなんて考えなかった。今考えればありえないことをしていたと思う。敵が味方かも分からない人を殺そうとするなんて。
呪文を唱えると、ほぼ同時にまた悲鳴が聞こえた。でも、悲鳴以外の誰かの声も聞こえた気がする。そして突然視界を塞がれて、何も見えなくなった。それからのことは、もう思い出せない。
ああ、駄目だ。そんなことを思い出しているうちに、だんだんと冷静になっていく自分がいる。まるで他人事のように、何も感じなくなっていく。後悔も恐怖も分からなくなっていく。きっともう少し時間が経ったら、何事もなかったように元どおりになってしまうんだろう。
そんな自分がたまらなく嫌だった。
ーーーーーー
だいぶ時間が経ったが、セクエは動く様子がなかった。グアノは音を立てないようにそっと立ち上がり、牢屋を後にする。食事はそのまま置いておくことにした。人がいなければ食べるかもしれない。
部屋に戻り、グアノは呪いについての情報を再び探し始めた。本棚にはまだ調べていない本がたくさんある。今日中には、なんとか呪いの情報を見つけたい。そのためにも今はまだ、休むわけにはいかない。
ーーーーーー
窓の外を眺め、口から出かけたあくびをかみ殺す。少しばかり退屈だ。次の交代まではまだ時間がある。
ルーベル帝国との国境で起こった襲撃。多くの敵兵が殺されたその惨状の中で生き残った兵はごくわずかだ。自分はその見張りを任されている。目覚め次第、相手側の情報を聞き出さなくてはならないし、万が一にも逃げられるようなことがあってはならないからだ。
なぜ帝国兵が殺されたのか、詳しい情報はこちらには流れてこない。ただ、状況は相手側が圧倒的に有利だったという。彼らの持っていた魔道具は、身につければ魔導師と互角に渡り合えるほどの高度な技術が使われていたらしい。
そんな彼らが、なぜ多くの死者を出したのか。その真相については多くの噂が流れている。敵兵の中に裏切り者がいただとか、実は全て幻なのではないかとか、どれもこれも要領を得ないものばかりだ。実は目撃していた警備兵さえ真相を理解できていないのではないか、という噂が今のところ最も主流の考えらしい。
当事者である捕虜が目覚めれば少しは何か分かるのかもしれない。といっても、彼らは全員体をざっくりと切られ、なぜ息ができるのか分からないほど大量に血を流していたので、目覚めるのがいつ頃になるかは医者でも分からないそうだった。
敵兵とはいえ、意識のない人間を見張っているのは退屈で、どうしても緊張が緩んでしまう。見張りが二人以上いるなら会話で退屈を紛らわせることもできるが、一人だけなのでそれも叶わない。だが、暇だからといってうたた寝してしまえば自分が見張っている意味がない。
「ああ、まったく。なんだって俺が怪我人の見張りなんか…。」
思わず呟く。それほど緊張感を持ってやっているわけではなかった。だがまあ、見張っているだけで仕事になるのなら簡単なものだ。こうやって怪我人を見ているだけなら…。
「うっ…。」
声が聞こえた。
(まさか。医者がいつ目覚めるか分からないって言ってたんだぞ?それがたまたま俺が見張ってる時に目覚めるなんてあるか?)
ゆっくりと視線を捕虜に向ける。目がうっすらと空いており、目があった。
(嘘だ…。誰か嘘だと言ってくれ…。)
ああ、やっぱり訂正する。見張りなんて簡単な仕事じゃない。見張っている間は退屈でどうしようもないし、目覚めたらそれはそれで話を聞き出さなくてはならないのだから。こんな面倒な仕事がそうそうあるものか。
ーーーーーー
昼を少し過ぎた頃だろうか。グアノは最後の本を棚に戻し、しばらくその場に立ち尽くした。
「なぜ…。」
力なく、呆然と呟く。
「なぜ…どこにも無い?」
王の部屋にはあまり家具はなく、その上書類を隠す場所となれば机か本棚しかない。だが、そのどちらにも呪いに関する情報は無かった。確実にこの部屋のどこかにあるはずなのに…。
(預けられていた情報がどこにもないのはおかしい。別室にあるとは思えないし…他に隠しておける場所があるのか?一体どこに…。)
部屋を見渡す。目についた家具は一つだった。
「ベッド、か。隠せる場所があるとは思えないが…。」
そう呟きつつもグアノはベッドに近づいた。天蓋のついた大きなベッドだ。布団には金や銀の糸で刺繍がされていて、天蓋を支える柱には細かい彫刻が彫られている。触れることを思わずためらってしまうほど豪華な作りだった。
そういえば、グアノが普段使っているベッドは側面が引き出しになっていた。このベッドも同じような構造になっている可能性は十分にある。
グアノは側面に回り込んで覆いかぶさっている布団をめくった。そこにも一面に花をかたどった彫刻が彫られており、細かく精巧なそれは息を飲むほどに美しい。下面に手を入れてみるとそれらしいくぼみがあったので、手を入れて引いてみたが、何の反応もない。
(やはり何もないのか?いや、だとしたらここにくぼみがあるのは不自然だ。きっとここに何かがある。)
くぼみの周りをもう少し探ると、小さな穴が開いているのが分かった。おそらくは鍵穴なのだろう。確か、机を探している時に小さな鍵を見つけたはずだ。それが合うのかもしれない。
机から鍵を持ってきて穴に刺す。初めはうまく回らなかったが、やがてカチリと小さな音が聞こえ、引き出しが開いた。そこに紙の束が入っていた。
「これだ…!」
思わず口に出し、手に取った。国王に預けられていた、最も重要な呪いの情報。呪いの効果と、そのかけ方と解き方がまとめられたものだ。グアノはその中からセクエの体に出ていた模様の呪いを探し出し、その一枚だけを持って部屋を飛び出した。
廊下を走り抜け、階段を駆け下り、見張りの兵に話をつけて鍵を借りる。そこからさらに走ってセクエの牢屋の前までたどり着いた。流石に息が切れていたが、グアノは止まることなく牢屋の鍵を開け、セクエに近づいた。
セクエは横になって目を閉じており、眠っているように見えた。グアノはその側に膝をついて、首筋に現れた模様に触れる。そして手に持った紙を見ながら呪文を唱えた。
「体に潜む黒き蜂よ、服従の象徴よ。お前はすでに役目を終えた。直ちに飛び立ち、その体をお前の支配から解放せよ。」
その呪文は、呪文というよりはむしろただの言葉のようにも思われた。だが、グアノはこれが間違いなく呪文であると確信していた。唱えると同時に体から大量の魔力が消費されるのをはっきりと感じたからだ。
唱え終えた後にセクエに視線を移すと、模様が淡く光を放っているのが分かった。その様子を見て、ほっと胸をなでおろす。
これから少しずつ光が薄れ、それと同時に模様も消えていくはずだ。グアノは息を飲んでその様子を見守った。
ーーーーーー
「おい、それは本当の話なのか?」
思わず声を荒げてそう言った。相手はうんざりしたように答える。
「だから本当だって言ってるだろ。」
「そうやって、俺たちを騙そうとしてるんじゃないだろうな?」
「そんなことない。あの地獄を見た後で、また命を失いかねないようなこと、言うはずないだろ。」
信じられずに慌てる自分とは裏腹に、相手はもういい加減にしてくれ、と言わんばかりの態度をとっていた。
捕虜が目覚めた。そのため今は、国境で何があったのかを聞き出していた。だが、本人たちも何が起こったのか把握できていないようだった。先に国境に攻め込んだ一軍が大量に殺されるところは見ていたらしいが、離れていたため何が起こったのか具体的なことは見えておらず、その様子に騒然としているうちに自分たちが襲われていたらしい。
襲われたと言っても、本人たちがそう感じたというだけけのことで、実際に何が起こったのかは分からない。ただ覚えているのは、光の塊のようなものが大量に現れ、それが一斉に兵たち切りかかって来たことだけだという。それはとても素早く、彼はかろうじてそれを目で捉えることができたが、大半の兵は訳もわからないまま絶命していただろうとのことだった。
どうやら国境での惨事は魔導国によるものだと思い込んでいるらしい。もう二度と同じ目には遭いたくないという思いが強いようで、捕虜の兵は渋々ながらも話をしてくれた。そうして話してくれたのが、今の話というわけだ。
「あの襲撃はただの前振りだ。あれで脅しをかけて、警備の兵を国境に集めた後、直接王都に乗り込む計画があった。」
「直接って…、国境を通らずに攻めて来るつもりか?国内に入れたとして、王都までの道のりで見つかって捕まるのがせいぜいだろう。」
「そんなこと言われてもなぁ…。」
「嘘をついていないなら、答えろ。どうやって攻め込むつもりだ。数は?」
「そんなこと、俺が知るか。俺は国境を攻めろとしか指示をもらってない。王都攻めなんて、話で聞いただけで、具体的な作戦なんかは俺たち下っ端の兵には流れてこない。」
捕虜はきっぱりとそう言い切った。これ以上話は聞き出せそうにない。どうしたものか。誰かに伝えに行くべきだろうが、見張りが一人もいなくなってしまうのはまずい。
部屋を見渡し、連絡用の魔道具を探して手に取り、すぐに他の兵に連絡を入れた。この城には各部屋に一つずつ、連絡用の魔道具が置かれているのだ。捕虜が本当の事を言っているとは限らないし、国境の襲撃が失敗した地点でこの計画は取り消されているかもしれない。だが、それは自分一人で判断できることではない。もし本当に王都に兵が攻めて来るなら、対策を立てなければならないし、民に避難を呼びかけるなどの判断が必要になる可能性もある。
だが、あまり心配する必要はないだろう。国境の襲撃からだいぶ経っているが、王都の中に不審な人物を見かけたという報告はないし、ましてや襲撃を受けたなどという話は聞いていない。町はいたって平和なものだ。その計画は中止になっているに違いない。
ーーーーーー
光が薄れていく。それと同時に嫌な予感が胸の中に広がっていく。
呪いの模様が薄れないのだ。光はもう消えようとしているというのに、模様はまだくっきりと残ったまま、消える気配はない。
自分は間に合わなかったのだ、という自覚がじわじわと湧くに連れて、やり場のない感情が込み上げてくる。グアノは視線を下げ、そして唇を噛んだ。悔しいとも悲しいとも分からない感情が混ざり合って、胸の奥を締め付ける。
(なぜ…なぜ自分はこんな失敗ばかりを繰り返すのだろう。)
下げた視線の先にはセクエの顔があった。彼女が自分の身の置かれた状況を理解しているはずもなく、まだ幼いとも言えるその寝顔は穏やかに、ゆっくりと息を繰り返して…。
(…おかしい。)
ここでふと、違和感に気づく。
(私は彼女の首筋に触れ、そして呪文を唱えた。それだけならまだしも、私の魔力が大量に注ぎ込まれたはずだ。普通なら驚いて眼を覚ますだろう。なのに、なぜ彼女は眠ったままなんだ?)
グアノは振り返って後ろを見た。先ほど置いた食事には手がつけられていない。おそるおそる、再びセクエの肌に触れる。そして、驚いてすぐに手を離した。
(魔力が…無い…?)
先ほどは気づかなかったが、セクエの魔力はほとんど尽きかけていた。実際は、まだわずかに残っている。だがセクエの今の状況は、『無い』という表現が最もふさわしいように思えた。しかし、なぜこんなにも魔力が減ってしまったのか。牢屋の中では魔法を使うことはできないはずだ。
(そうか…呪いだ。呪いによって魔力が消費されることを考えていなかった…!)
もともと彼女には魔力を制御するための魔道具がたくさんつけられていた。その上呪いによって魔力が消費され、牢屋の魔道具によって回復まで制限されれば、魔力の回復が追いつくはずもない。
解決策は簡単だ。魔道具を外せばいい。だが、どれを外すかというのは大きな問題だ。彼女の魔道具は効果の大きさが少しずつ違う。もし間違えれば、魔力が急激に大きくなってしまうだろう。そうなれば、暴走すら起こせない牢屋の中では彼女にかなり大きな負担がかかってしまう。だが、魔力に影響がないほど力の弱いものを外しても意味がない。
グアノは少し考え、指輪と腕輪を一つずつ取った。どちらも特に装飾のないものだ。それからセクエをじっと見つめて、魔力が徐々に回復していくことを確認した。ひとまず安心して、グアノは魔道具をセクエの近くに置き、牢屋の外へ出た。
彼女の呪いをどうするか、考えなくてはならない。グアノは歩きながら呪いの資料に目を向けた。
彼女にかけられたのは、『服従の呪い』というものらしい。主と定めた相手の命令に従わずにはいられなくなり、無理にでも逆らえば心臓が止まる。また、主を傷つければそれと全く同じ傷が自分の体にもできる。という内容だった。
その内容を知って真っ先に思い出したのは、セクエの不自然な傷のつき方だった。あの傷はおそらく、呪いの効果によってできた傷だったのだろう。
(いや、それでもおかしな点がある。セクエが陛下を殺したのなら、その致命傷もセクエの体にできるはずだ。なぜそれが無い…?)
さらに深く考えようとした時、声をかけられた。
「グアノ様!こちらにおられましたか。」
相手は焦った様子で、息を切らしながら言った。
「どうしました?」
「たった今、捕虜の一人が目覚めて、王都に直接、ルーベル帝国の兵が攻めてくる可能性があると…!」
「…詳しく情報を教えてください。」
グアノは少し驚いたが、それでも落ち着いて尋ねた。そのグアノの様子を見てか、相手も少し落ち着いて話し始めた。
「はい。どうやら、国境攻めは兵力を削ぐためのものだったらしく、警備の兵を国境付近に集めたところで、直接王都に乗り込んでくるという算段のようです。しかし、その件については捕虜もよくは分からないらしく、どうやって攻めてくるのかまでは分かりません。中止になっている可能性もあるとのことでした。」
「そうですか…。」
グアノは顎に手を当てて少し考えた。中止になっている可能性がある以上、むやみに民に不安をかけるのは避けたほうがいい。かといって 警備が甘ければ被害が出るのは避けられない。
「今動ける兵を出来るだけ王都の警備にあたらせてください。あまり大所帯で行動すると民の不安を煽ることになりますが、一人での行動はさせないように。二、三人で行動させるのがいいでしょう。私も警備に向かいます。私は彼らの魔道具を見ていますし、今はそれほど大きな仕事もありませんから。」
「そうですか。分かりました。では、失礼します。」
そう言って軽く頭を下げ、相手は走っていった。グアノも自分の部屋へと向かう。手に入れた呪いの情報を鍵付きの引き出しにしまい、国王の部屋も元通りに片付けた。そして武器を取るために白い箱に手を伸ばし、そして止めた。
(いや、使わないでおこう。)
自分はもうすぐ補佐ではなくなるのだ。この武器ももう使わないようにすべきだろう。もしかしたら、この中に入っているのはもう双剣ではないかもしれないのだ。自分はそろそろ普通の武器に慣れたほうがいい。
グアノは別の場所にしまっていた普通の剣を二本取って腰から下げ、部屋を出た。
ーーーーーー
廊下を急ぎ足で歩きながら、グアノは考える。
(仮に帝国兵が攻めてくるとして、どうやって攻めてくるつもりだ?国境を越えてきたところで、王都にたどり着く前に他の町で目撃され、その情報が王都にすぐに届くことになるだろう。奇襲をすることなどできないはず。相手がそれに気づいていないわけがない。何か策があるはずだ。)
やはり、魔道具だろうか。あれだけの技術があるのだ。姿や気配を消すことなど容易なことだろう。
(それなら、どこから攻めてくる?国境の警備に人を費やしたところで、王都の警備を甘くすることにはならない。せいぜい、増援に回す人が減る程度だ。それは帝国側も分かっているはず。それなら、前々から攻めやすい場所を考えていたはずだ。どこだ?一体どこから…。)
気づけばグアノはすでに城を出て、町の中を歩いていた。グアノは立ち止まる。兵が攻めてくる場所に、一つ思い当たる所があった。
(貧困街…。)
あそこなら、王都の中でも警備が薄い。いや、薄くせざるをえないのだ。
もともと、王都はこの国の発展に合わせて大きくなっていった町だ。店が並ぶ地区や居住区などは計画的に作られていった。
だが、貧困街は違う。貧困街は、王都の発展についていけなくなり、経済的な格差を負ってしまった者が王都の隅に住み始めたのが始まりとされる。自然発生的に生まれたため、町の構造は王都の者でも把握できていないのが現状だ。
これまで、町の構造を把握しようという動きが無かったわけではない。だが、それは実現しなかった。グアノもかつてはそうだったが、貧民は王都に住む者に偏見を持ちがちだ。それは貴族や王族だけでのことではなく、平民や兵士に対しても敵意に似た思いを持っている。そのため貧民以外の者の立ち入りを嫌がるのだ。場合によっては石を投げられたり、魔法で攻撃されたりすることもある。そんな状況で、わざわざ貧困街に立ち入ろうとする者はなく、町の状況は分からないままだ。グアノは確かに貧困街に住んでいたが、その時はまだ仮面が無く、流れる血で目が開けられなかった時期もあったため、町の構造はよく覚えていない。
もし帝国側がそういった区域があることを知っていたなら、彼らは間違いなくそこに付け込んでくる。
(見に行こう。何か起こってからでは遅い。)
グアノは再び歩き出す。だが、その足取りには迷いがあった。あの町を見るのが怖かったのだ。
腐りかけた食べ物が並べられた商店街。人々はそんな物を買うお金すら無く、売れ残った商品はいっそう腐っていく。子供はそんな店に集まり、ある者は羨ましそうに眺め、ある者はそれを盗んでいく。そうでもしなければ生きていくことなどできなかった。
路地には帰る場所を失った人が肩を寄せ合い、道行く人に助けを求めてもその声は誰にも届かず、やがて誰にも気付かれずに死んでいく。死体の処理さえされないため、町はいつも異様な臭いに満ちていた。
かつて自分が住んでいた区域。荒れ果てていたあの場所は今はどうなっているだろう。貧富の差を埋めようとする動きは確かにある。貧困街出身の人をより多く兵士に採用するようにされているのだ。しかし、兵士になろうとする者がそもそも少ないため、根本的な解決には至っていない。あの場所は、自分がいた頃と同じように、日々を生きるだけで精一杯な人が大勢いるのだろう。
自分だけがあの地獄から抜け出してしまった。王都に住み、食べ物にも衣服にも困らない生活を手に入れてしまった。病を抱えているというのに。親も家も無いというのに。
貧困街の人々は、顔から血を流していた汚い子供のことなどとうに忘れているだろう。だが、グアノはどうしようもなく、申し訳なかった。あの生活から抜け出したくても抜け出せない人が何人もいるというのに、なぜ自分だけが助かってしまったのか。
そんなことを考えながら歩いていると、家並みがふいに途切れた。この道をさらに進めば貧困街だ。だが、グアノの足は次第に遅くなり、やがて止まった。
どうしても、先に進むことができなかった。王都が危険にさらされる可能性があるにもかかわらず、だ。自分が元貧民だったことを非難されることはない。彼らから見れば、自分はただの兵の一人だ。そうと分かっていても、踏み出せない。グアノは一つため息をついた。
(情けない。何のためにわざわざここまで来たというのだろう。)
仕方なく後ろを振り返り、元来た道を戻る。うなだれながら歩いていると、突然背後に気配を感じた。驚いて振り返るが、そこには誰の姿もない。
「誰だ…?」
今、確かに誰かの気配を感じた。ただの気配と言うよりは、むしろ殺気に似ていたような気さえする。嫌な予感が頭をよぎった。
「可視化魔法!」
すぐに呪文を唱えた。姿を消している相手を見えるようにする魔法だ。いくつかの魔力が自分を取り囲んでいるのが分かった。だが、姿は見えない。感じ取れていた魔力もはっきりしたものではなく、明確な数や位置を確認することもできなかった。
(まずいな…。)
魔道具の技術が高いことは理解していたつもりだったが、まさか可視化魔法がここまで通用しないとは。魔法の精度を上げることもできなくはないが、そのためには魔力をもっと集中させなければならない。そうしている間にもし襲われてしまえば、抵抗できない。
(くそ、逃げるしかないのか…?)
転移魔法を唱えようとした時、グアノを呼ぶ声が聞こえた。
「いけない、今ここに来ては…!」
声のする方を振り返って叫んだ。その瞬間、グアノを取り囲む魔力が動いた。
グアノは身構えたが、魔力はやがて遠ざかり、そしてどこかへ行ってしまった。追いかけようとした時には、すでに魔力を感じ取れないほどに離れてしまっていた。
(一人でいる時しか狙わないのか?…とにかく、今回は助かってよかった。)
「どうなさったんです?グアノ様。」
声をかけられて、グアノはその声の主を見た。二人の兵士だ。グアノの指示通り、複数人で行動しているらしかった。
「辺りを見回して何か話しておりましたが…、何か不審な点が見つかったのですか?」
「そう、ですね…。」
グアノは答えに詰まった。グアノは彼らの魔道具を見ていたが、彼らはそうではない。どこから説明すべきなのか迷ったのだ。
「あなた達は、何か見つかりましたか?気づいたことなら何でもいいのですが。」
「そうですね…。特に何もなかったように思いますが…。」
二人は顔を見合わせていたが、やがて思いついたように言った。
「そういえば、今日はやたらと迷子が多いですね。」
「迷子?」
「ええ、普段から町の警備をしているわけではありませんから、確信を持って言えるわけではありませんが、多いように思います。親子ではぐれてしまったり、あるいは友人同士ではぐれてしまったという人もいました。それも、人通りのそれほど多くないところで。」
「それは何名ほどですか?」
グアノは話をせがんだ。もしかしたら、すでに被害者が出ているのかもしれない。
「たしか七人ほど。」
「それは全員が魔導師ではありませんか?」
「そうですね…確かにそうですが、そもそもこの町に住む剣使いが少ないですから、割合を考えれば、それも当然なのでは?」
兵士は、グアノが何を考えているのか分かっているはずもなく、不思議そうな顔をしている。グアノは呟いた。
「行方不明者が七名…。」
「行方不明って、それは大げさではありませんか?たかが迷子でそこまでことを大きくする必要が、どこに…。」
「私も先ほど、何者かに襲われたのです。」
グアノがそう切り出すと、兵はあからさまに驚いた。
「襲われた?」
「はい。おそらく、帝国側の人間でしょう。」
「それは何人ほどですか?武器はどんな物を?」
「それが…分からなかったのです。」
グアノは悔しくなり、顔をしかめた。
「彼らは魔道具で姿を隠していました。その上、可視化魔法がほとんど通用しません。」
兵士は黙ってそれを聞いていた。
「国境を攻めてきた兵が持っていた魔道具は、どれも、私の予想をはるかに上回っていました。浮遊魔法を使ったり、魔力の使用を制限することもできるのです。それを使えば、剣使いであっても魔導師と同等の魔法を扱えるようになる。一筋縄でかなう相手ではありません。」
「それなら、一体どうすれば…?」
グアノは考える。手を打たなければ犠牲者は増える一方だ。しかし、気配も感じられず、見ることもできない彼らを、一体どうやって見つければいいのか。
(駄目だ、何も浮かばない。くそっ、一刻の猶予もないというのに…!どうすればいいんだ…どうやって彼らを見つければ…!)
半ば諦めかけ、視線を横にそらす。すると、そこに先ほどまでは無かったはずの人影が見えた。
それは人の姿をしていたが、明確にいうならば人ではない。体全体がぼやけていて、向こうの景色が透けて見えている。魔法によって作り出された幻だった。
「どういたしました?グアノ様?」
「何か分かったことでも?」
二人の兵士は視線を逸らしたまま動かなくなったグアノを見てそう言った。どうやら彼らには見えていないらしい。
(あれは…?)
その幻は、顔がぼやけていて分からなかった。だが、その長く白い髪には見覚えがあった。
(セクエ?なぜここが分かったんだ?城からはかなりの距離があるというのに…。いや、そもそも牢屋の中ではなかったのか?なぜここにセクエの幻がある?)
グアノが呆然と幻を見ていると、不意に幻が動いた。グアノは慌ててそれを追った。なぜ追わなければならないのか分からなかったが、見失ってはならないような気がしていた。
「グアノ様!」
「どうしたのですか!」
後ろから兵士の声が聞こえたが、グアノは振り返らずに走った。
(速いな…。)
グアノはそれなりの速さで走っているつもりだったが、それでも追いつけなかった。だが、浮遊魔法を使うほどの速さではない。それもセクエが調節しているのだろうか。
右へ左へと曲がり、狭い路地を走り抜け、それでも幻は速度を落とさない。見失わないようにするのが精一杯だった。
一人で走って行く自分の姿を、町の人々はどう見ているだろうと思っていた時、突然、幻が速度を上げた。
(まずい、見失ってしまう…!)
視界から消える寸前、幻が何かに触れるようにぐっと手を前に突き出すのが見えた。そして、声が聞こえた。
「消滅せよ。」
頭の中に響くように聞こえたその声は、確かにセクエのものだった。
その声が聞こえた瞬間、前方から人々の騒ぐ声が聞こえてきた。それは悲鳴にも似ており、グアノは理解が追いつかないままだったが、そのざわめきの中へと駆け込んだ。
「誰、あの人たち?」
「くそっ、魔道具が!」
「いきなり現れたぞ?何なんだ?」
「一体どうなってるんだ?」
「おい、何が起こってる!」
騒ぐ人々の中心にいたのは、見間違いようもなく、ルーベル帝国の兵士だった。
(そんな…!セクエには分かっているというのか?なぜ、どうやって…?)
セクエの幻はまだ帝国兵のそばにいたが、やがてまだ動き出した。グアノは再びそれを追う。
「後は任せます!」
後ろに付いてきた兵士に振り返ることなく声をかけると、グアノは再びそれを追った。後ろで兵士が何か言っていたようだったが、グアノはそれを無視して走った。
幻は走っては帝国兵を見つけ、また走っては帝国兵を見つけた。なぜそんなことができるのか、グアノには全く理解できなかった。だがそれでも、近くにいた兵にその場を任せては幻を追い続けた。
そして、最後の兵を見つけた後、幻はグアノを振り返った。顔はぼやけて見えないはずなのに、セクエと目があったような気がした。グアノはしばらくそれを見ていたが、やがて幻は消えた。
「…後をお願いします。私は城に戻らなければなりませんから。」
近くの兵士にそう声をかけると、グアノは城に戻った。
ーーーーーー
セクエがいるはずの牢屋の前に来て、驚いた。セクエが牢屋の中にいる。セクエは膝を抱えて座り込み、まっすぐにグアノを見つめていた。
「戻って来たんですね、ええと…グアノ、様?」
グアノの名前と敬称がよく分からないようで、自信なさげにセクエは言う。グアノは静かに頷いた。セクエが何かを言う前に、グアノは口を開いた。
「まず、知りたいのですが、あなたは何をしたのですか。どんな魔法を使って、私の前に幻を…?」
するとセクエは、少し不思議そうな顔をして、わずかに首を傾げて言った。
「ごく普通の、幻影魔法と探知魔法ですよ。」
「…そんなはずはないでしょう。あの距離で、あの精度の魔法を扱えるなど、ありえないことです。そもそも、その牢屋の中からでは魔法を使えないはず。どんな手を使ったのですか?」
セクエは困ったような顔をしてグアノを見上げていた。
「この程度の魔道具なら、無視できますから。」
「……。」
「ここにあるものは、確かに魔力が暴走しそうになった時、それを止められるだけの力を持った魔道具です。でも、意識を集中させれば町で見せたように魔法を使うことも可能です。」
言葉が出なかった。今まで、この牢屋の中で魔法が使われたという報告はない。それほどに強力な魔道具なのだ。それをやすやすと無視できるだけの力を、彼女は持っているというのか。
「もちろん、全く抵抗を感じないわけではありませんよ?使っている間、頭を殴られているような感覚でした。」
驚いて言葉が出なくなっているグアノを気遣うようにセクエが言った。
「そんなことをしてまで、なぜ私の前に幻を出したのです?」
「彼らを探していたんでしょう?」
「なぜそれを知っていたのですか。」
「…あなたのことが気になりました。」
まっすぐグアノを見つめたまま、セクエは言う。
「確かにあの時、私の魔力は限界まで減っていました。あのままなら死んでいたかもしれません。それを、あなたが助けてくれました。」
「そんなことなら、誰でもできたでしょう。」
「そんなことありませんよ。どうすればいいのか分かったとしても、私の魔道具を外すことなんて、普通の人ならできません。いつ魔力が暴走するか分からないのに、制御用の魔道具を外すなんて。」
「……。」
「だから、あなたに興味を持ったんです。それで、ずっと気配を追っていました。そうしたら、何かとても困った様子だったので、手助けをしたいと思ったんです。」
それからふと、セクエの表情が曇った。視線を下げ、暗い声で言う。
「私は…助けられなかったので。」
「それは、誰のことを言っているのですか。」
「…陛下を。」
「しかしあなたは、陛下を殺したのでしょう?」
グアノは尋ねる。セクエは視線を上げ、再びグアノと目を合わせた。
「私は…」
視線をそらさず、セクエははっきりと言う。
「私は、陛下を殺してはいません。」
その言葉を聞いても、あまり驚きはしなかった。その一言で、分からなかったことがようやく繋がった気がする。
「…あの時、何があったのか、話を聞かせてもらえますか。」
グアノは静かに尋ねた。