前編
私には仲の良い幼馴染がいる。
生まれたときからお隣さんで、互いの両親も出会ってすぐに仲良くなって、同年代で同時期に妊娠して子供を産んだから、なおのこと両家の結束は強くなった。いつの間にか私たちの誕生日は両家で祝うことになったし、私たちどころか、双方の親の誕生日ですら一緒になって祝った。私たちはどこへいくにも手に手を取り合って、保育園の先生も近所のおじさんおばさんも真っ青の、べたべたに甘い恋人同士のようだった。
だけど私たちに恋愛感情があったかというと、決してそうではなかっただろう。基本的にお互いの側を離れなかったが、別に一人でも寂しさは感じなかったし、友達がいないということもなくて、そして男だろうが女だろうが先生だろうが、幼馴染が友人と私を置いて遊んでいても、気にも留めなかった。
恋人に抱く甘ったるいシロップ漬けの感情は私にはなく、けれども愛していない訳でもなかった。世のうちの一欠片ほども理解していない子供に愛だの何だの語らせるのは滑稽以外のなんでもないだろうけど、真実あの頃の私にとって、あれはまさしく愛という名の付くものに違いはなかったのだ。いいえ。今も、私はこれを愛だと呼ぶ。
私が幼馴染の彼にシロツメクサを編んだ花冠を作って、その頭に乗せてあげたのは、保育園を卒園し、今春からピカピカの一年生になろうという四月初めのことだった。
その日はまさに春爛漫の麗らかさで、私たちの家は両家揃ってお弁当を作り、少し遠いところにある公園に遊びに出掛けていた。
私の母が弟を妊娠していた頃で、この先は生まれるまで出掛けるのも難しいし寂しい思いもさせてしまうだろうから、安定期に入った今のうちに、ということだった。私は母に甘えきれない寂しさを確かに感じていたから大喜びで、うきうきと幼馴染の手を引いた。幼馴染も母に懐いていたから、いつもより機嫌が良さそうで、私はそれにさらに嬉しさを感じて、公園を駆け回った。
しかし私は駆け回り続けるほどのお転婆ではなく、どちらかといえば絵本や人形遊びをしていることの好きな大人しい子供だったので、一時間もしないうちに動き回るのをやめて、キィキィとブランコを漕いでいた。風がびゅうびゅうと髪や頬を嬲っていく感覚と、独特の腹の底が浮く瞬間が好きで、他のどの遊具よりブランコを好んでいた。限界まで上ったその時にひらりと手を離してしまえば、空を飛べるのではないだろうかとわずかな好奇心と多大な恐怖を感じていた。空を飛ぶ一時の快楽よりは、その後に訪れる墜落への恐怖のほうが大きかったのだ。
幼馴染はそれでもブランコから離れない私に理解不能だと言いたげな顔をしていたが、結局私を思い捨ててひとりで遊びに行かないのだから、彼だってずいぶんな物好きだと思う。
「なーあ、遊ぼうって」
ブランコの支柱にだらん、と正面からもたれかかりながら幼馴染が不服そうに私を見た。漕ぐ力を緩めて、幼馴染のほうを向く。幼馴染は退屈そうだった。彼の父は私のお父さんとわいわいと盛り上がって、子供の私たちに混ざれるはずもなく、母親たちといえば生まれてくる弟の話で楽しげだ。
確かに、一人は退屈だろう。まして幼馴染は一人遊びするタイプではない。私だけなら別に、そうでもないけれど、幼馴染がいるなら共に遊ぶのは当然だ。
「じゃあ、なにする?」
「! あっちで遊ぼう。あっち!」
それから二人、顔を見合わせて何が楽しいかも分からないのに確かにこみ上げた感情のままに、笑う。
私たちの関係をなんていったらいいのかは、多分、私たち自身が一番知らなかった。私は、家族とも兄妹とも、恋人とも言えない関係をなんと呼ぶのか悩んでいた。
その頃の私は、友達だとか家族だとかペットだとか、人間関係になんでも名前を付けたがった。時にはお気に入りの人形にも私の妹だと言って同じベッドで寝るほどで、だから幼馴染との関係にも名前を付けたかったのだ。幼馴染? 家族? 兄妹? 同級生? 恋人?
なんという名を付けても、それはどうにももの足りず、寂しい。ありふれた名称をつけることが、やけに癪に障った。あの頃の私にはませた、というかズレた子どもだって自覚はなかったけど、よく両親は私を普通の子どもと同じように扱えたなと思う。
「アヤー」
「んー? なに?」
「なんで遊ばないんだよお」
遊んでるでしょ、と私は不服を露わに幼馴染を振り返った。はあ? と苛立ちまみれの声が上がる。幼馴染はそれでも渋々、花を摘んで集めていた。私はそれを目にした途端に嬉しくなって、にこにこしながら手を差し出す。幼馴染はやはり渋々、集めた花を手渡してくれた。私が言った通りに茎の根元から抜いていて、私はさらににこにこと。反対に幼馴染は渋面を作る。
「これじゃブランコと変わらないじゃん」
「わかってるもん。だからちょっと待って」
私は手早く花を編んでいく。幼馴染が摘み集めたシロツメクサで、ちょうど幼馴染の頭に乗る大きさの花冠。女の子ならば一度くらいは作ろうとしたことがあるんじゃないかと思う。自分で頭に乗せたり、友達にあげたり、すぐに壊したり。
「出来たらヒロくんにあげるね」
そうしたら、私が、頭に乗せてあげる。
私が口角をつり上げたのを尻目に、幼馴染は相変わらずつまらなさそうにしていたけれど、これが出来たら一緒に遊ぶと言えばやや機嫌を良くした様子で、早く、早くと急かし始める。
シロツメクサの花畑の真ん中で隣り合って座る私たちは、どう見えているのだろう。私はつい笑ってしまう。幼馴染もつられて笑っていた。よっぽど、一緒に遊べるのが待ち遠しいらしい。そう、私も同じ。待ち遠しい。
花冠はすぐに出来上がった。白いまんまる、ふさふさの花と、ちょっと先端が桃色をした花で出来た花冠。私の作った幼馴染のためだけのもの。私は立ち上がって、幼馴染を見下ろした。彼はにっこり笑って、私を見上げている。恭しく剣を受け取る騎士のように、静かに頭を傾ける。乗せやすいようにと傾いだ頭に花冠を飾るため、私もまた恭しく、両手で花冠を持ち上げる。柔らかな香りが鼻先を掠めた。
「────はい、ヒロくん」
白と桃に染められた緑なす冠は、そうして彼の頭に収まった。幼馴染は頭の上の花冠に指で触れた。花を潰さないように優しく触れる手つきに、私をどうしても心跳ねるのを抑えられない。彼がそうして、乗せられた花冠をすぐに取らないのは私だけだから。明確なまでの特別扱い。決して悪いものではない。出来ることならずっとそうして特別扱いをしてくれればいいとさえ私は思っている。
「ん。ありがと、アヤ」
「どういたしまして! じゃあ、次はヒロくんがやりたいことして遊ぼ」
「おー、やっとか! それじゃあえーっと、かくれんぼしようぜ!」
きゃあきゃあと跳ね回る幼馴染に付いていくのは、とても大変だ。私は決して運動が苦手ではない。好んで走り回ったりはしないけれど、かけっこでは常に二番か三番に位置している。でも、それでも幼馴染と並ぶと追いつけないのだ。そんな私のために、彼はいつだって私の手を取って、引いてくれる。引っ張られる形ではあるけれども、だから私は彼に置いていかれることはない。
「ねえヒロくん。次はヒロくんが、私に花冠を作ってね」
私のために、作ってね?
幼馴染はえええっ、と不服そうな声を上げた。幼馴染は花冠を作れないのだ。まあ花冠作りに挑戦する男の子は少ない──あるいは周囲が男の子が花遊びに興じるのを良しとしない──し、それに加えて変なところで不器用だから、練習したってそう簡単には作れないだろう。
「いつでもいいよ。待ってるから。あっ、嘘。大人になっちゃうまでにちょうだいね。じゃなきゃだめ。許してあげないんだから」
幼馴染は不承不承、頷いた。私から花冠を受け取ったなら、自分も作ってあげないといけない。そんなふうに思ったんだろう。幼馴染は律儀で、そして私が約束と言ったからだ。約束は叶えるものだから。
楽しみ、と私は来る日へ思いを馳せながら言った。
「楽しみに待ってるね、ヒロくん」
約束よ?
私たちはそうして、シロツメクサの花畑の真ん中で小指を絡めあった。
****
俺には幼馴染がいる。愛弥という名前だ。
生まれたときからお隣さんというヤツで、互いの両親も出会ってすぐに仲良くなって、同年代で同時期に妊娠して子供を産んだからかなおのこと結束は強くなった。いつの間にか俺たちの誕生日は両家で祝うことになったし、俺たちどころか親の誕生日ですら一緒になって祝った。俺たちはどこへいくにも手に手を取り合って、保育園の先生も近所のおじさんおばさんも真っ青のべたべたに甘いカップルようのだった。
だが、俺たちに恋愛感情があったかというと、決してそうではなかっただろう。基本的にお互いの側を離れなかったが、別に一人でも寂しさは感じなかったし、友達がいないということもなくて、そして男だろうが女だろうが先生だろうが、愛弥が友人と俺を置いて遊んでいても気にも留めなかった。恋人に抱く甘ったるいシロップ漬けの感情は俺にはなく、けれども愛していない訳でもなかった。世のうちの一欠片ほども理解していない子供に愛だの何だの語らせるのは滑稽以外のなんでもないだろうけど、真実あの頃の俺にとって、あれはまさしく愛という名の付くものに違いはなかったのだ。いや、過去形で語るべきじゃないな。今も俺はこれを愛だと胸を張る。
だから、俺は愛弥の隣にずっといようと思っている。そのためには、やらなければならないことがある。ずっと意味が分からなかった約束を叶えに行かなければならない。気づいたきっかけが妹との会話だった悔しさはさて置いて、行くとしよう。俺は右手に不格好な花冠を手にして立ち上がった。
おはようー、おはよう宿題やった? などと騒がしい校内に俺は眉間に皺を寄せた。何十、何百と人が集う学校というものはどうしたって騒がしくなる。賑やかなのは嫌いではないけれど、騒々しいのは勘弁だった。
やれやれとかぶりを振った俺は、スマホで時間を確認し、右隣に座る少女を見た。
「なあアヤ、今日放課後暇か?」
分厚い本を読んでいた少女は緩やかな仕草で伏せていた顔を上げた。ゆるりとまつげが翅のようにはためき、予定を思い出そうと少し頭を傾けた。
「うーんと、そうだね。今日はなんにもないかな。なあに、何か用があるの? あ、来月のおじさんの誕生日プレゼントの相談?」
「ちげーけど。というかもっと大事な用だよ」
「ええ?」
本当になんの用か分からないらしい愛弥はあっちこっちに首を傾げて、結局思い当たることがなかったのか俺のほうを見た。教えてよ、と強請る表情に俺ははんっ、と鼻を鳴らして視線を明後日のほうにやった。愛弥はちょっと、と語気を強めていたが、俺はことごとく無視してやった。ばしばしと太腿を叩かれたが、さして痛くもなかった。ただ気には障るので、愛弥に手を伸ばし抱えると、そのまま俺の膝の上に乗っける。ますます騒がしくなるけれども、体勢的に無理は出来なかろう。ははん、と勝ち誇った気分になり目を細めた。
教室内でのやり取りなので、俺たちにはかなりの視線が集まっている。しかし同クラスになって半年も過ぎた頃には全員慣れ始めていただろうから思いやる必要などない。というのも、向けられる視線には呆れが強いのだ。ここまでベタベタしててこれで付き合っていない、幼馴染だ、と抜かすのだから、そりゃあ砂も吐くかと俺は納得して、敢えて見せつけている。精々もっと砂を吐け。
愛弥と俺は幼馴染だ。そこに含むものなどない。愛弥いわく俺たちは家族かもしれないし、兄妹かもしれない。俺は……もしかしたら、恋人かもしれないと思うこともある。だが、特に定義づけようとは感じなかった。俺は、初めからそんな決まりきった枠に愛弥を押し込めようとすることが出来なかったのだ。愛弥をそんなものに押し込めるには、あまりにも、俺にとって愛弥は大きすぎたから。
幼い頃にはそれで良かったのだ。俺たちが幼馴染であることに、あるがままの関係でまるで恋人のように振る舞うことに、誰も文句は言わなかった。誰も眉をひそめたり、呆れたような顔はしなかったし、早く付き合えよと言われ肘でつつかれたりはしなかった。二人はあるがままで良かったのだ。まったく世知辛い。
俺は辟易していた。なぜそんな名前を付けなければ共にいれないのか。別にいいではないか。俺に恋人が出来ようと、愛弥に恋人が出来ようと、それでも愛弥は隣にいるのだ。幼馴染なのだから────なんていう俺の言い分が崩れたのは、つい三日前だ。
「でも、お前のカノジョが愛弥ちゃんのこと嫌いだとか、一緒にいないでー、とか言ったらどうすんの?」
「は? そんなの別れるに決まってんだろ」
「うっわ重症ー」
そのクラスメイトは大爆笑して、ばんばん机を叩いた。そいつは小学生の頃から俺たちと付き合いがあった。小学校、中学校、高校と全て同じで、今のクラスメイトのなかでは一番俺たちのことを理解しているだろう。
「じゃあさ、愛弥ちゃんにカレシ出来たらどうすんの、お前」
「はあ? どうもしねぇって。愛弥に彼氏いるとかは聞いたことねえけど、まあいつかは出来るし結婚もすんじゃねえの?」
そうなっても愛弥が俺の隣にいて、俺も愛弥の隣にいられることを疑わず、しかし俺は少し考えてみた。さて、どんな男と愛弥は付き合うのだろう。どんなヤツでもかまわないけれども、愛弥を心から好きであればいい。それでもって、俺が仲良くなれるヤツ。
クラスメイトは、またしても笑った。今度は自分の膝を叩きながら、ひーひー言って涙目になっている。
「いやでもな、一般論だけど、それは無理だろうと思うな?」
クラスメイトは滔々と語り始めた。一般論で語ると、俺と愛弥の関係はどう見たって恋人で、あるいは鈍感な両片思い同士であると。そうでなければならないのだと。
俺にはどうも理解しがたいのだが、俺が愛弥に向ける感情とそこに付随する触れ合いは、そういった関係じゃなければ歓迎されないらしい。
「というかねー、お前ら、彼氏彼女なんて作れんの? お前らのやり取り見てるとさあ、誰かに向ける愛情の過剰分なんてあんのか、なーんて俺は思うわけですよ。広弥くん」
──誰かに向ける愛情の過剰分。あまり。もしくは余裕。
なるほど。俺にとって愛情を向ける対象は愛弥と両親とおじさんおばさん愛弥の弟だけである。省みると、俺の愛というものが向けられる先はこれ以上増えないだろう。彼らでぎゅうぎゅうに占められているのだ。
単純な好意の枠なら、まだ余りはある。目の前のクラスメイトを初めとして、友人や親友という存在はこれから先も増えていくことだろう。けれども、例えばその好意の枠の中で俺に恋情を向ける人間がいても、俺はそれに近似値は返せない。
「愛弥ちゃんもなあ、お前みたいなのがいるとまず無理だろ。……つーか、あれ、愛弥ちゃんのほうがアレだもんなあ」
ぼそぼそと呟いて、呆れたようにクラスメイトは俺を見た。というか、俺よりこいつのほうが愛弥に詳しいのはどういうことだ? 事と次第によってはちょっとお話しなきゃならん。
「そうそう、俺からのアドバイスな。お前らの間にある感情の複雑さなんてどうでもいいけど、手っ取り早くそばにいられんのは"恋人"っていうラベリングだ。いいか? 恋人って言っときゃ、誰もお前らの行動にいちゃもんつけやしねえよ。要は建前さ。揶揄いなんかは、まあ、増えるだろうけど」
わりと真面目に──態度はいつも通り飄々と──言い切ったクラスメイトは、最後にニヤリと笑って俺の肩を叩いた。さっきからこいつは叩きすぎである。そのままの顔でサムズアップしてみせたクラスメイトは、つーわけで、と親指で愛弥を示した。彼女はいま女子生徒たちと談笑している。
「とっとと告白してこいよ。……アッ、でもほどほどにな、ほどほどの接触過多くらいで頼むな? 俺らもこれ以上砂吐きたくねーんで」
「勝手に砂吐いてりゃいいだろ」
俺はクラスメイトの手を振りほどいて、微笑みながら楽しげに会話をする愛弥を見つめた。頬杖をつきながらじっと見つめていれば、背後からため息を吐いたのが聞こえて、クラスメイトは多分肩でも竦めたんじゃないだろうか。
それは彼と出会ってから何年もして、ようやく俺たちの関係に名前がつくであろうことに対する安堵なのかもしれなかった。愛弥はどうだか知らないが、歴代のクラスメイトや教職員をひやひやさせていたのは肌で感じていた。まあそのうちの一人に背を押されたのも、何かの縁か。
──だから俺は、愛弥のためにシロツメクサを探すことにした。
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成長というのは、ありがたく素晴らしいと同時に疎ましいことだ。私は疑うことなくそう信じている。
背が伸びるとか胸が大きくなるだとか、まあそういう二次性徴を迎えるのは、少なくとも私にはうきうきすることで、それに伴って自分に似合う服を探したり化粧に興味を持ち始めたりした。けれども、大人に近づいていくにして、私は広弥くんと別れの危機を迎えているのだ。それは学年が進むと同じクラスになれないことであったり、卒業と進学であったり、色恋に興味を持つということであった。嗚呼、なんて二律背反だろう。そういうことがやってくるたび、私はぎりぎりと唇を噛んだものだ。
幸いにして、クラスが異なることはあっても学校が別々になることはなかったので、私たちは幼い頃となんら遜色ない生活を送っている。なんて素晴らしいことだろうか。二人一緒に家を出て、並んで通学路を歩くのだ。学校では時に授業をしている間もスマホでやり取りをすることもある。先生にバレてスマホを取り上げられやしないかとひやひやするスリルを楽しんで、私たちは授業が終了を告げると顔を見合わせてにやりと笑う。休み時間や昼休みには友人たちとふざけ合い、存分に楽しんだら朝方辿った道を逆走する。もちろん、隣に並んで。
友人たちには、広弥くんと私が付き合っていると思っている子も多いらしかったけれど、付き合ってるの? と聞かれるたびに私は曖昧に微笑むだけで済ませている。否定も肯定もせずに、曖昧に。それは非難されることもあるかもしれない。はっきりしろと。でも本当に、私には否定も肯定も出来やしないのだ。私はまだ、決定打を待っている状態だから。
「あっ、愛弥ちゃーん」
ぼうっとしていたら名前を呼ばれた。首を巡らせば、クラスメイトの男子が手をひらひら振っていた。
「私に何か用?」
「いやぁ、大したことじゃないんだけど」
広弥くんと仲が良くて、あまり覚える気がなかったけれど、小学校の頃からのクラスメイトというのもあって名前を覚えてしまった。彼は橘野郁人くんと言った。
「あいつさー、まだ愛弥ちゃんに告白してねーの?」
橘野くんは馴れ馴れしくもからかいじみたことを口にした。けれども、剽軽者の彼を悪し様に言う人は少ない。皆無ということではないが、嫌悪というよりは接しかたがよく分かっていないのだろうという印象だ。私にとっても、橘野くんは嫌いな人間ではない。彼と広弥くんのやり取りは軽妙で、つい笑ってしまう。
「告白って……別に私たち、そういうのじゃないでしょ?」
分かっているくせによくも言えるものだ。柳眉をひそめて見れば、しかし橘野くんはからからと笑った。
「まーね。お前らのがただの恋愛感情だとは思ってないよ。行き過ぎた恋だとも思ってない」
小学校一年生からの付き合いで、今が高校二年生。かれこれ十年は経つ。彼を相手に誤魔化す必要なんてなかったから、私は素直に心裡を語る。誰もいないし、口を噤む必要もない。
「でも、その執着の強さだけは感心するわー。お互いにさ、別に二人でいなきゃ生きれない訳じゃないのに、他の誰とでも、生きていくことが出来るのに」
「そう?」
「そうだよ」
橘野くんはやっぱり笑って言った。何が楽しいのか、私にはよく分からないけど、広弥くんだったら分かるかなあ。
「でさァ、何が言いたいかって、そんだけイチャイチャしてるんだから付き合ったって誰も異常だとは思わないだろーってこと。むしろさ、付き合ってないのが異常だからね。恋愛感情ないとかまじイミフ」
そんなことを言われても困る。だって、恋なんてする前に、私は広弥くんを愛してしまったのだもの。異常なんだと知る前に、彼が隣にいて当たり前なんだと刷り込まれてしまったんだもの。滑稽なほど、これが運命なんだと、思い上がってしまったのだから。いまさら、なかったことには出来ない。見ないふりも、聞かないふりも、私には出来ない。そんなに器用じゃないから。そんな真似をするくらいならば、いっそ認めてしまったほうが楽だった。あの日、花冠を、捧げた日。私は全部飲み込んだのだ。
そうして飲み込んだ大きすぎるものを、えっちらおっちら嚥下し、どうにか消化しようと頑張っている。あと少しで全部消化しきるのに、ひとかけらだけ溶けてくれない。
「そうかな?」
「そうだよ」
橘野くんは笑っている。ちょっとだけ口角を上げて、目を三日月みたいに歪めて。彼は結局何がしたいのだろう。私を励ましたいのかそうじゃないのか。私は首を傾げて彼を見上げた。彼は広弥くんには及ばずも、私より身長が高いのでどうしてもそうなるのだが、意識して見上げるのとそうでないのとではやはり違うものだ。
「あいつにも言ったけど、重症だよ。どっかで折り合いつけれりゃ良かったのにねェ」
橘野くんはそう言って、私の名を呼んだときのようにひらひら手を振って、どこかへ行った。私は立ち止まって彼の背をしばらくながめていたが、やがて逸らした。よく分からないままだが、結局あれは橘野くんなりの励ましだったのだろう。昔から橘野くんはバランスを取る役割を進んで買って出るタイプの人間だ。学校生活も友人関係も。でも今回ばかりは、不要だったと言わざるを得ない。
「心配なんて、後押しなんて、いらないんだよ、橘野くん」
私は彼が立ち去ったほうに背を向けて歩き出した。
橘野くんは年齢に見合わない大人びた子だ。誰かと誰か。何かと何か。そういった対立するものの間に立って振る舞う姿からもよく分かる。だが、別に彼は神様ではないのだ。私の心も、広弥くんの心も、何でもかんでも見通せるはずがない。それなのに、なまじ大人びて周囲の反応を窺っているものだから、全部分かったような気になるのだ。これだから、大人になるのは疎ましい。あるわけもない全能感だなんてそんなもの。
何より、私はもう決めているのだ。全部飲み込んだあの日。あの花冠を広弥くんの頭に送った時から、私は全部決めている。道は二つに一つ。幸福か、絶望か。私は全部決めているから、あとは広弥くん次第だ。選択肢はとうの昔に提示した。気付くも気付かないも、行うも行わぬも彼次第。
「アヤー!」
「広弥くん!」
彼の声。私は自分の顔が一瞬で緩んだのを自覚した。校門の前に彼が立っている。私を待っているのだ。二人で登下校するのが、私たちの常だから。小走りで広弥くんの元へ近付く。遅くなってごめんねと謝れば、気にすんなと言われて軽く頭をぽんぽんされる。縮む! と抗議を送ったがどうにも効果が無い。
「なあ、」
広弥くんは口を開いて、けれどそれから先の言葉は声にならないようだった。なあに、と首を傾げて訊ねても、彼は何でもないと肩を竦めるだけで、私に教えてはくれなかった。別に、それくらいのことで機嫌を損ねるほど、子供ではないのだけれど、なんとなくつまらない。私の空気がつんと拗ねたのを察して、広弥くんが忍び笑った。なんて酷い幼馴染なんだ。
「明日は晴れそうだねえ」
ひとしきりお互いに突っつきあってくすぐりあって息を切らして、私は空を仰いだ。息が跳ねて、人間は鳥のように羽ばたけはしないのに、このまま軽やかにステップを踏んでいればいつか飛び立てそうな錯覚を味わう。そうして飛び立つ私に、広弥くんはついて来てくれるのだろうか。はたまた、引き止めるのだろうか。どちらでも良い。どちらでなくてもいい。広弥くんの選択なのだ。私がどうこう言うことじゃない。けれどもまあ、出来るならどちらかであって欲しいけれど。
「大人」が近付いてくる。タイムリミットがやってくるのだ。
ねえ広弥くん。
「ああ。晴れるといいな」
私には、どうにも、広弥くんのいない世界というものが理解出来ないのです。そうだとするならば私のこの感情は、なんと定義するべきなのでしょうか。




