第一章 黒い森の龍翼 Ⅱ
程無くして街に着くと、御者に礼を言い真っ先に酒場へ向かう。酒場の奥に掲示板があるのだ。
店の扉を開け、独特の喧騒に満ちた店中に足を踏み入れる。体格の良い強面店主が笑顔で迎えてくれた。
「おう! 二人とも良く来たな! 新しい依頼来てるぞ。……他の奴らもいるから気を付けろよ」
最後の方はトーンを抑えてこっそり教えてくれた。礼を言い、テーブルの間をすり抜けて店の奥に足を進めた。
二人が向かう先に人だかりができている。彼らの視線の先の掲示板には幾つかの紙切れが留められていた。それらが依頼主からの依頼だ。
カーライルとミサも彼らと同様に掲示板を見上げる。
指名手配を受けている殺人鬼の拿捕、近頃活動が活発な麻薬取引組織の瓦解、現王政転覆を目論む者たちの拠点探し。その後にも、やはり非平和的な文字がつらつらと並ぶ。
数年前までは行方不明のペット探しやら熊狩りやらの依頼が多かった。依頼内容の変化は国内情勢の悪化を暗に示しているようだった。
「うわ、今日も大変そうなのばっかりだ」
「ああ」
腰に手を当てて掲示板をじっと見つめるミサの表情は何時もの通り無表情だ。
「どれを取ってもあんまり変わらなそうだけど、麻薬取締が無難かなぁ」
首を傾げながら隣を見るとミサも同意見だったらしい。依頼内容や報酬について書かれた紙片を掲示板から外してカーライルに手渡した。先に目を通せ、ということだろう。ミサは慣れた手つきで備え付けの白紙に依頼主の名前と依頼承りの署名をし、先程の場所にピンで留め直した。これでこの依頼は正式に受理されたことになる。
さて、店を出よう。丁度踵を返そうとしたときだった。ミサがぴたりと足を止めた。不思議に思い振り返ると、ミサの肩に節くれだった男の手が置かれている。その男はかなり酔いが回っているらしく、耳までうすら赤い。
「おいおい、小僧。その依頼は先におれたちが目を付けてたヤツだぜ? 譲ってもらおうか」
怪我しない内に聞いておけよ、と男の仲間らしき男たちが囃し立てた。完全なる言い掛かりだ。
カーライルがカウンターの方に目をやると、店主はやれやれ、といった様子で額に手を当てていた。子供が酔っぱらいに絡まれていると心配そうな視線を向ける人。面白いものが始まりそうだと身を乗り出す人。急に騒がしくなった店内にざわざわと店中の客の視線が集まる。
その視線の中心でミサは黙ったまま何も言わない。
「なんだ、怖くて声も出ないか?」
男の愉快げな笑い声が店内に大きく響く。見兼ねたカーライルが口を開こうとしたとき、耳障りなその声を別の誰かが遮った。
「止めとけ、怪我したくなかったらな」
窓際のテーブルの二人組が楽しそうに笑っている。《獅子牙》のグレンとヴィアンだ。聞き覚えのある深みのある声はグレンのものだった。男の笑い声がぴたりと止み、ぎょろついた目が二人に向けられる。
「あんた知らないのか? まあ、この辺りじゃ見掛けない顔だしな。彼らは《龍翼》だよ」
頬杖を付くヴィアンはそう言って静かな笑みを浮かべた。店内にざわつきが広がる。
「《龍翼》……? ああ、聞いたことあるぜ。黒い森の龍翼だろ? 世間知らずのガキ二人が出しゃばってるらしいじゃねえか。お前らみたいなひよっ子に何が出来る? 依頼引受組織の草分けも落ちたもんだな……って、聞いてんのか糞ガキ!」
男が勝手にベラベラ喋るものだから飽きたのだろう。ミサは呑気に欠伸をしている最中だった。さらに相変わらずの無表情が男の癇に障ったらしい。ミサの肩をぐい、と掴み、脅しのつもりか腰の短刀を首元に突きつけた。女性客の短い悲鳴が上がる。一転、店内には静寂が広がった。
「ここは大人の世界なんだよ。どうせ大した利益も上げてねえんだ。ガキはとっとと家へ帰って母ちゃんにでも甘えて、ろ?!」
―― ガンッ ――
男の言葉の最後の一音は衝撃音に掻き消された。ワンテンポ遅れて、カラン、と短刀が落ちる音が静かな店内に響く。
ミサの手が短刀を払い落とし、刹那宙に浮いた男の身体が床に叩きつけられるまでの時間は、瞬きをしていたら見逃すほどほんの一瞬だった。男はミサの足元に倒れ伏している。恐らく、本人は何が起こったのか分からなかっただろう。
「確かに依頼引き受け件数は減ったが、恐らくあんたよりは稼いでる。それに、俺たちにとって《龍翼》が帰るべき家だ」
ヒュー、と誰かが口笛を吹いた。ミサにしては珍しくよく喋った方だ。カーライルの分も代弁してくれたのかもしれない。
気絶した男は店内の客に囃し立てられながら仲間に担がれ店を出ていった。騒動が収まったらしい雰囲気を感じ取った店内は徐々にいつもの活気を取り戻し始める。
「マスター、すみませんでした」
頭を下げるミサに、カウンターで葉巻をふかしていた店主は片手を挙げて応えた。気にしなくていい、という意味だろう。毎日酒飲みが集う酒場ではこのようなことは日常茶飯事で、彼も慣れているのだ。
「相変わらずだね、君たち。元気そうで良かった。はいこれ、マスターからの奢りだってさ」
いつの間に貰ってきたのか、両手にグラスを持ったヴィアンがにっこりと微笑む。最近店で騒いでいて困ってたらしいよ、と付け足しながらグラスを差し出してくれた。
彼等とは少し長い付き合いだ。たまに酒場で会うと、こうして一緒に話をしたり食事をしたりする。
「二人も元気そうだね」
「うん、まあぼちぼちってとこかな。丁度これから仕事なんだ。僕らも君たちに負けてられないからね」
「カーライルもミサも、もっと強くなりそうだからな。俺たちも頑張らないと」
グレンの大きくて温かい手が、ぽんぽんとカーライルとミサの頭に置かれる。こうして誰かに頭を撫でられるのはいつ振りだろう。カーライルの口許が自然と綻ぶ。
「そのうち追い付くから。いってらっしゃい 」
店の外の人混みに紛れて見えなくなった《獅子牙》の二人の背中を見送り、グラスのジンジャーティに口をつけた。店主が二人のためにブレンドしてくれたオリジナルティーだ。
《獅子牙》の彼等のように、自分たちも師匠から引き継いだ《龍翼》の名に恥じないようしっかりしなくては。
「ミサ、帰ったら模擬戦やろう」
勢い良くミサの方を向くと、ミサは一瞬驚いたように少しだけ眼を開いたが、直ぐにこくりと頷いた。そうと決まれば話は早い。さっさと買い出しを済ませなければならない。
「マスター、ご馳走さまでした!」
「今日も美味かったです」
「おう、また来いよ」
カウンターまでグラスを戻し、店主にぺこりとお辞儀をしてから外へ飛び出す。一気に視界が開けて大量の音が耳に流れ込んだ。日が昇り人の数が増えている。人と人の間をすり抜けながら目的の店を探す。今日もやることが沢山だ。
「石鹸と茶葉と料理酒と……あと買うもの何だっけ?」
「塩、砂糖、洗剤」
「それだ!」
雲ひとつない空を見上げれば、そんな少年たちを見守るように太陽が明るく輝いていた。
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子供たちを見送った店主は、綺麗に洗ったグラスを磨きながらふ、と笑みをこぼした。毎度のことながら嵐のような子たちだ。益々師匠たちに似てきた。
彼等にも今のあの子たちを見せてやりたかった。そんな言葉がふと浮かび、店主は寂し気に笑うのだった。