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あつい。
ついこの間まで冬物の上着が必要だったのに、ここ数日で一気に春が来た。いや、春を通り越して夏が来た。
傾きかけてもまだギラギラしている太陽の下、おれはリヤカーを押している。
くそ、なんでこんなに重いんだ。
「大丈夫?」
本当に心配しているのか疑わしく思えるほどの明るい声が、前方から降ってきた。
「…うるさい」
おれは呻くように返す。
すると相手は、今度は振り返った。
「がんばって」
あいつは真顔でぐっと親指を立てた。
まったく、なんでおれが。
最近ことあるごとにこのセリフが頭の中を駆け抜ける。もちろん口に出そうにもなるし、ちょっと出てる時もある。
その度におれは呪文のように同じことを心で唱えた。
ユイのお願いだ。ユイのため、ひいてはおれのため。
自分に強く言い聞かせて深呼吸をすると、不思議と気持ちが落ち着いた。
目の前で馬のような力強さでリヤカーを引いていくあいつの背中を見ても、イライラが若干マシになる気がする。
ユイ。なんていい響きだろう。それはおれがこの世で一番好きな言葉。おれのご主人様の名前だ。
かわいいのは名前だけではない。ユイ本人のかわいさがそれはもうハンパない。
一見、ユイはただの美少女だ。
しかし黒曜石のような大きくつぶらな瞳はいつも死んだ魚のように生気がないし、バラ色の唇は常にへの字に曲がっている。せっかく形の良い顔の輪郭をしているのに、つやつやな長い黒髪がそれをすっかり陰気に隠していた。すらりとした長身で背筋がキレイなところは素直に褒められるところかもしれないけど、ちょっとやせすぎだった。
性格は超内向的だ。ひどい人見知りで、おれとユイの兄貴のアル以外の人とは極力接触したがらない。そもそも住んでいる暗がりの森からもあまり出ようとしない引きこもりだった。
ひどい言い様だって?でもそれが「客観的」ってことなんだろ?
まあ、おれにとっては客観的かどうかなんてどうでもいいことだし、それもこれも全部込みで「かわいい」んだから。
おれはユイの使い魔で、名前はビゼという。名前を付けてくれたのはユイだ。
おれがユイに拾われたのは、ユイが10歳の時だった。ひどいケガをして、森で倒れていたところを助けられた。
以来、おれたちはずっと一緒にいる。
遠い日に、小さいユイは約束してくれた。「ずっと一緒にいよう」と。
だからおれはユイの傍を離れないし、何があっても、何と引き換えにしてでもユイを守ると心に誓ったのだ。
ユイの職業は魔女だ。
歴史のある魔女の家系で、ユイが由緒ある「森の魔女」の名を継いだのはわずか13歳の時だった。専門は魔法薬だが、本当は何でもできる。ただ、本人の好みで薬作りを主にしているだけだった。
使い魔というのは魔女の小間使い…いや、助手だから、おれの普段の仕事も薬作りに関する事になってくる。作るのも手伝うが、大部分を占めるのは接客だった。人見知りのユイに代わって、依頼人と話したり、商品を届けたり、集金に行ったりする。
ただ、最近はちょっと事情が違ってきている。この1年くらいでユイの薬の評判が上がり、医者から直に相談をしたいという話が来たり、投薬の補助で病院に呼ばれたりすることが増えてきていた。
人間という生き物そのものも、話すという行為も苦手なユイだが、基本的にまじめな性格だ。なにより仕事だから、仕方なく渋々嫌々引き受けている。出かける前は何度も深いため息を吐いているが、行ってしまえばきっちりと役目を果たしているみたいだった。
引きこもりのユイが出かけることが多くなってしまい、正直なところおれは心配でたまらなかった。だって街には人がいっぱいいる。ユイを傷つける奴がいるかもしれないし、よからぬ下心を抱く奴もいるだろう。事故にだって遭うかもしれない。
だけどユイは魔女だから仕方がない。ユイが魔女の仕事に誇りを持っていることぐらいちゃんとわかっている。自分の仕事をまっとうしようとするユイにおれができることは、笑顔で送り出して、無事に帰ってくるように祈ることだけだ。
そんなユイが急に実家である霧雨亭の手伝いをすると言い出した。3か月前の話だ。
おれは思った。「それとこれとは話がちがう」
「馬車の荷車が壊れた?」
なじみの雑貨屋へ買い出しに来ていたおれたちに、おかみさんはそう嘆いた。
「そう、ゲイルさんのとこへの配達もまだ残っているのに…」ゲイルさんとことは港の近くにある宿屋のことだ。
「じゃあ私たちが持って行ってあげるよ」
あいつはさも当然、というふうで、おれはやっぱりな、と心の中で呟いた。おかみさんの話を聞いてしまった時からこの展開は読めていた。
しかし、量はおれの予想をはるかに超えていた。
「たくさんあるけど大丈夫?」
おれたちが買い出し用に引いてきていた小さなリヤカーは、ゲイルさんとこの荷物を積むと、てんこ盛りになってしまった。ゲイルさんの宿には近々かなり大口の団体客の予約が入っていて、そのための品だというが…。ちょっとは遠慮しろよと思いながら、おれは荷崩れを防ぐためにロープをかけた。
「大丈夫大丈夫。近所だし、ついでだよ」
軽く答えるあいつの横顔に軽い殺意をおぼえる。そりゃあ、お前は平気だろうが。
するとあいつは「ね?」と同意を求めてきたので、おれはとりあえずそれを無視した。
こうしておれたちは炎天下のもと、急遽他の店の配達を手伝うことになったのだった。
ユイが「霧雨亭を手伝ってもいい?」と言いだして、おれは心底驚いた。あのユイが、裏方とはいえ食堂で働くなんて信じられなかった。
「ユイ、本気?」
「うん」ユイがかわいく頷く。
答えの「うん」と、ユイのかわいさの二重の意味で頭がくらくらした。
「お客さんがいるんだよ?」
いたって真剣だったのに、ユイはその言い方に気を悪くしたのか「わかってるよ」と眉間にしわを寄せる。
「でもお客さんの前には出なくていいって」
「そうは言っても出なくちゃならない場合だってあるかもしれないじゃん」
「その時は仕方ないよね。行くよ」
仕方ないよね、じゃないよね。ユイは何もわかってない。思わずため息が出る。
「できるの?ユイ」
後から冷静に考えてみれば、おれも相当失礼だったけど、その時は心配が先に立って思わず口走ってしまった。
「できるもん」口を尖らせたユイは少しむきになったように言い返した。「アルが困ってるんだから、力になりたい」
その言葉はおれの中にすとんと落ちた。
なるほどね。
おれはすっと目を細める。「…あっそ」
悔しいがこのきょうだいは本当に仲がいい。ほんと、腹立つくらい。
霧雨亭は長年勤めていた人がやめてしまい、アルがひとりでてんてこまいなのだそうだ。
だからユイは助けたい。
きょうだいなのだからそれは自然な感情なのかもしれないけど、おれははっきり言っておもしろくなかった。
「それよりも」ユイはためらうように、上目づかいでおれを見る。「私が霧雨亭に行くようになると、ビゼの負担が増えてしまうのでそれがどうかなって…」
心外だった。もちろんユイが言う通りなんだけど、そんなのは大したことじゃない。自分で言うのもなんだけど、おれは結構優秀な助手だと自負している。
「それは問題ない。ユイの魔女としての仕事はおれがちゃんとサポートする」
その言葉にユイの表情がぱぁっと晴れる。
「でも」おれは努めて落ち着いた声色で続けた。「霧雨亭の方の仕事は手伝わないから。そっちは使い魔の仕事じゃないし」
本当はそんなところに何のこだわりもなかった。だけどなんだか悔しくて、「おれはあくまでも使い魔だ。魔女の助手だ」ということを、ユイにも自分自身にも必要以上にアピールする。
「うん、わかってる」
ユイは素直に頷いた。それがまた腹立たしい。おれなんていなくても平気だって言われてるみたいな気になる。
「ま、せいぜいがんばってよ」
おれはそう言い捨てると、ふんとそっぽを向いた。視界の隅で困ったような複雑な表情をしているユイがいたが、そんなのは知らんぷりだ。
ユイはいつもそうだ。臆病なくせに、1回心を決めると譲らない頑固者。おれの心配なんてお構いなし。
どうせすぐに根を上げる。愚痴を言い始めるに決まってる。
おれはそう思っていた。そうなれば、慰めてやればいいんだと。
だがユイは根を上げることも、愚痴を言うこともなかった。
それどころか昼間は食堂、夜は魔女、ふたつの仕事を見事こなしていた。
約束通り、アルはユイが厨房から出なくていいようにしてくれているみたいだった。料理や片付けといった作業はユイの性格に合っているらしく、結構楽しそうに出かけていく。帰ってくれば、昼間おれが受けていた薬の依頼に取り掛かった。アルも魔女の仕事を優先させてくれるので、こっちが忙しい時は食堂の方はよそから助っ人を呼んだりして都合をつけてくれる。
おれの予想は大はずれもいいとこだった。
はじめは意地を張っていたおれも、ユイがあんまりがんばっているので段々協力的になっていった。そもそも基本的に、おれはユイを放っておくことができない。
だっておれはユイの使い魔だから。ご主人様を助けるのは当たり前のことだろ?
そしておれは今、リヤカーを押している。
5日前からおれはユイの身代わりに霧雨亭の手伝いに来ていた。
そう。「食堂の仕事は手伝わない」という宣言はとうに撤回されていた。
ちょっと前に急に病院から依頼が入ったことがあって、その時とうとうユイはおれに霧雨亭の手伝いを「お願い」したのだ。ユイに頼まれたらやらないわけにはいかない。
ユイは今、薬作りの真っ最中だった。この時季に咲く花を使って作る薬があって、それの採集と精製に追われている。ただ摘むだけならおれにもできるが、あの花は摘むタイミングと方法、それに取り扱いが難しいので、今回はユイが自分で作業に当たっていた。
ユイが店の手伝いに行けない時、いつもならアルは知り合いに手伝いを頼む。だけど今回は都合がつかなかったらしい。ユイとアルに頼まれて、おれは渋々引き受けた。
「アルはね、何気にビゼのこと気に入ってるんだよ」
おれが手伝いに行く初日の前の晩に、ユイはそう言った。なぜかにやにやしていた。
「だからビゼが来てくれることになって、喜んでた」
アルはともかくユイがなんだか嬉しそうなので、おれは完全に渋い顔をすることもできず、中途半端な表情を浮かべるしかない。
正直、霧雨亭は苦手だ。
食堂の仕事は別に嫌じゃない。料理も後片付けも掃除も、いつも家でやっていることだし。
問題はあの家の住人たちだった。
アルはユイの兄貴だが、ユイとは全く似ていない。
見た目はガタイのいい、さわやかイケメン青年だ。人当たりもいい。だけどどこか食えない人だった。まあ、おれは特に何かされたわけでもなく、個人的な印象としての話だけど。
でも、アルは「なんだか苦手」というだけなのでまだいい。メアリさんは…はっきり言っておそろしい。
メアリさんはかつてユイの母さんの使い魔だった。ユイの母さんが死んだのはもうずいぶん前のことらしいけど、今でもあの家を守っている。
メアリさんもおれもこの家の使い魔で、いわば先輩後輩のような間柄だと思うんだが、メアリさんはおれとは喋らない。というか、ユイとも喋らない。アルとは昔は喋っていたそうだが、今は喋らない。何度か話しかけてみたけど、完璧に無視された。視線すら合ったことがない気がする。
おれだってそれはいかがなものかとは思うのだが、メアリさんにはそれを指摘することを許さない雰囲気があった。なんとも言えない貫禄がある。オーラがある。そして強い魔力を持っている。
霧雨亭はメアリさんが強い結界を張っているから、おれはあの家に入ると全身の産毛がピリピリするのだ。
そんなふたりがいる家、おそろしくて行けない。行きたくない。実際おれは、ユイが手伝いに行き始めるまでは数回しか訪れたことがなかった。
だけど今はそんなこと言っていられない。
こいつが店に居ついてからというもの、おれの気持ちはざわざわしっぱなしだ。
この女さえいなければ。
おれは心の中で毒づいて、その広い背中を見つめた。
「ねえ、今日はユイもご飯食べに来るんでしょう?」
前でリヤカーを引くあいつは振り返ることなく訊ねた。
「ああ」と、おれはそっけなく返事をする。
すると「そっか」という声が返ってきた。その声色がちょっと嬉しそうだったので、おれは再びイラっとした。
「それにしても…重いね」
「お前が引き受けたんだろ」
「そうだけど、こんなにあるとは思わなかったよ」
「何の相談もなく勝手に引き受けておいて、グチグチ言うな」
「だけどビゼも反対はしなかったじゃない」
「あの状況で断れるかよ」
「それもそっか」
カラカラと軽い笑い声がする。あいつの笑い方は特徴的だ。
この、おれと一緒にリヤカーを引いている女は霧雨亭の新しい従業員だった。
そしてこのホホという名の女が、おれが数日間霧雨亭に通うことを決めた理由のひとつでもあるのだ。